スコルピト・C・ラスコータ先生の浮遊感 作:ランタンポップス
レストランの熱気から逃れてみれば、落ち葉が満ちた街の街路。
街灯の明かりに誘われるように、フラフラとした足取りで歩いて行く彼はさしずめ、呑んだくれのようにも見えてしまう。実際は、受け止めた現実を心の底でどう変換し、考え直そうかを必死に思案している訳だが。
彼は何もない、空っぽの人間だった。
寂しいままの人間だった。
人は自覚せんままに孤独を生きている分は、何ともないであろう。
しかしひと度それを自覚してしまえば、不可解な悪夢の想起のように、ずっと想い悩ませる事になってしまうのだ。
「……ジョニィめ……」
言えど、想起要因を恨む事は御門違いである。
これは医者としての能力に、それ以前に人としての技量に強く機能する事だとは分かっている。だからこそ彼は「医者に向いていない」と強気に発言したのだろうに。
だがその自覚を受け入れる程、ラスコータは寛容で率直な感情を持ち合わせていないのだった。
「…………」
前時代の、観光用馬車が隣を走り去って行く。栗毛の雌馬が、豪奢な黒の箱馬車を引いて道路に消えた。
舞い上がった風が帽子とコートを靡かせて、ラスコータは飛ばされぬようにと前屈みになって風を受ける。一瞬の風は彼の細胞に濾過してくれるものなら良いが、体の奥に引っ掛かっている黒いモノはどうにも溶けてくれやしない。
「……ふぅ……」
コートの内ポケットを弄り、花売り少女から買った二本のクレマチスを取り出した。
だが、指の隙間に茎を挟んだクレマチスは、一本だけである。
「あれ?」
再度ポケットを大きく探った。無いとは分かっているが、外ポケットもズボンのポケットも全て手を突っ込み、大々的に搜索するのだが、財布に糸くず以外は、何も手に入らなかったのだ。
「……落っことした?……何処で?」
さては、知らぬ店にお裾分けした時、実は二本やったのでは無いかと疑った。暗かったから、良く見えなかったのではと思った。
しかし彼は記憶力の良い男だ。その時間まで記憶を遡り、意識世界で確認してみるのだが、やはり一本だけだし、レストランでも二本ある事は確認していた(触感のみだが)。
ならタイミングとしては、大急ぎでコートを脱いでいた時だろうか。あの時は周りと、会話していたジョニィへと意識が向けられていたから気付かなかったのだろうか。
すると、ジョニィの足元にでも落ちているのだろうか……あのような店は落ちた花を見つけ次第、ゴミとして回収するから、今頃裏手の収集箱に放り込まれている頃だ。
「…………一本……」
手の中に残った、最後の一本を摘み、最初の時のようにクルクルと回した。
ポケットに入れていたせいか、ややげんなりしてしまった。回してみても、前のようにオートマタのバレリーナのような華やかは再現出来ない。風に吹き荒んだ岩礁のような、廃れて行く今の自分を表現しているようだ。
少女の顔は……花を買ってあげた時の表情を思い出す。とても輝いた、太陽の笑顔であった。
あんな笑みが自分には出来るのだろうかと、口角を持ち上げてみれど、客観的に自分の顔を想像して虚しくなる。レストランのウェイターのやうな、業務的な笑みさえも作れない。
もっと思い返せば、今日最後の診察の時。
患者である少年はずっと、怯えたような目を向けていた。「人見知りな子だな」と言う訳ではない、怖がられていたのだ。
確かに自分は、人間的な観点から見たとしても、本当にもしかしたら医者に向かない人間なのかもしれない。
少女からの花を買った時の自分と、ジョニィと話していた時の自分は笑っていた。
少女は自分に、最初こそそうだが深い怯えを見せなかった。
そう考えると、あの時の自分は何者なのかと、一種の解離性的な幻想にまで陥ってしまう。もしかしたら自分は二人の人間がいて、人好きな自分が無意識の底辺に抑圧されているのではないか。そんな妄想が、頭の中でペンキを塗りたくるように染まるのだ。
「あぁ、違う違う違う違う…………考え込むと、変な道へ逸れてしまう……この癖さえなければ、僕は……僕は……」
クレマチスを持ち、熱病持ちのようにふらふらと熟考して歩く自分を思い浮かべ、羞恥心を原動として思考の鎖を断ち切った。
気付けば街の端へと来ており、石橋があって麦畑の広がる所まで来ていた。
都会と田舎の境界線、繁忙と閑静のライン上。今の自分には、『二人の自分』の中間に立っているような想像でこれらを見ていた。
「…………」
振り返れば、綺麗ながらも忙殺の猟犬に追われる無機質な夜の街。
向き直れば、澄んでいながらも原初の恐怖を纏った闇の世界。
朝なら景色も変わるだろうが、自分には到底太陽は昇らない。明けない夜とは、自分の心であるのだと、諦念していた。
「……教会があって、裏手にクレマチスがあるんだ……石壁を這ってステンドグラス上まで蔓を伸ばした様は、天国を指し示すみたいで優雅なんだ……」
独り言のように、ラスコータはそう呟いた。
見てみれば、麦畑の奥に灯りを点けた教会が見える。安息日である明日日曜日にある『ミサ』の準備をしている頃か。その教会こそが、彼の言う素晴らしいクレマチスのある教会であった。
「……神様なんていないし、天国なんてない。神は僕を、独りぼっちにしたいんだ」
夜風に当たろうかと、石橋の上を歩いてみる。
古い橋だ、石と石との間には青緑の苔が詰まっており、夜の闇とも相まって深い黒を強調させた色をしていた。下には湾曲してホール上になっている土手となっており、その中心に線をピンと引くようにチロチロと小川が流れている。
最近追加された、鉄の手摺に寄り掛かり、黒い川を覗き込んだ。
低い橋なので、自分の顔が川にぼんやりと写る。
鏡を見ると、自分の欠点ばかりが目に付く。自分の顔で、良い所なんか無いとも言えるように欠点ばかりに目がいってしまう。
だから自分の顔を見たく無い一心で、鏡を覗くのが嫌いだった。今もそんな気分だ、見ろ、あの情け無い顔をと、自虐思考になっている。
「…………」
川面に波が立つ中で、グニャリと歪んだ自分の顔。それがまた余計に、自分が醜形だと認める要因となってはいた。
こんなに窶れた、廃った人間が、何故医者としていられるのか。もっと自分でもより明るくて、人好きな人間がなったって良かったではないか。
じゃあなんで自分は、医者になった。志していた訳では無かったではないか。
決めたのは親だ、進んだのは自分だ。なら悪いのは親か……そうではない。反抗期さえ許さない、厳格な父が指図する道を引かれるように歩んだ、自分のせいではないか。反抗して放蕩して全てを消し去る事さえしなかった、染み込んだ生真面目気質が遊戯と欲望を掻き消したのだ。
自分は聖者も羨む無欲者だ、だが誰にも好かれぬ無欲な嫌われ者だ。
「……嫌な気分だ……」
帽子を深く被り、泣き出しそうな表情を折り曲げるようにして我慢する。
その内に、体が何故か震え出した。寒い訳ではない、泣きたい感情が行き場無くして暴れているのだ。
「今夜は……眠れない……なぁ……」
何であの時、ジョニィの話を適当に流す事が出来なかったのか。それで有耶無耶にしたのなら、今頃気分は楽だったのに。いや寧ろ、それを適当に、と思えるのならジョニィからの忠告はかからなかったろうか。
それなら今頃楽しく、昔の事を語らいながら仔羊のローストと魚介のスープを食べていたのだろうに。全てぶっ壊したのはジョニィではない、自分だ、彼はラスコータの傷心を見て必死に謝罪してくれていたではないか。
「眠れない……眠れない……」
手摺に腕を乗せ、祈るような姿でクレマチスを握り締め、フルフルと震えた。
彼は眠れない事が怖いのだ、悪夢を恐れているから。この気分のまま、夜を越すなんて、途方もない拷問のように思えたのだ。
「この、意地っ張りが……! いらないプライドを、妙な所で突沸させて……!!」
泣きそうな気分を、手摺の上で項垂れて抑え込もうとした。
溢れかけの鍋に蓋を被せはしたが、火を点けてしまって沸騰寸前だ。体内から突き抜けんとする悲壮の気泡が『泣きたくない』と抗う彼への強い負担となって、重なって行く。
静かな川のせせらぎと虫の声、風に靡く麦の擦れる音が秋の夜に調和を取り込もうとしているかのようだった。
自然は心情と無関係に、そして穏やかに過ぎて行く。そんな夜だ。
「うぅあ……」
「ひっ!?」
突然、この世に現れたかのような風に男の低い唸り声が聞こえた。
小心者のラスコータは項垂れた顔をばっと持ち上げ、怯えた目で闇の中に声の主を探し出そうとする。
その時は無意識に、持っているクレマチスを内ポケットへしまいなおしていた。
「…………」
ラスコータは神経を研ぎ澄まし、夜の石橋でジッと佇んでみる。こうする事によってあたかも自分が、夜闇に溶け込み、一体化したような気分でいられた。
そのまま唸り声を聞き取り、誰が発したものかを特定しようと躍起になる。この不気味な事態に対し、心の平穏と合致を彼は求めていたのだ。「なんだ、ただの空耳か」と安堵させてくれる事を願っていた。
暗闇の中、息を殺して次の声を待つ。
それは一分もしない内に再度、ラスコータの過敏な鼓膜を震わしたのだった。
「あぁ……ぐぅ……ッ」
消え入りそうな、苦痛に歪んだ声。
心に悲しみを起こさせるような、空耳ではないとてもリアルな悲痛の声。それは橋の下より聞こえて来たのだ。
「……だ、だ、誰かぁ……い、いるのですかぁ……?」
恐怖を押し込んだような絞り出した声で、唸り声の主にラスコータは呼びかけた。
明確な応答はない、しかし代わりとして、一際大きめの呻き声がやはり土手の方からやって来る。
「ぐぅぅ……!……ッはぁ、はぁ……はぁあッ」
喘息のような、断続的な呼吸音。
それが続いてくれたお陰でラスコータはとうとう、声の主を石橋から探し当てられたのだった。
川の土手の隅に、枯れかけの葦の群に覆い隠されたような様子の、黒い塊が見受けられる。
最初は夜の影が見せた幻のようにも捉えられたのだが、良く良く目を凝らしてみれば、地面にうずくまるようにして倒れる人の形であると確認出来たのだ。闇に目が慣れ、輪郭を人として捉えられる程になった頃ではないと、見落としていた事だろうに。
「人が……あぁなんてこった、人が倒れているぞ……!」
暗闇に視界が掬われ、踏み外してしまったのか。堤防から土手までの高さは、何て事はない、小学校高学年の子どもなら難無く上がって来られる程は低い。しかし医者として見れば、その高さであっても「頭をぶつけたのかも」や「石があって、強く当たってしまったのかも」と、絶対安全では無いと色々と分析出来た。うずくまり、苦悶の声をあげていればそう思う。
血が出ているかなどは、ここからの距離じゃ全く確認出来ないが、何故かラスコータは下に降りるのを少し躊躇してしまった。
それは彼が、本当に自分以外なんかどうでも良いと考えた上の、冷たい個人主義的な考えからでは無い事は、彼の性格から判明するだろう。
とどのつまりこの躊躇とは、「行っていいのかな」と言う、指示待ちとも言うべき強迫観念に似たようなものだった。
「……い、いや! ぼ、ぼ、僕は医者なんだ……!」
頭を振り、投げ捨てるように強迫観念を払い退ける。
これこそが、「自分は医者だ」と深いアイデンティティを確立出来たからこその変心だったのだ。
すぐさま彼は飛び込むように石橋から飛び降り、土手の上へとよろめきながらも着地した。
「だだだ……大丈夫ですか……!?」
急ぎ、倒れている人へ近付き、どのような風貌なのかを確認した。
ブラウンのコートに、これまたブラウンの中折れ帽子。見た目は何処かの探偵のようでも、商人のように見える、お世辞にもお金持ちといった感じに見えない、地味めな男である。
腹部を押さえて痛がるように体を捩じらせている事に気が付いたラスコータは、腹部に何らかの衝撃を受けたものだと推測した。
「ぐっ……うぅぅぅ……!」
「お、お腹ですか? ぶぶ、ぶつけま……ぶつけてしまいましたか……!?」
まずは傷口の箇所と具合の確認だ。
口下手ながらも、言葉を厳選しながら語りかけつつ、何処にどんな傷が出来ているかと腹部に手をやった。
ぬるりとした、生暖かい感触。
唐突の感覚に驚いたラスコータは思わず手をひっこめた。何に触ったか、良く分からなかった。
しかし微かに匂うは、鉄の香り。
ラスコータは自身の手のひらを見て、「あっ!」と声をあげる。真っ赤に染まっていた、男は尋常ではない程の流血をしていたのだ。
「あ、あ、あ、あなた……えと、ち、血が出ている……のですか!?」
これは只事ではないぞと、傷口を良く見てみようと正面に向かせ、腹部に目を通した。
服は絶えず流れる男自身の血に赤く濡れ、夜の闇の中でテラテラと鈍く光っているようにも見える。それは、月明かりを写す川面なような、自然的な光りであった。
だが、落っこちた拍子に怪我をしたのかと思えば、傷口の範囲が狭い事に気が付いた。細く、深い傷口が男の腹部にあり、多量の流血を引き起こしているのだと考えたのだ。
そうするとどのような傷かと、知識を回してみれば……ラスコータは、これは事故では無い事を悟らせるのには十分な事であった。
「さ、刺されました!? あ、あなた、誰かに刺されたのですか……!?」
明らかに他者によって与えられた怪我であると断定出来た。
言うのは男の怪我が、土手から落ちた事など自然的要因で発生するには不自然なものだったからである。明らかに、何か鋭いものが勢い良く彼の腹部に突き刺されたような、人為的なものだ。
その他自然的要因を考えていても、葦が人の体を突き破るなんて出来やしないし、麦だってそう。まさか空から落ちて来て、木の枝に突き刺さった訳あるまい。だからこそこの怪我は、自然的要因ではないと判断出来たのだ。
とすると、誰かに襲われたのだろうか。これは事件ではないのか。
「……って、今はそんな事どうでも良いってのに……!! お、応急処置しなきゃ……!」
男の顔は青白い上、ラスコータの呼び掛けにも応答の意思を見せない。それほど酷く、衰弱しているのだ。
「え、ええと……ほ、ろ、ほ、ほ、ろ……ほ、包帯っ!」
コートの裏にある、クレマチスの入った内ポケットとは別のポケットより、包帯と厚い布を取り出した。教授の教え通り、いざと言う時の為に所持していた包帯と、圧迫用の布である。
「だ、大丈夫です……大丈夫大丈夫……ちょっと包帯は清潔とは言えないかも……ですが……!」
包帯をピンと伸ばし、出血点を押さえるように厚く硬い布をあてがって巻いた。圧迫止血の方法としては、包帯オンリーよりも効果のある止血法だと聞いている。
二回……三回と巻き、強く、されどキツ過ぎず包帯を巻いた。血流を止める事が止血法ではない。
「大丈夫……大丈夫……」
彼は処置の最中、何度も何度も「大丈夫」と繰り返していた。
これは、患者への呼び掛けのようだが、半分以上の意味では自分への呼び掛けとして、必死に呟いている。
「……僕は、医者なんだ……大丈夫、きっと大丈夫……!」
最後は包帯の端と端を結び、固定完了。これ以上の流血は、何とか防げただろう。
「一先ずこれで、血はせき止められたと思う……けど」
しかし、この男はかなり失血しており、意識も混濁状態だ。早く近場の病院へ連れて行き、輸血に傷口の縫合をして貰わなければならない。更には感染症の可能性も否定出来ないので、抗生物質の投与も必要だ。
男を救うには、何としてもちゃんとした設備と、腕の立つ外科医が必須。内科医のラスコータは手術が出来ないし、何より今この場でやれる訳もない。つまり、男を担いで街に入り、病院を見つけなければならないのだ。
「え、えぇと……事件性もあるから警察にもいかな…………だから今は、この人を救う為だって!」
自分の事なら深く考えられるのに、他人の事ならその熟考は鬱陶の極み。
反省した彼は早速、男をそぉっと抱きかかえ、背中に移して背負う。あまり力に自信がないけれど、何とかなる重量であると確認すれば、早速立ち上がろうと足腰に力を込めた。
「せぇの……ん?」
膝が少し浮いた所で、ラスコータは誰かの気配を察知して中断する。
二人程の、忙しない足音。高級な革靴の底を叩きつけるような、あまり上品とは言えない足音だ。
しかしラスコータにとったら地獄に仏、夜分は滅多に人がこない郊外の麦畑に、助けを求められる人がやって来たのだから。
「やった……! 人が来たぞ……!」
これなら自分一人で運ぶより、もっともっと早急にこの人を救える。希望を見出した彼は早速、石橋で立ち止まった二人の人影に向かって声を掛けようとした。
だがそれは、二人の人間の話声が聞こえた事で、逆に発せられなくなるのだが。
「……あの野郎、何処か行きやがった?」
嗄れた男の声。誰かを探している。
そして相方かと思われるドスの効いた、震え上がりそうな声の男が返答する。
「ここは郊外だ。身を隠すってなら打って付けだろ」
「へぇ、そうですが兄貴……しかしあの野郎! まさかあっちも銃を持っていたとは!」
「あぁ、だが安心しろ。あいつ、何の拍子かで銃を落としてやがった……俺の撃った弾が当たったのかは知らんが、もう奴は丸腰だ」
暗闇の中で顔を覗かせるようにして響く二人の男の声は、ラスコータは二重の意味で震え上がらせた。
『ギャング』だ、ギャングに違いない。
そしてラスコータが今、背に乗せているこの男は、奴らと関係のある人物。しかもあろう事か、ギャングの敵と来た。
(刺創じゃなくて、銃創か……いや、そうじゃなくて、何だって!?)
冷や汗が止まらず、感じた事のない恐怖が彼の軟弱な心臓を無理矢理ペースアップさせたようだ。
読めて来た、この男は今、石橋にいる二人の男が敵対するギャングの構成員か、さては闇の商人に違いない。前者なら報復、後者なら何らかの交渉決裂により撃ち合いになった。
しかしこの男が腹部に弾丸を受け、命からがら逃げ延び、この土手へ身を潜めた所で力尽きたのだろう。
そしてそんな、得体も知れぬ男をラスコータは不幸にも見つけてしまい、処置を施したのだった。
(最悪だ……あぁ、何でこんな石橋で立ち止まったんだ! さっさと歩いて、真っ直ぐ家に帰ればよかったものを!)
己の悲運を嘆き、歯をガチガチと鳴らして恐怖に耐えた。
どうする。
この男を置いて、こっそり土手の影を縫えば、自分の命は助かるハズだ。奴らは目撃者へ粛清を入れるかもしれない、気付かれる事なく逃げなければならない。
だが何故かラスコータは、そんな事を一瞬でも考えてしまった事を恥に思ってしまう。
今の彼の脳内は、ある一言だけが木霊しているのだ。
「……ぼ、僕だって、医者なんだ……! 命を賭けるんだ、称号なんかじゃないんだ……!!」
小さくこう呟き、一生で一度も感じた事のないような正義感を強く掴んだ。何故こんな勇気が湧いたのかは、これから先の人生で考え続けても分からないと思われる程、降って来たような勇気であった。
彼はこの勇気で以て、男を担いだままゆっくり体を動かし、土手の隅に身を寄せた。ここは石橋の影がかかっているので、視界をくらますには丁度良い。
何も知らない二人の男は、石橋上から土手を覗き込んでいるが、伸びた葦がカモフラージュになってくれているので、ラスコータと目当ての男の姿を易々とでは目に出来ないであろうに。
「クソッ! 橋の下にいるのか!?」
男の一人が手摺を乗り出して捜索を始めた時、ラスコータはまさにギクリと体が震えて、折角得た勇気を手放しかけてしまった。それは何とか、押し留められたのだが。
「いたか?」
「……いや。おりやせんぜ、兄貴……クソッ! 忌々しい奴め!」
乗り出した体を、引っ込めた。
「ここは撃ち合った場所から、程々遠いだろう。もしかしたら案外、あの場所に近い所で身を落としているかもしれないな」
「フンッ! 運の良い奴だ! 見つけ次第、撃ち殺してやる!」
「おい、そんな事を大声で言うな! 聞かれたら厄介だろ!……人のいない郊外とは言え畑があるのだから、見回りの農民がいるのかも知れないだろう」
「すいません、兄貴」
「だが、俺は血痕を見つけていた。あいつの何処かの部位に、ヒットさせた事は確かだ。逃がすな、金を取り戻すんだ」
冷血な会話を済ました二人は、案外あっさりとその場を去って行った。
都会人は街の中にいたい性分なのだろうかと、変な考察をしつつも、窮地は脱した。人生で一番安堵した溜め息を、長く強く吐く。
「や、やった……! は、はぁ! は、早く行動を起こさないと……!」
汗を拭い、再度足腰に力を込め立ち上がる。
まずは男を土手から持ち上げ、次に自分が上がって土手を出た。さて、大変なのはここからだろうと、ラスコータは帽子を深く被り直し、覚悟を決めた。
「シルヴィさん、まぁだ時間かかりそうですかねぇ〜」と言う方。
そんな人は窓際行って……待て。失礼しました