やくそくのいっぽ
桜の花は、その美を果たして散っていく。幻想郷の空に舞うその花びらは、この紅魔館にも届いた。
春うららな朝、桜の花びらがちらちらと落ちる空を見上げていた花子は、紅魔館門前へと振り返る。
すっかり慣れ親しんだ館と、その住人。主のレミリアと、その妹フランドール、館が誇るメイド長の咲夜に、門番の美鈴。四人に見送られる形で、花子は今、出立する。
寂しさもあった。妖怪の山でも長い時を過ごしたが、紅魔館には、家というものを感じられた。我が家にはならないが、親しい友人宅は、心置きなく安らげる場所であった。
しかし、それ以上に、喜びが大きい。爽やかな晴天の、美しい春の朝に、友に見送られて旅に出る。こんな幸せが、他にあるだろうか。
「長い間、お世話になりました」
頭を下げると、愛用の日傘に守られるレミリアが、目を細めた。
「こちらこそ。花子のおかげで、とても賑やかだった」
「寂しくなるねぇ」
姉とお揃いの日傘の下で、フランドールが言葉通り寂しげに眉をハの字にする。それ以上のワガママを言わないのは、昨日の晩に皆で約束したからだ。
花子を気持ちよく見送るのだと。花子自身も、後に引かぬようさっぱりと旅立つと宣言した。名残惜しさは、花子だって負けぬほど抱いているのだ。
いつか見た竹編みの弁当箱を、咲夜が差し出してきた。花子に渡そうとしているのは明白で、遠慮がちに手を伸ばす。
「あの、何から何まで、すみません」
「いいのよ。お嬢様がそうしてあげてって、あんまり言うものだから」
「道中でお腹が空いたら大変だもの。花子の好きなサンドイッチにしてもらったから、遠慮しないで食べてちょうだいね」
レミリアにまで言われては、これ以上の遠慮は無粋というものだろう。素直に受け取り、一度リュックをにしまう。
背負い直したリュックにぶら下がる水筒が、かちゃりと揺れた。中には、美鈴が入れてくれた烏龍茶が入っている。あまり飲んだことはないが、健康にいいらしい。
「お弁当箱、必ず返します」
「あらあら、律儀なことね。いつになっても、構わないからね」
「はい。美鈴さんも、お茶、ありがとうございます」
「そのくらいしかできませんから。お口に合えばいいんですけど」
あいかわらず謙虚な物腰の美鈴に、花子はつい笑顔になってしまう。彼女と会話をするのは、実に心地がいい。
ついで、花子は同じ部屋で寝食を共にした吸血鬼姉妹に視線を移す。目を合わせれば離れたくなくなってしまうが、二人もまた、まっすぐ花子を見ていた。
他人行儀な礼はしない。ただにっこりと微笑んで、
「レミィ、フランちゃん。色々ありがとう。勉強になったし、毎日楽しかった」
「それは私達も同じよ。素敵な日々だったわ」
「うん。こんなに退屈しない日が続くなんて、夢みたいだったよ」
共に過ごした時間を喜んでもらえていることに、花子は幸せを覚えた。持つべきものは友だと、心から思う。
名残惜しいが、約束を果たさなければ。さっぱりと、きっぱりと、旅立つ時がきた。
寂しさが出ないよう、花子はなるたけ自然な笑顔で、
「それじゃ、行くね」
「えぇ、元気で」
「気をつけてね」
レミリアとフランドールもまた、少しだけ辛そうな笑顔で、手を振り返してくれた。
サッと背を向け、歩き出す。振り返りたい気持ちを抑えて、大通りへと続く小道を、ひた歩く。
友達はまだ見送ってくれているのだろうか。手を振っているのだろうか。気になるし、もう一度だけレミリア達の顔を見たかったが、我慢する。
後ろ髪を引かれる思いを断ち切らんと、ひたすら前を見続けて歩く花子の背中に、その声は届いた。
「花子! また来てね、一緒に遊んでね! 私、待ってるからね!」
春の雑木林に響くフランドールの声に、花子は立ち止まる。思わず涙が浮かんだが、泣き虫な心を叱りつけて目元を拭う。
一度だけだ、返事をするだけだと自分に言い聞かせ、花子は振り返る。姉と二人で見送り続けているフランドールに、大きく、大きく手を振った。
「きっと――ううん、必ず遊びに行くよ! フランちゃんとレミィも、元気でね!」
レミリアに手を引かれて門に入るまで、とフランドールはずっとこちらを見続けていた。大きな門が閉じた後、レミリアも一度だけ、分かるように手を振ってくれる。
みんながみんな、少しずつ、約束を守れなかった。おあいこだなと笑って、花子は紅魔館に背を向ける。
真っ青な空はどこまでも突き抜けていて、緑は青々としているし、小道の脇に咲く花も、色鮮やかで可愛らしい。さっきまでいた紅魔館の暗い室内を、もう忘れてしまいそうなほどだ。
だが、どんな自然の美しさも、レミリアとフランドールが見せてくれた笑顔には敵わない。友達との思い出は、花子の旅路で出会ういかなるものより鮮明で、決して忘れることはない。
そんな心の宝物があるからこそ、花子は旅の道を行くことができる。
友達がいる、そのことが、花子の背中を強く押す。
また会おうという約束が、最高のお守りになってくれるのだ。
後ろはもう、振り返らなかった。