~~~~
太郎くんへ
こんにちは、太郎くん。花子はなんとかやっています。
今日は、落ち込み気味です。香霖堂でお世話になったあと、霖之助さんと魔理沙の勧めで妖怪の山まで来たのだけど……
幻想郷は妖怪の天下だし、私みたいに子供を怖がらせるだけの妖怪は下っ端だっていうのは分かってた。でも、まさかあんなにも力の強い妖怪がいるなんて。
太郎くん、天狗という妖怪に会ったことがありますか? お話で聞いたよりもずっと強くて、とても速かったです。
友達を悪く言われても、仕返しの一つもできなかったんだもの。見下されちゃうのも仕方がないことなのかもしれないね。
少しだけ、自信をなくしてしまいました。私はこれからもトイレの花子さんでいていいのかな。
私は、幻想郷の妖怪でいてもいいのかな。悔しくて怖くて寂しくて、辛いです。
本当はこの手紙を出すのは止めようかと思ったけれど、手紙のお姉さんが伝えなさいと言うので、誰よりも仲がいい太郎君には正直に話すことにしました。
だから、このことは誰にも話しちゃだめだからね。二人だけの、内緒だよ。
今日だけは、弱い花子を許してください。
それでは。
花子より
~~~~
曇天ながらも明るい朝、街道を行く影二つ。
ようやく幻想郷に慣れてきた厠の妖怪、御手洗花子と、彼女の新たな友人にして普通の魔法使い、霧雨魔理沙だ。
二人は今、妖怪の山に向かっている。魔理沙の箒に乗っていけば早いそうだが、霖之助達の話を聞いているうちに、花子は幻想郷を歩いて回りたいという気持ちが強くなっていた。そんな彼女の言葉に、魔理沙は「いいことじゃないか」と笑顔で頷いてくれた。
とはいえ、花子としては無理に付き合わせてしまって申し訳ない気持ちもある。何より、魔理沙は山に用がないのについてきてくれているのだ。暇つぶしだそうだが、それでも詫びずにはいられなかった。
「ごめんね、ついてきてもらっちゃって」
「気にするな。朝の散歩は健康にもいいんだから、一石二鳥ってやつだ」
箒を肩に担ぎながら楽しそうな魔理沙は、本心で言ってくれている。ざっくばらんとした彼女の性格は、とても気持ちの良いものだ。時々傷つくほど正直な言葉をぶつけてくるが、愛嬌というものだろう。
街道は何度か枝分かれしていたが、妖怪の山はそれと分かるほど堂々と聳え立っている。幻想郷で山といえば妖怪の山を指す、という霖之助の言葉にも納得がいく。
初夏の緑爽やかな山は、曇り空の下であっても生き生きと輝いて見える。これからあそこに行くのだなと思うと、それだけで花子の胸は高鳴った。
「魔理沙は、山に行ったことがあるんだよね。どんな場所だった?」
「空飛んでたから上からしか見てないけど、なかなか綺麗なもんだぜ。といっても、私が行ったのは秋だったからなぁ。今とはだいぶ違う景色なんじゃないか?」
「そっかぁ。秋の山は綺麗だものね。田舎の学校に住んでいた時は、秋が一番好きだったよ。都会では季節を感じることはあまりないから」
花子の能力である厠の空間には、それが学校のトイレである場合に限り『あらゆる学校のトイレを渡り歩ける』という特徴もある。これを利用し、彼女は色々な学校でトイレの花子さんとして、子供達の恐怖を得てきたのだ。学校らしいものが人里の寺子屋しかない幻想郷では、ほとんど役に立たない能力であろう。ちなみに、同じ厠の怪異である太郎も同等の力を持っている。
太郎と共に色々な学校を巡ったことを思い出したが、昔話を語る前に魔理沙が話題を戻してしまった。
「都会っていうのは、あれか? 石でできた高い家ばかりの町のことだよな? 早苗が自慢げに話してたけど、私は森に住んでるほうが楽しいと思うな」
高層ビルが立ち並ぶ都会の様子は、魔理沙には想像できないのだろう。花子としても、ブロンドの髪と魔法使いの服を着た彼女には、幻想郷こそがふさわしい場所だと思える。
とはいえ、黒髪のおかっぱにセーラー服ともんぺという花子に都会が似合うかと言われれば、誰しもが首を傾げるところなのだが。
学校にしかいないのだから都会も田舎も関係がないと、花子は自分を棚に上げることにした。
「便利、らしいから。人間にとって、食べることも住むことも困らないのは素晴らしいことなんでしょ?」
「まぁ、そりゃそうだがな。努力や苦労を知らずにいると、ダメ人間になるだけだ。どこかの紅白みたいにな」
「霊夢のこと? あの人、あまりそんな風には見えなかったけれど」
「あの小さい神社を掃除するのに丸三日かけて、挙句手抜きだらけだったりするくらいにはズボラだぜ」
本人がいないのをいいことに――いても堂々と言いそうだが――、魔理沙はケラケラと笑った。
昨晩の酒盛りで、博麗霊夢なる少女が悪人ではないことを知った。老若男女、さらには人も妖怪も神様にさえ平等に接するという話だ。
とはいえ、彼女は妖怪退治の専門家だ。妖怪へは厳しいポーズを取っているらしく、弱小強豪問わず、それこそ平等に退治してくるらしい。人里や神社の外で出会ったら、覚悟しなければならない。
そんな話の中で上がったのが、今向かっている妖怪の山である。たくさんの妖怪や神様が住んでいるらしく、生半可な人間は近寄ることも叶わないそうだ。
誰かを驚かすという目的もそうだが、紅魔館に行ってからというもの、花子は幻想郷の妖怪に強い興味を抱いていた。
「どんな妖怪がいるんだろうなぁ」
「天狗が有名だぜ。あとは河童か」
「天狗に河童。外では見たことがないや」
「だろうな。だから幻想郷にいるんだし」
「あ、それもそうだね」
頬を掻きつつ、苦笑する。有名が故に幻想として認識されてしまった河童と天狗。外の世界で彼らを見かけることがないのは当然のことだ。
ふと、魔理沙が肩に担いだ箒を下ろした。見れば、もう山の麓。どうやら一時の別れがやってきたようだ。
「私はここまでだな。山を下りてきたら、また会おうぜ」
「うん。ここまで付き合ってくれてありがとう、魔理沙」
頭を下げると、魔理沙は花子のおかっぱ頭に手を置いて、
「気にするな。それより――」
顔を上げてみれば、魔理沙は明らかに心配そうな表情で、花子を見ていた。なんとも、彼女らしくない。
花子が首を傾げると、小さい息を一つ吐き出し、魔理沙が言った。
「山に行くなら、天狗に気をつけろ」
「天狗に?」
「あぁ。あいつらはよそ者を嫌うし、プライドも高い。特に弱い奴が相手だと、連中はすごく高圧的なんだ」
「そ、そうなんだ。分かった、気をつけるよ」
頷いてから、花子はリュックを背負いなおす。高圧的で自尊心の強い妖怪といえば、レミリアがいた。うまく接すればきっと仲良くできるはずだ。
箒に跨った魔理沙が宙に飛び上がり、帽子を押さえる。
「それじゃあ、元気でな」
「ありがとう。魔理沙もね」
片手を上げて颯爽と飛び去る魔理沙の後姿を見送ってから、花子は再び妖怪の山を見上げた。
豊かな緑が風に揺れ、それはまるで花子を歓迎しているかのように見える。どんな出会いがあるのだろう。
踊る心を抑えきれずに、山へ続く道を意気揚々と歩き出した。
◇◆◇◆◇
妖怪の山は、思っていた以上に未開であった。道らしい道はほとんどなく、草木の生い茂る獣道ばかり。
ちょうど外の博麗神社に続く山がこんな道程だったなと花子は思った。あの山を歩いたことが、もうずいぶん昔のことに感じる。
正午を過ぎても未だ太陽は姿を見せない。今日は一日曇りだなと、木々の隙間から曇り空を見上げつつ大木の根に腰掛けた。
魔理沙と別れてから歩き通しだったので、さすがに空腹だ。花子は握り飯が入っている包みをリュックから取り出し、その一つを口に運んだ。香霖堂で魔理沙にこしらえてもらったものだが、塩加減が程よくなかなか美味だった。
二つの握り飯を平らげて、水筒に入っていた最後の紅茶を飲み干す。どこかで水を補給しなければならないが、確か山には大きな川が流れていると霖之助が言っていた。
誰か適当な妖怪にあったら聞いてみようと考えつつ、花子は登山を再開する。山頂まではまだまだ遠く、今夜はどこかで宿を借りるか、それができなければ野宿になるだろう。
そもそもが便所暮らしであった花子にとって、野宿は大して苦にならない。むしろ空気がうまいので居心地がいいと思ってしまうほどだ。
歩けど歩けど道は現れず、今自分がどこにいるかなど、とうに分からなくなっていた。山頂目指して登っているということだけは、間違いないのだが。
誰かに道を訊ねようにも、妖怪や人間の類は一向に見かけない。正確に言えば空を飛ぶ妖怪らしき影は何度か見たのだが、地上で出くわす者といえば、リスや鹿といった口の聞けぬ連中ばかりであった。
ひたすら登り続けて早三時間。花子はとっくに時間の感覚などなくなっていたが、このままでは水も取れないまま日が暮れてしまうことだけは分かる。
妖怪の彼女は人間より遥かに体力があるし、水も二、三日は飲まなくても生きていけるのだが、外の世界からやってきたばかりの花子にとって、その選択はあまり喜べるものではない。
せめて川だけでもと、花子は周囲を見回した。目に入るのは木と草の生い茂る山の景色ばかりで、耳を澄ませど水の音は聞こえてこない。どうやら、山に流れる川はここから遠くにあるようだ。
当てずっぽうに歩いたところで、簡単に辿りつくとは思えない。どうしたものかと、花子はいよいよ頭を悩ませた。
ともかく上を目指そう。解決に程遠い決断をした、その時。花子を吹き飛ばすほどの疾風が駆け抜けた。
「うわぁっ!」
声を上げて、花子は盛大に転がった。あちこちに体をぶつけつつ、咄嗟に伸ばした手で大木にしがみつく。なおもごうごうと吹き荒ぶ風は、彼女の小さな体を大木から引き剥がそうとしているように思えた。
飢えた猛獣が如く猛る疾風は、しかし次の瞬間、なんとも間の抜けた声によって掻き消えてしまった。
「あやや? こんなところに子供がいるとは」
大木から転げ落ち倒れた花子の背後から聞こえたその声は、大人びていながら幼いソプラノを感じさせる少女のもの。痛む体に涙など浮かべつつ立ち上がり、花子は声に振り返った。
そこにはやはり、少女がいた。外見で言えば、花子より年上だ。背もずっと高く、霊夢や早苗くらいはあるように見える。黒いボブヘアーで、頭には赤い小さな帽子を乗せていた。
「大丈夫ですか? 怪我はなさそうですが」
「は、はい。なんとか」
「それは何より。あれだけ転がっておいて無傷とは、人間ではありませんな」
服についた泥を払いつつ、花子は頷いた。
「あ、うん。私は妖怪です。えぇと、トイレの花子さん、という」
「ほう、文献で見た記憶があります。しかし、厠の妖怪ですか。あまり綺麗なイメージじゃありませんねぇ」
「あは、確かに」
言われてみれば、便所の妖怪など清潔な印象とは程遠い。とはいえ、何も便所の垢をすすっているわけではないし、生活空間はあくまで厠に作る花子固有の空間だ。
出入り口と仕事場がトイレであるというだけなのだ。空気や臭いまでは、どうしようもなかったけれど。夏場は苦労したものだ。
それを説明したところで、言い訳にしかならないだろう。花子は苦笑しつつ頬を掻くに留まった。
あれほどの風を起こすだけのスピードで飛んでおきながら、黒髪の少女は急いでいたわけではないらしい。軽く会釈をしつつ、
「私は、鴉天狗の
「天狗さんだったんですね。私は御手洗花子。さっき言ったとおり、トイレの妖怪です。幻想郷にはまだ来たばっかりで」
「おやおや、新入りさんでしたか。して、なぜこの山に?」
言いつつ、文はカメラらしきものをこちらに向けて、ぱちりとシャッターを押した。許可などあったものではないが、特別気にすることもなく花子は頷く。
「えぇと、せっかく来たのだから色々見て回ろうと思って。魔理沙達から山の話を聞いているうちに、行ってみたいなぁって」
「なるほど、魔理沙と知り合いでしたか。しかし、この山で見るところとなると……山頂の守矢神社か川の河童か、中腹にいる我々天狗の住処くらいなものですな」
「とりあえずてっぺんに行こうと思ってます。天狗さんの邪魔にならなければいいのだけれど」
「それなら問題ありません。この山は妖怪ならば行き来は自由ですよ」
ほっと安堵の息をつき、花子はふと魔理沙の言葉を思い出していた。天狗はよそ者嫌いで自尊心の塊だと言っていたが、文はそんな風にはとても見えない。
やはり仲良くできるではないか。いつか魔理沙に自慢してやろうと考え、文のカメラが鳴らしたシャッター音で我に返った。
「外から来たばかりでは、色々大変でしたでしょう。幻想郷の連中は血の気が多いですからね」
「えへへ、そうですね。人里では霊夢や魔理沙に退治されちゃいましたし、紅魔館でも酷い目にあいました」
「……あやや、中々ハードな日々をお送りですな。性悪巫女に手癖の悪い魔法使いはまだしも、あの吸血鬼にまでやられるとは」
どうやら、一方的に攻撃されたと思われてしまったらしい。慌てて両手を振り、
「で、でも、紅魔館では私がレミリアさんを驚かせたからやられちゃったんだし、あとでフランちゃんとも友達にもなれたんですよ。悪いことばかりじゃなかったです」
「おや、あのワガママ娘とお友達になれたんですか? 花子さんは人がよろしいのですねぇ。私なら取材以外では話すのもごめん被りたいものですが」
文の中でのレミリアの評価は、とても低いようだ。内心でレミリアに同情しつつ、花子は話題を戻した。
「そんなわけで、今は色々なところを歩いて回ってる途中なんです。ついでにお手洗いがあったら、誰かを驚かそうかなぁなんて思ってますけど」
「なるほど。しかし、なぜ歩きなのです? 山頂を目指しているのなら飛んだほうがずっと早いと思いますが。こだわりか何かですか?」
「それもありますけど、飛べないんですよ、私」
またも苦笑いで答えると、文はさぞ驚いたようだ。目を丸くして、視線を花子と空へ交互に向けた。
「飛べない……? 妖怪なのに?」
「は、はい。外の妖怪はみんな飛べませんよ。変、ですか?」
ここまで驚かれるとは思ってもいなかった。幻想郷の妖怪は確かに飛ぶのが普通であるらしいが、まさか飛べないことがおかしいとまで言われるなど、さすがに予想していなかった。
しかし、文は未だに信じられないといった顔で、
「変も何も。妖怪が飛べないなんて、笑えない冗談です。……一応聞きますけど、外の妖怪が人間を襲うことは?」
「ありますけど、せいぜい怖がらせたり驚かせたりするくらいですね」
花子が生まれた時にはすでに、外の世界に住む妖怪は人を驚かし怖がらせることを目的としていた。人を食らうために襲うなどという話は、聞いたことがない。
しかし、文の驚愕は徐々に失望や怒りへと変わっている。自分は事実を告げただけなのにと、花子はだんだん不安でいっぱいになっていった。
「……なんてこと。それでは、あなた方は人間や妖怪と戦ったことがないのですか?」
「そ、そうですね。ケンカはたまにするけれど、本気で戦うなんてことは……」
「信じられない。外ではそこまで妖怪のレベルが落ちているなんて」
出会って早々だというのに、文はすっかり人が変わってしまったかのように、花子へ冷たい視線をぶつける。
「恥ずかしくないのですか? 人間共に蹂躙された挙句、驚かし怖がらせるだけなどというエンターテイメントに成り下がっていることが」
「え? え?」
「え? じゃないでしょう。理解できないの? 妖怪が人間の楽しみに利用されて、悔しくないのかって聞いてるのよ。妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治する。その図式は妖怪ならば知っていて然るべきよ。どんな下級妖怪だって、戦い方は知っているというのに」
突然目つきを険しくして厳しい口調になった文に、花子はしどろもどろになった。どうして怒っているのか分からないのだ。
実は彼女が千年を生き超一流の実力を持つ大妖怪であり、天狗としての特性以上に妖怪としてのプライドが高いということを、花子が知る由もない。
「幻想郷に来て、妖怪や妖精に勝負を仕掛けられたことは?」
「しょ、勝負ですか? えっと、弾幕ごっこのこと?」
「そうですね、それでいいです。仕掛けられたことはあるようですね」
「まぁ、一応は。でも私、弾幕できないから、逃げちゃいましたけど……」
呟くように答えると、文はいよいよ怒りを面に出し、声を荒げた。
「逃げた? 逃げたですって!? あなた、そんなことで幻想郷で生きていけると思っているの? いくらなんでも情けなさすぎるわ、あまりにも平和すぎる。よくもまぁそれで、吸血鬼の友人だなんて言えたもんだわ」
「そ、そんな」
それは関係ないではないか――。そう言おうとしたのだが、花子の言葉は文によって打ち消されてしまう。
「幻想郷はその実、力の社会なのよ。戦い、勝てば自分の意志を押し通せる。負ければ大人しく引き下がる。それをレミリアも分かっているでしょうに、勝負事に背を向ける弱小妖怪と友達ごっこだなんて、吸血鬼が聞いて呆れるわ」
「ちょ、そんな言い方ってないです! 私が弱くて逃げたってのは本当だけど、レミリアさんまで酷く言わなくてもいいじゃないですか!」
「分かってないわね、あなた。吸血鬼はとても強く恐ろしい種族なのよ。一時は幻想郷を乗っ取ろうと画策して、それを実行に移そうとしたこともある。それだけの実力を、レミリア一派は持っているの。だというのに、こんな三下のグズとつるむなんて……あいつらにはプライドってものがないのかしら。吸血鬼も落ちたものね」
だんだんと、花子は腹が立ってきた。レミリアは花子にとって、幻想郷でできた初めての友人なのだ。彼女は傲慢ちきでワガママだが、本当はとても優しい女の子だと花子は知っていた。
フランドールとまた会う約束をしたけれど、同じくらいレミリアにももう一度会いたいと思っている。それほど大切な友人をコケにされて、黙っていられるわけがなかった。
「確かに……私みたいな弱くてのろまな妖怪じゃ、レミリアさんやフランちゃんとは釣り合わないかもしれないよ。でも、それでも私なんかと友達になってくれたのは、二人が優しいからじゃない。それを、そんな風に言うなんて酷いよ」
「外の妖怪というのは、どこまでぬるま湯に浸かっているのかしらね。妖怪が友達を作るなとは言わないけど、妖精からも尻尾巻いて逃げるような奴が吸血鬼と対等になれるわけないじゃない。
あぁ……それとも、あなた程度の妖怪と対等なほどにまで、吸血鬼は地に落ちていたのかしら。だとしたら納得だわ。せいぜい弱者同士、傷の舐めあいでもしてなさいよ」
唇を噛んで、花子は拳をきゅっと握り締めた。なんで初対面の相手にここまで言われなければならないのだ。自分だけならず、レミリアやフランドール、さらには外の妖怪達まで。
一体何様のつもりなのか。憤りと呆れを浮かべる文の顔を見て、先ほどまで感じていた印象は完全に消えてしまった。
こちらの心中を察しているだろうに、文は肩などすくめて挑発するかのように、花子が貶めてほしくない新たな名を口にした。
「魔理沙も魔理沙よ。人間にしては肝が据わってると思ってたけど、こんな弱いのと馴れ合うようじゃ、所詮はあいつも弱い人間だったってことかしらね。失望したわ」
「……っ!」
我慢の限界だった。弾かれたように土を蹴り、花子は右手を拳にして振り上げ、文へと飛び掛っていた。
しかし、怒りのこもった一撃は、文にとってあまりにも遅い。花子の容姿もあいまって、まるで子供の駄々のように見えただろう。あっけなくかわされて、地面に突っ伏す。
地面の冷たさと口の中に入った土の味が、花子の不快感を煽った。起き上がって振り返り、怒りのままに文を睨みつける。今までもケンカをしたことはあったが、これほどまでに目つきを鋭くさせたことはなかった。
心のどこかで自分の理性が、落ち着け、冷静になれと叫んでいる。しかし、花子はそれを無視して、怒声を上げた。
「もう許さない。それ以上私の友達を悪く言うのは、絶対許さないんだから!」
「あ、そう。それで、どうするの? 弾幕ごっこもできないあなたが、私と戦うつもり?」
あからさまな挑発だったが、花子は黙って妖力を高めた。
せいぜいが
あまりに雑な力の使い方を見て、文が鼻で笑った。
「やる気なんだ? いいわ、面白い。幻想郷には決闘のルールがあるんだけど、まぁ今回は特別よ。私に一発でも入れられたら、今までの言葉を撤回してあげる」
「約束だよ。絶対に謝ってよね」
「私は鴉天狗。真実を記事にすることこそが私の誇り。嘘はつかないわ」
余裕をにじませる文は隙だらけに見えるが、彼女から漂う妖気は痛いほど実力の差を物語っていた。文が少しでも攻勢に出れば、花子程度の妖怪は簡単に倒されてしまうだろう。
しかし、一発だ。一発でも殴ることができれば勝ちなのだ。勝てば、大切な友人への冒涜を撤回させることができるのだ。
一陣、風が吹き抜ける。折れた木の枝が乾いた音を立てて転がった、その刹那。
「うわああああっ!」
花子は駆け出していた。不慣れながらも妖力で肉体を強化し、拳を文へと叩き込む。
しかし、吹き荒れる疾風。文は武器である天狗の団扇を使うこともなく、風を操った。
きりもみしながら吹き飛ばされて、再び地面を転がる。なおも風が花子を押し倒そうとするが、負けるものかと起き上がり、もう一度飛び掛った。しかし、
「話にならないわ」
たったの一蹴り。文にとってはわずかに足を動かしただけだというのに、凄まじい威力だ。腹を蹴られた花子は、一瞬で頭の中が真っ白になった。
視界は機能しなくなり、倒れて体が土にまみれている感覚もなく、自分が声を出しているかも分からない中で、文の声だけがなぜか鮮明に聞こえてくる。
「私はね、むやみに戦うのは好きじゃないのよ。それでも花子、あなただけは許せなかった。なんでか分かる?
妖怪は強くなくてはならないの。人を襲って食らい、人を畏怖させ、そして人に退治される。そういうものなのよ。特にこの幻想郷では、そうしたバランスをとても大事にしているの。
だというのに、あなたは妖怪や妖精との戦いからすら目を背けた。外から来たばかりの新参というだけでは説明できないほど、花子、あなたは考えが甘すぎるのよ。
戦いを避けて仲良しごっこがしたいというだけでは、妖怪が幻想郷で生きていく資格はないわ」
ようやく取り戻せた視界が映したのは、下駄のように高い靴底を持つ、文の靴だった。起き上がろうとしても、体は痛みに屈してしまってちっとも動かない。
「本当に幻想郷で生きていくつもりなら、強くなりなさい。そうね、せめて妖精くらいになれば、人里周りで人間と馴れ合うくらいは許されるんじゃないかしら。……少なくとも今のままじゃ、この山にいることは絶対に許されない。私が許さないわ。山の土が穢れる前に、さっさと下りなさい」
吐き捨てられた言葉が花子に突き刺さると同時に、再び突風が吹き荒れる。またも飛ばされ、花子は体勢を整えることもできず、あちこちに体をぶつけた。
風が収まる頃には、文の気配はなくなっていた。
リュックがクッションになってくれたおかげで、大きな怪我はしなくてすんだようだ。しかし、痛いことには変わりない。手も足も言うことを聞かず、呻くことすら苦しい。
立てない。花子は身も心も打ち砕かれてしまった。外の世界で妖怪として生きてきたことも、幻想郷でこれから生きることも、全てを否定されてしまったような心地であった。
「……」
何度も何度も起き上がろうとしたが、体中を駆け抜ける痛みに妨害されてしまう。仰向けになることすらできない。
やがて日が落ち、辺りは闇に包まれてしまった。木々のざわめきだけが耳に届く中、花子は今も倒れたまま、動けずにいる。
痛みよりも、ただただ悔しかった。文に負けたことよりも、友達を悪く言われても何もできなかった自分が情けなくて仕方がない。今まで、自分の無力さがこんなに恨めしいと思ったことはなかった。
ふと、頬を冷たいものが流れていった。同時に聞こえる、天から降りてきた水が木の葉を叩く音。
雨が降ってきたのだなと思うと、どうしてか悔しさが一気に溢れ出してしまった。
「……はぁっ――」
まるで心を満たす悔しさを雨で流してしまおうとしているかのように。弱い自分を土に埋めてしまおうとしているかのように。
冷雨降り注ぐ暗闇の中、花子は独り、声を上げて泣き続けた。
◇◆◇◆◇
降り注ぐ雨音に混ざる泣き声は、もう何時間も前から衰えることを知らずにいる。
濡れた草木と土の香りは、嫌いではない。しかし、酒の肴にはならなそうだ。天高く聳える大樹、その太い枝に腰掛けて、彼女はそんなことを考えた。
「雨見酒も、悪かぁないんだけどね。こう暗いうえに雰囲気までも湿っぽくちゃ、いまいちってェもんだよ」
独りごちて、山に響き渡る泣き声の主を見下ろす。体に不釣合いな大きな角を、雨水が伝った。
雨に濡れながら泣き続ける少女を眺めつつ、こちらも同じく雨に濡れながら、しかし対象的なほど明るい笑顔で瓢箪を呷る。
「まぁ、酒はいつでもうまいんだけどさァ。こう、情緒ってもんがね」
彼女の名は、
眼下で泣くあの妖怪少女こそが、文の言っていた面白いものであることは間違いない。しかし、土と雨に汚されることなど構いもせずにわんわん泣く少女は、お世辞にも面白いと言えなかった。
「……そういえば、文はなんだか機嫌が悪かったねぇ。あいつが苛立ってるところなんて、初めて見たよ」
彼女は天狗の中でも古参で実力があり、滅多なことでは怒らない。鬼がどれほど恐ろしいかも知っているはずだし、証拠に普段は萃香に媚びるような態度を取っていた。
そんな文が不機嫌を隠しもせず、かつ鬼がとても嫌う嘘をついてまで萃香をここに向かわせた理由。深く考えずとも、明白だった。
「……本当に、あいつは度胸があるよ。まったく」
最強の鬼とまで謳われた伊吹萃香に、弱小妖怪の指導をさせようとは。
見るだけで弱いと分かる少女に文が何を感じたのかは知らないが、長年鬼の手下であった天狗が鬼を騙すなど、前代未聞だろう。長い年月を生きてきた萃香であっても、こんな経験は初めてだ。
あるいは初めてだからこそ、この侮蔑とも取れる行為を面白いと感じたのかもしれないが。
それに、経緯から考えて、おかっぱの少女が泣く理由は文にあるのだろう。だとすれば――
「私に嘘をついた落とし前は、しっかりつけてもらわないとねぇ」
にやりと不敵に笑い、萃香は太い枝から飛び降りた。