ハイスクール・フリート・プラスワン・アンド・アザー 作:オーバードライヴ
「臨検班、万里小路以下5名、突入しました」
「わかった。煙幕弾等の投擲支援待機。臨検班からの支援要請に備えて」
岬明乃の声に、宗谷ましろは頷く。艦橋に妙な沈黙が落ちる。
「艦長……」
「大丈夫、まだ止まれないから。止まらないから」
明乃はそう言って、微笑もうとしたようだった。上手く笑えないのか、明乃の顔がぎこちなく歪む。
「臨検班との連絡は、シロちゃんが引き続き取り纏めてください。スモークディスペンサー等の火器は副長の判断で使用してよし。ただし、シュペー乗員の安全を可能な限り確保すること。あと、オランダ王国海軍への攻撃は一切禁止します」
「わかった……」
事務的な声でそう言って、明乃は走らないように、それでも速足で艦橋の前部に向かいしゃがみ込む。靴が水を踏むパシャリと言う音が響いた。
「応急キット持ってきました……っ!」
そのタイミングで叫ぶようにそう言いながら艦橋に飛び込んできたのは、真っ赤なバックを抱えた主計科の伊良子美甘給養長だ。その顔が驚愕に染まる。……それも当然。艦橋の様子は変わり果てているからだ。
左舷側の窓はことごとく割れており、その破片が床に散乱している。鉛玉が床に刺さり、跳弾が付けた傷が壁にも残っている。鼻につくのは、血の匂い。そこに立つ誰もがどこかに傷を負っていた。割れたガラスを思いっきり被ってしまったましろは、顔にいくつか切り傷を負ってしまっているし、身体を起こそうとしてガラスの上に手を置いてしまった幸子は掌を切っていた。
「ミカンちゃん、こっち!」
明乃が美甘を呼ぶ。その声に慌ててそっちに走る。ガラスを踏みつけ嫌な音を響かせながらそちらの方に飛んでいく。そこの様子を見て、ミカンは文字通り立ち尽くしてしまった。一番ひどい部分は、入り口から見えていなかったのだ。
血の海だった。
仰向けで寝かされているのは柳だ。血の色に反して、柳の顔色は土色にひどく沈んでおり、唇が紫色に変色しつつあった。防弾ベストと作業服で守られているはずの胸元は大きくはだけるように開かれており、筋肉質な胸板を外気に晒していた。白いアンダーウェアは既に血で真っ赤に染まっており、防弾ベストは重機関銃の斉射には耐え切れなかったらしくベストの左の脇腹の部分から歪んだセラミックスの防弾プレートが飛び出していた。
血の出どころであろう柳の左脇腹を抑え込んでいるのは西崎芽依だ。その顔は血の気が引いて顔面蒼白であり、抑え込む手も震えている。脈を取ろうとしているのか、柳の首に指を置いていた明乃が、美甘を認めて顔を上げた。
「……上が60から40の間……ギリギリだけど、まだなんとかできる。ミカンちゃん、止血剤があるはずだから出しておいて。メイちゃんは直接圧迫続けて、タマちゃん、メモできる?」
「うぃっ!」
「じゃあ今からいう事をメモしておいて」
明乃はそう言いながら、左手で懐中時計を取り出した。志摩がメモ帳にペンをあてがったのを確認して口を開く。
「現在時刻1032、左わき腹に盲管射創1、貫通射創1。自発呼吸、脈拍あり。血圧はアッパー40から60の間。アンダーは測定できず。体温は下降傾向、瞳孔は……」
矢継ぎ早にそう口にしながら明乃が柳の瞼を無理矢理こじ開け、ペンライトをかざした。
「対光反射あり、脳機能障害は現状確認されず。止血処置続行。以上メモしておいて」
「わ、わかった……」
ペンライトを仕舞いつつ、明乃は美甘の方に目を向けた。
「止血剤あった?」
「これでいいの?」
明乃に渡されたのは顆粒が詰まっているらしいパウチとゴム手袋が一緒になったセットだ。それを一瞥して明乃は袋を開け、手袋をはめる。
「メイちゃん代わるね」
「う、うん……」
芽依が手を除けた途端、出血の量が増す。血で重くなったハンカチをどけると思わず目を背けたくなるような――美甘は見ていられずに目を逸らした――破孔が現れた。そこにその顆粒を詰めていく。柳が呻くが、それを無視して詰めていく。横でそれを見ていた芽依は、明乃が何かに耐えるように下唇を噛んだのを見逃さなかった。
「これで、血が止まってくれればいいんだけど……包帯と滅菌ガーゼお願い」
詰め込んだのはセロックス止血剤、血液中の水分を吸ってゲル化するタイプの止血剤だ。そのゲルが傷口を埋めることで体液の損失を抑制できる。あとここでできることは傷口を保護することだけだ。
「メモお願い、現在時刻1034、凝固止血剤の充填と傷口の保護完了。観察処置開始。以上……これで、病院までもてばいいんだけど……」
明乃はそう言って軽くため息をついた。本当なら鏑木美波医務長が対応できるはずなのだが、抗体アンプルの扱いに長けている彼女は臨検班から動かせない。柳の手当てのために引き抜けば、臨検班が危険に晒される可能性がある。全滅してしまう可能性も考慮して動かねばならない。
だから、柳の処置はここにいるメンバーで何とかせねばならない。
今できる処置はこれだけだ。
「ミケちゃん、詳しいんだね……応急処置」
美甘がおずおずと声をかけると、明乃はこくりと頷いた。
「……応急講習は、受けてたから」
明乃はそう言ってから立ち上がる。ゴム手袋を外す。捨てる場所がなかったのか、明乃はそれをポケットに突っ込んで歩き出す。
「ミカンちゃんとタマちゃんは柳教官から目を離さないで。もし、血が止まらなかったり、顔色が急激に変わったりしたら声をかけて」
「う、うん……」
「わかった」
「うん、お願い」
明乃はそう言って壁に掛けてあるライトガンを取り、壊れていないことを確認してから、接近中のオランダ王国海軍の警備艇に向ける。
「まゆちゃん、警備艇には晴風の右舷から接触してもらうから右舷にも防舷材を垂らして」
「はいっ……!」
信号を送信しながら、明乃は指示を出していく。その声色はどこまでもフラットで、それが強制力をもって皆を突き動かしていく。内田まゆみ航海員が見張台から飛び出していく。その後に続こうとした影を認めて、明乃が語気を強めた。
「ミーちゃんは動かないで、ミーちゃんには指示を出してないよ」
艦橋の入り口でピタリと足を止めた、ヴィルヘルミーナは振り返らない。
「今、ミーちゃんを現場に出すわけにはいかないの」
「……儂が皆を傷つけたからか?」
「ミーちゃんが当事者だからだよ」
明乃は即答。明乃は反論がないことを確認して続けた。
「ミーちゃんが助けに行きたいのはよくわかるよ。でもね、許可できない」
「なんで……」
反論しようと振り返って、ヴィルヘルミーナは動きを止めた。明乃の手には、血に汚れた拳銃があった。銃口は何処にも向いていないが、それでも彼女の手には斑に赤黒く染まった銀色の機械が確かにあったのだ。その
「ミーちゃんは、撃てる?」
明乃はそう言ってそれを振った。
「シュペーは撃ってきた。今、シュペーは晴風を敵として認識して撃ってきてるの。撃たなければ、死ぬのは私達かもしれない。……私は、晴風のみんなに死んでほしくない。柳教官にもミーちゃんにも死んでほしくない。……ミーちゃんは、自分の命を守るために、撃てる?」
「……っ!」
「撃てないなら、前線に出すわけにはいかない。誰も死なないために、殺さないために、最大限のことをしなきゃいけないの。だからミーちゃんを前線には出せない。殺されてもいいからテアさんを助けろと言う人が前に出ても、……犬死にしかしないから」
明乃は淡々とそう言った。
普段の彼女なら言わないであろう言葉が飛び出す異質。それに皆の動きが止まった。いつもの明るく溌溂とした彼女なら、言わない言の葉、言わない声色でそれが紡がれる。ましろの視線が落ちる。
その中で明乃だけが歩みを進め、明乃は掌の上で銃を転がし、銃把をヴィルヘルミーナの方に向けた。女性が多い安全監督隊向けにコンパクトにまとめられたM360Jの黒い硬質ゴムのグリップが光る。
「……もう、逃げちゃだめなんだよ。今やるべきことから、やらなきゃいけないことから逃げたら、もう取り返しがつかない位置に来ちゃったんだよ。だから、誰かを傷つける必要があっても、やらなきゃいけない。そのために今、私たちがいるはず」
「ミケ……」
「撃てないなら、そこで迷いがあるなら、出すわけにはいかない」
「なら……儂は……儂はどうすればいいのじゃ……」
崩れ落ちるように膝をついたヴィルヘルミーナに背を向け、明乃は銃を仕舞う。
明乃は答えを持っていた。それでも口にしなかった。
「……それは、自分で考えないと」
それだけ残して明乃は顔を上げる。彼女の目元は乾いていた。
「臨検班の支援体制は維持。オランダ王国海軍の警備艇の迎え入れ準備を行います」
†
想像以上に反動が強い。
野間マチコがH&K HK416Cサブコンパクトを使ってみての感想はそういうものだった。シュペーの木張りの甲板に空薬莢が転がる。
「くっ……」
わらわらと甲板に引き寄せられるように出てくるのは、赤いセーラーの少女たち、遠目に見ても充血していることがわかるほど血走った目、日本人とは明らかに異なる綺麗な金髪が揺れる。それが、3人。手に拳銃のようなものが見える。それを見て引金を引いた。セレクタは2点バースト。フルオートで撃っても仕方がない。反動を抑え込むのだけでもかなり難しいのだ。
タタン、という軽い音のわりにきついショック、それが4回。足元を狙ったが当たったのは1回だけだ。
「当たらないっ!」
一人は倒れてくれたが、残り二人が向かってくる。フラフラと歩く様はさながらゾンビ映画だ。一度後退。一人倒れたら介抱するだろう普通、と思いつつも言っても仕方がない。行き足が止まってしまいやることがなくなったのか、何人も出てくると正直きりがない。
そのまま艦橋の角を回り込むように一度後退。いつもの制服ではなく、黒い上下の作業服と、防弾ベストにヘルメットという、完全防備の味方が防弾盾を持っていることを確認して、射撃中止。セーフティを確認し走り込む。
「万里小路さん、3人くる。用意して」
「承りましたわ」
小笠原光が持っている大きな防弾盾の裏に待機していた万里小路楓が返事をする。マチコも光の隣で盾を構えていた武田美千留の背後に回り込む。先客の鏑木美波を踏まないように注意して美千留と並んだ。万里小路のさらに後ろで小さく隠れている等松美海がキラキラした瞳を向けてくるのはとりあえず無視をした。
「ハンドガンを持ってる。リボルバーじゃなくて、オートマチック」
マチコはそう言うと、美千留がうなずいた。銃を防弾板の上に乗せて安定させる。スリングも左腕に絡ませてさらに安定させる。これなら反動を分散させられるか。そう思いながらセーフティオフ。そのままシュペーのクルーが角を回り込むのを待つ。
「……っ!」
角を回ってきた影に向かって引金を引いた。中身はプラスチック製で中にアンプルを突っ込んだ特製の弾丸だ。当たれば砕けるから死ぬことはない。わかっていても、右腕が震える。
それでも、引いた。先ほどより反動はマイルドに感じる。
胴体にヒット。煽られたようによろけて、そのまま倒れるシュペーのクルー。その間に残った一人が銃口を皆の方に向けた。
「お伏せになって!」
楓の声にとっさに体を落とそうとして、ガッ、と何かが引っかかった。
「えっ!?」
この時、野間マチコは決定的なミスを犯していた。
反動を殺すために、マチコは盾の上にサブマシンガンを仮託し、それを構えていた。その姿勢のまま、照準器を覗き込んで狙いをつける。
その姿勢で、いきなり伏せろと言われ、身体を下げたらどうなるか。
「マッチっ!?」
美海が叫ぶ。防弾板に銃の
「大丈夫、銃にあたっただけだ……!」
それでも無理に後ろに捻られたような形で銃を吹っ飛ばされかけたため腕が痛い、左腕にスリングを巻き付けるように持っていたため、銃に引っ張られるような形で吹っ飛ばされたのだ。
だが、かなりの幸運に恵まれたとも言える。下手をすれば、腕を貫かれていてもおかしくなかった。
その間にもハンドガンの銃撃が続く。2発目、3発目、4発目……。7発目で銃撃が止まる。マガジンが甲板に落ちる音がした。
「今だ!」
マチコの声に盾を飛び越え弾丸のごとく加速する楓。その手にあるのは長い錫杖だ。
「はああああああああああっ!」
瞬く間にその懐に入りこむと、それを振るい、シュペーの壁に叩きつけた。回転の動きをいなすと、ふぅと溜息をつく楓。
「万里小路流薙刀術は、少々過激ですのよ」
「うわ、えっぐい」
光がどこか同情するような目をシュペーの乗員に向けた。正直普通にプラスチック弾で攻撃したほうが安全そうだ。そんなことをそれぞれに思うが、当の術者である万里小路楓は涼しい顔で振り返る。
「マチコさん、大丈夫ですの?」
「腕に直撃したわけじゃないから大丈夫だ。でも……こっちは壊れてしまったかな」
そういうと拳銃弾が当たって大きな傷のついてしまった小銃を振るマチコ。
「もうこれは使わない方がいいんだろうか」
「その方が安心ですわ」
万里小路がそう言って歩き出す。
「……弁天からの臨検も始まったんだ」
「今のは、スタングレネードの音……だよね?」
「たぶん……」
断続的に響いてくる轟音の出どころは艦橋を挟んで反対側か艦橋の中だ。美千留がそれを恐ろしく思っている間にも、美波がテキパキと倒れ込んでいるシュペーのクルーに抗体を打ち込んでいく。
「これで外は終わりのはず」
「……とりあえず残りは中で籠城中か」
晴風側の甲板で処置が完了したのは今の三人含めて7人。晴風に銃撃を行ったらしいクルーは、拳銃弾が左上腕と肩を貫通していて、止血キットの出番になったが美波曰く、命に別状はないとのこと。柳が撃ったらしいということだが正直凄まじい精度だとマチコは思う。サブマシンガンですら暴れに暴れるのだ。それをハンドガンで、揺れる船から船の間で正確に撃ち抜くなど半ば狂気の沙汰である。
「中で何があるかわからないけど……行くしかないよね」
光が恐る恐る艦内へのドアを開ける。開けた直後に中にいた誰かと目が合ってしまって慌てて飛び退く。
「ちっ……」
内開きのドアを蹴り込むようにしてマチコがスペースを確保。誰かをドアで跳ね飛ばした気配。本当にこの辺りに集まりすぎだとマチコが嘆くより先に万里小路が飛び込む。
「ばっ……か! 不用意に飛び込むなっ!」
マチコの叫びに被るように発砲音。万里小路の光の具合によっては紫色にも見える黒髪が数本散る。担ぐように振り上げた錫杖が風を切る音。ドアの裏に回り込むように走る万里小路の後を追ってマチコも突入。彼女の背中を守るようにクリアリング。盾持ちの美千留や光、それに守られた美波が入れるスペースを確保する。
「クリア、です」
楓の凛とした声が響く。楓の足元には4人ほどが倒れている。死屍累々の上で微笑む楓を見て、皆苦笑い。
「……これ、私いるのかな……」
「何を言う。ミミがいなければ誰が背中を守るんだい?」
しょぼくれてそう言う美海にマチコが軽く笑って声をかける。後方警戒要員としてマチコが持っているのと同じサブマシンガンを抱える美海だが、いかんせん前衛がよく働くために、今のところ後方から不意打ちをくらわずに済んでいる。
「……艦橋に向かいましょう」
楓を先頭にしてゆっくりと急角度のラッタルを登っていく。マチコがそのすぐ後ろでバックアップ。階段の下では爆発物が降ってくることに備えて美千留が盾を構え、その裏に残りの皆を隠す。
「この盾もっと軽かったらいいんだけどなぁ……」
光がそうぼやくが仕方がない。ポリカーボネートの盾も配備されているらしいが、銃を使ってくる相手には防具にすらならない。上階の安全確保が終わったらしく、マチコがハンドサインで彼女らを呼んだ。
「んじゃ、上がりますか」
美千留が上がり、それについて皆が上がっていく。
異変に気が付いたのは、美海だった。
「ヒカリちゃん!」
とっさに叫んでから美海はマシンガンを構えた。そこにひゅんと飛び込むようにしてシュペーのクルーが踏み込んだ。フルオートで引金を引きっぱなしにして横凪に振るう。銃が暴れて上に照準がずれる。30発マガジンはあっという間に使い切った。喉が干上がる。その美海を庇うように両手持ちの盾をかざした光が飛び出した。
「おりゃあああああっ!」
重い盾を押し出すように
「行って! ミミとあたしでここは止めるから!」
「でも……!」
「なーに不安そうな顔してんのさ、みっちん。我らが医務長のエスコートは頼んだよ! この臨検の鍵はみなみさんなんだからさ」
そう言って笑った光、ウィンクまでして見せても美千留はどこか不安そうだ。
「ミミ!」
背後からアルトの声がした。マチコがラッタルを滑らせるように弾倉が詰まったケースを投げ落としていた。
「弾薬は置いていく。私のは動かなくなっちゃったしね……私達の背中は頼んだよ」
「……! マッチの応援があれば、元気百倍アンパンマンです!」
美海がそう言ってマガジンをリロードした。相手は5人。5対2、絶望的な気持ちだが、何とかできると信じたい。
迷っていた美千留が叫ぶように言った。
「……ごめん、頼んだ!」
「うん!」
「頼まれたっ!」
ラッタルを駆け上がるのを背中に感じて、光は笑った。
「……あーあ、カッコつけちゃった。かっこ悪いねぇ」
「120%ヤバイけど、マッチに応援されたんじゃ逃げられないしなぁ」
美海もそう言って見様見真似でサブマシンガンを構える。足元にはマチコが置いていってくれた弾倉が置かれている。
指が震えて仕方がない。逃げだしたい気持ちだけが募っていく。それでも、見栄を切ったのだ。精々格好をつけなければお話にならない。
「死亡フラグはへし折ってくよ、ミミ!」
「了解っ!」
相手が突っ込んでくる。それを認めて、美海は閉じたくなる瞼を必死に開いて、引金を引いた。
†
身体が重い。それでも彼女は体を動かし、窓際に寄った。
悲憤、慷慨、哀切、絶望、憤激、嚇怒、憂苦、危懼、悩乱、厭悪、怨恨、苦悶、孤独、寂寥――――この感情をどう表していいのか、彼女は知らなかった。知っていたのかもしれない。それでも、今は知らない。だから、この嫌な気持ちをどうすることもできずに抱え込んだままここまで来た。
だから、唯一覚えている名前を呼ぶ。
「――――――Wilhelmina」
見覚えのある船、あの船に聞けば答えが出るのだろうか。
欠けてしまったような痛み。何かが足りない不満。それらが蜷局を巻いて居座っている。それをどう表現するのか。その手段を彼女は知らない。
縋ることは許されない。周りは皆、敵だ。理解できないものは全て敵だ。敵は撃ち滅ぼさねばならない。単純な真の
「――――――Wilhelmina Braunschweig Ingenohl Friedeburg」
だから、撃ち滅ぼさねばならない。なのに、なぜその言葉を紡げない。自分の中にない、あってはならない何かが否を突きつける。何かがそれを止める。その何かが見つからない。
いつも答えをくれた声は、今日に限って沈黙している。
答えを、私に答えを授けろ。
願ったところで答えは帰ってこない。振り返る。綴った、言葉。
mich reizt deine schöne Gestalt
Und bist du nicht willig
so brauch ich Gewalt.
Mein Vater, mein Vater
jetzt faßt er mich an!
Erlkönig hat mir ein Leids getan!
耳の奥にメロディーが躍る。それがうるさくて仕方がない。
「――――――Hilfe, Mina. Wilhelmina」
あってはならない叫びが、アドミラル・シュぺーの艦橋に響いた
……いかがでしたでしょうか。
本当は今回で臨検編が終わる予定だったんですが、字数が膨らみすぎたため分割です。何回目なのかわからない字数超過ですが、どうかお付き合いくださいませ。
挿絵はネモ(Twitter:@BayNEMOykhm26)先生から頂きました! ステキなイラストありがとうございます!
最後のドイツ語は、音楽の授業でやった人もいるのではないでしょうか、シューベルトの『魔王』(Der Erlkönig D.328 Op. 1)からです。三連符の連打が強烈なあの曲ですね。ハーメルンの運営さんがtex変換ツールを実装されたとのことで早速使ってみました。雰囲気でますねこれ……。
さて、次回でいよいよシュペー編が終わりとなります(その、予定、なのです……っ!)が、どうぞ最後までお付き合いくださいませ。
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次回 これしかなかったと信じる他にない
それでは次回もどうぞよろしくお願いします。