かちこめ! 花子さん   作:ラミトン

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番外編     手紙のお姉さん

 外の空気は、何度吸っても酷く不味い。東京都心の雑居ビル群、迷路のように入り組む細い路地で、八雲紫は顔をしかめて濁った青空を見上げた。

 人の目に慣れすぎたスモッグが、紫の瞳にはしっかりと見えている。幻想郷のうまい空気を知ってしまった妖怪にとって、空中に散布されたあの汚物は、それだけで結界としての役割を果たすのではないだろうか、などと考えた。

 歩を進める。使われなくなったゴミ箱からは腐臭が立ち上り、どこからか迷い込んだ丸まっている新聞紙は、風雨に晒され文字が完全に読めなくなっていた。人の領域でありながら、人から――それこそ、浮浪者からすらも――忘れられた道だ。

 紫の足取りに迷いはなく、目的の廃屋を見つけるまで、そう時間はかからなかった。しかし、服には薄汚れた東京の臭いが染み付いてしまっている。

 

「……最悪ね」

 

 いつもならばスキマで訪れていたのだが、わずかに芽生えた東京を見学してやろうという気持ちに負けて、彼女は今日一日中東京を練り歩いていたのだ。しかし、灰色の街は彼女に何の利益ももたらさず、ただ悪臭が体を包むという結果になってしまった。

 次からは、またスキマで来よう。次回の気まぐれがいつになるか分からないが、その時の自分が今日のことを鮮明に覚えてくれていることを願いつつ、紫は廃屋に足を踏み入れた。

 廃屋には小規模の結界が施されており、人間にはコンクリートの壁にしか見えていない。妖怪しか足を踏み入れることが許されていないこの場所を、『妖怪生活相談所 東京支部』という。

 その名の通り、科学的進化を遂げていく人間に追いやられた妖怪が、新たな道を模索する場所だ。ここの係員も、妖怪として人を襲うことがままならなくなった者たちである。

 今日も、覇気のない顔をした妖怪達が、係員と向い合って座り小声でぶつぶつとやっている。その弱々しい後ろ姿に、紫はしかし、同情すらも抱かなかった。

 彼らの大半は、幻想郷に行くことを拒む。外の世界の妖怪でありたいという主張だけは、決して変えないのだ。

 

「無理もないこと、なのかしらね」

 

 外の世界に執着する妖怪は、若い。まだ生まれて日が浅い彼らは、幻想郷に住む妖怪達を見下している。曰く、人間に負けた者共の掃き溜め、逃げ場であるらしい。

 返す言葉もないと、紫は思った。妖怪の楽園と言えば体よく聞こえるが、彼らの言うとおり、それは逃げの選択肢ですらない。科学を恐れ、山に閉じこもり、さらに隔離したのだから。

 無論、それでいいとも考えている。紫が創り上げた楽園は正真正銘妖怪の世界であり、精神に重きを置く尊い空間だ。そこに暮らす人間達は、妖怪を恐れながらも共に生き、外の人間達よりも清らかな心を持っている。

 人に追われて己を見失った妖怪が、もう一度幸せになれる所。紫はその側面を大切にし、これからも小さな幻想郷を守っていくつもりだった。

 

 適当な係員を捕まえて、紫はある人物を呼び出した。二分ほどで、応接室に通される。

 建物の割りに立派なソファに座って待っていると、赤黒い顔に長い白髪の、牙を生やしたいかにも妖怪といった女性が、お盆にお茶を乗せてやってきた。

 

「どうも、毎度ご苦労様です」

 

 顔に似合わない愛想のいい笑みで、女性はお茶を紫の前に置いた。『トイレの花子さん』こと御手洗花子がここを訪れた時に応対した係員だ。

 外見だけなら紫より年がいっていそうだが、彼女は花子よりも若いらしい。生まれた時から、どうしてか相談所のセンター長になる教育を受けていたとか。現センター長が引退したら、彼女が後を継ぐそうだ。

 ともかく、紫はいつも通り、花子から預かっていた手紙を差し出した。

 

「では、お願いします」

「はい、お預かりしました。しかしまぁ、これで何通目だったかしらねぇ。あの子が元気なのはいいけど、宛名の子は返事も書かないのかしら」

「例え返事がなくても、花子は手紙を書くことが楽しいから、苦痛にはならないそうですわ」

「強がりだわねぇ」

 

 女性が豪快に笑う。確かにと、紫も思っていた。手紙を書く以上、相手からの手紙も期待しているはずだ。

 もう半年以上、花子から一方的に手紙を書き続けている。運ぶ立場の紫としても、太郎という少年のことはなんとなく気になっていた。

 紫に手紙を運ばせている張本人からも、頼まれたきり、連絡がない。その人物が花子の幻想郷入りを仕組んだようなものなのだから、一言くらい言伝があってもよさそうなものなのだが。

 

「……」

 

 軽く思考を巡らせ、本日中にやらなければいけないことを脳内に纏め上げる。結果、全部を式の八雲藍に押し付けられると判断し、紫は差し出したはずの手紙を手に取った。

 女性が訝しげにこちらを見る。紫はそれに、おどけるような笑みで返した。

 

「今日は、気まぐれが連鎖する日みたいですわ。手紙は私が直接、太郎少年にお渡しします」

「あらまぁ、そりゃ私らとしては郵送の手間が省けるからありがたいけれどねぇ。いいんですか?」

「えぇ、気まぐれですから」

 

 すらりと優雅に立ち上がり、女性から太郎の所在を聞いて、縦長のスキマを召喚する。

 スキマの縁に手をかけて、紫は彼女だけの特殊空間に右半身を沈めた。

 

「それでは、ごきげんよう」

「八雲さんも」

 

 女性の返事を受けて、全身をスキマに投じる。入り口が塞がれ、紫は別の――花子が最後にいたという学校へ続くスキマを、開けた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 夕刻を過ぎ、日が沈む。子供達が下校し、教員や事務員らも残りの仕事を終えて、帰路についた。時が夜中へ近づくにつれ、学校の静寂は次第に大きくなっていく。

 紫は、真っ暗な闇に覆われる三階の教室で、子供用の小さな机に腰掛けた。壁の時計を見上げれば、時刻は深夜手前だ。

 

「そろそろ、私達の時間ね」

 

 独りごちて、自分に施していた結界を解く。存在の境界を薄れさせることで、人間どころか妖怪からすらも気付かれないようにする、割りと頻繁に使う結界だ。

 学校に満ちる妖力は、やはり弱い。妖怪も幽霊も、その力が弱まっているのだろう。

 

「嘆かわしいこと」

 

 セキュリティが強化され、夜中に子供が忍び込むこともなくなった学校では、この時間になってから獲物にありつけることなどないだろう。

 もっともこの古い学校には、不法侵入者を警備会社に通報する装置は取り付けられていないようだった。それらの認識境界をいじる手間が省けたのは、紫にとって好都合だった。

 妖気が立ち込める廊下を、高級そうな靴底が叩く。足音が妙に響く中で、紫はふと、妙な音を聞いた。異音ではない、美しいピアノの音色だ。どれほど綺麗な音であっても、夜中の学校で聞く代物ではない。

 足を止め、耳を澄ます。切なく、ロマンに満ちたメロディー。有名すぎるが聞き飽きない名曲だ。

 

「……エリーゼのために。あぁ、生で聞くのは久々ね」

 

 呟いて、紫はピアノの音色がするほうへ向かった。音の発信地である音楽室には、学校が古いせいだろう、防音設備がない。

 そっと音楽室の扉を開けると、それでも気付かれてしまったらしく、ピアノは止まってしまった。グランドピアノを弾いていたのは、黒いパフスリーブのワンピースを着た、ブロンドのポニーテールが似合う少女だった。

 

「あら、続けてくれてもいいのよ」

「久々に人間を襲えると思ったのに、とんだ見当違いだったみたいね」

 

 大人びているというよりは、生意気と感じる話し方で、流暢な日本語を喋る。整った西洋の顔つきで瞳も青いが、日本の生まれだろう。

 少女はピアノの椅子から足をぶらぶらとさせながら、わずかに釣り目がちな瞳で紫を眺めた。

 

「それで、あなたは誰? 学校の新入り?」

「お嬢さんのファンと言ったら、どうするかしら」

「やめておいたら? 私のピアノは、四回聴いたら死ぬわ。……ということになっている、ってだけだけど」

 

 少女の声は外見相応の愛らしい、しかしどこかガラスのように硬質なものだった。

 椅子から飛び降りて、少女は肩にかかる横髪をかき上げる。

 

「あなたも妖怪?」

「えぇ、その通りよ」

「やっぱりね」

 

 少女は澄ました顔で、色白な手を紫に伸ばした。

 

「クララよ。クララ・ピアニッシモ」

「八雲紫と申します」

 

 握手を返し、紫が笑みを浮かべる。だがクララと名乗った少女は、紫の名を聞いて眉を寄せた。

 

「八雲……紫? どこかで聞いたことのある名前だわ」

 

 握っていた手を放して、少女は唇に人差し指を当てて思案する。

 彼女と紫は初対面だ。太郎という少年が、手紙の内容をクララに話したのだろう。

 答えを教えてやろうかとも思ったが、クララがあまりに真剣な顔で考えているものだから、紫は待つことにした。

 数十秒ほどすると、思い出したのだろう、クララは目を見開いた。

 

「あ、手紙のお姉さん! たろちゃんに届いてた手紙に書いてあった」

「クララ、太郎という子とお知り合いなのね?」

「うん。でも、いつも手紙は別の妖怪さんが届けてくれているのに、あなたが直接なんて。花子に何かあったの?」

 

 彼女の問いはもっともだが、その顔に心配そうな影はない。むしろどこかツンツンしていて、冷たい印象を受ける。

 嫌悪ではない。ライバル意識とでも言うべきだろうか。クララは腰に手を当てて、青い瞳でじっと紫を見つめている。

 紫は肩をすくめた。

 

「花子には何も。私が直接手紙を届けに来たのは、ただの気まぐれですわ」

「……そう。あの子、元気にしてる?」

「えぇ。友達を作るのが上手なのね、花子は。みんなと仲良くやっているわ」

 

 ふと、クララの顔が曇る。俯き気味になって、目を細めた。

 

「そっか。花子は、初めて会った時からそうだったわ。何もしてないのに、みんなに好かれる子よね」

「人も妖怪も呼び寄せる、不思議な魅力があるのでしょう」

「きっとね。笑った顔が可愛いから、あの子。……いっつも、花子の周りは賑やかだったもん」

 

 ポニーテールを揺らして、クララはくるりと振り返った。小さな背中は、音楽室のドアへ向かう。

 

「本当に、いつも、あの子ばかり。たろちゃんも、花子花子ってさ」

「あらあら」

 

 子供らしい嫉妬に、紫は思わず微笑んだ。高飛車な雰囲気が漂うクララは、常に誰かと――特に、太郎と――一緒にいた花子が羨ましかったのだろう。

 自然と人の輪を作る花子への羨望もあるだろうが、幼いなりの恋心が、花子への対抗心をいっそう煽っている。なるほど、子供ながらに中々複雑な関係だ。

 廊下に出てから、紫は意地悪な質問を思いついた。ためらうことなく、口に出す。

 

「では、あなたが花子の代わりになればいいのではないかしら? 外見なら、クララの方が美人よ」

「……冗談じゃない。あの子の『代わり』なんてごめんだわ。そんなことで、たろちゃんの――」

 

 言いかけた言葉を、クララは飲み込んだ。紫からは彼女の顔が見えなかったが、声はとても苦しそうに聞こえる。

 

「私には、無理よ」

「あら、どうして?」

「たろちゃんもみんなも、花子がいなくなってから、元気なくなっちゃってるの。でも、誰もあの子を責めない。逃げた弱虫だなんて言わないわ。

 あれだけみんなに好かれていたんだもん、私なんかが代わりになれるわけ、ないじゃない。できることなんて、せいぜい、ピアノの音色で少しでも賑やかにすることくらいよ」

 

 花子のようになれないことに苛立ちながらも、自分にできることを見つけて実践しているクララは、大したものだ。紫はその賞賛を、口には出さなかった。安い同情でクララのプライドを傷つけるまで、意地悪を続けるつもりはない。

 階段を下り、二階と三階の間に位置する踊り場で、クララが紫へと振り返る。

 

「ねぇ、手紙のお姉さん。花子は、いつか帰ってくるの?」

「どうしてそんなことを聞くのかしら」

「……私としては、別にあの子がいなくても困らないわ。でも、たろちゃんが寂しそうなの」

 

 澄ました態度の割りに、素直な少女だ。もし花子が戻ってくればまた嫉妬に苦しむだろうに、太郎への純粋な好意が、自分の気持ちよりも彼の幸せを優先させているのだ。

 あまりの誠実さに、紫は不覚にも感動を覚えていた。誰かに恋愛感情を抱いたことはないが、それでも紫は女だ。恋慕の話に興味を持たないほど老いてはいないし、乙女の純情に心を打たれないほど冷徹でもない。

 せめてもの誠意を見せるため、いつもの胡散臭い微笑を消し、紫は真剣な心でクララと目を合わせた。

 

「原則として、妖怪であるならば幻想郷の出入りは禁止されていませんわ」

「じゃあ……」

「彼女が帰ろうと思えば、いつでも帰ることはできる」

 

 クララの表情が、明るくなる。この笑顔を消さなければならないことは辛かったが、彼女のためにも言わねばなるまい。

 静かにゆっくりと、紫は首を横に振った。

 

「でも、花子は『トイレの花子さん』という自分を見失って、相談所に行き、幻想郷を知った。相談所を頼るということがどういうことか、あなたにも分かるわね?

 あの子は郷に来る前から、学校の怪異であることを諦めてしまっていたのよ。諦めて、幻想郷に訪れ、新たな道を模索していた。そしてとうとう、見つけたらしいわ」

 

 見る間に、クララは顔色を変えていった。理解しているし納得もしているが、心が頷かないといった様子だ。

 追い討ちをかけるつもりはなかったが、結論を出していない。紫はクララを極力傷つけないよう、落ち着いた声音で言った。

 

「花子はもう、学校の怪談ではない。幻想郷に生きる、子供を怖がらせる妖怪『御手洗花子』。それが、あの子の目指す道だそうよ」

 

 今日届ける手紙を受け取った時、花子はそう、嬉しそうに語っていた。

 

「じゃあ……花子はもう、帰ってこないのね」

「そうかもしれないわね」

 

 クララの呟きに、紫は短く返した。

 怪談を降り、二階の廊下に出る。この階にある男子トイレに、太郎がいるはずだ。

 

「本当は、ちゃんと分かってたの。私がもっとがんばって、たろちゃんを元気にさせてあげないといけないのよね」

「お互い、心を削りすぎてはダメよ。妖怪が精神を磨耗することは――」

「大丈夫よ。私は花子と違って、しっかり者なんだから」

 

 特に何を言われたわけでもないのに紫をここまで案内してくれたクララは、素振りから何まで花子よりも大人っぽい雰囲気を持っている。花子が学校にいた頃は、彼女がこっそりサポートすることもあったのだろう。

 トイレの札が、近づく。そこでクララは踵を返し、紫に背を向けた。

 

「それじゃ、私は音楽室に戻るわ。また、ピアノを弾きたくなっちゃった」

「ここからでも、聞こえるかしら?」

「任せて。ちゃんと聞かせてあげる」

 

 顔は見えなかったが、クララは笑っていた。

 彼女のように心の強い妖怪がいるのなら、外の世界で生きる妖怪にも、まだ希望があるのかもしれない。

 階段へ向かう黒いワンピースを見送りながら、紫は一人、破顔した。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 男性用の札がかかれたトイレに足を踏み入れることに、紫は一瞬躊躇した。女性なのだから、当たり前なのだが。

 しかし、夜中の学校に人間の常識は存在しない。昼間に男子トイレとして認識されていたこの場所は、今や太郎という妖怪のテリトリーにすぎないのだ。

 そんな言い訳を心で呟きつつ、紫は恐る恐る男子トイレに踏み入れた。千年以上を生きようと、女としてのプライドはいつも邪魔をする。

 

「お邪魔するわ」

 

 冷たく湿った空気が満ちる空間を見渡し、男性用の小便器が目に入るや、ついと目を逸らす。妖怪の賢者とまで呼ばれておきながら、一体何をしているのやらと、紫は自分に呆れて溜息をついた。

 男子トイレの中には、花子と良く似た妖気が満ちている。太郎がどこかに出かけているかもしれないという可能性は、なさそうだ。

 

「太郎、姿を見せなさい」

「……誰?」

 

 返事はすぐに返ってきた。トイレの隅に妖気が凝縮し、少年の影が象られていく。固有結界に隠れていたのだろう。

 現れた少年は、黒い短髪と、青のシャツに短パン。花子同様、人間の子供に紛れてしまえば分からなくなりそうな妖怪だ。服装だけなら、花子よりうまく人間に溶け込めるだろう。

 太郎少年の瞳は沈んでいた。初対面でもそれと分かるほどに、輝きがない。紫が想像していた以上に、重症だ。

 

「花子の手紙を運んできたわ」

「いつもの人じゃないんだね。お姉さん、新しい人?」

 

 壁に背を預け、太郎は気だるそうに紫へ視線を向けた。

 

「今日も、返事は書いてないよ」

「そう。いいのよ、あなたの声がなくとも、花子はあなたが元気だと信じているから」

 

 分かりやすい含みを言葉に混ぜると、太郎は濁った瞳にわずかな驚きを滲ませ、

 

「花子を知ってるの?」

「えぇ、とても良く知っているわ。手紙を受け取る時、いつも素敵な笑顔を見せてくれるのよ」

 

 花子の今を伝える言葉に、太郎の表情が少しだけ輝きを取り戻す。手紙だけでは伝わらないものを、紫の短い言葉から感じ取ったのだろう。

 

「もしかして、手紙のお姉さん?」

「最近はよくそう呼ばれるわ。名前は、八雲紫と申しますわ」

「……そっか、あなたが、手紙のお姉さんなんだ」

 

 一転し、太郎はすがるような瞳を紫に向けた。その視線は紫にではなく、その後ろの、さらにもっと遠くにいる、花子に向けられている。

 彼の心にあるものは、恋慕の情か、それとも別の、もっと大きなものか。紫には分からないし、関係のないことでもある。

 

「さぁ、これを」

 

 手紙を差し出すと、太郎はおずおずと手を伸ばし、小さく「ありがとう」と言うと、そのまま封筒をポケットに入れた。

 この場で読まないのかと思っていると、太郎が顔を上げ、

 

「手紙のお姉さん。今、時間ある?」

「花子の話を、聞きたいのね?」

 

 花子の主観で語られる手紙だけではなく、第三者の言葉で花子の歩みを知りたいと思うのは、あの少女と親しい者ならば当たり前のことだろう。

 二人は、トイレの向かいにある教室に場所を移した。太郎は子供用の机に、紫は窓を開け、その縁に腰を下ろす。音楽室から届くピアノの音色が、耳に心地良い。

 

「さて、どこから聞きたいのかしら」

「できるなら、全部。お姉さんが知ってる花子のこと、全部教えてよ」

「あらあら」

 

 遠慮のない言葉に、紫は苦笑しながらも了解した。

 花子の手紙を届け始めた頃から、幻想郷で花子が歩いてきた道を丁寧に語る。話の中には手紙の内容と重なることもあるだろうが、太郎は真剣に耳を傾け、時折、言葉の一つ一つを噛み締めるように目を閉じた。

 幻想郷で彼女が出会った人物、手に入れたもの、失ったもの。想像は交えず、事実だけを伝えていく。新たな友情も味わった挫折も、紫は自分の感情を一切含ませず、花子の回顧録を読み上げるように話した。

 話を終えるまでとても時間がかかったが、太郎は相槌を打つこともほとんどせずに聞き入った。

 

「……手紙にもあったように、今滞在している紅魔館の面々からも、学ぶことが多かったみたいね。会うたびに成長しているわ、花子は」

 

 最後に自分の感想もつけて、話を締める。二時間ほど続いたが、あまりにも真剣に聞いてくれるものだから、紫も楽しくなってしまい、ずいぶんと長話をしてしまった。

 太郎はきっと、花子はもう戻ってこないと思っているのだろう。何度も手紙を読み返しているだろうし、そうすればするほど、花子が幻想郷に馴染み、幸せになっていることに気付くはずだ。

 会いたい気持ちと、花子が幸せになってくれている安堵とで、太郎は揺れているのだ。紫の話を聞いたところで、その気持ちが落ち着いたとも思えない。

 それでも太郎は、ようやく笑顔を見せてくれた。

 

「ありがとう、お姉さん」

「いいえ、私にとっても楽しい時間だったわ」

 

 微笑を向けながらも、紫は太郎の孤独を感じていた。友人はたくさんいるだろうが、彼にとって花子が消えたことは、家族を失うよりも辛いのかもしれない。

 このまま学校に留まることは、果たして彼のためになるのだろうか。紫は訊ねた。

 

「太郎。あなたは、幻想郷に来ないの?」

「……」

「幻想郷は、全てのものを受け入れる。誰もあなたを拒みはしない。花子と共にもう一度歩くこともできるわ」

 

 沈黙の中に、強い迷いがあった。

 花子が子供達に忘れられてしまったのなら、その片割れである太郎も同じ境遇のはずだ。だというのに、どうして彼は幻想郷に、さらに言えば駆け込み寺でもある妖怪生活相談所にも頼らず、未だ学校の怪談にこだわっているのか。

 紫には、なんとなく答えが分かっていた。ただ、妖怪の賢者であり先達として、太郎の口からその答えを聞かなければならないと思ったのだ。

 

「僕は――」

 

 太郎少年がようやく搾り出した声は、痛いほどに明るいものだった。苦痛を耐えるように唇を噛んでから、続ける。

 

「僕は、花子が大切にしていた場所を、守りたいんだ」

「彼女にとって、ここはもう過去でしかないのかもしれない。それでも?」

「うん。花子は僕達と一緒にいた時間を、大切な思い出だって言ってくれてる。思い出の場所がなくなっちゃったら、きっと悲しむ。花子が泣くのは、嫌なんだ」

 

 その言葉は、本心からのものであった。

 花子が毎日のように手紙を出す理由が、紫にはよく分かった。太郎が花子を心から大切にしているように、花子にとってもまた、太郎は誰よりも――幻想郷でできた友人も含めて、その中の誰よりも――かけがえのない存在なのだ。

 

「本当に、いいのね?」

 

 最後の確認は、太郎の後悔をなくすためのもの。彼は、わずかに目を伏せながらも、首肯した。

 学校の怪談という地位を捨てた花子にも、花子がいたその場所を守ろうとする太郎にも、相応の覚悟があったのだ。だからこそ、お互いを責めず、止めもしなかったのだろう。

 ならば、これ以上紫が言うことはなかった。ここから先は、本人の心で決着をつけなければならない。

 

「もしも、花子に手紙を出したくなったら」

 

 ロングスカートを揺らして、紫は窓枠から降りた。太郎の前を通り過ぎ、

 

「ムラサキ様に、お渡しなさい」

「ムラサキ婆ちゃんに?」

 

 同じトイレの怪異であるムラサキ婆のことを、太郎が良く知らないわけがない。

 きっと、あまり力もなく顔も広くないと思っているのだろう。相変わらずだ。紫はやれやれと、太郎に見えないように苦笑した。

 

「あのお方は……そうね。私の古い知り合いよ。ムラサキ様にお預けすれば、間違いなく花子に届けられるわ」

「う、うん。手紙を書いたら、婆ちゃんに渡すよ」

「よろしい」

 

 満足気に頷いて、紫は太郎の方へ振り向くこともせず、廊下へ続くスライドドアに向かう。

 

「手紙のお姉さん。……また、花子の話、聞かせてよ」

「そうね。気が向いたら、遊びにくるわ」

 

 素っ気ない返事だったかもしれないが、太郎は小さいながらもはっきりと聞こえる声で「うん、待ってる」と告げた。

 いつか、花子の手紙が太郎の迷いを断つ日が来るはずだ。その時を楽しみに思いつつ、紫は教室の扉を開けた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 学校の屋上で、空を見上げる。月は沈みかけており、夜はあと数時間で終わるだろう。

 夜風を受け、ブロンドの髪がなびく。帽子を抑えながら、紫は呟くように言った。

 

「妖怪と人間の共存――。幻想郷では当たり前のようにある光景も、こうして外に出てみると、まるで奇跡のように感じますわ」

「そうさねぇ」

 

 背後の気配に振り返る。立っていたのは、老女だった。髪は白く背を丸め、紫色の着物を身に纏っている。

 

(あやかし)は人の裏、人の陰。目を逸らし蓋をしたいもの。受け入れ、共に暮らすっちゅうのは、難儀なことやねぇ」

「何をもって共に生きるとするか、その線引きにもよりますわ。……お久しぶりです、お婆様」

 

 紫が優雅に一礼すると、老女は皺だらけの顔で、にっこりと笑った。

 まるで孫を愛でるような微笑を浮かべる老女――ムラサキ婆と呼ばれる彼女は、生粋の妖怪ではない。かつては八百万の神が一人、名もなき厠神だった。

 現代になり信仰を失った彼女は、消えゆく運命に抗い、妖怪となってでも現代に留まった。

 便所は汚く忌み嫌われる場所ではない。生命の営みに必要な、清き聖堂でなければならない。恐怖という形であっても、子供たちに『トイレは特別なところだ』という意識を持ってもらうために、神であった過去をすて、人に嫌われる道を選んだのだ。

 ムラサキが八百万の神だったころから、紫は彼女を知っている。その人柄や生き方を、とても尊敬していた。

 

「懐かしいねぇ。何年ぶりだろうねぇ」

「お婆様が妖怪になった日から、お会いしていませんわ」

「そぉかい、そんなに前かい。時間が経つのは早いねぇ」

 

 何度も頷きながら、ムラサキは変わらず優しい笑みを浮かべた。

 

「今日は、たろ坊に手紙を届けてくれたんだってねぇ」

「花子があんなに手紙を出すんですもの。どんな妖怪か、一度見ておきたかったのですわ」

「えぇ子じゃったろぉ」

「とても。花子と似て――強い少年でした」

 

 便所の妖怪である花子と太郎を、ムラサキは大変可愛がっていた。心が折れて『トイレの花子さん』を諦めてしまった花子を相談所にやったのも、昔なじみの紫が管理している幻想郷を紹介してやってくれと相談所に頼んだのも、紫に手紙を運んでほしいという便りをよこしたのも、全て彼女だ。

 紫と並んで夜空を見上げ、ムラサキが口を開く。

 

「お花ちゃんは、どうね」

「迷っていますわ。ようやく行くべき場所を見つけたようですが、歩き始めるのは、これから」

「そうかい」

「残念ながら、トイレの妖怪というものには、もう固執しないようですが……」

 

 花子はムラサキにとって同胞であり後継でもあったはずだが、ムラサキは大して気にしていないようだった。

 

「いいのよぉ。あの子はね、ようやったんじゃ。日本中駆け回って、よう子供を怖がらせた。もうええのよ、好きにやったらええ」

 

 数十年という短い間とはいえ、花子は子供達にとって伝説的に語られる妖怪となったのだ。どこまでいけば、という明確なものこそないが、あの小さな花子だ。十分な仕事をしたとみてやってもいいかもしれない。

 太郎も花子と一緒に行かせるつもりだったのだが、太郎自身がそれを拒んだ。ムラサキはそれでも二人の絆は失われてはならないと思い、旧知の仲である紫に手紙の配達を依頼したのだ。

 ムラサキが巣立った我が子にもう一度会うことは、ないだろう。紫にはそれが分かった。彼女はもう、長く生きられない。神格を失い、妖怪としての知名度も失せ、ムラサキの命を繋ぎとめられるものは、もう何もなかった。

 自分でも気付いているだろうに、あるいはだからこそか、ムラサキは昔から変わらない微笑を湛えている。

 

「紫や」

「はい」

 

 答えると、横に立つムラサキは、いつもと変わらないのに、ずっと感情が篭っている声で、

 

「お花ちゃんを――、頼んだよ」

「えぇ、承りました」

 

 まだまだ話したいことは山ほどあった。しかし、ムラサキの体に障ってはまずい。そろそろ帰る頃合だろう。

 空中にスキマを生み出し、紫はふわりと飛び上がった。

 

「それでは、またいつか」

「あい、元気でのぅ」

「お婆様も、お達者で」

 

 スキマの中に身を投じ、その口が閉まり見えなくなる瞬間まで、ムラサキの微笑みは一切変わらなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「それでは、紫様は今後も花子とかいう子の手紙を相談所にお運びになるんですか?」

 

 妖怪の山にひっそりと佇む屋敷、マヨヒガ。その縁側で湯飲みに茶を注ぎながら、紫の式である妖獣、九尾狐の八雲藍(やくもらん)が言った。

 湯気が立つ緑茶をすすってから、紫は流し目で藍を見やる。

 

「あら、不服かしら?」

「いいえ。紫様の人生は紫様のものですし、式である私風情がとやかく言うことではないと理解しています。御手洗花子とは、(ちぇん)と遊んでいた時に一度会いましたが、礼儀正しい子でしたしね」

「橙とも仲がいいんじゃなかったかしら」

 

 以前、新入りの便所妖怪に人間の驚かし方を教えてやったと、橙に自慢されたことを思い出す。事実がどうだったかは、橙の主である藍が後で教えてくれた。

 茶菓子として用意された煎餅を上品に齧ってから、藍は屋敷の庭で遊ぶ橙に視線を移す。

 

「仲良しの友達、とまではなっていないようです。人間を驚かす妖怪同士で、競争をしていただけで。もっとも、後二、三回遊べばどうなるか、分かりませんが」

「淡々と語る割りに、顔は嬉しそうね」

「橙にお友達が増えることは、歓迎すべきことですから」

 

 相変わらず、藍は自分の式を溺愛している。紫も藍を大切にしているつもりだが、二人の仲のよさは式と主というより、親子に近い。妖獣同士、ということもあるのかもしれない。

 茶を一口飲み込んだ藍は、また無表情に近い顔に戻った。彼女が怒りの感情を表に出すことはめったにないが、こうして軽い話を真顔でしている時は、不機嫌な証拠だ。

 

「藍、言いたいことがあるのなら、はっきり言いなさい。それとも、式をつけて無理矢理喋らせてあげましょうか?」

「……不服とまでは言いませんけど、紫様は幻想郷の頂点に立たれるお方です。ムラサキ様の頼みとはいえ、幻想郷の一住人でしかない御手洗花子を、優遇しすぎではありませんか?」

 

 ムラサキのことを、藍は知っている。直接面識はないが、人間のために妖怪にまで身を落とした神の話をしたとき、彼女もまた感銘を受けていた。

 

「あら、私だって幻想郷に住まう妖怪の一人にすぎないわ。それじゃ、満足できない?」

「できません」

 

 即答する藍。反抗ではなく、ただ純粋に納得のいく答えがほしいだけなのだ。

 とはいえ、紫自身も明確な答えを持ち合わせていない。ムラサキの頼みを断りたくなかった気持ちもあるし、花子のことを気に入っているのも間違いないのだが、紫がただ一個人を優遇する理由としては希薄だ。

 庭で大きな鞠を追いかけている橙を眺めながら、紫は呟いた。

 

「……なんでかしらね。花子は本当に、不思議な子よ」

「紫様が毒されるとは。これはいよいよ、異変ですね。巫女にでも依頼します?」

 

 藍が真顔で、意地悪く提案してくる。これには、何も言い返せない。ただ苦笑を返すばかりだ。

 きっと、特別なことでもないのだろう。花子は弱い。今もきっと、幻想郷にいるどの妖怪より、腕力も妖力もないだろう。だからこそ、彼女は『手を取り合う』ということの大切さを、誰よりも知っている。

 そんな、強さこそが正義である幻想郷ではっきりと異質な彼女と共にいると、言葉に表せない懐かしさを感じられるのだ。

 何も特別なことではなく、花子はただ、妖怪達が忘れかけたものを思い出させてくれているだけなのかもしれない。

 

「橙を見ていると――」

 

 鞠でじゃれている橙に目をやりながら、紫は口の端を緩める。

 

「温かく、優しい気持ちになれる。人に忌み嫌われる、悪しとされてきた妖怪であっても」

「人間の敵というだけで、私達にも感情や愛があります。当然ですよ」

「しかし、力に縛られて視野が狭まった妖怪達は、膨れ上がる自尊心に押し潰され、そんなことも忘れてしまうわ。あなたも橙と出会う前まで、そうだったじゃない」

 

 湯飲みから口を離し、藍は「そうでしたね」とだけ言った。彼女は頭の回転が速い。紫が言わんとしていることは伝わっただろう。

 

「花子はね、あなたや私にとっての橙みたいなものよ。少しでも仲良くなれれば、誰が相手でもそうなれてしまう」

「ふむ、なるほど。嫌われる相手には、とことん嫌われる性格ですね」

「そのあたりは、あの子が成長する中で学んでいくことですわ」

 

 紫が花子の手紙を届け続ける理由としては厳しいものがあったが、それでも藍は分かってくれたようだ。しかし、彼女の表情は依然険しい。 

 なんとか煙に巻こうと思っていたのだが、やはり藍は手強い。溜息をついて、湯飲みを盆に乗せる。

 

「藍。遠慮しないでちゃんと話なさいな。あなたが考えていることを、私が見破れないとでも思って?」

「まさか。紫様を騙せるなんて思っていませんよ。ですが、私はあなた様の式です。この八雲藍、紫様に心身を捧げた身。自分の感情で紫様に迷惑をかけるなどという無礼千万な行いをするわけにはいきません」

 

 大層な言葉を立て並べているが、藍の目はイタズラを仕掛ける動物のそれだ。遠まわしに聞こえるが、なんと直接的な攻撃なのか。

 ここ数ヶ月、紫はやるべき仕事を藍に押し付けていた。たまには自分で働いてくれと言えばそれで済むだろうに、何が何でも、紫の口から言わせるつもりらしい。しぶしぶ、紫は立ち上がる。

 

「仕方ないわね。あぁ、気分が乗らないけれど、今日は私が結界の強度調査に行くわ。藍、今日は橙の教育に専念なさい」

 

 ようやく、藍が笑った。勝者の笑みだ。

 

「御意に」

「まったく、式に化かされるなんてね」

 

 スキマを召喚しつつ、嘆息を漏らす。

 固有空間にもぐりこみかけ、紫は思い出したようにスキマから上半身だけを出した。

 

「あぁ、藍。それから橙も」

 

 二人の妖獣が、こちらを振り向く。紫がスキマから話しかけることに慣れている彼女らは、ちっとも驚いていない。

 

「外の誰かに――中でもいいけれど、手紙を出したくなったら、私に言いなさい。破格で届けてあげるわよ」

「紫さまがですか? わぁ、じゃあ誰かにお手紙書いてみようかな」

 

 猫の耳をぴこぴこ動かしながら、橙が遠慮なく喜ぶ。一方の藍はわずかに眉を寄せて、

 

「式の使いぱしりなんて、やめてください。紫様の尊厳に関わりますよ」

「あら、いいじゃない。そんなことで落ちぶれる尊厳なら、最初からいらないわ。それに――」

 

 藍が苦笑を浮かべる。諦めの合図である。最後に勝つのは、紫なのだ。

 スキマの縁を肘掛にして、紫は頬杖をつく。ウィンクを一つ、藍に向けた。

 

「それに私は、『手紙のお姉さん』なんだから」

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