スコルピト・C・ラスコータ先生の浮遊感 作:ランタンポップス
秋の夜は早い。夏頃なら、まだ陽の明るい時間帯のハズなのだが。
暗がりに落ちて行く道すがら、ラスコータはそう考えていた。
頭に乗せている忘れかけていた帽子は形崩れの、ゴタゴタとした中折れ帽子だった。自身の頭より少し大きめのサイズなので、余った部分が後頭部を覆うように、落ちている。
それだけにツバも広く、十分陽の光から目を守ってくれる事には申し分ない。言えど今は五時半過ぎ、陽の光も次第に弱まるトワイライトの刻なのだが。
「…………」
ツバの下で見え隠れする、彼の目はさしずめ、鷹を警戒する小鳥のような風と比喩出来るだろう。何に怯えているのせよ、頻りに彼は道行く人々の顔や背中に視線を行ったり来たりと飛ばしていた。
彼はとてもナイーブで、その実人間苦手な内向的性格の人である。「誰が襲ってくるのでは」と言う、漠然とした恐怖を心の底に置いて、生活しているような人間だった。
「……五時、三十二分……」
ポケットから取り出した懐中時計の蓋を開くと、さっさと時刻を確認して懐に戻す。
時間を確認した彼は少し、焦ったように表情をゆがめ、歩幅を広めて足を速めた。
「……三十分かかるよなぁ……隣町だもんなぁ……タクシーでも呼ぼうかな……」
ブツブツと、ぼやきを入れては石畳の街路を歩いて行く。
この時間ともなると、酒屋が本格的にオープンする。例えば、昼は喫茶店で夜はバーにするなどの営業方法をしている店がここらには多いので、見渡せば酒場の街並みとなっている。
仕事を終え、家に帰る前の一杯を楽しみにしている労働者も多く、銘々が酒屋の扉に消えて行く。何人も何人も何十人も。
そう言えばこの前、二日酔いを重病と間違えて来院した患者がいたなと、ラスコータは思い出し笑いをする。
「ははは……あっと、衆目衆目……」
笑いで開いた口を押さえて、通りを見渡した。誰も彼に、怪訝な目を向ける人はいなかった。
彼は思い出し笑いを抑えられないタイプである。
風が冷たく、枯葉がそれに乗って街を流れて行く。ふと、目前に枯葉が飛びかかってくるものだからラスコータはビクリと、肩を震わせて帽子を前方にツバを落とす。
枯葉は顔面に当たる事はなく、もっと言えば彼に当たる事もなく、悠々と泳ぐ魚のように空中を舞って飛ばされて行くのだった。
これらを眺める事はしなかったが、彼の強い警戒心にはかなり線に触る出来事だ。
「……秋が来る」
秋が来れば青葉は散り、冬の殺風景に成り下がる。
当たり前の事象であり、変わる事のない普遍である事だ。しかし季節は、彼の心にシンクロを起こすように彼の感情を落とすのだろう。憂鬱な寒さが、彼の元へとやって来る事を想像するのならば、世界から逃げ出したくなる。
「…………」
ある虚無感が彼の心を満たした。
虫食いのように穴だらけになったようだ。そしてその穴を、秋の冷たい風が我が物顔で吹き抜けて来る様はとても冷たい。
一旦彼は、立ち止まった。
立ち止まった所は、三人の主婦の井戸端会議手前。
盗み聞きではないが、必然的に彼女達の会話が耳に入る。
「あたしねぇ、二人目を妊娠したのよ」
そんな事を言ったのは、マフラーを首にかけた若い女性であった。
ラスコータは産婦人科の先生ではないものの、医学的な立場にいる以上『妊娠』のワードに反応してしまい、チラリと主婦達を横目に見やる。
まだ妊娠数ヶ月なのだろうか、ふっくらとしたような雰囲気は見受けられない。
注目するラスコータに気付く事なく、話は続けられた。
「でもこのご時世でしょ? 旦那の収入を見ても、とても育てていけるか分からないわ」
「確か、最初の子は七つだったかしら?」
「そうそう、まだ七つ。これから学校もあるだろうし、出費がかさむのよ。先行き不安って感じ」
「まぁ大変! でも分かるわその気持ち。私はまだ子ども一人だけれど、お金がかかるのよね」
妊婦の女性に共感の声をかけたのは、布を肩に巻いた女性である。
その二人の女性の話を静かに聞いていたもう一人の、年長と思われる女性が口を開いた。
「大丈夫よ。子どもは言わば、私たちへの保険のような風よ」
「へぇ、保険!」
「近々子ども一人当りに幾らかのお金を支給する制度を導入する、しないの話じゃない? その為にも、子どもは多い方が良いわ。それに老後助けてくれるのも子ども達なのだから、色々と必要よ」
年長者の女性が話す言葉に、妊婦ともう一人の女性も賛同するような姿勢を見せた。
「確かにね。一人前になるまで育てる事は、私たちの為にもなるのよね」
「その通りよ。このご時世、老後への不安の方が強いじゃないかしら? だからこそ、子どもは保険なの」
得意げに話す年長者の女性。
これを聞いたラスコータは、心底嫌な気分になってしまう。何かこの親たちに物申しなやろうかとも、性格に似合わない血気盛んな感情を湧き上がらせたのだが、三人の内の一人と目が合ってしまい、我に返ってその場を早急に後にした。
「…………」
道を歩きながら、ラスコータは蟠る胸糞悪さをどうやって取り除こうかと思案している。
あの母親たちの会話に、愕然としたのだ。どう考え直そうとも、耳に入りて脳に張り付いたあの母親たちの話と言う事実を捏造するなどは、した所で気休めにしかならないと、絶望してしまった。
「……何が、『子どもは保険だ』……だ。これから世界に生まれて来る子どもは、親の貯蓄財産って訳なのか……」
彼を苛立たせたのは、あの母親の悟ったような表情。「私、凄い事を話しているわ」と言わんばかりの得意げな表情。
澄ましていながらも自信を持ったあの態度が、彼の神経に触れる事となったのだ。
「未来ある子どもの……全てを奪って行くのは……いつだって大人だろ……政府と親と、その他大多数の大人の…………」
ラスコータは独り言として、あの母親たちにぶつけたかった持論を呟くように吐き出した。
「子どもは親に背中を押され続け、見るもの遮られて、気が付けば『親の望んだ自分』になってしまうんだ……職に就いて、給料で親を援助して、余った金は政治家のポケットに仕舞い込まれ……大人は子どもに集るだけ集って夢を食い潰し、最後は自分の老いた体を世話させるまで子どもを使い潰すんだ……確かに保険だ。だが束縛だ。学校とか、結局は夢は食い潰される物だと知っていて、何で夢を見させようとするんだ……おかしいんだよ…………!」
帽子の下にある彼の形相は、みるみると怒りに歪み始めている。歩幅も更に広がり、歩き方も幾ばくか乱暴なものへと変化している。
「じゃあ、愛のある親に生まれた子どもはどうなるって? 簡単だ、他人が潰しにかかるんだ……えぇ? 人を突き落とすのも他人で、人を壊すのも他人だろ? そうなんだ、結局人は、敵の中に生きて行くんだ……強くない奴が悪いとか言うが、初心の状態から突き落とす奴らが何を言っているんだ……! 他人を自身のエネルギーの捌け口にする奴らが多過ぎるんだよ、この下卑た世界は……!!」
独り言ならとても饒舌な、彼の持論。
呪文のように出されるその言葉ひとつひとつ、勿論だが誰の耳にも届かないし何も変える事も出来まい。だがそれは、人嫌いの彼だからこそ、人には言えない自分の精神を、他でもない『自分』に説いているのだ。
自分で見つけ、自分の中で遊ばせるのが彼の独り言である。何も変わらない世の中で、自分だけが変わっていたかったのだ。
「子どもは保険と言うような親は、子どもには『愛』と称したマインドコントロールを施すのだろう……いや、もしかしたら案外、『あれやれこれやれ』で早い内から使い潰すのだろうか……あぁ、いつからだこんな、腐った欲望が皆の心に芽生えたのは……誰しもが夢見る純粋な子どもだったハズじゃないか……!」
一頻り呟いた後に顔を上げると、誰かとぶつかった。
ぶつかった、と言えどもラスコータには何ともない。そして衝撃もそれ程でもない、言うより衝撃は膝の辺りしかなかったのだが。
ハッと我に返り、上げた顔を下に落とした。
長く、少し汚れた髪を石畳に投げ出して倒れる幼い少女の姿があったのだ。
「……イタい……」
少女はそう呟き、体を起こした。手にバスケットを持っており、それが彼女の手を離れて地面にひっくり返っていた。中身は数本の花で、彼女は花売り少女であったのだ。
「…………!」
あんな持論を馬鹿みたいにぶちまけていた矢先に、この出来事だ。通常受ける罪悪感を、上乗せした状態で彼は重く受け止めてしまった。
「あ、あの……す、すいま……せん……!」
少女はオドオドと取り乱し、立ち上がろうと膝に力を込めた。怒られると思ったのだろうか、少し表情に影が覆っているように見える。言う所の、泣きそうだった。
そんな彼女にラスコータは腰を曲げて屈み、手を差し出した。当の本人は、呆気に取られたかのようにラスコータの手と顔を交互に見ていた。
「え?」
「……ぶつかって、ごめんね?……痛かったかい? 余所見をしていたものだからキミにぶつかったんだ、許して欲しい……ほら、手を取って。立ち上がってご覧?」
握ろうか握らまいかと躊躇した少女だが、ラスコータの優しげな声を信用して手を握った。
手の平に乗った小さな、冷たい手をラスコータを柔らかく握り締め、少女の腕を引っ張り上げて立たせてあげる。
「怪我はないかい? あるなら包帯を持っているけど……」
手を離し、本職である医者らしく彼は、怪我の有無を少女に尋ねた。
ラスコータはいつも、一巻きの包帯をコートに常備していた。無い事を祈りたいが、何かの事故に遭遇した時に怪我人を手当て出来るのは技術ある者なのだから。
特に医大のある教師が他人奉仕を強く発言しており、包帯の常備を授業中に何度も呼び掛けていたからだ。ラスコータは内科医なのだが、止血法に人工呼吸など応急処置の方法は心得ている。それが必修と言わんばかりに、教え込まれたからだ。
「あ……大丈夫です……」
だがこの子には必要ないみたいだ。穿いているスカートの、尻餅ついた所を手で叩いている所だった。必要以上に痛がっている様子は見えなかった。血も見えないし、「怪我はさせてなかった」と彼はホッと一息吐いて安心を表す。
重い罪悪は、少しだけ消滅してくれる。
「……お花、売っているんだ」
しゃがみ込んでバスケットを拾い、落として散らばった花をそこに放り込んで行くラスコータ。彼のその行動を見た彼女は、とても嬉しそうだった。
「……うん」
元は人懐っこい性格なのだろう。ラスコータを信用した少女は、自身も路上に落ちた花を拾って行く。
花は、白い花弁が垂れるように落ちており、その内側には白のキャンパスにペンキを垂らしたような、鮮やかな紫色が斑点のように広がっているのだ。
ラスコータはこの花を知っている。
「……『クレマチス』だね。秋咲きの状態だ」
近所の教会の裏に、園芸用のクレマチスが生えていたのを思い出した。
蔦を絡ませ、ステンドグラスの上部まで伸びており、無数の花を咲かせていたのだ。まるで天界を指し示しているかのような生え方をしているので、専ら好評であった。園芸に興味のないラスコータでさえも、耽美に咲くそのクレマチスを見て感動を覚えた程だ。
「うん……」
「何処に生えていたの? とても綺麗だ」
「……お家の裏に生えてて、お母さんが何本か取って、私に『売って来なさい』って」
「…………あぁ、そうかい」
さっきの母親たちの会話が弓矢のように彼を貫き、走馬灯のようにフラッシュバックした。ラスコータは一瞬だけ息を詰まらせ、表情を歪めたが、俯く事によって少女にその顔を見せないようにする。
再び見上げてみれば、少女のキョトンとした顔が目に映った。
丸い真珠の綺麗な瞳をクリクリとさせて、ラスコータの顔を見ている。とても純粋な、綺麗な瞳だ。
自分が放った論が、一言一句脳裏に浮かぶと、いたたまれない気持ちに苛まれる。その純粋な瞳から、ラスコータは逃げてしまいたかった。
ラスコータは財布を取り出した。
「三本、買うよ……お幾らですか? ミス?」
少女の心底嬉しそうな、明るい表情が一人の医者に向けられる。それはまるで、雪解けを待っていた花の芽とも雲間を抜けた太陽とも形容出来るような、暖かな光であった。
手の中には、少女から買ったクレマチスが三本、乗っている。
三本ともの茎の部分をつまみ、クルクルと回してみる。それはオートマタオルゴールの、音楽に合わせて回るバレリーナの人形のようで、とても優雅に見えた。
「……ふふっ」
こんな事思うのも柄にも無いなと、自嘲気味に笑ってみるが、花を回してみるのも面白いなと感じていた。
男な上に三十路の手前、更には廃れた風貌の医者……とことん、自分に対して花は役不足とでも言っているだろう。また、自嘲気味な笑みが零れる。
しかし、あの時感じたヘドロのような胸糞悪さは無くなっている。少女の笑みが、少女の花が、彼の気分を持ち上げてくれたのだろう。
少しだけ、彼は気分の良い状態であった。
「……あ」
ふと気が付けば、ある店の前。
店、とあるのだが、新しい店のようで開店していない。近々、オープンする旨を入り口前に置いてあるボードが告知してある。
看板も何もないので、飲食店になるのか印刷屋になるのか分からないが、ラスコータは何だか胸が踊る気分であった。
「……どうぞ」
そのボードの上に、クレマチスを一本お裾分け。
風で飛ばされぬよう、ボードの骨組みに挟むようにして据え付けた。チロチロと揺れる花弁を見て、何とも言えない気分となるのだが。
「…………遅れるぞ」
眺めている暇はない、約束の時間に刺し迫ろうとしていたので、ラスコータは目的地の方へ体を向けるとダッと走り出した。
石畳に靴底が思い切り当たる、甲高い音を鳴り響かせて、夜に染まる街をひた走るのだった。
そのすぐ後、店の扉が開き、誰かが現れた。
ボードの上にあるクレマチスに気が付き、それを手に取るのだ。
ランタン型の街頭がポツポツと照って行く、夜は始まる。
イマイチ、『奴隷との生活』の時代と地名が把握出来ないべ……
私個人としましては、近代ヨーロッパや思うんですがね。分かんないですけど。
イメージとしましては、十九世紀中頃が良いですかね。