「……アホか」
事のあらましを聞いたお兄ちゃんの第一声がそれだった。
「フーカちゃんなりにリンネを想っての行動なのは分かるけど、リンネは病人なんだし、もうちょっと手心をだな……」
「いや、その、はい……」
あくまで自主的に正座をしているフーちゃんが項垂れた。しかし、お兄ちゃんの言い方だと手心を加えてたら義理の妹の口にバナナが突っ込まれるのを許していたんだろうか。私はバナナを少しずつ齧りながらそう思った。
「わしは……焦ったのかな……」
「流石にバナナぶち込みはやり過ぎだな」
お兄ちゃんはそう言いながら小さいレジ袋を鞄から取り出して、そこから二、三本のミネラルウォーターをベッドの傍に置いた。
「足りてるとは思ったけど、一応買って来た。熱を出した時は水分補給が大事だから、足りなくなるよりは余った方がマシだろうと思ってな」
「わざわざありがとう、お兄ちゃん」
「気にすんな。妹の面倒を見るのも兄の役目だ」
なんでもなさそうにお兄ちゃんはそう言って、私のおでこから剥がれかけていた古い"冷え冷えピタっと"を新しいのに貼り替えた。
「冷たっ」
「だろうな。これ常温でも結構冷えっとするし、冷蔵庫で冷やされたコイツは凄いだろ……フーカちゃん。氷枕は?」
「それはまだ替えてないです。これからやろうと思っとったところで」
「なら丁度いいか。リンネ、来たばっかで悪いけど、氷枕を替えたら俺達は御暇するよ」
「もう行っちゃうの?」
思わずそう聞いた私に、お兄ちゃんは少し笑って私の頭を撫でた。
「リンネの気持ちは分かる。けど、お前はまだ病気の真っ只中に居るんだから無茶はいけないだろ?」
「それは、そうだけど……」
「今はゆっくり休め。なに、そんな心配しなくても、電話とかにはちゃんと出るからさ」
お兄ちゃんの言う事は最もで、私は頷く事しかできなかった。
そうこうしている内にフーちゃんが氷枕を替えて、程なくお別れの時間がやってくる。
「またなリンネ」
「わしが言っても説得力が無いじゃろうが、しっかり休めよ」
「うん。分かってるよ、またね」
小さく手を振った私に、最後に2人は笑いかけて、そして扉は閉められた。
「…………また、ね」
遠ざかって行く足音。やがて訪れる静寂。普段なら心を落ち着かせてくれる静けさが、今は痛い。
「…………………………寝よう」
今は少しでも、この静けさから逃げ出したかった。
03-R
『この前に話したシュウ君だ』
私がお兄ちゃんと初めて出会ったのは、ベルリネッタ家に引き取られてから少し経った日のことだった。
私が初めて抱いたお兄ちゃんの印象は、なんだか少し怖い人という物だった事を覚えている。今はそうでもないけれど、あの時のお兄ちゃんは表情がとても乏しかった。
『リンネです。えっと、よろしくお願いします』
『…………?』
まだ幼いお兄ちゃんは私が握手の為に出した手を不思議そうに見つめていた。そして、その手を指さして一言。
『なにこれ』
『なにって……』
困惑した私に助け舟を出してくれたのは、お兄ちゃんのお父さん。つまりトウヤおじさんだった。
『ああ、悪いねリンネちゃん。シュウは握手を出来ないし、そもそも握手を知らないんだ』
『知らない……?出来ない……?』
何を言ってるんだろうこの人、と最初は思った。握手をしない人は見た事があっても、出来ない人や知らない人というのを見たことがなかったから。
……というか、今まで生きてきても幼いお兄ちゃん以外に会ったことはない。
『そこの辺はちょっと事情があってね……話すと長くなるけど、兎に角シュウは握手が出来ないんだよ』
それで納得してくれ。とトウヤおじさんは言った。有無を言わせない言葉の雰囲気に、私は頷くことしか出来なかった。
『リンネ。私はトウヤと少し話があるから、終わるまでシュウ君とお話していてくれないか?』
『うん』
『ありがとう。それじゃあ、リンネの部屋で待っていてくれ』
と、頷きはしたものの、どうすればいいのか分からなかった私は、取り敢えず言われた通りにお兄ちゃんを私の部屋に案内する事にしたんだった。
『えっと、こっちです』
『ん』
私と幼いお兄ちゃんとの間に会話は無かった。私が内気で、まだ初対面のお兄ちゃんと会話を出来なかったというのもあるけれど、なにより無表情なお兄ちゃんが怖かったのだ。
そうして廊下を歩いている時、私は不意に家の中が静か過ぎると思った。
それは立地から静かな所というのもあるし、会話が無いことも関係していただろう。もしかすると、気まずさからそう感じていたのかもしれない。
理由はともかく、この時も静けさが痛かった事だけは確かだ。
『ここが私の部屋です』
『……広いな』
私の部屋を見たお兄ちゃんの第一声は、奇しくも私が初めてこの部屋に入った時の感想と同じ物だった。
『やっぱりそう思います?私も今は慣れちゃったけど、最初は広いって思っちゃって』
『広すぎるのも考えものなんだな』
私の部屋だけじゃなく、全ての部屋には一部屋に二脚の椅子とテーブルのセットが備え付けられている。
私が椅子を引いて座ると、お兄ちゃんも同じように椅子を引こうとして、でもそこで引く為に椅子を掴むのを躊躇った。
『……ベッドに座ってもいいかな』
『あっ、はい。どうぞ』
そのままベッドの端に座ったお兄ちゃんが、だらんと垂らした手に私の目は釘付けになった。握手が出来ないのは、手に何かあるんじゃないかと思ったからだ。
『……手に、何か付いてる?』
『へ?あっ、いや、あの、なんでもないです……』
『そう』
そしてまた静寂が訪れた。さっき感じた静寂が、酷く肌に突き刺さるように存在感を増していた。
04-R
部屋の電気が点いた、その光の衝撃が私の意識を引き上げた。
「あら……起こしちゃったかしら」
「……コー、チ?」
視界がぼんやりしていて分かりづらいけど、輪郭でジルコーチなのだと分かる。
「ええ。貴女のコーチ、ジル・ストーラよ」
「どうして、ここに……?」
「どうしてって、お見舞いに決まってるじゃないの」
思わず口をついて出た疑問に、ジルコーチはそう答えた。まだぼんやりしていて分からないけど、多分苦笑いをしている。
……少し考えれば分かる事も思いつかない辺り、今の私は相当参っているようだ。
「調子はどうか……なんて、聞くまでもなく悪いわよね。顔も真っ赤だし、熱が上がってるみたい」
体の中、布団の内側には物凄い熱が篭っているのが、鈍くなった私の感覚でも分かる。こうなると救いはおでこの"冷え冷えピタっと"と氷枕だけだ。
「取り敢えず、果物を持って来たから後で食べると良いでしょう。リンネがどんな果物が好きか、そういえば聞いた事が無かったから私の好みで選んだけれど……アレルギーとかは無かったですね?」
声を出すのも億劫になり始めていた私は小さく頷いて意思表示をした。
「なら良かった。もし何かあったらどうしようと、実は少しだけ不安だったんです」
ようやっとハッキリ見えるようになった視界の中で私が見たのは、ジルコーチがこっちに上半身を寄せてくる所だった。
「リンネ、少しの間だけ身体を起こすわ」
「はい……」
ジルコーチによって上半身が引き起こされた私は、ここで初めて今が日の落ちきった夕方であると分かった。また結構な時間を寝たらしい。
「はいリンネ。食欲は無いかもしれないけれど、少しでも食べなきゃ治るものも治らないわ」
そして私の口元にスプーンにすくわれたおじやが運ばれてきた。湯気は出ていないから、作られてからそれなりに時間が経っているみたいだった。
一口食べる。味は薄いけど、でも塩気が効いているのが何故か分かった。
「……そういえば、前に高町選手が、おじやは即効性のエネルギー食だとか何とか言ってたわね。ウメボシを添えると栄養バランスも良いとかって」
「本当、なんですか?」
「さあどうかしらね。調べた事も無かったわ」
なんでそんな事を知っているんだろう。と不思議に思いながら少しずつ食べ進める。
食べ始める前までは食欲なんて微塵も無かった筈なのに、食べ始めてからは少しずつ食欲が戻ってきていた。
「あらあら……正直、ここまで食べられるとは思わなかったわ」
「ちょっと、自分でも驚いてます」
「それだけリンネの身体が元気になろうと必死なのかもしれないわね」
それでも普段の半分くらいしか食べれていないけど、熱が凄い今の状態を考えれば十分かもしれない。
「お水もどうぞ。 汗で相当な水分が体から抜けている筈だから、飲める時に補給しておかないと」
一口飲むと、嫌な火照り方をしている身体に水が染み渡るような感じがした。
「ああ、薬も一緒に飲むべきでしたね。リンネ、薬は何処にありますか?」
「……薬?」
そこで初めて気がついた。私、病院に行ってない。一日ずっと寝ていただけだ。
「リンネ。貴女まさか……」
「…………」
気まずい沈黙。また静けさが肌に突き刺さるように存在感を主張してきていた。