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太郎君へ
太郎くん、こんにちは。一週間ぶりだね。なんだか手紙を書くのがとても久しぶりに感じます。
修行が始まったのはいいのだけれど、私は妖怪としての基礎もできていない状態だったそうです。普通の妖怪なら無意識のうちにできて当たり前のことができないから、まずはそれの練習から始めました。
一週間続けてもうまくいかなかったから、先はまだまだ長いかなぁと思ってたんだけど……。無意識の力ってすごいんだね。幻想郷では教わることがとても多いです。
ともかく、修行は順調……かな? 今のところは、結構楽しくやっています。心配しないでね。
そうそう、太郎くんは心を読まれることをどう思う? 恥ずかしいけど、その人を嫌いになったりどこかに閉じ込めたくなったりするかな?
きっと難しい問題なのだろうし、いざ心を読まれてみないと分からないのかもしれないけど、心の中を知ってもらえるということはいいことなんじゃないかなと花子は思うんです。単純かな?
明日からは、空を飛ぶ練習です。楽しみだな。ちゃんと飛べるようになったら、一番に手紙を書くからね!
それではまた。お元気で。
花子より
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「むーむむむむ」
座禅を組み、眉間にしわなど寄せながら、花子が唸り声を上げている。彼女はとても真剣なのだろうが、萃香にはどうしてもそれがおかしく見えてしまう。
花子の修行が始まってから、一週間の時が過ぎていた。妖怪の山にある巨大洞窟近辺の川原である。魚も取れるし、少し歩けば木の実が豊富な場所もある。何より洞窟が鬼の住む地底界に通じているため、文と遭遇する可能性が極めて低い。
もし彼女がやってきたとしても萃香を見れば逃げてしまうだろうが、秘密裏に特訓したいという花子の頼みを萃香が呑んだ結果だ。
実は遠まわしに特訓を推した人物こそが射命丸文なのだが、花子がそれを知ることはないだろう。萃香は嘘が嫌いだが、花子に直接聞かれない限り教えてやるつもりもなかった。
それにしてもと、瓢箪の酒を呷りながら一心不乱に修行を続ける花子を見やる。この妖怪を育てるのは、思っていた以上に骨が折れそうだ。
まさか飛行程度の妖力も練り上げられないとは思っていなかったので、飛び方さえ教えれば簡単に飛べるだろうと考えていた萃香は、とても驚いた。妖怪ならば息をすることと同じほど簡単な力の使い方だと思っていたからだ。
そんな理由があって、花子は今、人間の僧のような精神統一修行をしている。始めたころに比べてだいぶ妖力の扱いにも慣れてきたようだ。
とはいえ、それでも空を飛ぶには程遠い。もっと効率的な特訓方法を探そうと考えたところで、萃香はふと口の端を緩めた。
「私もこの一週間で、ずいぶん師匠役が板についてきたねェ」
自分が誰かにものを教えるなど、今まででは想像もできなかった。たまに戦いや弾幕ごっこの手ほどきをしてやることはあれど、大体が力技で叩きのめし体に教え込むという荒業だ。これほど本格的に妖怪を指導した経験はなかったが、なかなか楽しいものだと感じている。
きっと花子が素直だからだろうと、萃香は思った。時々ひねくれたことを言う少女だが、鬼の萃香が気に入るほどに根が真っ直ぐなのだ。一週間も続いている基礎訓練を文句も言わずに続けているあたり、その性格が見て取れる。
「しかし、ふぅん。意外というかなんというか」
唸る花子を見ながら、ぼんやりと呟いた。萃香ほどの妖怪となれば、相手の妖気を見るだけでその人物が持つ妖術の縁が分かる。天狗ならば風との縁が凄まじく強いし、妖獣は地の力を借りて大地を自在に駆け回る。いわゆる得意分野のことだ。必死に妖力をまとめ上げようとしている花子から漏れている妖気は、水との縁が深い。
厠の妖怪と聞いていたので、妖気の縁を見るのが少し嫌だったのだが、花子が持つ縁は汚水などではなく、純粋な水と繋がっていた。厠と綺麗な水との繋がりが萃香にはいまいち分からなかったが、花子のいた学校はほとんどが水洗トイレだったということがその理由だ。さらに言えば花子は綺麗好きなので、夜中に出てきてはトイレ掃除をしていたせいで、汚いものとの縁は薄い。
萃香は花子が汚物を操る妖怪になるのではとハラハラしていたが、とりあえずその心配はないようだ。水を用いたショットと、彼女特有のスペルカード。花子がどんな技を編み出すのか、今から楽しみだった。
「ま……弾幕は当分先になりそうだけどね」
今の花子は、下手をすれば人間や妖精以下だ。数ヶ月でどこまで育てられるかまったく予想ができないが、元来前向きな萃香が不安に感じることはなかった。
日がずいぶん高くなってきた。そろそろ昼食時だろう。集中しきっている花子に近寄り、その肩を叩く。
「花子、そろそろ飯にしようか」
「むむむ……むむ? もうお昼ですか、あっという間だなぁ」
唸り声をやめて顔を上げる花子。同時に、彼女が練り上げていた妖力が崩れて霧散する。もう少し綺麗な後片付けがあるだろうにと思ったが、生まれたばかりの妖怪と大差ないのだから、こんなものなのかもしれない。
立ち上がろうとして、花子がバランスを崩す。足が痺れているようだが、これもいつものことだ。慣れた手つきで支えてやると、彼女はやはりいつも通り律儀に頭を下げた。
「うぅ、すみません」
「気にしないでいいよ、私も座禅は嫌いだし」
歩きにくそうな花子の手を引き、萃香が作った簡単な焚き火小屋へ向かう。寝泊りもそこでしているが、嵐でも来ない限り雨風は凌げる大きさになっている。
本日の昼食は、萃香が能力で集めて一網打尽にした川魚。花子が座禅を組んでいる間にワタを抜いてあるので、あとは焼くだけだ。かなりの量があるので、干物を作ることもできるだろう。
焚き火を囲むように、串に刺した魚を立て並べていく。程なくしてうまそうな香りが溢れ、萃香と花子の食欲をそそった。白米がほしいところだが、ないものねだりをしても仕方がない。二人で両手を合わせて、いただきますと声を揃える。
師弟揃って好きな魚を手に取り、口に運ぶ。軽く塩を振った程度の味付けだが、焼き魚にはこれが一番だと萃香は思っていた。満面の笑みで魚の白い肉を頬張る花子も、きっと同じだろう。ここのところ毎日一食は魚を食べているが、まだ飽きられてはいないらしい。
酒を飲みつつちびちび食べる萃香と違い、花子はよほど腹が減っていたのか、あっという間に一匹目を平らげてしまった。指を舐めつつ、火に炙られている焼き魚を見つめている。
「次、食べていいですか?」
「いいよ、遠慮しないで食べちゃいな」
いちいち許可を取ることもないだろうにと、萃香は笑いつつ頷いた。花子が喜んで一番大きい魚を取り、
「……あれ?」
頓狂な声を上げる。どうしたのかと見てみれば、彼女は焼かれている魚を凝視していた。手にはもう、焼き魚を持っている。
「どうしたんだい? 食べるなら一匹ずつにしな、欲張りはよくないよ」
「ち、違います! ねぇ萃香さん、最初に焼いてた時より、一匹少なくないですか?」
指差された焼き魚は、言われてみれば確かに少ない。全部で五匹焼いたはずだが、もう一匹しかなかった。
「んー? 花子、あんたそれ本当に二匹目? もう三匹目なんじゃないの?」
「まだ二匹目ですよ! 萃香さんこそ、もう食べちゃっておかわりしたんじゃないですか?」
ややムキになって、花子が反論する。弱い妖怪でこうまで萃香に突っかかってくる者は、彼女意外にそうはいないだろう。そのことが嬉しくもあったが、犯人扱いされたのでは面白くない。
胡坐に組んだ右ひざに頬杖をついて、萃香は溜息をついた。
「私ゃ酒の肴につまんでる程度だよ。恥ずかしがらなくてもいいさ、食い盛りってことで許してあげるよ」
「違いますってば! ……あ、ほらまた!」
花子の視線に釣られて焚き火に目を落としてみれば、魚がさらに一匹姿を消しているではないか。さすがの萃香もこれには目を丸くした。
「ありゃ? なんだいこれは」
「また、ごまかして! 萃香さんは鬼なんでしょ。強ーい妖怪なら、魚をあっという間に食べちゃうくらいできるんじゃないんですか?」
「あぁん? むちゃくちゃな言いがかりだねェ。早食いと強さにどんな関係があるってんだい」
「そ、そりゃまぁ、なんとなく……」
もう分かっていたことだが、花子はいまいち思慮の足りない少女である。
「花子。あんたはもう少し考えてからものを言ったり行動したほうがいいよ。ほら、串だって私はこれしかないじゃないか」
今も少しずつしか減っていない一匹目を花子の前に掲げて見せるも、花子はいまいち納得できないらしい。
「うぅん、でも私だって食べていないもの。やっぱり萃香さんが無意識のうちに食べちゃったんですよ」
「無意識って、私は今まであんたと話してたじゃないか……。目にも留まらない速さで魚を平らげる妖怪なんて、聞いたことないよ。亡霊に心当たりはあるけど」
呆れて笑いが引きつったが、ふと酒を飲む手を止めた。
「ん? ……無意識?」
この場にいるのは、萃香と花子。確かに二人しかいない。しかしそれは、萃香の意識が認識している人物は、だ。
脳裏に鴉羽色の唾広帽子を大切にしている妖怪少女の姿がよぎる。ここは地底の入り口付近なのだから、彼女と遭遇したとしてもなんら不思議ではない。
すぐ近くに、彼女がいる。萃香は確信した。
「あのイタズラ娘め……」
「?」
きょとんとしている花子を置いて、萃香は自身の能力である『密と疎を操る程度の能力』を使った。
生命活動に支障が出るのでほんの一瞬だけだが、萃香と花子の無意識を
花子の隣に、何の前触れもなく本当に突然、少女が出現した。薄く緑がかった灰色のセミロングの上には、萃香の予想通り鴉羽色の帽子が乗っかっている。
まるで初めからそこにいて昼食に参加していたかのように、焚き火の前に座って焼き魚を頬張っていた。
「んー。あふぃーへほひぃひおはへん、ほーひぃ」
「うわ、わぁぁぁぁぁっ!?」
もぐもぐとやりながら理解不能な声を上げる少女に、花子がとても分かりやすいリアクションを取った。
気配も何もなかったのに突然隣に現れたのだから、彼女の反応も無理からぬことだろう。手に取っていた魚を落としてしまっても気にならないほど驚いているが、鴉羽色の帽子を被った少女――
これも無意識の行動なのだろうかと、萃香は訝しげに眉を寄せた。こいしは無意識を操る妖怪であり、自身も無意識に予想外の行動を取ることが多いそうなのだが、萃香には無意識の行動とやらが故意に思えて仕方がない時があった。どうにもわざとらしいのだ。
「こいし、食べたきゃちゃんと顔見せてからにしな」
「あわわわ、誰? 誰なのこの子!?」
腰を抜かしている花子の言葉を聞いているのかいないのか、こいしは口に含んでいた魚を飲み下し、幸せそうな笑顔を浮かべた。
「お魚、おいしいねぇー」
なんとも間の抜けた声に、萃香は笑うしかなかった。
◇◆◇◆◇
唐突なこいしの昼食参戦には驚かされたが、追加で魚が数匹犠牲になった程度で、花子は満腹になることができた。
三人揃って食後の挨拶を終え、今は食休み中だ。神出鬼没が過ぎるこいしに最初はどぎまぎしていたが、話してみれば普通の少女あった。少しだけ話し方がのんびりしているが、彼女の性格だろう。
こいしは地底の妖怪だと、萃香が教えてくれた。地底界の妖怪は忌み嫌われ封印された者達であり、こいしは心を読む
花子には心を読まれることにどんな不都合があるのかいまいち分からなかった。確かに心中を見られるのは少し恥ずかしいが、だからといって地底深くに封印することはないと思うのだ。彼女が子供と同程度の精神年齢だからこその感想だが。
とはいえ、複雑な事情に首を突っ込めるような立場でないことはフランドールの一件で学んでいる。こいし自身もそんなに気にしているわけではなさそうなので、しつこく聞くことはしなかった。
最近では彼女を初めとして地底と幻想郷を出入りする妖怪も増えているそうだ。萃香曰く、地底の連中は割りと陽気に暮らしているらしく、地底に封じられたことを恨んでいる者は少ないという。いつか行ってみたいと花子は思った。
「なるほどぉ。それで花子は、妖力を練るところから始めてるんだねぇ」
幻想郷に来てからのことをかいつまんで話すと、こいしは笑顔のままで納得してくれた。郷の妖怪は実力至上主義なところがあるので今回も馬鹿にされるのかと心配していたが、杞憂だったようだ。
萃香がもらってきたというお茶を飲みつつ、花子は頷いた。
「幻想郷の妖怪になるんだから、最低限のことはできないとって言われちゃって。一から始めなきゃならないのが恥ずかしいけど、がんばらなきゃね」
「えらいねぇー。私、勉強とか練習とか嫌いだから、すごいと思うよー」
語尾を伸ばしがちで暢気なイメージが強いこいしだ。失礼かもしれないが、確かに勤勉そうには見えない。この時花子はまだ知らなかったが、こいしは自分の好きなことにだけは妥協しないタイプだ。弾幕ごっこがとても得意だったりするのも、そういう理由だった。
お茶を一口啜ってから、こいしはわずかに眉を寄せて、
「お姉ちゃんはいっつも、地霊殿の妖怪としての自覚を持てーなんて言うんだ。私はほとんど出歩いてて家にいないんだから、ほっといてくれればいいのにねぇー」
「あのねぇこいし。さとりはあんたを心配してるんだよ? ただ一人の家族なんだから、たまにゃ姉貴に孝行してやんな。大体こいしはいつも――」
「あーあー聞こえなーい、こんなところでお説教なんてされたくなーい」
耳をふさいで目を閉じるこいしである。花子が今まで出会った妖怪とは違ったベクトルの変わり者だが、一緒にいて気楽な相手だった。彼女を監督しなければならない立場の者は、その限りではないようだが。
「……さとりも苦労するわけだよ、こりゃ」
溜息と共に言いたいことも吐き出した萃香が、立ち上がった。
「よし、花子。続き始めるよ」
「はい」
「えぇー、もうやるの? もっと休憩してもいいじゃない」
特訓するのは花子だというのに、こいしが唇を尖らせてブーイングを飛ばしてくる。そもそも彼女が現れたことでいつもより昼食の休憩時間が延びているのだが、なんともマイペースな少女だ。
ややこしくなると見たのか、萃香はあえて返事をせずに、花子をいつもの岩に座るよう促した。最初は硬くて嫌だったがすっかり慣れてしまった岩の上に座禅を組み、花子はさっそく瞼を閉じて集中を始める。
幻想郷でよく使われる単語として、妖力、魔力、霊力がある。これらは全て一様に同じものだが、属する種族によって呼び名や気質が変わるのだ。妖怪や妖精ならば妖力、悪魔ならば魔力、神に属する者であれば霊力となる。
人間の場合はその限りではなく、目指した方向で手に入れられる力が変わってくるのも特徴だ。魔法使いの魔理沙は魔力に精通しているし、神に仕える身である霊夢と早苗ならば霊力を身に秘めているのだ。
これらの力は固体のキャパシティで保持できる量が変わってくる。これと単純な身体能力などが相まって、妖怪を下級、中級、上級とランク付けすることとなるのだ。あくまで人間から見た物差しだが、この場にいる者で例えるならば、萃香は上級、こいしは中級にそれぞれ分類される。
花子の目標は、下級でもいいので妖怪として認識されるだけの力をつけることだ。彼女の妖力は決して多いとは言えないが、妖怪としての最低ラインは超している。力の使い方が絶望的に下手なだけで、使いこなせるようになれば下級妖怪の仲間入りも夢ではない。
その妖力を使いこなすということが、今も花子を苦しめている。勉学を教えてくれという子供が、ペンの握り方から教えてもらっているようなものだ。
「ほら花子、また余計な妖力が漏れてるじゃないか。あんたはもとが少ないんだから無駄をなくせって言ってるだろう」
「は、はいっ」
萃香の叱咤は厳しい口調ではないが、言葉に強者特有の力が篭っている。花子は素直に集中しなおした。
一週間も特訓を続けているものの、花子のものであるはずの妖力はなかなか言うことを聞いてくれなかった。必要な量を体中に満たしては戻し、再び満たすの繰り返し。この訓練は妖怪ならば一度はしたことがある身体強化の基礎である。準備運動程度のものなのだが、彼女はこのコントロールすらも難しい状態なのだ。萃香がこれ以下の訓練方法を知らないので、ともかくやるしかない。
文との決闘ももちろんあるが、何より早く一人前の妖怪になりたい。焦ればうまくいかぬと分かっているのに、花子はうまくできない自分に焦れてまた余分な力を込めてしまった。すかさず萃香の叱咤が飛んでくる。
「花子、まただよ」
「はい、すいませんっ」
「焦ってどうにかなるもんじゃァないんだから。落ち着きな」
完全に見透かされていることに申し訳なくなりつつ、一度深呼吸して冷静さを取り戻した。
第三者であるこいしに見られている緊張や、こいしとも対等に接せるだけの妖怪になりたいという気持ちがあっての焦りだったのだが、さすがに萃香もそこまでは気づいていないようだ。
一方そのこいしはといえば、断りもなしに萃香のかばんからお茶の葉を取り出し、またも勝手にやかんを使って湯を沸かし、茶を淹れていた。自分のものを勝手に使われた萃香は、気づいていながらも止めようとしない。諦めているようだ。
さも当然とばかりに木製のカップ――これは彼女の自前だ――に注ぎ、こいしは特訓に励む花子を見ながら難しい顔で茶を啜った。
「んー。ふむふむ」
「……」
「なぁる。なるほどねぇー」
目を閉じている花子にはこいしの顔が見えなかったが、なにやら神妙な声は聞こえてくる。それがどうにも、気になって仕方がない。
「そっかそっか。そういうことかぁー」
「……むぅ、こいしちゃん、静かにしてよ」
「えぇー?」
まるで理解できないと言わんばかりにきょとんとしているこいしだが、首を傾げたいのは花子のほうだ。
萃香も気になっていたらしく、瓢箪の酒で唇を潤してから、こいしへと振り返った。
「さっきからぶつぶつと、どうしたんだい?」
「んっとねぇ、花子は妖力のコントロールをしようとしてるんだよねぇ?」
集中は解いているが律儀に座禅を組んだまま、花子が頷く。すると、こいしは何かに満足したような笑みを浮かべて、
「やっぱり。でもそれじゃ、きっといつまでたってもできないと思うよぉ。萃香さんも、気づいてるんじゃないの?」
「……まぁ、ねェ」
微妙な面持ちで、萃香が頬を掻いた。
理解できずにぽかんと口を半開きにしていると、こいしが自慢げに胸を張る。
「花子のやろうとしてる力の操作はね、普通の妖怪なら息をすることと同じくらい簡単なことなんだよぉ」
「うん、それは聞いたよ。それができなきゃ話にならないって」
「そうそう。でもね、これは練習すればできるようになるってもんでもないの。ねぇ萃香さん」
「あ、えっと……まぁ……」
しどろもどろな萃香は、答えをはぐらかしているようだ。
まさか、この一週間の努力が水泡に帰すというのか。花子はとうとう座禅を解いて立ち上がり、こいしへと詰め寄った。
「どういうこと? こいしちゃん、教えて!」
「うふふ、いいよぉー。教えてあげる」
人差し指など立てて、こいしがウィンクする。深緑の瞳が片方隠れ、そのしぐさが可愛らしいのは結構なのだが、花子はそれどころではない。
しがみつくのではというほどの勢いで近寄る花子をものともせず、こいしは立てた人差し指を引っ込めた。
「花子は、どうやって呼吸してるの?」
「え?」
「どうやって眠りに落ちてる? おなかが減ったって、どうやって理解してる?」
「そりゃ、息なんて自然にできるし……。目を閉じてて気づいたら眠ってるし、おなかが減るのだって――」
彼女が言いたいことはなんとなく分かっていたが、こいしが意味もなくこんな話をしているとも思えず、花子は続きを待つことにする。
どうしてか妙に嬉しそうな顔で、こいしが頷いた。
「うん、そうそう。息も眠るのも、おなかが減るのも、心臓が動くのも、みぃんな無意識。花子の知らないところ――あなたのずぅっと奥深くで知らないうちにやってることなの。練習なんてしなくてもできるし、どんなに練習したって自分の意識で操ることはできない」
「……つまり、妖力のコントロールは無意識にできているはずのことだから、どれだけ練習しても無駄……ってこと?」
「私には花子がどうしてそれができないのか分からないけど、特訓でどうにかなるものじゃないと思うなぁー」
ずいぶんと気楽に言ってくれるが、花子はすっかり落ち込んでしまった。夏に近づいている太陽が照り付ける中必死になって座禅を組んだ一週間が、こんなに明るい笑顔で否定されてしまったのだから無理もない。
やりきれない気持ちをぶつけるために、萃香に振り返る。八つ当たりだと分かっていても、つい頬を膨らませてしまう。
「知ってたんですか? 萃香さん」
「いやァ、一応効果がないわけじゃないよ。複雑な妖力のコントロールをする時は、誰でもこの基礎訓練はするしね。大は小を兼ねるって言うから、どうかなぁと思ったんだけどねぇ」
「そんなぁ」
目じりに涙など浮かべてしょぼくれる花子。申し訳ないとは思っているのか、近寄ってきた萃香が頭を撫でてきた。
「まぁその……なんだ。よくなってきたのは事実なんだし、元気だしなよ」
「うぅ。でも無駄だったんですよねぇ」
「あはは、無駄だったねぇー」
笑顔で止めを刺してくるこいしは、まったく悪気はないのだろう。彼女を責める気には、とてもなれなかった。
付きっ切りで特訓に付き合ってくれた萃香と二人揃って溜息をつく。実らない努力を続けていたという事実で、花子の心はすっかり折れてしまっていた。
「もうだめかなぁ。幻想郷の妖怪になれないのかなぁ」
文に散々言われてしまった時の気持ちが蘇り、失意のどん底に落ちていきかけた花子だったが、ちらりと見えたこいしの自信満々な顔でなんとか舞い戻る。
「……どうしたの? こいしちゃん」
「うふふ。無意識でしか操れないものなら、その無意識を操っちゃえばいい。そう思わない?」
「……あ」
無意識を操るこいしの力を持ってすれば、花子の無意識下に妖力の操作をすり込むことができるのではないか。こいしが笑顔でいる理由が分かり、花子は一抹の希望を抱くことができた。
しかし、これには萃香が首を捻る。
「簡単に言うけどねぇ。あんたの能力でそんなことまでできるのかい? もしそうだとしたら、意識しなきゃ呼吸ができなくなる、なんてことにさせちまうこともできちゃうじゃないか」
「あ、うん。無意識を操るんだから、もちろんそれもできるよぉー」
恐ろしいことをさらっと口走るが、萃香の反応は「あ、できるんだ」といった程度であった。
幻想郷には危険な能力を持つ者があまりにも多いため、どうにも感覚が狂ってしまっているようだ。こいしもこいしで、どうでもいいとばかりにさっさと話題を戻した。
「花子はいい子だから、私が特別に無意識を操ってあげるねぇ」
「でもいいのかな、そんなインチキみたいなことで……」
「むー。インチキなんかじゃないよぉ。私の力で花子を助けてあげたいだけだよ」
半眼で唇を尖らせるので怒らせてしまったかと思ったが、こいしはすぐにふんわりとした笑顔に戻った。喜怒哀楽が掴みにくい少女だ。
「大丈夫、私に任せて」
「そ、そこまで言うなら……お願いしようかな」
「うん、そうこなくっちゃ!」
嬉しそうに手を叩いて、花子より頭一つ分ほど背が高いこいしが、ひざに手を当てて中腰の体勢を作った。
「それじゃ花子。私の目を見て?」
「う、うん」
息がかかってしまうほどの距離なのでどうにもやり辛かったが、花子は言われたとおりこいしの瞳をじっと見つめた。
花子の黒目をじぃっと覗き込み、こいしはささやく様な声音で告げる。
「無意識にはねぇ、いろいろなものがあるの。生きるために必要な、大切なことが詰まってる。どうでもいいものもたくさん落ちてる。単純だけど複雑で、サラサラしてるけどドロドロ。明るいけど真っ暗な、そんな場所。私はそこを操れるの。自分のものも、人のものもね」
「……」
一言一言が心に染み込んでいくようで、花子は思わず息を呑んだ。深緑の双眸に吸い込まれるような心地で、まばたきもできずに立ちすくむ。
「深い、深ぁーい場所にある。そこに花子の声は届かないけど、私が閉ざしたこの瞳は、そこを見ることができるの。今も見えてるよ、花子の無意識。そこにないものを私があげることくらい、とっても簡単。
信じられない? そうかもねぇ。でも、本当に簡単なんだよ。とぉっても簡単なの――」
柔らかな感触。小さな手が頬を撫でている。そのことに気づくと同時に、花子の額にこいしの額がぶつかった。
「ほら、ね」
すぅ、とこいしが離れ、花子は途端に目が覚めたような心地を覚えた。頭の中がすっきりとしていて、とても気持ちがいい。
何をされたのかはまるで分からなかったが、体の芯が定まったような、不思議な感覚があった。今まで雑に流れていた自身の妖力が、体中を丁寧に巡っている。全身がなんとなく軽いのも、気のせいではないだろう。
ものの数秒で、花子は最初の目標をクリアしてしまっていた。
「あ……わ……す、萃香さん」
「ありゃ。驚いたねぇ、まさか本当にできちゃうとは」
そう呟く萃香だが、彼女の顔は驚愕というよりも呆れに近い。こいしはといえば、腰に両手を当ててそれ見ろとふんぞり返っている。
「だから言ったでしょー? 簡単だって」
「あ、ありがとう。こいしちゃん」
「うん、どういたしましてぇ」
やわらかく微笑むこいしに、花子はどんな顔をしたらいいのか分からなくなっていた。萃香も似たようなものらしく、とりあえず呑もう、というよく分からない結論に達している。
体内を巡る妖力は紛れもなく自分のものだし、萃香が目指せといっていた無意識下でのコントロールができていることも分かる。
妖怪としての基礎を身につけられたのだから、これが嬉しくないわけがない。しかし、それ以上に唖然としてしまっていた。
あまりにもあっけなすぎるではないか。自分の両手を見つめて、ぽつりと零す。
「……この一週間って、なんだったんだろうなぁ」
「にひひ。何事も経験、経験ってねぇー」
間延びしたこいしの声は、なんとも暢気なものだった。夏の日差しまでもが脱力しそうだ。花子も思わず両手をだらりと下ろして、溜息をつく。
「まぁ、うん。結果オーライってことだよね」
「そうそう。難しく考えないのが一番だよぉー」
にこにこしながら言うこいし。こんなにもやる気がなくなってしまったのは、きっと今も彼女が無意識を操っているからだろう。そういうことにしよう。
花子は萃香と目を合わせ、とりあえず、笑っておくことにした。
◇◆◇◆◇
鬼の萃香がここにいれば、火を焚かずとも妖怪共に襲われる心配などない。しかし、小さくなった火種を消すことをなぜかもったいなく感じて、萃香は燃えすぎない程度に焚き火へ薪を足していた。
硬い地面では寝にくいだろうから、花子が寝るスペースにはやわらかい土を集めている。その上に適当な布切れ――山で倒れた人間の衣類だろうが、花子には内緒にしてある――をしいて、花子とこいしが寄り添うように眠っていた。
まさか無意識を操ることで妖力のコントロールまでできるようになってしまうとは思わなかったが、こいしがそれ以上手を貸すことはなかった。飛行と弾幕ごっこは、予定通り萃香が教えてやることになるだろう。
こいしは、こういうところの空気は読めるのだ。だからこそ余計に、普段ぼうっとしているのがわざとらしく見えてしまう。どちらにしても悪い妖怪ではないので、萃香も問い詰めるようなことまではしないのだが。
酒を一口飲み込んでから、空を見上げる。そろそろ来る頃だろう。そう思った直後、背後から声がかかった。
「あらあら、古明地の妹までいるなんて。地底との不文律はどうなったのかしら」
「地底から船まで出てきてるんだ、もうあってないようなもんだと思うよ」
「困ったものだわ」
「地底と地上とを切り離そうってのが古い考えなんだろうよ。私もあんたも、年を取りすぎたのさ」
振り向かずとも、背後では冗談めかして口元に手を当てて、「まぁ失礼ね」などと言っているのが手に取るように分かった。
しかし、友人にいつまでも背を向けたままでいるのも失礼だろう。振り返って、花子から預かっていた手紙を渡す。
「ほら、『手紙のお姉さん』。今日は書いたみたいだよ」
「確かに預かりましたわ」
細い指が手紙を受け取り、萃香はその珍妙としか言えない光景に思わず失笑してしまう。
「しかしまぁ、あんたが直々に手紙を運ぶなんてねェ。花子に特別なもんでもあるのかい?」
「あの子にはなにも。彼女が外で関わったとある御仁に頼まれているだけよ」
懐に手紙をしまい、彼女は肩をすくめた。幻想郷と外の世界を行き来する者など、彼女くらいなものだ。妖怪は基本的に、結界の外に出ようとはしない。
郷の外で何をやっているのかは知らないし興味もないが、彼女ほどの妖怪に手紙運びを頼める者がいることに、萃香は目を丸くした。
「あんたを使いっ走りにする奴がいるのかい? 大した奴だ、さぞ強いんだろうねェ」
「力だけが優劣を決めるなんて、古い考えですわ。萃香、年を取ったんじゃなくて?」
思わぬ言葉に、つい吹き出してしまった。まさか、気にしていたのだろうか。
火に軽く照らされた女の顔は怒っているわけでもなく、いつもと同じ何を考えているか分からない微笑を口元にたたえているばかりだ。無駄に頭が回る彼女とまともに話をするのは疲れるので、萃香はいつも適当に流すような会話を心がけていた。
「ま、いいや。昔の知り合いか何かってことにしておくさ」
「似たようなものよ。……さて、それじゃあ今日はこの辺で、失礼しますわ」
返事を待たずに、女――妖怪の賢者である
花子が幻想郷に来てすぐ、紫は彼女と接触したらしい。それからというもの、花子の手紙を毎回外に届けているそうだ。どういう理由かなど想像もつかなかったが、紫の場合は本当に酔狂でやっている可能性がある。考えるだけ無駄だろう。
しかし、『手紙のお姉さん』とは。花子に聞いた話では、そう呼べと紫が言ったそうだ。しかも、何度もしつこく。
「お姉さん……お、お姉さんねぇ……ふふ」
ぷるぷると震える体を何とか抑えて、萃香はしかし、笑いを完全にこらえることができなかった。
遥か太古から生きている大妖怪が、まさか、そんな小さなことにこだわるなんて。
「あいつ、やっぱり自分の年を気にしてるんじゃないか」
賢者と呼ばれる友人の意外な一面。これを肴にもう少し飲めそうだ。
くつくつと笑いながら、萃香はもう少しだけ一人酒を楽しむことにした。