お題は「わるものマニア」(http://www.w-mania.com/)より。
そろそろだ。寮の自室。ひとり部屋として宛がわれたそこで、カレンダーを睨む。3ヶ月に1度、尤も疎ましい時期だ。加賀は、悩ましげに溜息を吐いた。
その背後。扉を叩く音が響く。落ち着いた声が扉の向こうから響いた。
『加賀さーん。そろそろ朝ご飯の時間よー。早く食堂に行きましょー』
「……今、行くわ」
平静を取り繕って、立ち上がる。着替えは既に済ませていた。今日はまず、特別休暇申請を作らなくてはいけない。朝食を終えたあとの仕事を考えながら、彼女は自身を落ち着けようとしていた。
そうでないと、扉の向こう。心から朝食を楽しみにした様子で輝く、赤城の顔を落ち着いて直視出来そうになかった。特に、今の加賀にとっては。
***
クシャミ。続いて、ティッシュを取り出す音。それから、鼻をかむ豪快な音。そして、溜息。僅かな紙擦れ、抽斗を閉める音。それらを聞き届けたのち、敷波は扉を開いた。新たなティッシュを取り出す司令官に、彼女は書類を片手に息を吐いた。
「司令官、また風邪なの。年に何回ひく気なんだよ」
「いや~こればっかりはね~。体質だから勘弁して」
ローションティッシュで再び鼻をかむ、彼の鼻の頭は赤くなっていた。その声は鼻声である。敷波がその目が潤んでいるのを確認した時、執務室にクシャミと敷波の悲鳴が響いた。
使い捨てマスクを耳にかける。怒る敷波を宥めながら、司令官は苦笑して書類を受け取る。
「御免って。それでこれは何の書類」
「加賀がヒートの時期に入るから、明日から1週間出撃を控えたいって。だから他の正規空母から編成を組んで欲しいんだよ」
「ああ、いつものか。じゃあ、明日は赤城と瑞鶴と蒼龍に出て貰おうか。いつも通りに明日から1週間は、秘書艦は加賀にやって貰うから、敷波と漣は支援艦隊に入って」
「それはいいんだけどさ、司令官。ひとつ聞きたい事があるんだけど」
「何」
咳き込みながらも万年筆を走らせる。その上官に、敷波は不思議そうに問いかけた。
「前から思ってたんだけど、『ヒート』って何。加賀がオメガだから、っていうのに由来しているのは知っているけどさ。出撃に問題が出る程なの」
「ヒートは生理現象だよ。セクハラになるから、オメガの人にあまり深く突っ込まないようにね」
「……御免。わかった」
素直に頭を下げる敷波に、司令官はマスク越しに微笑んだ。その表情は優しい。
「いいよ。駆逐艦ぐらいの年頃には、まだちゃんと説明されてないみたいだね。場合によってはアルファとかオメガとか、まだわかってないか」
敷波が頷く。それを見て、手を止めず、司令官は説明する。
ヒトの性別は、男女の他にアルファ・ベータ・オメガと呼ばれる性別がある。日本では甲種・乙種・丙種といわれた。大体、10代前半でその性別は判明する。アルファは自他共に男女問わず、ベータとオメガの全てのヒトを妊娠させられる。オメガはその逆だ。ベータは人類の大多数を占め、アルファとオメガは少数だ。但し、その立場は真逆。アルファは社会的にも優位に立つ。オメガは「ヒート」と呼ばれる生理現象が3ヶ月に1度発生する。この時期は、何の対策も打たなければ、1週間は身動きが出来なくなるのだ。10代後半から発生するこの現象は、社会で働くには非常に不利だ。加え、その性質上、繁殖のみがその仕事とされる。近年は改善されてきているものの、社会的に蔑視される立場にあった。
「加賀は、そのオメガの女性という訳。しかも普通よりモテモテだよ」
「……司令官、詳しいんだね」
敷波は胡乱そうに、上官を見詰める。ずれたマスクを直した司令官は、淡々と書類を見ていた。
「俺は士官だよ、敷波。上に立つものとして、そういう事は士官学校時代にきちんと教えられてるよ。いつ、部下にそういう子が来るかわからないもの。士官学校っていうのは、部下にとってより良い上官を育成する機関だからね」
「……それも、そっか。でも、何の対策も打たなければ、って事は、何か対策があるんじゃないの」
頷きながらも更に問う。提督は不意にティッシュを引き抜いた。マスクを取って鼻をかむ。それに眉を顰める部下に構わず、彼は何事もなかったように答えた。
「あるよ。その生理現象自体は、投薬で抑えられる。偶に体質に合わなくて抑制剤が飲めないっていう人もいるし、フェロモンは垂れ流しだけどね。問題は、加賀が艦娘だっていう事だ」
「問題」
「敷波。ウチの鎮守府だと、赤城や日向とかがアルファだ。で、彼女達が偶に、偏って攻撃しているところを見た事がないかな。相手が特別な艦種でもないのに、そちらに攻撃が吸い寄せられたりとか」
「……心当たりがなくもないけど」
いわれて、思い出す。基本的に、戦艦や正規空母など、高火力艦が出撃するような戦域に駆逐艦が出る事は少ない。しかし、その条件の都合上、駆逐艦のように足が速く、夜戦に強い戦力が必要な場合もある。その時に、他の艦娘が攻撃するところを見る。軽空母や航空戦艦の艦娘が、潜水艦へ攻撃が吸い寄せられる事はままある事だ。敷波自身も駆逐艦の為、撃沈させるまでは、潜水艦への攻撃をやめられないのだ。その中で、時に攻撃が偏っている赤城や日向を見る事がある。それをあとで他の艦娘から理由を問われても、彼女達自身も首を傾げている事がほとんどだ。尤も、今までは偶々だと思っていたのだが。司令官はマスクを耳にかけ直す。
「あれは、敵の中にオメガがいるからだ、っていわれてる。向こうにオメガがいて、『彼女』を艦娘にして、自分達の手元に寄せる為に攻撃してるんだ、っていわれてる」
「……えっ」
「これは俗説だけどね。ただ、逆の現象はよくある」
ペンを持ちながら、彼は事もなげにいった。
「オメガの艦娘は、被弾率が高いんだ。その上、特にヒートの時期に出撃させると、被弾率がダントツになるんだってさ。たとえ潜水艦を編成に組んでても、それを無視して対象の艦娘を攻撃してくる。これは正式に習う訳じゃないけど、士官学校時代に教官が雑談で教えてくれたよ。新任時代も、職場のオメガの艦娘は、ヒートの時期になると出撃控えさせられてたよ。場合によっては、オメガの艦娘を旗艦に据えてデコイにするっていう作戦もあるけど、ウチでそういうのを取るつもりは今のところないからね。だから、この時期は加賀には休んで貰うんだ」
「……あのさ、それって」
「つまり、深海棲艦にもアルファがいるんだろうね。それで、オメガを『そちら側』に引き寄せたがる訳だ。ま、これも俗説だけどね。真剣に考えなくていいよ」
冗談を語る顔にしては、彼の表情は真剣だった。敷波の頭に浮かんだのは、「轟沈した艦娘は、深海棲艦になる。また、ドロップする艦娘は元は深海棲艦だ」という説だ。マスクの下、鼻を啜る司令官の表情は、よくわからない。書類を決裁する司令官は、淡々と言葉を続ける。
「ヒート中のオメガ艦娘の被弾率は統計上無視し得ない数に上ってるし、ヒート中は体調不良に陥り易いから」
「なんか、本当に生理みたいだね」
「要は発情期だから」
それでも何とか返答した、敷波の言葉は斜め上に打ち返された。ライトスタンドへと向かう言葉に、敷波は思わず顔を上げた。視線を戻した先で、司令官は、肩を竦めるだけだ。苦笑を浮かべて。
「だから、セクハラになるっていったでしょ。『ヒート』は、英語で発情期って意味も含むんだよ。フェロモンっていうのも、そういう事」
「……よく、わかったよ」
「あとは資料室に本があるから、そういうので勉強してね。男で上官の俺からあまり説明するとセクハラ扱いされちゃうかもだし」
項垂れた敷波は、疲れたように肩を落とした。自身はまだ、アルファかベータかオメガの何れの性別か、まだ判断がついていない。ただ、出来れば、大多数のベータがいい。生々しい話に肩を重くした敷波は、「加賀に、明日は抑制薬をちゃんと持ってくるように伝えておいて」という言葉に頷きながら、執務室を辞した。
……執務室を辞した、敷波。彼女が立ち去ったのち、マスクを外した司令官は、ティッシュを取り出す。
「……薬以外にも、ヒートを抑えて、且つアルファを寄せ付けなくなる方法はあるんだけどね」
そのひとり言が消えきらぬうちに、鼻をかむ音が響いた。そして、抽斗を開く。大本営からの手紙だった。
それを開きながら、司令官は、深く嘆息した。
夕方の食堂。艦娘や一般軍人達が思い思いに食事を摂る。正規空母のグループで、それをいったのは赤城だった。口元には飯粒がついている。
「加賀さん、明日から出撃はお休みなんだ」
「えぇ、ご免なさいね。1週間は、貴女達に迷惑をかけるわ」
「いーのいーの。加賀はウチじゃ主力のひとりなんだから、復帰するの待ってるよ」
「いつもの事だし今更よ、水くさい」
静かに謝る加賀に、他の空母娘達は口々に答える。それに、ほんの僅かにだけ口元を緩める加賀だ。その表情の変化はわかりづらい。だが内心では、安堵に包まれている。
――一航戦の「加賀」の血統として生まれ、教育されてきた。それで10代前半。検査でオメガと知った時の、養い親という名のブリーダーの嘆きようを、彼女は覚えている。半ば、心の傷にすらなっていた。ただでさえ、艦娘は、一応は人間とはいえ、種全体がオメガと同様に社会的地位が低いのだ。一線を退けば、待っているのは「兵器の生産」という名の出産義務だ。特に、オメガである彼女は、アルファやベータよりも「生む」という行為に長じている。ブリーダーの悲嘆は、我が子のようにかわいがっていた娘の行く末と、それに自身の作り上げた「兵器」の完成度が低くなる事へのものだった。
(好きで、オメガに生まれた訳じゃないのに)
「加賀さん、先生からお薬は貰ったの。昼間に敷波さんにいわれてたでしょう。何だかあの子、元気がなかったけど」
「……そういえば、忘れてたわ。有り難う。取りに行くわ。敷波さんは、提督のいつものブラックジョークにでも付き合わされたんじゃない」
翔鶴に問われて我に返る。加賀は、自身の自室の抽斗に残っていた抑制薬の残りの数を思い出した。1日3回の服薬を義務づけられるそれは、1週間分には到底足りない。今日の当番の軍医は誰だったかと思い出しながら、加賀は急いで食事を掻き込んだ。
気のせいだろうか。先程から、赤城がこちらを見てやまない気がした。一刻も早く離れたくて、急いで味噌汁を飲み終える。
同じアルファでも、日向とはこうはならない。その意味を、加賀は考えたくなかった。
箸を置く。立ち上がった。
「それじゃ、御馳走様。お先に失礼」
「んー、それじゃまた明日ー」
飛龍が手を振る。盆を持って席を去る加賀。間もなく、赤城も立ち上がった。口元には飯粒がついたままだ。
「御馳走様!」
「赤城、ご飯全然お代わりしてないじゃん」
「いいの、それじゃみんな。また明日!」
慌ただしく盆を持つ。そして、食堂を出て行った加賀の軌跡を追うように、足早に立ち去っていった。
……残された空母達は、耳打ちをしあう。彼女達の視界の隅。一列の並べられたテーブルを挟んだ向こうの席。隣同士に座り合った大井と北上が映っていた。仲睦まじい彼女達がオメガとアルファである事を、彼女達も知っていた。瑞鶴が、囁く。
「……加賀、赤城とマッチングする気はないのかな。大井と北上は、もうしちゃったのに。戦力に響くから出産は禁止されてるけど」
「それは皆が思ってる事だろうけど、こればっかりは本人達の問題だしね」
「多分、相性的にも間違いなくつがい、なのにね」
大井が北上の口におかずを運んでやっているのが、見える。彼女達の後ろを、また体調を崩したのか、マスクをつけて箱ティッシュを小脇に抱えた提督が通り過ぎた。彼は、その目を、食堂を出て行く赤城に向けていた。
軍医が、薬を渡してくる。両手で紙袋を受け取る彼女に、彼は苦笑を浮かべていた。
「はい、1週間分。次はもっと早めに取りに来てくださいね」
「ご免なさい。忘れていました」
素直に頭を下げる彼女に、軍医は頭を振る。オールバックの前髪が、僅かに乱れた。
「艦娘さんは、とっても忙しいのはわかっているけどね。ヒートの時期の飲み忘れは命取りだから……それじゃ、そろそろ私は次の人に交代するので」
「遅くにすいません、有り難う御座いました」
立ち上がった医師につられ、彼女も立ち上がる。彼は、心配そうに加賀を見下ろした。
「……それと、余計なお世話でしょうが。もう、ヒートの時期に出撃しないようにしてくださいね。提督も、そういう運用は避けたいようですし。貴女は、ベータですら引き寄せるようですから」
「そうします。ご心配おかけしました」
そして加賀は、医務室を辞した。紙袋を片手に寮へと足を向ける、彼女の脳裏に浮かんだのは、この鎮守府に来て日の浅い頃。彼女の育成を兼ねての出撃。
伊58が驚いていた。
『何で、何でゴーヤを狙わないんでち!?』
いずれも、対潜能力の高い筈の深海棲艦。それらが、旗艦に据えられた伊58を無視した攻撃をしてくる。正確には、隊列の最後方、加賀へ。加賀は表情の変化に乏しい顔に、恐怖の色を刻んでいた。
渦巻く深海棲艦。大して級の高い敵ではない。しかし、それでも加賀は、確かに恐怖を覚えていた。
「それ」を搾取される恐怖。既に大破して、艦載機は飛ばせない。無力なまま、ただ、的になる。色を失った「艦」達。それらが、自分を狙っていた。このまま夜戦に突入すれば、確実に自身は引きずり込まれるだろう。あちらへ。
あの、冷たい海の底へ。
『加賀さん、下がってて』
落ち着いた声が、降ってきた。いつの間にか俯いていた自身。前方に、白と赤。靡く黒髪の背中が見えた。
――伊58の、「テートクから追撃せず、帰投の指示でち!」という声が届くまで、加賀の視界は、それらで占められていた。
(あのあと、皆から叱られたわね。本当に申し訳ない事をしたわ)
紙袋を携えてゆったりと歩く加賀を見咎める物はいない。人気がなかった。ぼんやりと回想に耽る、彼女が思い出したのは、加賀がヒートの時期だと知った時の提督の表情だった。
『あのね、加賀。誰しもが、足りないものがあるんだよ。足りないものを足りているふりをされるよりは、“ないから貸して”といってくれた方が、周りにとっては楽なんだ。君が、周りの子達を気遣ってくれたのはよくわかった。だから、今度は皆に、君を気遣わせてね』
親のように労る声が、周りの優しい声が、身に沁みた。そして、尚のこと、申し訳なかった。オメガに生まれついた事実が。
そして何より、気付いてしまった。
「加賀さん、薬は無事に貰えたの」
振り返る。息を切らした赤城が、そこにいた。紙袋を、握りしめた。
「……えぇ、貰えたわ。ちょっとギリギリだったけれど」
「それならよかった。加賀さん、自分の事に無頓着な時があるから」
「……口元にご飯粒をつけたままの赤城さんには、あまりいわれたくないわね」
「あ、有り難う」
無邪気に笑い、歩み寄ってくる赤城。彼女の口元についた夕食の名残を取り去ると、それを無意識に口にしながら歩き出す。赤城は当然のようについてきた。それを拒めず、加賀は黙り込む。
寮へと向かう廊下。人気はない。どこか遠くから、艦娘達の笑い声が聞こえる。頭声気味のそれは、恐らく駆逐艦達のものだろう。まだ、自身がそんな幼い声をしていた頃の事を思い出す。あの頃は、まだ。自分の事など、何もわかっていなかった。
自分が、艦娘で。オメガの女性で。艦娘として就任したのち、自分に背を向けて庇ってくれる人がいて。中破し、ドックでの修理を終えたその人が、無茶をするなと自分に泣きついてきて。そして、気付いてしまうなんて。
「加賀さん、このまま寮に戻るの。一緒にゲームしない」
「嬉しいけど、遠慮しておくわ。それに、赤城さんの部屋は遠いじゃない」
「1番離されてるもんね。もう少し、加賀さんと一緒にいたいのに」
「……アルファとオメガだから、仕方ないわ」
半歩遅れて、ついてくる赤城。かけられる言葉に、加賀は頭を振る。サイドテールが揺れた。赤城は、彼女の揺れる髪を見た。そして、思い切ったように、いう。
「いっそ、私と貴女でつがいになっちゃったら、遠慮なんてなくなるのにね」
「ふざけないで頂戴」
明るい口調のその言葉。返ってきたのは、突き放す言葉。静かだが、確かな拒絶があった。振り返らない、加賀の背中を、細く、白い項を、赤城は見詰める。予想の範囲だった。最初に断られるのは。それでも、赤城に譲る気はない。割れないように補強された窓。夜の空と海が、遠くに見えた。
マッチング。アルファとオメガでのみ結ばれる、本能的なもの。生涯でただひとりだけを選ぶそれは、つがいと呼ばれる。1度つがいを選べば、ヒートは起きない。他のアルファを惑わせるフェロモンも出なくなる。勿論、世界は広い。生涯、自身のつがいと会う事のない者もいる。
ただ、赤城はわかっていた。立ち止まった加賀の背中を見詰める。
「ふざけてなんか、ない。私は本気でいっているの。加賀さん」
「なら、尚のこと、質が悪いわ。……私は、要らない。つがいなんて。本能の結びつきなんて。……理性がない関係なんて、まっぴら」
「加賀さん。なら、こっちを見て」
「……」
黙り込む、加賀の手首を掴む。すると、ゆるゆると、加賀がこちらを向いた。端正な顔に、困惑したような、かなしそうな。そんな表情が浮かんでいた。……泣いているように見えたのは、赤城の錯覚か。彼女は真っ直ぐに、加賀を見る。
手の中の体温を、逃す気は毛頭なかった。あの日、艦載機を必死に飛ばした。絶対に退く気はなかった。加賀を、海の底へやる気など、なかった。
怯んだ目。赤城は半ば睨め付けた。手首を握る手を、強くする。
「理由はなんだっていい。とにかく私は、貴女が欲しいの。加賀さんは、本当に私が要らないの」
「……」
加賀は、答えられない。答えようがなかった。だから、口を噤む。目を、逸らした。自分の中で出ている答えなど、疾うにわかっていたから。
「加賀ー、こっちだって聞いたけど、お薬はちゃんと貰ってきたのー」
――だから、提督の、いっそ脳天気な程の場違いな声が聞こえてきた時。それは天佑に等しかった。赤城が我に返った様子で手の力を緩めた、その隙に振り払う。赤城が惜しそうに声を上げた。途端、角から男性の顔が見える。やはりそれは、提督の顔だった。マスク越しでもわかる程に朗らかに笑う彼は、暢気に歩み寄ってくる。
「いたいた。何だ、赤城と一緒にいたの」
「……提督」
「ちょっと赤城、何でそんな怖い声してんの。まさか加賀にカツアゲでもしてたの」
地を這う赤城の声。振り返った彼女に睨み上げられ、提督は戯けたように諸手を挙げる。赤城はそれに煽られ声を荒げる。
「違います! 今は加賀さんと大事な話を」
「提督。薬はちゃんと貰ってきました。提督の分の風邪薬その他も貰ってきましたから、明日、出勤したらお持ちします。それでは」
「あ、加賀さん!」
「まーま、赤城。落ち着いて」
それを好機と見たか。加賀は一気にまくし立てると、そのまま足早に立ち去っていった。最早あれは駆け足だ。追いかけようとした赤城を、提督が服を引っ張って止める。赤城は激高して、その手を振り払った。先程の加賀のように。加賀の足音は、既に聞こえなくなっていた。赤城は長い髪を振り乱し、提督を睨む。形を取ったら、提督の目を貫くだろう。肩を竦めている提督に、赤城は訴える。
「……提督、何で邪魔をしたんですか」
「さて、何の話かな」
「今のタイミングなら、いつもの提督なら、立ち去る上にその場一帯の職員を待避させる勢いで空気を読むじゃないですか。人の恋路を邪魔する奴は戦車に轢かれてしまってください!」
「物騒な事を……さすがに俺も、戦車に轢かれたら無事でいられる自信はないから、それは遠慮願いたいね。まあ、勿論邪魔はしたんだけど」
「提督……!」
歯噛みする、その赤城の姿は、いつもの落ち着いた彼女ではなかった。アルファの本能を剥き出しにした、それなりに胆力のあるつもりの提督にすら恐ろしさを覚えさせるものだった。
「君が、そんな様子だったから。加賀が怯えていたよ。だから止めたんだよ」
「……」
「君の本意ではないでしょ、加賀を怯えさせるのは。あの子は普通のオメガよりモテるから、怖いアルファに危ない目に遭わされた事は何度もあるだろうし。そもそも、君達がお互いに『つがい』だと確信した時、あの子は深海棲艦のアルファ、あるいはベータにすら引き寄せられそうになっていた。それは、君も覚えてるでしょ」
「……提督。貴男、本当に食えない人ですね」
それは、事実上の肯定だった。悔しそうに睨む彼女は、しかし、気迫が欠けていっていた。理性が戻ってきてくれたらしい。それに内心で安堵していると、赤城は、いう。意趣返しのように。
「提督。それでも、貴男が1番わかっているでしょう」
「何をかな」
「とぼけないでください。加賀さんの味わっている苦しみは、提督。貴男と同じでしょう。貴男は、オメガなんですから」
提督は、微笑んだままだった。直接は、答えない。
「さすが、アルファ。やっぱ、ばれてたか。同じアルファの日向にばれていたから、君も気付いているだろうとは思っていたけど」
「においでわかりますよ。……加賀さんの方が、ずっと良いにおいがしますけど。加賀さんが貰ってた提督の分の薬って、貴男の分の抑制薬も入ってるでしょう」
「それがつがい、らしいからね。薬はそれで正解。ヒートの時期がいつもかぶるから、1週間秘書艦になって貰う加賀に貰ってきて貰った方が効率がいいし」
提督はいう。
「ま、確かにわかるよ。ヒートの時期は『他人』を受け入れやすくする為に免疫系統が弱るから、ただでさえ病弱なのに、余計に風邪をひきやすくなるし。士官学校は、いわばエリートばっかだ。そのせいでアルファの男が多かったから、よく掘られそうになったし。加賀程じゃなくても、色々面倒臭い事はあるけどね」
それまで堪えていたらしい、クシャミを放つ。片手に持っていた箱ティッシュで鼻をかむと、その辺りにあったゴミ箱にそれを放りながら、彼は言葉を続ける。
「つがいを見つけてマッチングしちゃえば、ヒートはなくなる。生きやすくはなるよ。ぶっちゃけ、今日も大本営から、主力の加賀をもっと出撃させる為にもとっととつがいを見つけさせろって手紙も来たから、俺としては加賀にはさっさと君とくっついて欲しいよ」
「だったら」
「でもね、赤城。俺は『君達』に幸せになって欲しいんだ」
言い募る赤城に、提督は言葉を被せた。真剣な顔。それを直ぐに崩し、彼はいう。
「お互いに、もう少し落ち着いた時期に、納得ずくで話し合いなさい。加賀は、多分、自分に自信がない。コンプレックスを持っているよ。ヒートなのを隠してまで出撃を請け負った時に、そういう印象を受けた。オメガにはよくある事だ。だから、そういう不安を解かしてやらないと。本能で結びついてるつがいでも、心が通じてないという場合は往々にしてよくあるからね。彼女は、自分が欲しいという理由を、明確に言葉で欲しいんだろうから」
「………………はい」
赤城は、頷いた。提督にいわれるまでもない。彼女もわかっていた事だった。
だから、好きになった。――オメガのフェロモンで、つい、我を失ってしまったが。
すっかり落ち着きを取り戻した赤城は、壁に凭れる。窓の向こうでは、相変わらず夜空と海が広がっていた。息を漏らした赤城は、同様に息を吐く提督に苦笑する。提督は、よく見れば肩で息をしている。そういえば、食堂に来ていた。慌てて追ってきたのだろう。風邪気味なのに申し訳ない事をした、そう思いながら彼女はいう。
「貴男が、ウチの提督でよかったですよ。加賀さんがここに配属になったのは、屹度、貴男がオメガだったからでしょうね」
「それは俺も思ったよ。多分、そこだけは大本営の温情だろうね。士官学校にアルファの男が多いんだ。鎮守府の司令官になるようなのはいわんや、って事だ。だから、赤城。加賀を大事にしてやんなさい。大井と北上みたいにスムーズにくっつけとはいわないよ。君達につがいを失わせるような真似も、させないから」
「期待してますよ、提督。……あとで、LINEで加賀さんに謝ってもいいですかね」
「そうしなさい。いっておくけど、くれぐれも加賀に無理をさせるんじゃないよ」
「はい。ところで提督」
早速、懐からスマートフォンを取り出す。その赤城を見届けたのち、元来た道を戻ろうとする提督に、赤城はいった。人の悪そうな笑みで。
「人の恋路に首を突っ込むのはいいんですけど、ご自分のはどうされたんですか。日向さんとは違うんでしょう、どうなさるんです」
「口を慎もうか」
先程の加賀よりも、その声に拒絶の意志が固かった事は――記すまでもない。マスク越しの顔が嘗てない程恐ろしかった、とは、のちに加賀とめでたく同室になった赤城の語るところである。
本当は、為人にも惹かれていた。彼女の剥き出しの本能にすら、怯えつつも、恍惚とした。ただ、それを認めたくなかっただけだった。
(恥ずかしい……)
自室で、ヒートの時期特有のほてりのはじまりを自覚しながら、加賀はまだ薬を飲む気になれずに膝に顔を埋めた。
End.