烏森が封印される前。あの頃の事は、もう硝子の向こうの景色だ。正統継承者ではない自身にとっても、そこそこに馴染み深かった場所。それでも、そこに関する想い出は、見えはしても触れる事のないものだった。手を伸ばせば、返ってくるのは冷たい感触だけ。特に、死人に関しては。
それなのに、よりにもよってその死人が自ら、ガラスを蹴破ってきた。それぐらい、衝撃の強い事件だった。
「利守お前、何か隠し事をしてないか」
「僕、悩んでるように見えましたか」
疑問を疑問で返す。今時の若者の喋り方で、利守は影宮の追及を逸らす。その意図が半ば露骨だったので、影宮は人目を引く整った顔を盛大に顰めた。遠目の女性客が「怒った顔もかわいい」と囁いていた事は、彼らはどちらも聞かなかった事にした。氷抜きのアイスココアの注がれたグラスを傾ける、利守は窓の外の景色を眺めた。その手許にはアップルパンプキンケーキも一切れ置かれていた。林檎のキャラメル煮を型の底に敷き詰め、熱いうちに濾した南瓜を生地に混ぜ込んだ一品である。
そこは正十字学園町の片隅。至近の学舎は高等部ゆえ、ここを利用する高等部関係者は多い。やや古ぼけてはいるものの夏は冷房、冬は暖房が適度に効いている。メニューも少額の小遣いを遣り繰りする貧乏な学生向けにリーズナブルなものから、与えられた豊かな小遣いの使い途に困っている金持ちの生徒向けの高級なものまで幅広い。そして、これまた古いが調律や手入れがなされているアップライトピアノで静かなバラードが聴ける事もある。弾き手は専ら音楽科や正十字大学の音楽学部ピアノ科の学生のアルバイトだが、最近はウェイターである金髪の青年が客のリクエストに応えて気紛れに弾く事もあった。とてもうまい訳ではないが、そこは青年の姿を眺める口実である。リクエストをする客は大半が女性であった。彼が勤めはじめた頃は女性の衆目が集まる事をやっかんだ男性がひやかしにリクエストをする事もあった。それを全てそつなく熟し店内を盛り上げる引き立て役にすらしたので、今はそういう事はほとんどないらしい――以上が、つい先日まで同じ祓魔塾に通っていた朴から聞いた話だ。思ったより馴染んでいるようで何よりだ、と、その金髪のウェイターの正体を知っている利守は、ひとり頷く。それを猫めいた目で怪訝そうに見下ろすウェイター――本籍は裏会実行部隊「夜行」諜報班の影宮は、溜息を吐いた。盆を片手に腕を組む。幸い、今は混雑する時間ではない。利守もそれを狙ってきたのだろう。高等部の女子生徒に人気のウェイターが、一見ごく普通の男子生徒と親しげに話していれば否が応にも目立つ。下手をすれば利守が仲介を頼まれるだろう。それは仕事の面でも手間の面でも面倒だった。ストローでココアを啜った彼は、溜息混じりに頭を振る。黒い直毛が揺れた。声が低められる。
「悩んでいるとすれば、諜報任務で入った筈のどこかの誰かさんが、仕事の為とはいえ女子と話しすぎてモテて目立って諜報員にあるまじき状態になってるって事ですかね」
「細波さんか」
「あの人はモブに徹してますよ。見事にミスディレってますよ。彼は諜報員中の諜報員ですね。あれが本来のスパイですよ、僕は派手な人よりああいう方が好きです。将に間者の名に相応しいです」
「何か聞こえが悪いなそれ。つーかこれが俺のやり方だから仕方ねーだろ。女は玉石混淆でも情報を掴んでるからな」
すっとぼけてみても利守には、あまり通じない。こういったところが正守や良守とはまた別方向に厄介だと、反論しながらも影宮は密かに思う。ただでさえ結界師としての力は弱くとも空間支配系能力者だ。影宮の異能は使えない。それは細波も同様だ。彼の方が諜報員としては経験値が高いにも関わらず、こと利守相手には苦労しているようだ。まだ年が近い影宮の方が利守と話せる、とは、近頃めっきり老け込んだ細波の談だ。尤も細波は、そもそもなぜか墨村兄弟とは相性が悪いようだが。影宮が内心で首を傾げていると、利守はココアを置いた。フォークの先でケーキを切り崩す。
「まぁ人それぞれに適したやり方ってものが確かにあるでしょうけどね。チャラ男のふりをして実はスパイとか何か小説や漫画みたいでちょっと腹立たしかったので」
「おい何で俺が腹を立てられるんだよ」
「だって、そこそこイケメンで女性にモテるくらいには話術が巧みで戦闘以外なら割と何でもそつなくこなせるとか、世の男に喧嘩売ってるスペックですよ。塾の若先生も大概ですが」
「あぁ……あれはすげーよな。つーか俺だって戦闘以外にも苦手な事ぐらいあるっつの。男から情報引き出しにくいし。何かお前以外の男性客って来ないし」
ケーキを摘みながら淡々と語る利守も、さして魅力がない訳ではないと影宮は思う。顔は並だが悪くはないし、人付き合いも悪くない。中学の時は生徒会長もしていたというから人気を集める術だって覚えているだろう。なのになぜ自分をやっかむのかが影宮には少しばかり理解が及ばなかった。そんな彼に、「このケーキ美味しいですね」と呟きながら利守はいう。墨色の円らな目で見上げながら。
「そりゃ来ませんよ。先ずリア充の塊みたいなあんたを見れば自分に自信のない奴は来られません。それにデートにだって使えませんよ」
「雰囲気は良いと思うんだけどな」
「良いですよ。『自分よりいい男』というウェイターがいなければ。口説いてる最中に彼女が違う男を見たらそりゃ面白くないでしょう。あんたを見ない女子っつったら時姉ぐらいじゃないですかね。七郎さんに対しても普通だったっていいますし」
「……理解した」
「っていうかここで恋人とデートに入ると『なぜか』破局するっていう噂が裏正十字学園七不思議に算えられてますよ」
「ま……マジで」
今度から夜道には気を付けよう。幾ら妖混じりで常人よりは動けるとはいえ、異能者の中では弱い方だ。ましてや、ここは日本の正十字騎士団の本拠地である。うっかり、たとえば体格の良い祓魔師などの恨みを買ったあとが怖い。特に奥村燐のようなチートとまではいかなくても、悪魔との混血の者からは正直、逃げられる気がしなかった。ましてやストーカーがついた日には目も当てられないだろう。影宮はその辺りを充分に肝に銘じる。そして、うまそうにケーキを食し続ける利守を見下ろしながら彼はいった。
「塾の女子もまずいか。この間そっちを辞めた子はひとりだけ来てたけど」
「朴さんか。朴さんは、ここがお気に入りみたいだからまた来るでしょうね。彼女は神木さんの親友だから、そっちから情報を貰えるかも知れませんけど期待薄ですね。それに彼女、いつもここで本を読んでるっていうから邪魔しちゃ悪いですよ」
「それもそうだな」
影宮の異能の実態を知らない利守はフォークを立てながら釘を刺す。しれっと返しながらも、影宮は彼女から、利守の身に起きた事を探れるかも知れないと考えた。
利守の様子が少しばかり可笑しい。それを真っ先に指摘したのは細波だ。利守が賞賛する通りに雑踏に紛れ込む事を得意とする細波は、騎士団の偵察という名の利守の保護を勤めている。異能を使わずとも周囲の機微に敏感な彼は保護対象の利守が合宿後から少々、挙動不審になっている事に気付いた。それが何なのかは、はっきりとはわからない。ただ、その直前まで塾に通っていた朴が利守の身に起きた事を知っている可能性はあった。
(それに朴朔子が通ってくれてれば、神木出雲も来る可能性があるからな。まぁ調査結果の通りなら、かなり攻略が難しそうだが。そう簡単に心を開いてくれなさそうだしな)
相手は「あの」神木の娘だ。相手が異能者だと少々やりづらい。ましてや、やって来た朴から攫った情報だけでも彼女は非常に難しい人物だと伝わってきた。出来れば比較的、攻略が容易そうな杜山しえみに来て欲しかった。だが彼女は筋金入りの引き籠もりだ。特に異性には警戒する傾向にあるらしい。神木と杜山、どちらが攻略しやすいか。影宮の悩みどころだった。なぜ祓魔塾には普通の女性はいないのかといいたい。ケーキを食べ終えようとしていた利守は、深く溜息を吐いた影宮を見て、「悩みがあるのは影宮さんの方じゃないですか」と笑った。悩んでいるのは利守の為だ。賢明にも、それは口にしなかった。代わりに、盆で利守の丸い頭を叩いた。縁で。手にグラスを持っていた為に、その中身が大きく揺れた。
その光景を、遠目から眺める影があった。
夜半、男子寮のとある階の廊下。そこの窓が開く。寝間着らしきジャージ姿の少年は躊躇いもなくそこから身を乗り出した。飛び出した少年の体は、その直ぐ下に作られた結界によって受け止められる。そして、彼は顔を上げた。夜風の中、寮の上にいる人影を認めた。
「影宮さん、お元気そうだったでしょう」
『そうだな』
練習の甲斐あって慣れた、結界での階段作り。結界術の中でも「使えると何かと便利だぞ」と兄2人に教え込まれた応用だ。それで登り切った先、男子寮の天辺。屋上をぐるりと高く囲ったフェンスに、腰掛ける黒い影。一見すれば少々、目付きが悪いだけの男子中学生だった。制服は正十字学園中等部のものとも異なる。ましてや都内の学校のどれとも一致しない。他校の義務教育中の少年が、夜半に寮の屋上にいる。それは見つかれば異状として直ぐに警備員に捕まっただろう。だがフェンスの横に結界を張って腰掛ける利守は、そんな事は起きえないのだと知っていた。警備員が魔障を受けていれば話は別だが。
その男子中学生がゴーストの悪魔である事を知っているのは、今のところは祓魔塾の関係者のみだ。合宿中、魔法円・印章術の授業で、利守が召喚した使い魔である事も、まだ彼らしか知らない。交換留学生で客人とはいえ、所詮はまだ候補生なのだ。確かにゴーストを召喚した例は珍しいものの、彼らがどうやら顔見知りらしいので、知り合いという事が縁になったのではないかといわれた程度だ。話題性もなければ特筆すべき事はない。ただ少々、どうやら戦闘力が高いらしいというだけだ。少なくとも、祓魔塾はそう判断した。何れ裏会側に伝わるにせよ、それは利守が手騎士としての才能を持ち合わせていたという事実だけだろう。
その召喚が、あまりに因果である事を知っているのは、裏会の者のみだった。だからこそ、利守は黙っていた。出来れば、裏会の関係者に知られたくなかった。特別、隠そうとは思っていない。だからこそ合宿の時の事を何も話さなかった。怪しまれる事をわかっていた。事実、影宮は怪しんでいた。こちらを怪しむのに精いっぱいで、彼を見張っていた細波ですら気付かなかっただろう。利守が窓辺に座った事で、談笑する彼らを見る人影が、近くのビルの屋上にあった事を。
利守はいう。膝を抱える彼を包むのは結界だ。この時間、地上より高い位置で受ける風は寒い。その傍らで、黒髪を立てた少年は平然としていた。そんな彼に、利守は尋ねる。空と同じ黒い目で。
「合宿から気になってたんだけど」
『何だ』
「何で、僕に召喚されてくれたんです。貴男、未練がなさそうだったと聞きましたよ。良兄から」
『それは俺にもわからん』
答える声は明瞭だ。口を噤む利守に、彼は続けていう。
『確かに、俺はあの時、凄くスッキリしていた。死ぬ事に未練はなかった』
「じゃあ」
『でも、もし未練があったとするなら、頭領の命を全う出来なかった事だろうな』
「……」
口を挟めない。その言葉に、利守は今度こそ言葉を失う。
ゴーストは未練で生まれる。死ぬ事自体には、当時の彼は未練がなかった。それでも、ひょっとしたら。利守は思う。
(呼び起こしてしまったんだろうか。折角、眠っていたのに)
彼は利守のそんな後悔に構わず、ほんの僅かに表情を変えた。それが笑みといわれるものだと、付き合いの浅い利守にはまだわからなかった。
『正直、お前の事は覚えてなかったけどな。お前は今、頭領の命でここにいるんだろう。俺は屹度、お前のその手伝いをしたかったんだろうな』
「酷いなあ。……でも、正兄の事、本当に慕ってたんだね」
苦笑しながら答える利守が思い出すのは、もう7年前になる出来事。
烏森が、まだ封印されていなかった頃。その活動を活発化させていた。「彼」を狙ってやって来た妖の組織に対抗する際、夜行から派遣されてきた少年がいた。次兄と同い年だった彼は烏森学園の中等部に一時的に転入した。本当にほんの一時的になってしまったのは、彼が戦闘中に殉職したからだ。
(異能者の人が家に来るのはしょっちゅうだったけど、死んだのは、この人だけだった気がする。蒼ちゃんが来た時、良兄がやけに気にかけてたのは屹度、この人からの影響だ)
グラスを落として割ってしまった。片付けようとして、指を切った。そんな悔恨。
『それにしても、お前、兄貴……良守に似てないな。性格』
「それはよくいわれる。正兄似っていわれるよ。まぁ、正兄の方が根がいい人だけど。……あのさ。正兄や良兄に会いたい? 先ず時姉に会う事になるかも知れないけど」
その問いかけは、利守にとっても覚悟を決める為の言葉だった。7年前の古傷を穿り返す事になるかも知れない。それでも、対して面識のなかった、けれどその影響だけは理解している自分だけが、彼を抱えているのは、少しばかり荷が重かった。それに気付いたのか少年は1度、口を閉じる。何かを考え込むように、視線を彷徨わせた。
けれど、答えは早かった。
『墨村利守。今は、お前が俺の頭領みたいなもんだ。お前が紹介すべきだ、そう思ったら、俺は逃げない』
「……それは、ちょっと狡いよ。志々尾さん」
少年――生前の名を志々尾限といった、今はゴーストの悪魔となった彼に、利守は苦笑した。
胸に重いものが落ちる。それは割れたガラスの破片達。ひとつひとつは大した事がなくても、積み重なるとそれなりに、重たかった。
細波は、それを知った時。痛みが走った。物理的な痛みにすら思えた。
利守の傍ら。そこに、嘗ての自身の過ちの証左がいた。
Next......?