岩渕の宿場を抜けて富士川沿いに北上すると、松野という集落がある。
岩渕の宿で旅役者に罵倒された浪人は、今その途にあった。
日暮れまでには松野に着きたかったのだが、浪人の前には邪魔がいる。
着流しに角帯、腰には大脇差。つまりは武士では無い。大方どこかの用心棒か侠客あたりだろう。
「竹井善兵衛であるな」
この名を耳にするのは、このひと月で三度目である。
「人違いですな。拙者は相州浪人、瀬谷権之助と申す」
「抜かせ、貴様が竹井善兵衛であることは明白。大人しく斬られよ」
ろくに調べもせずに何が明白だ。その風体から見るに、役人でもあるまいに。
瀬谷は心中でごちた。
目の前にいるのは三人。真ん中の男は腕組みのままだが、左右の二人は既に大脇差を抜刀している。
「逃がすなよ、十五両の賞金首だ」
左右に目配せしながら真ん中の男が下がる。
しかし十五両の賞金が懸けられるとは、竹井
「ひとつお聞きしたい」
「なんだ」
三人の真ん中が食い気味に答える。
「その竹井なる御仁は、何故十五両もの大金を首に懸けられたのか」
「そんな事、今から死ぬ貴様には関係のないことよ」
はあ、と瀬谷は溜息を漏らす。
やはりと云うべきかこの三人、斬るのは竹井善兵衛で無くても良いのだ。そこそこ人相書きに似ている首があれば良いのだ。
古来より首級は壺に塩漬けにされて運ばれる。塩漬けと云っても、その過程で腐敗は進む。
つまり、腐って分かりにくくなったと云えば良いと考えている。
そんな
「はて、どうするか……」
瀬谷の云う「どうするか」は「どう戦うか」では無い。「どう逃げるか」である。
一度目、二度目は首尾よく逃げ果せた。
ならば、ここもまた逃げるべきだ。何より殺生は好かない。
考えが纏まると同時に、抜刀していた二人が斬りかかってきた。
右の男は逆胴を狙い、左の男は右足を薙ぎにくる。
策のがさつさとは正反対の息の合った連携である。左に
逃げ場は後ろしか無い。一足飛びに後ろに引いて切っ先を躱す。
その瞬間、真ん中の男が手に持つ何かが轟音を上げると同時に、瀬谷の右肩が弾けた。
短筒である。
やられた、と瀬谷は後悔した。ここまでが奴等の連携だったのだ。
「よし、やれ」
肩を押さえて膝をつく瀬谷に、二振りの大脇差が迫る。
瀬谷は死を覚悟し、瞑目した。
「ぎゃっ」
前方から蛙が潰れた様な声が響いた。
何事だ。何があった。
状況を理解出来ない瀬谷のその疑問は、すぐに晴れる。
草叢から、
今しか無い。
瀬谷は、一目散に逃げた。武士の面目など気にしてはいられない。命あっての物種だ。
瀬谷権之助の持論である。
四丁ほど疾走して、草叢に身を屈める。息を整えながら様子を見る。
四半時ほどそうしていたが、追ってくる気配は無い。
恐る恐る顔を出す。
前方から、着流しに身を包んだ独りの武士が歩いてくる。
「あの」
瀬谷は、あまりにも軽率に声を掛けたことを逡巡した。
この侍が奴等の仲間では無い保証は無い。
だが、それも杞憂に終わる。
着流しの武士は自分と同じ浪人だろうか。その浪人は低い声で言った。
「向こうに人が三人ばかり
三人とは、奴等だろう。きっと石礫を投げた者達と争って命を落としたのだ。
少々の安堵を得た瀬谷は、右肩を庇いながら街道に戻る。
「お恥ずかしいのですが、少々因縁を吹っ掛けられまして……逃げてきた次第です」
「そうでしたか。それは大変でした。ところで、その傷は」
粗末な木綿の着物、右の肩口に滲む血を、ちらっと見せながら瀬谷は力無く笑う。
「ええ、奴等に撃たれました。短筒なので骨にヒビが入った程度と思います」
「では、まず手当てですね。松野まで歩けますかね、一里半くらいですが。無理なら籠を頼んで参りますが」
幸い傷は右肩だけである。出血も少ない。
「いや、大事ないです。歩けます」
「では、参りましょう」
瀬谷は、名も知らぬ浪人に連れられて富士川沿いの街道を再び北上した。