ハイスクール・フリート・プラスワン・アンド・アザー   作:オーバードライヴ

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【注意】原作と大きくかけ離れた描写が散見されます。あらかじめご了承ください。
特にもかちゃんファンの方、本当にごめんなさい。


明日を語る鍵を得たとき

 

 

 

 荒れ放題になった平屋の建物の前に立つ。宗谷真雪は軽く上がった息を整える。本格的に山道を登るのは老骨には堪えると思い、自らが大分衰えたことを知る。クーラーが効いた部屋での椅子磨き(デスクワーク)が長すぎたのだと思う。その時の癖でスーツを着こんできたのは半ば間違いだったとも思う。もっとラフな格好で来るんだった。

 

「……」

 

 古びた表札には『北条』の文字が入っていた。それを見て間違っていないことを知る。間違いなくここが目的地だ。

 

 振り返る。背後にはこの谷を埋めるように棚田が広がっている。田植え直前の水張りだけが済んだそこは、夕焼けには早すぎる淡い色合いの空の光を反射していた。その向こうに広がる海と同じ色合いだ。棚田はこの50年の間で急増しているから珍しい風景ではなくなっているとはいえ、常に海にいた彼女にとっては物珍しい光景だった。急激な地盤沈降を受けて一気に開墾が進んだのだ。平野が沈んで消えた田畑の補填として国策で無理矢理に作り上げた棚田は既に草臥れた様相を成していた。

 

「……あんたぁ、北条さんの知り合いけぇ?」

 

 あぜ道を登ってきた皺だらけの老人がしゃがれた声でそう声をかけた。もう腰は90度近く曲がった女性だ。花柄に染め抜かれた頭巾で頭を隠した女性に軽く会釈してから真雪は口を開いた。

 

「知り合いというわけではないのですが、北条沙苗さんの上司にあたります」

「北条さんならおらんよ」

「……みたい、ですね」

 

 表札が掛かった門の向こう、もはやドアすらも外れた空き家がある。松の木が生えている庭は手入れが行き届いていれば大層きれいなものだったのだろう。その面影だけが辛うじてこの家が中流以上の人が住んでいたことを示していた。

 

「北条一家はずっと前に蒸発しとる。夜逃げじゃ夜逃げ」

「夜逃げ……何かあったんですか?」

「……あんたぁ、どちらさんです? 公安かい?」

 

 いきなり態度が硬化したのを見て、真雪は地雷を踏んだことに気が付いた。だが、それでも聞かれたことには答えなければならない。沈黙は相手の主張を認めたことと同義だ。

 

「私は沙苗さんの上司なんですが、沙苗さんがいきなり指示を無視して蒸発してしまいまして……とりあえず住民登記が残っているここに来てみたんですが……」

 

 嘘は言っていないレベルで脚色してそう伝えた。真雪は校長でその学校の教務主任補が北条なのだから上司という表現は適切であり、真雪の指示を無視して武蔵ごと消えているのだから蒸発といっていいだろう。一家丸ごと蒸発した先で、北条沙苗の仕事が流出しているとは思えない。

 

「あぁ、また輪を乱してんだね、北条さんちの子は仕方のない子じゃけぇのぉ。本当に……」

 

 そう言って興味を失ったようにあぜ道を上がっていく老婆。

 

「あんたがどんな人かは存じ上げませんが、あたしゃあ村で長いほうだけんど、村の中では北条の名を出さん方がえぇ。偉い方が大層お怒りになるけぇ……」

「分かりました。肝に銘じます」

 

 よぼよぼと歩いて山の上の方に消えていく老婆を見送ってから、真雪は旧北条宅へと乗り込んだ。荒れ放題の家の中は畳にも土足で上がった跡があった。食器や花瓶の破片が散乱しているのを見て、眉を顰める。

 

「……荒らし、というよりは、金目のもの以外を壊していった形かしら」

 

 そう呟かずにはいられない惨状だった。棚という棚には無理矢理に開けられた痕跡が残っている。奥の畳の部屋からはきのこが生えていて長い時間ここが廃墟であったことを訴えていた。それを見て真雪はそっと細長い機械を取り出し、スイッチを入れた。

 

「北条家は既に廃墟化……埃のたまり方から見て、物取り・浮浪者の類が住み着いていた痕跡もなし」

 

 そういいながら、畳の上に放り投げられたの引き出しをそっと持ち上げてみる。比較的日に焼けていない畳の面が見て取れる。

 

「居間・台所等については念入りに物色した痕跡あり。台所等の荒らされ方からして、主婦等が物取りに参加した可能性が大。物取り、もしくは荒らしがあってから長い年月が経過している」

 

 音声メモに声を吹き込みながら奥へ奥へと進んでいく。応接室のような洋間には朽ちてボロボロになったソファがあった。介護が必要なお年寄りがいたのか、電動ベッドの骨組みだけが残っている。

 

 真雪は一つの部屋の前で足を止めた。

 

「……子ども部屋」

 

 ふすまの敷居を跨いで中に入る。その部屋は他の部屋よりも凄惨だった。

 

 刃物か何かでズタズタにされたテディベアであっただろうぬいぐるみの残骸、ベッドだったものの骨組みはめちゃくちゃに折られていた。机も天板に大きな傷がついており、呪うような言葉が彫られていた。

 

「空き巣等を主目的にした犯行の可能性は希薄。北条家に対する怨恨の可能性が大。子供部屋の惨状を見るに、怨恨を買ったのは北条家の第一子にして長女たる北条沙苗であることが推察される」

 

 崩れかけの土壁を軽く指でなぞる。埃と油が混ざり合ってヘドロのようになった汚れが嫌な感触を残す。

 

「『私は間違ってない』『殺してやる』『許さない』……勉強机の天板に掘ったのはおそらく北条沙苗本人で間違いない。理由は不明だが、彼女の周囲に対する強烈な攻撃的思考を持っていた可能性は極めて高い」

 

 真雪はそっと引き出しを開ける。中にはボロボロに朽ちようとしているノートがその他の文房具と一緒に入っていた。腕時計なども時を止めたまま残っている。

 

「北条沙苗の荷物だけ、破壊はされているが持ちだされていないことを考えるに、彼女のものに関しては持ち出しを忌避したと考えられる」

 

 ノートを開けると中身は国語の板書だった。几帳面なノートの字に混じって、明らかに別の筆跡の落書きが散見される。黒い油性マジックで書かれたと思われるものもあり、かなり陰湿だ。

 

「学校でのいじめがあった。しかしながらそれだけで蒸発になるとは考えにくい」

 

 ゆっくりとレコーダーに声を入れながらノートをめくっていく。開き癖がついているノートのページで手を止める。

 

「――――そうか、そうか、つまり君はそういうやつだったんだな。……ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』ね」

 

 それだけが書き殴られていた。それを見て、はたと考える。

 

「……エーミールの蝶を壊した『ぼく』に放ったエーミールの言葉。当事者でありながら『ぼく』を一方的に裁いた断罪の言葉。当事者による判断は不当なものになるという意味……かしらね」

 

 その言葉をどういう意図をもってこのノートに書き記したのかはわからないが、真雪にとってそれはなぜか身につまされるようなものがあった。そのノートを閉じ、引き出しに戻そうとしたときに、気が付いた。

 

「……この引き出し」

 

 引き出しの底板を軽く叩く。隣の引き出しを開き、同じように叩いてから両方の底板に手を添えた。

 

「底板の高さが違う、二重底になっている……?」

 

 ノートが置かれていた方の棚の中身をすべて出し、底板を観察する。奥の方に僅かな隙間。そこに手を差し入れ手前に持ち上げてみると、あっけなく底板が持ち上がった。それをそっと持ち上げ、外してみる。

 

「……そういうこと」

 

 二重底の下に隠されていたのは封書とノートだった。封書の宛名には「毎毎日報編集部」とある。全国規模の新聞社だ。

 

 レコーダーの電源を入れたまま机に置き、封がされていない封筒の中身を広げた。

 

 

 

「国政選挙における不正投票の告発文書……!」

 

 

 

 それを見て、背中に冷たいものが走る。

 

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 風切り音。とっさに右に飛び退いて正解だった。勉強机に重い刃物が突き刺さる。レコーダーが真っ二つになるのを見ながら真雪は畳の上を転がり、距離を取ってから右手を左脇に突っ込む。親指でスナップボタンを弾き、H&K-P7拳銃を引き抜いた。

 

「……今更サツが何をしに来たんです」

 

 勉強机に突き刺さった斧を引き抜いた大男を照星越しに見ながら真雪は口を開いた。

 

「残念だけど、警察でも公安でもない、今はただの失業者よ」

「へー、失業者がテッポウ持ってるんだ。日本も物騒になったねぇ。まぁ、建物に勝手に上がり込んで物色してるんだからもともと物騒か」

「その犯罪者に問答無用で斧を振り下ろすのも相当に物騒ね」

「へへ、でもこうでもしないと偉い人に怒られちゃうからね。恨まないでよ」

 

 そう言って大男が斧を投げた。それを間一髪避けて真雪は部屋を飛び出した。台所脇の勝手口まで戻り、外に出る。

 

「さっきのおばあさんが監視役か、カンも体力も落ちたわね。現場から離れすぎよ」

 

 周囲を見回す。地の利は間違いなく向こうが優位。山に逃げ込んだところで向こうの方が慣れているから下策。だとするならば谷を下って海沿いへ行くしかない

 

 覚悟を決めて表へ飛び出す。棚田のあぜ道は視界が開けすぎるが、そこしか道はない。水張りが済んだ田んぼなんて逃走経路としては最悪すぎる。追っ手に猟友会の人間がいないことを願うばかりだ。

 

 急な坂を駈け下りる。横の民家から長い鍬を持った男が出てきた。どうやら村ぐるみで隠蔽したいことがあるらしい。

 

「確かにこんな状況なら夜逃げもしたくなるわね」

 

 苦笑いを浮かべていると後ろから猛スピードで軽トラが迫ってくる。盛大にクラクションが鳴り響く。

 

「乗れ!」

 

 運転席の男が怒鳴った。乗れという割には速度が落ちない。それでも何とかその荷台に飛びついた。振り落とされる前に荷台に転がり込む。横板の陰に隠れるように伏せているとあぜ道から舗装路まで逃げ込めたらしく、振動が変わった。その頃になって、心拍数が異常なほどに上がっていたことをしる。

 

「まったく、老骨には堪えるわね」

「歳を自覚してるならわざわざ危険地帯に飛び込むのはやめてください、宗谷真雪」

「助けてくれたこと感謝します。あなた、チヨダの方よね?」

 

 運転席から飛んできた声に聞き返すと、携帯電話が振ってきた。今はあまり見られなくなった二つ折りの携帯電話だ。すでに通話中になっている。

 

「ボスに繋がってます」

「ありがとう……またお世話になったわね」

《次はないぞ、人魚》

「それは警告かしら、それとも助言?」

 

 電話越しに鼻を鳴らす気配。

 

《どうせ言っても聞く気はないんだろう。それで、無様に駆けずり回ってまでなにか収穫はあったのかね》

「チヨダさんの役に立つかなんて知りませんが、私にとっては大収穫よ」

《何を見た?》

 

 いつも通り不機嫌そうなままの声が問いかけてくる。荷台で体を起こすと夕陽に照らされる海がちらりと見えた。

 

「北条沙苗は中学1年在学中に、地域ぐるみで行われた不正選挙を告発しようとしていた。その結果として、村八分になり、一家丸ごと夜逃げしている。……おそらく北条沙苗が金鵄友愛塾に参加した動機がここにある」

 

 電話の向こうは黙っている。海岸線まで到達して、軽トラは一路東へ。西日に照らされた海を右手に見ながら真雪は話し続けた。

 

「正義を成しているはずなのにそれが悪とされ、家族丸ごと全否定される無力感と憤り。それが北条沙苗の原動力であり、根底にあるものだと考えられます」

《……それで?》

「ここから先は交渉と行きましょう、チヨダさん」

《ほう? 条件を聞こうか》

「晴風に乗務中の岬明乃、彼女の父親が金鵄友愛塾に関与していた可能性が出てきているの。その関係性の解明と、岬明乃が今後共信頼に足る人物かどうかの解析、お願いできるかしら」

 

 しばらく面食らったように電話口が沈黙した。それから含み笑いが漏れる。

 

《ただのお人よしというわけではなさそうだな、いや、人魚には失礼だったか。身内すら切り捨てる気か》

「なりふり構っていられないというだけよ。新橋商店街船が沈没した、次の標的が喰われる前に何が何でも止めなければならない。そのために、私がある」

《……いいだろう。こちらで調査を進めよう。この携帯を持っておけ》

「交渉成立ね」

《それで? 貴様はそこで何を見た》

 

 真雪は僅かに間を取ってから口を開いた。

 

「先ほど彼女の原動力は無力感と憤りだと言いましたが、その出力先はおそらくこの国や地域システム自体の変革だと考えられます。それを成すために彼女は金鵄友愛塾に加盟した」

《それがどうした》

「ヘスペリデス計画は確かに国のシステムを破壊することになるかもしれない。それでも、そのために彼女が参加するとは思えない」

《日本という国への報復なら十分ありえると思うが?》

「だとするならば、何故わざわざ金鵄友愛塾に加盟する必要があったのでしょう。国会議員を主軸とする彼らは報復の対象になりうる」

《すなわち、ヘスペリデス計画にはまだ明らかになっていない目的があると?》

「おそらくは」

 

 真雪の主張に少し黙ってから、電話の向こうが重々しく口を開いた。

 

《……岬明乃の父親、岬明彦(あきひこ)博士は国産光学レクテナ開発における第一人者だった》

「光学レクテナ……」

 

 聞きなれない言葉に一度眉を顰める。

 

《レーザーなどの光を電気エネルギーに変換する技術だ。理論値ではエネルギー効率は80%を超える。もしこれが量産され、太陽光発電に活用され始めたら、最終的にはたった40分の発電で地球上の1年間の電力エネルギーを補うことも可能だとされている。もっとも、そんな効率が出せるのは100年レベルで先だろうが、夢のある研究だろう?》

 

 そういう彼はどこが皮肉げだ。

 

《ここから先は他言無用だ。こちらがいいというまで口を挟むな。運転席の彼に知られても困るレベルの話だ》

 

 真雪は沈黙。背中がじっとりと濡れている。冷や汗が止まらない。

 

《ヘスペリデス計画がただの世論誘導ではないことについては貴様と同意見だ。世論誘導であるならここまで逃げ回ることはしない。武蔵を離反させてからすぐにどこかに向けて暴走させるだけでいい。離反してから逃げ回る間に掴まれば失敗に終わるからだ。そのリスクを取ってでもなしたいことがあると考えるのが妥当だろう》

 

 電話の声は驚くほどクリアだ。その声を黙って聞き続ける。その間にも陽はゆっくりと落ちていく。

 

《金鵄友愛塾は日本という国家を守るためになにができるかを考えることを目的にした勉強会から発生している。それは直接的な防衛のみならず、産業、経済等も含めた包括的な国防体制の構築を考えていということでもある。目立つのは防衛省設置にむけた推進活動だが、それは決して本質ではない。……彼らの目線の先にあるのは、真の独立国家としての日本。すなわち周辺国家に依存しない国家体制の構築だ。エネルギーや食糧を大きく海外に依存しているこの国を変えること。そういう意味では貴様の北条沙苗に関する考察と合致する》

 

 軽トラは信号を超え、海岸線をひた走っていく。夜に向けて急激に気温が下がり始めていた。

 

《岬明彦博士との関係が出てきたことで一つの仮説が立つ。最も、金の動きや人間関係の考察が不十分な以上、可能性の一つ以上の何物でもないが……岬明彦博士の技術を使えば日本のエネルギー問題は一気に軽減される。高効率太陽光発電による石油エネルギー依存からの脱却――――その布石だったとみるべきだろう》

「だった、というのは?」

《良いと言うまで黙れと言ったはずだが?》

 

 スピーカーの声は本当に不満げだった。

 

《すでに光学レクテナ自体の開発は陽の目を見ている。岬博士が残した基礎理論を残された研究室のメンバーたちが補完し、開発を行った。効率は下がるが、これまでの太陽光発電の効率ははるかに上回る。実際にそれを活用した国際プロジェクトが始動している。対外発表がなされたのは、びっくり仰天、タイムリーすぎるぐらいにタイムリー、今日だ》

「……」

《産学官連携プロジェクトで、文部科学省や経済産業省の中央省庁だけではなく、国立再生可能エネルギー研究機構(N I R E)をはじめとした研究機関に民間の工業系シンクタンクも加盟する。参加企業の中には金鵄友愛塾と関連があると思われる企業が複数参加している。既に海外の企業や自治政府からの問い合わせなどが来ているらしいとも聞く》

 

 電話の向こう、公安組織を率いる彼の言葉は確かな質量をもって、彼女の耳朶を揺らす。

 

《プロジェクトの目的は無線電送と高効率太陽光発電を組み合わせ、気象条件に左右されない宇宙空間に大規模な発電プラントを構築すること。受電設備の小型化により、送電場所の制限を撤廃することで、24時間365日体制で無尽蔵の電力を世界中に供給することが出来るようになる。必要な時に必要なだけ、電力を供給することが可能になる。その実験は既に終了し、実用実験に入ることが宣言された。2か月後、シンガポール英委任統治領のロケット射場から実験衛星が軌道投入される》

 

 冷や汗が止まらない。それでもその先を聞かないことは許されなかった。

 

《問題はこれに対して東南アジアを中心とした自治政府や企業が相次いで支持を明言していることだ。各国の電力事情は国ごとに異なるが、そのほとんどは支配国側によって管理運用されている。その利権を脅かすことになる。それを承知で東南アジアの各機関はこのプロジェクトを支持した》

 

 唾を飲んだ。あまりに苦い。

 

《実験衛星なんて名ばかりだろう。すぐに国土交通省に管理が移管され衛星兵器と化すだろう。搭載されるのは高出力レーザー送電装置だ。易々と建物の一つぐらい焼き払うだろうさ。それが、後二カ月で稼働する。――――戦争が始まるぞ。メタンハイドレート利権争奪戦と化した日露戦争の焼き直しだ。100年ぶりの戦争だ》

 

 震えそうになるのを抑え込み、真雪はそっと口を開いた。

 

「……その、名前は?」

 

 

 

 

《プロジェクト・ヘファイストス――――ヘファイストス計画》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     †

 

 

 

 

 

 

 

「うん、計画通り。陸も上手くやってくれたね」

「ほ、北条さん……?」

 

 タブレットが流していたニュースを切って、北条沙苗はそっと笑った。

 

帰還不能地点(ポイント・オブ・ノーリターン)だ。世界が変わっていくよ。もかちゃん」

 

 夕陽の中でそう笑う北条に一歩後ずさりするもえか。

 

「北条さん……あなたは……!?」

「怖いかい、もかちゃん。世界が変わっていくのが」

 

 そう言って北条は武蔵の計器盤にもたれかかる。夕陽を背にしたせいで彼女の表情は眩しくて窺い知れない。だが、猛禽の羽を思わせる鳶色の目だけが爛々と光っているように見える。

 

「もかちゃん、君も変革を望んでいたはずだ。正義であるはずの自分がなぜ否定されなければならないのか、絶対的に間違ってないはずの自分がなぜ不当にも搾取されなければならないのか。それを嘆いていた。それに抗い、声を上げるべく立ち上がった君は、正義だ」

 

 そう言われ、もえかはもう一歩下がる。

 

「違う……それは、そんなことは……」

「では君の父親は正しかったと?」

「それは……っ!」

 

 喉が干上がる。浮かんでくる記憶に慌てて蓋をする。あれは、あの記憶だけは思い出してはダメだ。

 

「逃げるな、向き合え。あそこに帰りたいかい? 君を売り飛ばし、慰み者にしようとしたクソみたいなあの父親の元に戻りたいかい? アレを許容できるのかい?」

「それは……できない、できないけど……っ!」

「なら逃げるのは得策じゃない。それを君に強いたクソ野郎に、それを生み出したこの社会システムに向き合うしかない。そこで逃げれば、いつまでもそれが付いて回る。後ろ指を指されながら、それに耐えるしかなくなる。そんな惨めを君は許容できるのかい?」

 

 背中が壁に触れた。もうこれ以上下がれない。

 

「で、でも……それは、それだけはダメです……! ヘスペリデス計画は、皆を平和にするための、皆で手を取り合って生きるための計画だって……!」

「当然その通り。今の列強支配による東南アジアの解放。エネルギー依存のせいで凝り固まってしまった日本経済の復興。それらをバックアップするための海上安全整備局の権限強化。ヘスペリデス計画は海上安全整備局により強大な武力の保持を認めさせることになる。その力で皆を守ることができるようになる。ブルーマーメイドだった君のお母さんみたいな立派な人がこれ以上死ぬことがないように、たくさんの武器や弾薬を蓄えることが出来るようになる。なにも間違ってはいないよ。これが平和な世界を切り拓く最短経路だ」

 

 いつもの口調でそういう彼女がいきなりおぞましく見えた。

 

「で、でも戦争になるかもしれないんですよ……!」

「そうだね。なるかもしれない。だからこそそれを避けるべくブルーマーメイドがいるんだろう?」

「だからって、戦争になるかもしれないことをしていいって理屈にはならないはずです!」

 

 それを受けて、北条はそっと笑った。

 

「なら、君はこの腐り切った世界を許容するしかない。いくつもの理不尽を前に声を上げないことは、その理不尽を許し、それに加担することだ。君が間違っているといい、君を傷つけたこの世界を正しいものだとして支えることだ。君が『正義ではない(あく)』だと言ったものを正義だと認めることだ。それは正義への反逆だ。それはわかってるのかな?」

 

 そう言って北条はタブレットを振った。

 

「君は十分にこの世界に耐えた。耐えて耐えて耐え抜いて、やっとここに行きついた。ヘスペリデスの園にたどり着いた。理想郷ではないが、それでも君はそこの巫女として迎え入れられた。それだけで君はここにいることが出来るという事だ。それを捨ててまで、君を拒否した世界に戻りたいかい?」

 

 タブレットをいじる北条の声はいつもより優しい。その違和が皮膚から染み込んでくるような感覚に震えが止まらない。

 

「ギリシア神話で出てくる『ヘスペリデスの園』には黄金の林檎の果樹園があった。ゼウスとヘーラーの結婚を祝って送られたものだ。その黄金の林檎はいつだって争いの種になり得るものだ。トロイア戦争を引き起こしたのも黄金の林檎が投げ込まれたのが理由だ」

「争いの種になるってわかっていて、なぜ……!?」

「それが莫大な富を生み出し、権力を生み出し、不老不死を生み出すからさ。そんな危険物を的確に適正に管理するために、ヘーラーは黄金の林檎の手入れをアトラースの娘たちに任せた。ヘスペリデスの巫女の始まりだ」

 

 そう言ってタブレットの画面を見せる北条。そのタブレットには色あせた壁画のようなものが書かれていた。

 

「黄金の林檎はあるべき場所に置かれ、それ以外の場所にはおかれてはならない。今地上には不正に盗み出された林檎がいたるところに置かれている状況だ。その不正は誰かが正さなければならない。正すのは巫女の務めだ」

「だとしても、だとしてもそれで誰かが傷つくのは間違ってますっ!」

「ミケちゃんも同じことを言ってたね。それでも、その不正で今、この瞬間に陽の目を見ることなく苦しみ、死んでいる人がいる」

「だからってそれを正すために誰かを傷つけたら、強者と弱者が入れ替わるだけです。何も変わらない」

「本当に?」

 

 即座に問い返されて、それでも頷いた。それを受けて北条は溜息をついた。

 

「……仕方ないね。どうやらこれ以上君に問答を繰り返しても、君が苦しいだけだろう」

 

 北条がそう言った直後、もえかの体が壁に叩きつけられた。

 

「あ、あなたたち……っ!」

 

 壁に磔にするような姿勢でもえかを押さえつけるのは、横須賀女子海洋学校の制服を着た少女たち――――武蔵のクルーだった。

 

「疑問に思わなかったのかな? 31人という人員がいて、全員が全員私に従うことなんて確率論的に見てもありえない。確かに君と私で皆を説得したけど、抵抗なくするすると決まった」

「RATtウィルス……!」

「君にはその管理者として、とても期待していたんだ。君がいなければ私が武蔵を離れることなんてできなかった」

 

 そう言って北条は小さなケースをポケットから取り出した。

 

「勘違いしないでほしい。私は君に失望しているわけじゃないんだ。君との問答は本当に楽しい。これからも続けられることを願ってもいる。だから、只々残念だ」

 

 ケースから取り出したアンプルを注射器にセットする。もえかの前で初めて北条が表情を消した。

 

「君にヒュドラーは効かないみたいだったから、少しばかり薬効の強いものになってしまう。だけど大丈夫。死にはしないし、君の心を壊すわけでもない。君の正義を君自身が実行できるようにするための処置だよ」

「いっ、いやっ……!」

 

 カツカツと靴の音が響く。

 

「君は正義になれる。だから私は君に正義であってほしい。ヘスペリデスの巫女たる君が不正を成すことがないことを、私は信じていたい」

 

 そう言ってそっと首筋を撫ぜる彼女の指はぞっとするほどに冷えていた。

 

「ヘスペリデスの巫女が林檎を盗むことがないように、ヘーラーは百の頭を持つ大蛇の化け物ラードーンをヘスペリデスの園に置いたという。……君にラードーンを張り付けなきゃいけないことが、本当に、心から残念に思う」

 

 首筋にチクリと痛みが走る。熱いような冷たいような感覚、そして強烈な異物感が襲う。

 

 

 

 

「大丈夫、君の後はきっと岬明乃が継いでくれる。その時は君も一緒だ。知名もえか」

 

 

 

 

 チカチカと点滅する視界の中で北条がそう笑ったのが辛うじて分かった。体が重くなっていく。

 

「ミケ……ちゃ……」

 

 

 逃げて。

 

 

 そう言いきる前に、彼女の視界は暗転する。浮かんだ親友の顔も刹那の間に消え去った。

 

 

 




さて、いろいろごめんなさいな更新です。

もかちゃんの過去の解釈についての批判は甘んじて受けるほかありません。気分を害された方がいらっしゃると思います。本当に申し訳ありません。

やっと本性を現し始めた北条さん。これからどうなっていくのか、私自身も制御できていないところがありますが、これからもお付き合いいただければ幸いです。

――――――
次回 この世界の終わり、始まりのことを
それでは次回もどうぞよろしくお願いいたします。
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