▼どうにも勝手に自分で自分を追いつめている節のあるこの利守なので、「正守の弟」「良守の弟」というおまけ扱いではなく個人として見てくれる氷浦に対して理想の兄弟関係を投影してる感じ。氷浦の自我が発達してないから兄のようであり弟のようでもあるみたいな 自我の芽生えって先ず否定を覚えるところからはじまるらしいので(赤ん坊が「いや!」っていうのがはじまり)、氷浦は本当に酷い状態だと 水月の「酷い事」っていうのは将にそういう事なんじゃないかな、ひとりの人間の、1度は芽生えて育っていただろう自我を失わせてる訳だし どうでもいいですが氷浦は瞬発力タイプっぽい気がするので小柄かなと
はじめて、といえた。生まれた時から洗脳も受けず、まともに自我の育った子供。それも、同性と接したのは。異性で比較的その条件に該当した者はカケルや遥がいた。だが月久や日永の下にいた頃、彼女達とまともに接した覚えはない。加え、同性の子供は皆、洗脳を受けるか殺されてしまう。だから、はじめてだった。笑って、怒って、時に泣く、そして自分に無邪気に話し掛けてくる。そんな、ごく普通の子供と接したのは、墨村利守がはじめてだった。
『最も力の弱い子供を攫う』
その密命が果たせなくて、よかった。本当に、よかった。今ではそう思う。思えるのだ。自我を殺される事。それは、あまりに残酷な事だと、彼女の遺した言葉通りに理解してしまった今は。
正十字騎士団と裏会が業務提携するに辺り、記念すべき裏会からの留学生第1号が祓魔塾にやって来たのは今年の春。しかし実は、その前後から人員の交換ははじまっていた。氷浦蒼士は、裏会の実行部隊である夜行から派遣されたひとりだ。夜行は6年前の事件に関連して規模を縮小した為に今なお、あまり人員は足りていないという理由で、派遣員も数は少ない。だが氷浦蒼士は百人力であると評判だ。祓魔では切り込み隊長、昼間は、手先の器用な用務員として。
「ちょっと待って蒼ちゃん」
「……どうしたんだ、利守」
正十字学園高等部の敷地内、その片隅。作業服を着た短髪の青年が、ひとり。洗濯機に立ち向かっている彼に、通りすがりの利守は思わず声をあげた。夕暮れ、遠くからは運動部の掛け声と、硬球を金属バットで打つ音が届く。野球部専用グラウンドの近く、地面に座り込んだ氷浦蒼士は、その交換留学生を見上げて呆けた。軍手を嵌めて修理に勤しむ様は用務員だ。だが彼の本業は裏会から派遣された戦闘要員である。正十字騎士團で活動中の戦闘要員である。大事な事なので、利守は頭の中で2回繰り返した。
出会いから6年経つ。多少のブランクはあるが、それなりに親しんだ相手。特に留学が決まってからは、体を鍛える為にも、繁守に一通り術を教わったあとは裏会に出入りする事が多かった。6年前の事件以降は夜行に身を置いていた氷浦と顔を合わせる事もあった。だが、少しばかり掴めないところがあると利守は再確認させられた。人格をリセットされて10年経つ氷浦は、急速に個性を身につけつつあったからだ。
「アルバイトだ」
隣にしゃがみ込む利守に、氷浦はいう。放課後、塾まではまだ時間がある。小腹も空いていたので、影宮が従業員として勤めている喫茶店に立ち寄ろうかと考えていた時だ。鞄を膝に抱え、淀みなく手を動かす氷浦を覗き込む。相変わらず表情の変化にはやや乏しいものの、利守の目には少しばかり楽しそうに見えた。墨村家に滞在していた時から機械好きの傾向はあったが、ここまで昇華するとは。内心で感心していると、彼は続けた。
「フェレス卿……ここの支部長が、昼間は暇をしている事が多いようだから、と、用務員の仕事を手伝ってくれたら手当てをつけてくれるって」
「理事長め……蒼ちゃん、いつの間に金銭欲を覚えたの。というかどういう流れでそうなったの」
舌打ちしそうになる、利守の脳裏に浮かぶのは常に奇抜なファッションに身を包む大柄な男の姿だ。利守は彼を一応は気を使うべき相手として認識しているものの、いまだ正守にまとわりついている無道と似たにおいを感じて仕方ない。つまり愉快犯だ。最近の無道は霊体として限りなく弱い存在である事を利用し、学園町の結界を潜り抜け、利守に絡んでくる事もある。曰く「最近の正守は太々しくなってつまらない」。それを思い出すと一層メフィストへの嫌悪も募った。八つ当たりである。ましてや、もしも身内が利用されているというのなら、利守は理事長室のフィギュアを質に取るつもりだった。利守程度の力でも、人形程度なら結界で砕く事は可能である。しかも彼は立場上、理事長室には何度も出入りしており、いざという時の為に1番のレア物の見当はつけていた。隣の少年がメフィストにとって不穏な計画を打ち立てているとは露知らず、氷浦は作業をしながら答える。
「任務で一緒になった人のパソコンを直した事があってさ。その流れで、ついでにそこの部室棟の配線も直したんだ。それでお礼を貰ってたら、祓魔師の人達以外からも頼まれるようになって。昼間は暇だし。そうしたら、支部長が『どうせならちゃんと給料を払いますから☆』って」
「……意外とまともだね」
燐に月2千円の生活費しか出していない男とは思えない程のまともさだ。恐らく「派遣員を厚意に付け込んでいいように扱き使った」などと正守……もとい裏会から因縁をつけられない為の処置だろうが。利守は洞察し、メフィストのフィギュアは存える事となった。隣でふと手を止めた氷浦は、顔を綻ばせていた。
「機械いじりは楽しいし、これで新しいパソコンが買えるんだ。本体も小さくなってCPUも高機能になって容量も大きくなったのが」
「あーうん、蒼ちゃんが楽しいなら何よりだよ」
機械にとても強いという訳ではない利守は、嬉々として語ろうとする氷浦に微苦笑で宥める事しかできない。ただ、彼が楽しいというのなら、利守はそれでよかった。欲求が芽生えたというのは、氷浦にとって喜ばしい事だ。
6年前、裏会内部を一掃した事件。その中で幼さと非力さゆえにほとんど関わらなかった中で、利守が接した重要人物が氷浦だ。何せ、当時横行していた神佑地狩りの実行犯だ。
逢海兄弟に洗脳された者達は多くが心神喪失状態で責任能力がないとして罪を問われなかった。彼がそのひとりだ。まだ10代の子供――丁度、今の利守程度の少年だった事もあった。子供に甘い正守が彼を含めた10代以下の少年達を纏めて夜行に保護したのだ。それ以上の年齢の者も、社会復帰の叶わなかった者はほとんどが夜行にいる。実のところ、氷浦を筆頭に戦闘員として訓練されていた者が多いので即戦力がある者ばかりなのだが、「外には出られない」という理由を正守がつけ、派遣要員の候補としてはカウントされていない。その中で氷浦が派遣員となったのは、偏に彼の卓抜した戦闘能力。そして何より、彼の希望もあった。隣の少年の留学が決まった時、細波や影宮が密偵という名の護衛として正十字学園町に派遣された。それに対し、戦闘班の数名が文字通りの護衛――有事には利守を力尽くでも騎士團から撤収させる――の候補として挙げられた。その中で真っ先に手を挙げたのが氷浦だった。何て事はない、彼らの中で利守に対して取っ掛かりがあったのが彼だけだったのだ。その取っ掛かりも、傍から見れば僅かなものでしかない。本人ですら、それがそんなにも大事な取っ掛かりだとは思っていなかった。それまでは。
「利守は、ここにいて楽しいか」
「まぁ、そこそこ」
尋ねると、利守の答えは曖昧だ。口の端を僅かに釣り上げる。あの頃より体はずっと大きく育った少年は、兄達が中高で着ていたものとは違う制服に身を包む。正十字学園の紋章が胸を飾るブレザーは、まだ真新しい。学生服にしろブレザーにしろ、結局、氷浦が着る事のなかったそれ。学生で構成される町に身を置く今、少しばかり感慨深くそれを眺める。あの頃、幼かった彼は小学生だった。私服で、ランドセルを背負って登校する姿を、朝に起きていられれば見掛けた。利守はあの頃より低くなった声で語る。その声は、決して嘘も欺瞞もない。
「奥村兄弟は良兄と正兄を見てるみたいで楽しいし、勝呂はからかい甲斐があるし、中々油断ならない奴もいるし、先生達も個性溢れてるし。それに裏会のまじないとは違った事が学べるし、異類や異能者への解釈の違いが興味深いよ。それに」
「それに」
「今、僕は、個人として必要とされてるから」
「……」
けれど、真実の色は、最後の言葉の方がずっと強かった。利守の本音が垣間見える。ごくいつも通りの表情。それがかえって、氷浦の胸を傷めさせる。心が、自我が宿ったそこが。宿らずにいれば、良守と出会わなければ、痛む事もなかった。けれど、己は過ちを続け、6年前に死んでいただろう。氷浦はそれを確信している。それに。
利守は苦笑する。氷浦は、すっかり手を止めていた。それに対してなのか、別の何かに対してなのかはわからない。
「それに、過保護な正兄のお陰で、単身って訳じゃないから。蒼ちゃんもそうだし、時姉とか細波さんと影宮さんとかがいるし」
「……俺は、頭領に命じられたから」
「『有事には利守を撤収させろ。失神させてでも』ってところかな。あの3人はともかく、オールマイティに戦える蒼ちゃんが派遣されてきたって、そういう意味じゃないの」
目を瞠る氷浦に、利守は淡々と笑う。諦観の笑みだった。あの頃、自身に懐いてきた子供は、すっかり老成した表情を見せていた。
「いいよ、それで。その時は、僕は僕で抵抗するだろうけどね」
「……大人しく従ってはくれないんだな」
「だって僕にも譲れない事はあるから。今、ここで任務を果たす事が僕がアイデンティティを得られる機会だから。蒼ちゃんも、良兄に出会った事が、自分を取り戻せた転換点だったでしょう」
頭を振る。彼の黒い髪は、良守のものより直毛の傾向が強かった。利守はいった。
「でも、蒼ちゃんも、自分のしたい事を全うすればいいよ。その任務を蒼ちゃんが自分から請け負ったっていうのは、蒼ちゃんがそうしたかったからでしょう」
「……」
「6年前、僕を洗脳して使う為の結界師として誘拐し損ねられた事を、蒼ちゃんは僕を守る為に誘拐する事で、上書きしてしまいたいんでしょう」
「――」
「蒼ちゃんはそれでいいよ。欲求が芽生えた事は、蒼ちゃんにとって成長だから」
到頭、本当に言葉を失う。氷浦の前で、利守は淡々と言葉を綴った。その横顔が水月に似ていたと、のちに氷浦は述懐する。自身を心配そうに見ていた当時の水月と。
「それに、僕は嬉しいんだ。罪悪感からでも何でもいい。僕を墨村正守の弟でもなく、良守の弟でもなく、墨村利守として見てくれるなら、何でも。御免ね、蒼ちゃん」
謝罪の言葉で気付く。それは、優しさと残酷さが混じった表情だった。自身へ施された非道を知っていた顔だった。
触れる洗濯機が冷たい。遠くから、聞こえていなかった野球部の掛け声が届き、夕陽は更に傾いていた。利守は立ち上がり、そろそろ塾に向かう旨を告げる。氷浦は黙って頷き、彼を見送った。その背中は、あの頃よりもずっと大きい。無邪気なあの子供はどこにもいない。彼を傷付け、そして成長させた一因に自分も噛んでいるのだと、氷浦は否が応にも理解していた。
あの時。あのままでいれば、利守を攫う筈だった。そして、恐らくは彼を死に至らしめた。感情が、自我が育った今、色のないあの頃の記憶を思い出す。その記憶の意味に愕然と気付いたのは、利守の存在を再認識した時の事だ。死なせてしまった者達の事は、まだどこかで折り合いがつけられた。けれど、加害し損ねた者については、氷浦はまだ折り合いをつけられていない。数少ないその者の中で、利守が今、その筆頭にあった。
(いい人になれるかどうかは、まだわからない)
空高いどこか。道化師めいた白い服を着込んだ男は、ひとりごちた。
「加害者と被害者にもなり損ねた関係。ただ、決意だけがそこにある……ですか。どうなりますかねぇ」
暮れ泥む上空、空と同じ色の茶がカップに注がれた。
End.