とある山寺。ほとんど廃寺に近いそこ。焚かれる護摩。薄暗いそこ。煌々と上がる炎。その前に座し続ける、禿頭の男。恰幅の良い、暑いのに法衣をきちんと着込んだ彼より、少し離れたところ。そこに、長い髪の女が佇む。薄暗がりだ。しかし、白い着物と、ざらりと長く真っ直ぐな黒髪が印象的な、顔立ちの美しい女である事は、それでもよく伝わる。その女が、紅を塗った唇を開いた。
「裏会より、騎士團を頼る方が、正解よ」
事情を知らぬ者が聞けば、何の話なのか見当も付かぬだろう。この場にいる、彼らの間にだけ通じる言葉。そして彼女の言葉が、常識外れのとんでもない提案なのだとわかる者は、この場にはこの2人しかいない。彼女は淡々と、男の斜め後ろから語り続ける。
「詳しい事はいえないけど、そう遠くないうち、こちらでは騒動が起きそうだし。確かに、青い夜の被害は、貴方達に較べて喰わなかったわ。けれど、騎士團がもっと回復した頃に、こちらが一時的に弱体化する可能性があるの。そうなると、騎士團が付け入ってくるでしょうね」
「せやろな」
男がはじめて発した言葉は、彼女の後半の言葉に対しての同意だ。女は、腕を組む。そして、言葉を続けた。
「それぐらいなら、騎士團に与した方が無難ね。あちらの方が、ヴァチカンの事を考えても、地力や組織系統が強いし」
「ほぉか」
男の返答は短い。女は構わず、足下に置いていた風呂敷を手に取る。その風呂敷からは、本がはみ出している。彼女の夫のペンネームが記された新書だ。女は、男が見ていないにも関わらず、その横顔に微笑んだ。
「それでは、私はここのお仕事のお手伝いをして行きますから。勝呂さん。貴男も頑張ってくださいね」
「墨村の奥さんもな、おおきに。あと、ちゃんと八百造に旦那はんの御本を頼んますえ」
「わかってますよ」
そうして、彼女はそこを辞す。これが、明陀宗大僧正の勝呂達磨と、烏森の番人である墨村守美子の、最初で最後のコンタクトだった。
その時、幼い勝呂竜士は胡瓜を握っていた。それを片手に、山を駈けていた。既に慣れ親しんだ山道だ。幼馴染み達と別れ、草を掻き分け、一路、目指す山寺。そこでは、いつも、父がひとり。護摩を焚いていた。その声を聞くのが好きだった。胡瓜は、父の側に行く為の言い訳だった。この日も、彼はほぼ一目散に、山に入っていた。しかし、その常は、この日は少し違った。走っていた足を、緩める。思わず、彼は見詰めた。
白い、真っ白い着物の女だ。一瞬、幽霊か何かかと思う。それぐらい、ざらりとした黒髪が印象的な、美しい女だった。風呂敷を手にした彼女は、なぜか、父がいた寺から出て来た。そして、立ち止まっていた彼を認めると、その美貌に微笑みを浮かべる。
「あら、ここの子」
「おん」
思わず、素直に頷く。女の声は柔らかい。どこか、その質が、母親の虎子のものに似ている気がした。この時点での彼は知らないが、彼女は3人の子持ちだ。それを全く感じさせない生活感のなさで、彼女は竜士の元へと歩み寄ってくる。それは道らしい道が彼のいる辺りにしかない為もあった。しかしなぜか怖じ気づいて1歩、退く彼に、彼女は笑んだままだ。そして、竜士の前に立つと、少しだけ身を屈める。思わず竦んだ彼に、彼女は尋ねた。
「貴男、いくつ?」
「……い、5つ」
「あら、ウチの利守と一緒ね」
「……?」
トシモリとは一体、誰なのだろう。この女の子供なのだろうか。竜士がきょとんと見上げていると、彼女はいった。
「お父様によく似てるわね。……貴男のお父様は、今、そこにいるわよ」
「ホンマ」
実のところ、確かめるまでもない。父の居場所は決まってここだ。しかし、確証を得られたので、竜士は顔を輝かせた。その明らかな変化に、彼女は笑んだままだ。しかし、どこか意味深長なその笑みは、竜士の心に印象を残す。
「ええ。……貴男は、お父様が大好きなのね」
「勝呂はお父さんが大好きなんだね」
「………………すまん、もう1回いってくれるか。墨村」
「その拳を緩めてくれたらいうよ」
夏の暑さを感じさせぬ、利守の涼しげな顔。その口からもたらされた言葉に、竜士は思わず拳を固める。それを制する言葉に仕方なく下ろした手で、竜士は、ペットボトルの水を呷る。2人並んで座った縁側。子猫丸と志摩は席を外している。残された竜士と利守は、昼食を摂りながら、取り留めもない会話をしていた筈だった。しかし、隣のセンター分けの黒髪の同級生が放った言葉に、竜士は思わず殺意に近い何かを煮立たせる。それを何とか鎮めたのを確認したのか、利守は青い空を見上げながら言葉を繰り返す。
「だからさ。勝呂は、ここの大僧正だっけ。そのお父さんが大好きなんだなって」
「気色悪い事いうな」
「少なくとも意識はしてるよね、そういう風に反発するぐらい。愛憎は表裏一体って言葉、勝呂なら知ってるよね」
「……」
これ以上、下手に言い返すと言いくるめられる。この裏会からの交換留学生が、優しげなようでいて、実のところとても冷静な現実主義者、且つ曲者である事は既に周知だ。どちらかというと可愛らしい部類に入る顔立ちで、「それで、奥村達に勉強を教える事で、僕に何のメリットがあるの」と言い放った事は竜士の記憶に新しい。一応は人情というものを理解しているらしいが、ドライにも程がある。そして、こうして人の心理に聡い部分もあるのだから質が悪い。どこか悟りきったような利守の横顔を睨んでいると、彼は笑う。表情自体は乏しくはない利守は、そうしていると、まるで明朗快活な少年のようだった。
「そんな顔をしないでよ。気を悪くしたなら謝るけどさ」
「大いに悪くしたわ」
「御免御免。でも、いいじゃんか。勝呂は」
利守は顔を上げる。釣られて見ると、空に鳥のようなものが飛んでいた。それは真っ直ぐにこちらに向かってきていた。思わず怪訝に眉を顰めてそれを見ていると、それに向かって手を伸ばした利守が、ごく何気ない声でいう。
「反発出来る相手が、いるんだからさ」
竜士が目を瞠る。利守の腕に留まったそれは、一見、黒い鳥の姿をしていた。白い包みを蹴爪に括られたそれは、利守がそれを受け取ると、煙と共に消える。あとには、正方形の家紋が記された白い札が残った。それは、確か墨村家の家紋だった覚えがあった。札を傍らに置き、利守は中身を改める。それは、利守の父親のペンネームが記された新書だった。それが、八百造がファンをしているその作家の新作だと竜士が知るのは、この京都での夏の事件が終熄を見てからの事だ。立ち上がって「八百造さんだっけ、ここの所長さん。あの人の部屋ってどこだっけ」と尋ねる利守を竜士は見上げながら答える。教えてくれた竜士に、利守は笑った。その笑みに、竜士は奇妙な既視感を覚える。
(あれ、どっかで)
「ありがと」
眩しそうに眼を瞬く。利守は竜士の異変に気付いてか気付かないでか、礼をいい、そして、横顔を向けていった。
「勝呂、孝行したい頃に親はなしって言葉も、覚えておいてね」
墨村利守の母親が、6年前。烏森の封印に身を捧げた――その事実をいまだ知らぬ竜士は、ただ、その言葉に怪訝そうにしただけだった。そして、利守は立ち去った。
End.