八月の中頃、織斑一夏と二瀬野鷹が久々に再会した日の翌日、四十院研究所の所長室では一人の女性がキーボードを叩き続けていた。メカニカルスイッチ式の打鍵音がカタカタと部屋に響く。
メガネをかけ、スーツの上に白衣を羽織り、長い髪を後ろで束ねている女性らしい優しげな顔つきの持ち主だ。仕事仲間からは三十を超えたぐらいにしか見えないと言われているが、実年齢は四十に近い。
彼女が見ている画面の横には、家族で取った写真が飾ってあった。その中では彼女もさらに若く、夫が抱き上げている娘は三歳程度だろうか。
胸元には首から長いストラップで垂らされたネームプレートがある。そこには「Ph.D.Miyako Kunitsu」と表示されていた。
彼女はこの研究所ではママ博士と呼ばれている。主席研究員の一人だったが、一カ月ほど前から所長代理も務めていた。理由は、もう一人の主席研究員と所長が揃って行方を眩ませたからだ。
「ママ!」
部屋の扉が勢いよく開けられ、三人の少女たちが入ってくる。一人は彼女の娘、残り二人も友人たちの娘であった。三人ともがカーキ色のワイシャツにお揃いの白いズボンを履いていた。それが極東IS飛行試験部隊の制服だと知っている人間は、今はまだ少ない。
「玲美……ノックをしなさい」
メガネをかけ直しながら、娘を叱りつける。だが、娘はそれどころではないようで、
「そんなこと言ってる場合じゃないよ、ママ!」
と小走りで真っ直ぐ彼女の元へ向かってきた。
「どうしたの?」
大きな背もたれのイスから立ち上がりながら、彼女は画面に表示されていたデータウィンドウをそっと閉じる。
「パパたちが、IS学園に!」
大きなマホガニーの事務机を、彼女の娘がドンと両手で叩いた。その顔は驚きと不満げな色を隠そうとしていない。
「ええ、知ってるわよ」
「え?」
「さっき、会見の前にパパから連絡があったわ。全く、何を考えているのかしら」
彼女は呆れたように言って、かけていたメガネを外し、白衣のポケットに右手を入れた。
今度は一緒に来た女の子のうち、小さな体に大きな丸いメガネをかけた方が、
「ママ博士、うちのオヤジがなんか企んでるみたいなんだけど」
と不機嫌そうに問い詰めてくる。
「お父様も、何もおっしゃらずに、こんなことを……」
さらに最後の一人、少し大人びた優しい顔つきの子は困惑した表情で、ぽつりと呟いた。
「全く、あの三人にも困ったものね。何の目的でこんなことをしでかしたのやら」
「ママ、でもあの篠ノ之博士って!」
「どうしたの?」
「ほら、ヨウ君が言ってた!」
「あの博士が何であれ、ISコアを提供できるのなら、それは篠ノ之博士よ」
「え? でも!」
「玲美」
反論しようとする娘を、睨みつけるようにして黙らせる。彼女は娘が昔からこの視線に弱いことを良く知っていた。
「そういうことにしておきなさい。良いわね?」
「う、うん」
有無を言わせぬ言葉の圧力に、三人が黙り込む。
「それと、四十院総司、国津幹久は四十院研究所とは無関係になりました。正式な人事が降りるまで、今まで通り私が所長代理を務めます。これも良いわね?」
彼女が髪の長いおっとりとした雰囲気の少女に念を押す。その少女はスポンサーである四十院財閥の娘であり、この研究所自体が、その企業グループの一員でしかない。
「了承しました。ですが、無関係というのは」
「とりあえず、あの三人は完全にIS学園の人間ってことよ」
彼女は娘たちにわざとらしく、やれやれと肩を竦めてみせた。それからすぐに真面目な顔に戻る。
「詳しいことは、それぞれ直接、パパたちに聞いてちょうだい。私にもよくはわからないわ。それより話を変えるけどいい?」
所長代理を務める女性は、白衣のポケットから、一枚のプラスチック状の小さな板を取り出した。
「ここに一枚のメモリカードがあるわ。この中身をうちの金庫に置いておくから、覚えておいて」
「中身はなに?」
「ISの設計図。と言っても、そんなに大事なものじゃなくて、もう開発は終わっているもの。一応、何かあったときに使えるようにって」
三人娘が小首を傾げる。
「ごめんママ、ホントにどうしたの?」
「これから大変になるし、四十院研究所は手薄でしょ。貴方達にも色々、将来に向けてお勉強してもらわなくちゃって」
「えー? 私、整備とか開発とか嫌い」
ISパイロット候補生である娘だけが、不満げに頬を膨らませる。他の二人はそれほど不得意分野ではないのか、特に文句はないようだ。
「我が儘言わないの。いつか必要になるでしょ。いい? これはディアブロを元に開発されたもの、と覚えておいて」
「ディ、ディアブロから?」
「ええ。一機はすでにロールアウト済みのバァル・ゼブル。三人とも見たでしょ? 銀色の細身のISよ」
「あ、あれか。あれって四十院製なんだ」
「ええ。あと二機種あるわ。まあ、これを四十院が開発したことは内緒よ。誰にもよ。特にパパたちには、この設計図は渡さないこと、話題にも上げないこと」
「なんで?」
「あの篠ノ之束博士に気付かれるわけにはいかないの。パパたちの周りなんて監視されてるかもしれないでしょ」
念押しをすると、三人ともが神妙な顔で頷いた。
「機体名はバァル・ゼブル、アスタロト、そしてルシファー」
「なにそれダサい」
「うるさいわよ理子」
所長代理が苦笑いで窘めると、わざとらしく舌を出して、ごめんなさーいと謝る。
「ま、何はともあれ、今は好きにしていいわよ。とりあえずは訓練校、頑張ってね、三人とも。ケガしないように。特に玲美、アンタはまだケガが治ってないでしょ」
「う、うん」
「勝手に三角巾外して」
「だ、だって邪魔だし」
「ちゃんと吊っておきなさい。あんまり我が儘言うと怒るわよ?」
「は、はい……」
母に叱られ、しゅんとした顔で小さくなる。
「ほら、三人とも、二瀬野君のところに行く予定でしょ。暇なんだから、相手してあげなさい」
「そ、そうだった。びっくりして忘れてた! 行ってきます。じゃあね、ママ!」
「車に気をつけるのよ。理子、それに神楽もあの子をよろしくね」
「りょーかいりょーかい。まっかせておいて、ママ博士」
所長代理の言葉に、理子と呼ばれた女の子が後ろ手を振りながら退出していく。
「では失礼いたします」
残った神楽が丁寧にお辞儀をしていってから退出する。その姿を笑顔で見送ってから、彼女はディスプレイに作業途中だったウィンドウを再度、立ち上げた。
そこに表示されているタイトルは、『空の奪還計画について』という報告書であった。
「全く、良い大人が雁首揃えて、趣味のパワードスーツを作ってるわけないと思ってたら……」
ママ博士と呼ばれた彼女は、夫と友人たちが研究所の場所を借り私費を投じて、ISではないパワードスーツ作りを行っていたことは知っていた。所詮はお遊びで息抜きだと思い気にしていなかったが、これが三人で集まるための口実だった、と気付いたのは最近だ。
「でも、ただの口実なのかしら」
ふと湧いて出た疑問が口から漏れる。
使途不明金も多く、単なる趣味の領域を大きく超えていた。主に四十院総司という財閥御曹司のポケットマネーから捻出されているようだと、目の前の報告書が教えてくれていた。
何がしたいのだ、あの三人は。さっぱり目的が見えてこない。こんなことは以前はなかったと彼女は小さくため息を吐く。
国津三弥子と名乗っている彼女だが、IS学園の中枢を牛耳った三人の男たちとは古い知り合いでもある。ただ、彼らが昔から三人で色々と悪だくみをしては、周囲を困らせていたことも覚えていた。すっかり大人になったと思えば、実はそうでもなかったようだ。
「まったく……これだから男の子は」
画面に映るウィンドウの一つから、男性IS操縦者・二瀬野鷹の報告書を最前面に持ってくる。そこに移った堅い笑顔の写真を、彼女は指先でそっと優しく撫でた。
八月三十日の夕方、オレはベッドで装飾用義手をつけていた。外見を整えるだけの機能しかない物だけど、その変わりに見た目は本物に近く、すぐには義肢と気付きにくい出来だ。接続部に特殊なモノが何一つ必要ないって特徴もある。正直、つけない方が楽なんだが、少しは慣れた方が良いだろうと思って、時々は装着するようにしていた。
まあつまるところ、オレこと二瀬野鷹は、ぶっちゃけ暇だった。
現状としては、ISを奪って基地から逃走して捕まった容疑者、という身分だ。ただし重症患者というところで、沢山のゴツいお兄さんたちに囲まれた生活を強いられている。
ただし、これは名目上の話で、オレはあの件から何故かISを体から外すことが出来なくなってしまった。待機状態としてネックレスにはなるんだけど、オレの体から離そうとした瞬間に、フルスキンタイプの装甲が全身展開されてしまうという困った症状が出ているのだ。
というわけで、政府のお偉いさんの話によると、今はうちの親がVIP保護プログラムから、さらに一歩進んだ保護状態になっていると伝えられた。それって人質じゃねえ? と聞いてみたが、話を濁されたところを見ると、当たりだったらしい。ただ、念押しのように「親御さんにご心配をかけないようにね?」と何回も繰り返し言われたのが記憶に残っている。
まあ端的に言えば、オレがここに監禁状態なのは、お偉い皆々様方が扱いに困っている、ということだろう。
それで今、何かすることがあるかといえば、何にもない。
ついでにいえば、何にもやる気がない。
「こんちはー」
元気良く入ってきたのは、玲美である。一応、訓練校の生徒としてやっているのか、カーキ色のシャツとズボンを身につけている。ショートカットになった髪の毛は、それでも外に広がる柔らかい癖を抑えるためか、何か所かヘアピンで止めてあった。そこまで気にしなくて良いと思うんだけどなあ。
ちなみに毎日来るのはコイツぐらいだ。面会には複雑な手続きがあるようだが、なんか色々と裏技でスキップしてるらしい。もちろん他にも理子や神楽、それにアイドル兼ISパイロットの悠美さんとかも暇を見つけては来てくれる。あとは玲美のママぐらいか。着替えとか用意してくれたのは、全部ママ博士だったし。
「お前、訓練校は良いのかよ」
「うん。別に今の優先事項じゃないし」
手に持ったビニール袋から何か取り出し、オレのベッドに腰掛ける。
「どした?」
「耳かきしてあげようかなって」
玲美は笑いながら、手に持った耳かき棒で空中をカリカリと掻いてみせた。
「いいよ。汚いし。自分で……いや、膝枕?」
「え? そのつもりだけど……って、改めて言われると何か恥ずかしいな……」
「よし、来い!」
今の自分で出来る最速の動きで体を起こし、場所を開ける。
「なんでそんな気合い入ってるの……」
ちょっと苦笑いをしてから靴を脱いで、ベッドの上に正座する。
「えっと……は、はいどうぞ!」
「うっす、いただきます!」
「いただいてどうするの……」
赤面しながらも少し呆れたように呟く。
だが、そんなことは無視だ。目測を計り、メガネを投げ捨てるように放り出して、柔らかい膝の上に頭を収めて右耳を差し出す。
くそう、長ズボンという訓練校の制服が腹立たしい。
「じゃ、じゃあ痛かったら言ってね」
「おう」
「……ヨウ君」
「おう?」
「さらっと足を撫でないでもらえるかな?」
「悪い。わざとだ」
「もう……動かないでね。慣れてないから傷つけちゃいそう」
「りょーかい」
オレが大人しくなった途端に耳の奥でカリッと優しく引っ掻かれる。しばらくされるがままにしていた。
最初は緊張した様子で表面をカリカリと突くような感じだったが、すぐに慣れてきたのか、段々と良い感じで耳の垢を解し始める。
「ホーク」
「ん?」
「私が使って良いかな?」
「オレの許可なんぞいらんだろ」
確かに前はオレの専用機だったが、所有権がオレにあったわけじゃない。
「受け取る前に聞いておきたかったの」
「律義だな」
「もう……動かないの、足を撫でないの!」
「へーい」
怒られたので、再び仕方なく右手をだらんとベッドに放り投げて、じっとする。
「コア、一応リセットかけるみたい」
「そっか」
「機体調整も一から始まるみたい」
「……そっか」
「……ごめんね……あ、大きいの取れた」
何を謝っているかがわかるだけに、少し胸が痛い。
「見せろ見せろ。うわ、汚ねっ!」
「みんな、こんなものだよ」
楽しそうに笑ってから、再びオレの耳に竹製の棒を差しいれる。
玲美はオレが今まで動かしてきた経験と努力が消えることを、謝っているのだ。コアをリセットしてしまえば、またゼロから育て直しだ。だが仕方ない。オレみたいなIWSを患っている人間しか動かせない機体では、意味がない。
「謝ることじゃねえだろ。オレの物じゃねえんだ、元々」
「でも……」
「手、止まってるぞ」
「……でも」
「前にも言ったろ。どういう理由か知らんが、オレは体の一部を犠牲にすることで強く上手くなっていってたんだ。努力のせいじゃない。無駄だった物を大事にしてどうすんだ」
「……でも、私は」
「どした?」
「好きだったよ」
「……何が」
「頑張る、キミの姿」
そう言われて、オレが返す言葉が何かあるだろうか。
別にオレの考えを変えろとか、そんなことを言ってるわけじゃなく、ただ過去のオレが好きだったと言われただけだ。
だからオレは小さな世界の中でそっぽを向いて、
「手、止まってるぞ」
と教えてやるだけだ。
「あ、うん」
「ほら、さっさと続けろ。そうじゃないと今度はケツ触るぞ」
無理やりに笑みを作って、手をわきわきと動かす。
「ダーメ、人が見てるし」
チラリと護衛兼監視のお兄さんズに目を向ければ、目を逸らして少し憎たらしげな顔をしていた。羨ましいのか。
「オレは、今のところ満足してるよ」
「ん?」
「胸、意外とあるよな。うむ、義手だったら触れても問題ねえと思うんだが……」
横目で見上げれば、豊かな二つの膨らみが間近にある。確かに神楽とか悠美さんとか、あとは千冬さんとか箒とか凶悪なデカさを誇る連中に比べれば小ぶりだが、平均よりは少し上な気がする。てか、みんながデカすぎるんだよ。持て余すだろ、色々。
「……ヨウ君」
「んあ? いててて」
思いっきり頬っぺたを抓られた。
「……もう! 人前でエッチなことを言うのは禁止です!」
玲美がプイッと横を向いて胸を隠すように腕を組む。
人前じゃなかったら良いのかよ、と言おうと思ったが、オレはおそらくずっと監視付きの生活を強いられるだろう。今はオレという存在を色々な人間が持て余している。ゆえにここでの軟禁生活だ。
世界でたった二体しかいない男性IS操縦者の一人がオレなのだ。右手しかなくなったとはいえ、研究する価値がなくなったわけじゃない。その上、オレは色々と特殊な事情がある。さらに軍隊からISを奪い、アラスカ条約機構の作戦を妨害した犯罪者でもあるのだ。
しかも外すことが出来ない特殊なISなせいか、いまだに専用機を持ったままだ。ただ、VIP保護プログラムによって両親が政府の世話になっているので、脱走することも出来ない。
ゆえに自由なんてない。
まあ、考えても仕方ねえか。
「そういや、国津博士とか岸原一佐とか、連絡取れたか?」
「パパとオジサン?」
「所長……今は元所長か。四十院さんは元々、あんまり連絡が取れる人じゃないっぽいからさ」
「パパなんか知らない!」
「知らないて……」
「だって、なーんにも話してくれないんだよ。男同士の約束だって!」
「なにそれ……あんな優男なのに……でもそういや、オレがIS学園を出るときも、男が決めたことなら仕方ないって言ってくれたな」
「昔っから義理堅いんだよね、パパって。約束とか絶対に守るの。でも心配だなー。四十院のオジサンはともかく、岸原のオジサンとかパパとか運なさそうだから」
「まあ、幸薄そうだよな……」
特にあの岸原一佐とか、最後まで艦橋に残って乗組員を逃がしてから死ぬタイプだと思うわ……。
「小さいころ、みんなで旅行に出かけて、交通事故に遭ったんだけど、あの二人だけ大ケガだったんだから。私たちとかママは平気だったのに」
「ほー。あー、なんかわかるわ。あの二人が貧乏くじ引いて、所長だけが無傷な様子が」
「ホントにそうだから、心配なんだよね」
玲美がついた大きなため息が、オレの耳へと入り込んでくる。かなりこそばゆい。
「おい、耳に息を吹きかけんな。感じちゃうだろ」
「感じ……って何言ってるの! そ、そそそんなつもりは! だ、だから人前は」
「いや、ジョークだから、マジメに受け取られても困るんだが」
「え? じょーく?」
「イッツアメリカンジョーク」
アメリカといえばナターシャさん元気かなぁ。
「もう!」
「ってぇ!」
耳たぶを強めに抓られる。
「意外にスケベだよね、ヨウ君って!」
「あたたた……てか普通だろ、男子高校生だぞ、元だけど」
「え、えー? 男の子ってそんなことばっかり考えてるわけじゃないでしょ? うちのパパなんて」
「そりゃパパは見せないだろ。まあママ博士もいつもは仕事仲間って感じだしなあ」
いや、意外にああいう知的な理系カップルに限って激しいのかもしれない、とか言ったら殺されるよね、うん。
「なんか変なこと考えてるでしょ」
「い、いいや、何にも!」
「まったく! はい、反対向いて!」
「う、うぃ」
もぞもぞと動いて、左の耳を見せる。
「よし、やるぞ」
「おう、任せた」
「だーからー、足を撫でないの!」
「チッ」
何はともあれ、今のところは平和である。
結局、世の中で起こることに積極的に介入しない限りは、何も変わらないのだ。
一夏の誘拐事件に始まって、銀の福音に終わるまで、色々と変えてしまったオレが言うのだから、聞く人が聞けば含蓄があるだろう。たぶん。
ただ今はずっと変わらないように祈りながら、頬っぺたで柔らかい太ももを堪能するのみだ。
「だーからー、もぞもぞしないの!」
「チッ」
そう、平和が何よりだ。
八月の末日、IS学園の校舎内にある豪華な応接室で、IS学園生徒会長である更識楯無は副理事長と対峙していた。
彼女とガラスのテーブルを挟んで座っている男が、メガネを正して足を組み変える。
「しかしまあ、久しぶりだね、楯無さん」
「ええ、お久しぶりですね。このような形でお会いすることがあるとは思いませんでした。四十院総司様」
「様とか止めてくれよ。妹さんとは相変わらず仲良しかい?」
「息災ですが」
「堅いなぁ。どうしたんだい? 昔は結構、仲良くしてくれたと思うんだけどな」
如何にもビジネスマンというスタイルの男の名は、四十院総司という。実年齢は四十歳ぐらいなのだが、三十路過ぎにしか見えない若々しい男性である。
更識楯無にとっては十年以上に渡る旧知の間柄だ。お互いに古い家柄をまとめる立場にあり、楯無が幼い頃から良くしてもらっている。
「打鉄弐式への資金援助、ありがとうございました」
「なに、簪ちゃんへの入学祝いさ。どうせ完成間近だったと思うけどね」
「技術援助の件も」
「なに、気にすることはないよ。こっちは部品メーカーだったからね。意外に倉持さんもあっさり受け入れてくれたから。白式には触らせてもれなかったけど」
楯無は心の中で舌打ちをする。もちろん、表面上は笑顔のままだ。
更識家当主として裏の事情にも精通している彼女は、倉持技研というISメーカーに多額の資金援助をしているのが、この四十院総司の手によるものだと把握はしていた。だが、それも本人が言うような厚意だったとは、今では思えなくなっていた。
昔から、その手腕を高く評価されている男だったが、ここにきてIS学園の副理事長に納まっていることが納得いかない。
「単刀直入に申し上げましょうか、総司さん」
「何かな」
「どういうおつもりですか」
「どういうおつもり?」
「まさか轡木さんたちを追い出すように策略を働かせ、二瀬野クンを動かして作戦を失敗させ、副理事長の座に収まることを画策していたとは。その手腕にしてやられました」
IS学園最強の生徒会長が、笑顔を消して無表情な視線を目の前の男へと向ける。
「怖いなぁ。さすが更識家ご当主」
メガネを正しながら、男が笑う。
IS学園に入ってから再会したとき、自分に向ける視線が気になった。まるで人を人として見ていない。全ては自分のコマだと言わんばかりの目つきだった。幼いころから何度も会っていたが、その頃はまるで気付かなかった。
「新理事長を引き入れることを条件に、副理事長の座に納まったと聞き及んでおりますが」
今の理事長である篠ノ之束は偽物であると楯無は知っている。だが、それを目の前の男へと報告する気はなかった。その事実は迂闊に使えないジョーカーだ。
「よくご存じで。アラスカ条約機構の連中には、それを条件に納得させたんだよ」
「しばらく姿を消していたのは、その工作を秘密裏に行う必要があったからですか。何が目的でしょうか?」
「今日、楯無さんをここに呼んだこと? それとも……この四十院総司が副理事長になったこと?」
「両方です」
「うーん。まず最初の用件を済ませようか。篠ノ之博士が理事長になって、非常に協力的なったおかげで、IS学園に新しいISが配備される。最初に言っておこうと思ってね」
……やはり来たか。楯無は心の中で舌打ちをする。予想されていた事態ではあったからだ。
「何機でしょうか?」
「30機」
「さんじゅ……」
楯無は咄嗟に扇子を開いて口元を隠した。鼻から下を見せなかったのは、舌打ちを隠しきれなかったからだ。
あの偽物が用意するということは、おそらく一年生三人の意思を奪い自由に操った機体だろうと推測できた。七月の横須賀沖騒乱では亡国機業に奪われたが、偽物の指示通りに動いていたのは、彼女自身も確認しているので間違いない。
それが三十機など、楯無にとっては戦慄すべき事態だった。世界にはISの中心となるISコアが470程度しかない。なのに、新しいISが30機もいきなり与えられるというのだ。しかも、自分が見た機体と同等性能なら、恐るべき事態だ。
「それはとてもありがたいお話ですね」
内心ではかなり動揺していた彼女だったが、得意の作り笑顔で表面上だけでも賞賛できたのが、さすが裏世界でもその名を轟かせる更識家当主であると言えるかもしれない。
「本当はもっと欲しいんだけどね。それで、私が来た理由……だっけ」
「そうです」
「もちろん、利益があるからだよ」
楯無には、ニヤリと笑う目の前の男が、全く人間に見えてこない。無言で睨んでも、どこ行く風でニコニコと笑うだけだ。
そのことがさらに楯無を腹立たせていた。お互いに笑みを浮かべてはいるものの、二人しかいない部屋の空気が緊迫したものになっていた。
そこへ、副理事長室のドアがノックされる。
「はいどうぞ」
副理事長が返事をすると、
「失礼します……」
「失礼します」
と二人の女の子が入ってくる。
「簪ちゃん? それに箒ちゃんまで!」
思わず腰を浮かして驚く。入室してきたのは、自分の妹と、一年の専用機持ちで篠ノ之博士の妹という重要人物だったからだ。
「やあやあ、簪さん、久しぶりだね。篠ノ之さんもどうぞ、そちらにおかけになってください」
「お、おじさん、その……お久しぶりです。ありがとうございました」
「打鉄弐式の件だね? いいよいいよ。さっきもお姉さんからお礼をいただいたばかりさ。何か飲むかい?」
「あ、いえ、大丈夫……です」
二人ともが小さくお辞儀をしてから、楯無の隣に座る。
「簪ちゃん、どうしたの?」
「えっと、総司おじさんに……呼ばれて」
少し緊張している様子を見せているのは、もちろん更識の娘としてある程度の事情を把握しているからだろう。姉妹にとっては今回のことがなければ、昔から付き合いのある『気前の良いオジサン』でしかなかったのだが。
「さて、更識簪代表候補生殿と呼んだ方が良いのかな」
「あの……昔通りで良いです」
「じゃあ簪さんにお願いがあってね。しばらく篠ノ之箒さんの護衛について欲しいんだ」
簪が驚き、楯無は無表情のまま、口元を隠して足を組みかえる。
アイデア自体に意義はない。むしろ楯無としては願ったり叶ったりだ。重要人物を堂々と護衛できるなら、それに越したことはない。
だが、当の箒が眉間に皺を寄せながら、
「私には護衛など必要はありません」
と力強く断言する。
「ああ、腕に不満があるとか、自分の身を自分で守れないとか、そんなことは全然疑ってないんだ」
「それなら」
「いや、そもそも専用機を持ってる子に護衛とかいるのかなって話になってしまう。そういうことじゃなくてね、まあ見た目上の話?」
「見た目?」
「こっちも色々あるんだ。国際IS委員会から強く言われててね。キミが受けてくれないと、私と楯無さんと簪ちゃんが怒られちゃうんだ」
「必要ないとお伝えください」
「うーん……」
にべもない箒の返答に、四十院総司が困ったように苦笑いを浮かべる。それから意味ありげに楯無を一瞥したあと、
「それじゃあ簪ちゃん、申し訳ないけど、織斑君の護衛についてもらえるかな?」
と笑いかけた。
「え……」
「ごめんね、そういうことだから……ああ、もちろん恥ずかしいとは思うけど、ここは一つ、お仕事だと思って……」
手を合わせて謝る姿が、ひどくわざとらしいのだが、箒の方はそれよりも新しい提案が酷く気にかかるようだ。
「ま、待ってください、護衛というと」
「まあ、あの部屋に一緒に住んでもらうのが一番かなぁ」
「それは……いや、そういうことなら、私が一夏の護衛に」
「護衛対象をまとめておくつもりはないよ。いくら幼馴染でもね」
「ぐ、し、しかし、男女七歳にして同衾せずという、に、日本古来の!」
「そうは言うけど、この場合はお仕事なんだ。キミはご存じないかもしれないけど、そういう立場にいるんだよ。あー、簪ちゃんには大変申し訳ないとは思ってるんだよ。篠ノ之さんが断ったばかりに、こんな仕事を押し付けてしまって。断ったばかりに、四六時中、織斑君についてもらわなければいけないなんて」
今度はわざとらしく天井を仰いでいる。
相手の狙いは何だとその頭脳を回転させ始めた。楯無側としては、全く問題のない提案だからだ。
あの偽物が何者であれ、報告を受けた話では、どうやら篠ノ之箒にかなりの執着を持っているとのことだった。それにもし本物が帰ってくれば、箒の元に連絡が来る可能性が高い。
楯無自身としてはIS学園から外へ出しておきたいのだが、篠ノ之束が偽物であることを隠さなければならないため、現状維持のまま警戒するしかない。
もちろん、楯無は事情を知っている一年の専用機持ちと信用できる一部の人間に、別の指示を出してはいる。
それとは別に一番の重要人物の可能性が高い篠ノ之箒を堂々とガードできるなら、それに越したことはないのだ。
仕方なく、ここは相手の策に乗ろうと、楯無は決意した。
「あ、簪ちゃん、ここはぐいぐい行っちゃって良いよ。一夏君は良い子だし、ここは一つ」
「ぐ、ぐいぐい?」
姉がからかっている内容を察してか、妹の頬はどんどん赤みを帯びていく。
「そう! もちろん、何か楽しいことするときは、お姉ちゃんも混ぜてね!」
こちらも四十院総司にならって、わざとらしく怪しい笑みを浮かべた。
「さあ、どうするのかな、箒ちゃん?」
パチンと音を立てて扇子を畳み、腰を浮かせていた箒を見上げる。
酷く納得の言ってない表情をしているが、そっぽを向き渋々と、
「そ、そういうことならば……更識の、その、護衛を受けます。こ、これは男女七歳にして同衾せずという日本古来より伝わる教えを守らせるためであって、決して」
「あーはいはい。箒ちゃんは偉いねー。じゃあ副理事長、そういうことで」
軽くあしらいながら、目線を副理事長に戻す。そこで楯無は思わず眉間に皺を寄せてしまった。
その男が優しい笑みを浮かべていたからだ。先ほどまでとは打って変わった態度だ。
「副理事長?」
「おっけー、じゃあ話はここまでだ。三人ともありがとう。それじゃあよろしくね」
声をかけられるよりも早く、作り笑顔に戻っていた。
どういう意味の笑みだったのか。
幼い頃を思い出せば、確かに昔から子供たちをああいう目で見ていた記憶がある。
更識楯無は四十院総司を警戒せねばならない立場だ。それが自分のIS学園生徒会長としての役目であると思っている。
しかし、どうにも目の前の男を心底から疑うことが出来ない。付き合いが古いからだろうか、と彼女は自己嫌悪してしまう。昔から公私ともにいくつか借りがあるせいもあるだろう。それとも、今しがたに見せた笑みのせいだろうか。
自分も甘いな、と心中で苦笑いを浮かべてしまっていた。
今日は八月三十一日ということで、世間では夏休み最終日だ。かといって夏休みの宿題があるわけでもないし、提出するレポートがあるわけでもない。
暇を明かして世情を探ろうとしようにも、そもそもがネット接続すら許されない身である。
「もー飽きたー! 超飽きたー!」
と部屋の真ん中にあるベッドの上でゴロゴロ喚いてみるものの、病室で監視をしてくれてるゴツいお兄さんたちは何も反応してくれない。
ホントにすることがねえ。早く身の振り方を決めて欲しいものだ。
トイレも部屋の中に個室があるので、それこそ一秒たりとも病室を出ることがない。
ぶっちゃけ、色々と気になることがありすぎるんだが、そもそも情報すら入って来ないオレに何が出来るのか、という話だ。
束モドキの紅椿が、何の目的があってこの世界にいるのかは不明だが、オレが何かしなきゃいけない問題かと問われるとかなり悩む。
アイツの目的は何なのか、さっぱりわからない。十中八九、ロクでもないことだとは思うんだが、如何せん、オレには戦う理由がない。
IS自体はオレにくっついたまま離れないのだが、親がマジで人質状態なので脱走してコンビニに行くことすら出来ない。つか、行っても金がない。
そういうわけで、目的も理由も何もかもを失ったオレは、暇なのである。
玲美とか来ないかなあ。でもアイツも明日から訓練校とか言ってたしなぁ。そもそも今のオレにゃ連絡手段すらねえし。
オレがいた極東飛行試験IS分隊は、このたび人数が増えて部隊に昇格し、その育成の一環として訓練校が出来たらしい。IS学園の一年の半分が、そこに移ってるとは聞いてるが、オレには関係ない場所になってしまったので、会いに行くことすら出来ない。もっとも、外出さえ許されず、この姿を見せる気も起きないので問題はないけど。
雑誌も内容検閲済みの、ホントに無害なものしか読ませてくれないし。
今まであんまり読んだことねえけど、マンガとか頼んでみるかなぁ。
今日も今日とて、時計の針の進みが遅い。
ああ……暇だ。
「失礼しまーす」
「悠美さん!」
友達の家に来るような気軽さで入ってきたのは、沙良色悠美さんだった。試験部隊のISパイロットでアイドル活動中の巨乳美人だ。カーキ色のワイシャツにパリっとした白いズボンを履き、背中の半分ぐらいまである髪を後ろで緩く束ねている。胸元にはいくつかの勲章がついていた。
相変わらず胸の盛り上がりが凄過ぎて、一番上までボタンを止められないみたいですね。軍隊でもタイ無しはクールビズって言うのか? さっきからチラチラとゴツいお兄さんたちが見つめています。気持ちはわかる。女子平均値の高いIS学園で揉まれたオレですら、こんな可愛い巨乳女子がいるのかと感慨深いぐらいだ。
予想外の訪問者に上半身を起こす。二週間ぶりぐらいか。
「やっほー。元気してたー? また暇そうだね」
そんな様子に気づいてか気づかずか、笑顔で手を振りながら、オレの元へ歩いて来る。
軽くジャンプしながらオレのベッドに座り、
「チーズケーキ食べられるー?」
とケーキの箱を開けながら尋ねてくる。
「オッス、いただきます」
「良かったー。一応、お医者さんにオッケーか聞いておいたけど、本人が嫌いだったらどうしようかと思っちゃった」
「ヤダなぁ。オレが悠美さんのお誘いを断るわけないじゃないですか。それこそウィダーイン●リーのフルーツ和えですら食べますよ」
「なにそれ、料理?」
楽しそうに笑いながら、オレに小さなチーズケーキを差し出してくる。
唯一無事だった右手でそれを受け取って、口に入れた。
「美味い。最高っす」
「それは良かった。あ、そこのキミ、ジュース買ってきてー。アイスレモンティー。ヨウ君はコーヒーでいいよね」
悠美さんは何食わぬ顔で、入口横に立っていたゴツいお兄さんAに指示を出す。
いや、職権乱用じゃないすか? と思ったのは相手も同じらしい。
少し戸惑った様子のお兄さんAに対して、悠美さんは可愛らしく目の前で手を合わせて、
「お・ね・がい」
と、ハートマークがつきそうな口調で念押しした。自然と押し上げられた胸がすげえ。
少しあざとい気もするが、その可愛らしさに負け、お兄さんAはニヤケ面で敬礼をしてから部屋から出て行く。
「なんか女っぽくなりましたね」
悪い意味で。
「え? そ、そうかな?」
この夏に何かありましたか? と尋ねる勇気がなく、嬉しそうに照れてる悠美さんに曖昧な笑みを返すしか出来なかった。
「これ、美味いっすね。どこの店のですか?」
「知らない。簪ちゃんに貰ったの」
そう言いながらも、持ってきた紙の箱を持ち上げてロゴを見つめて首を傾げる。
「あら。更識からの差し入れですか」
「うん。私がちょいちょい会いに行ってるって言ったら、直接は会えないからって、コレを」
「へー。ありがとって伝えておいてください」
確かにこの病室に入って来られる人は限られてる。IS学園の一生徒では無理だろうし、簪はまだお家の力でどうこう出来る人間じゃないのかもしれない。いや、そもそも、別に会いたくはないが義理は果たした的な感じだったりするのかもしれん。
「あ、ヨウ君、ちょっと待って」
そう言って悠美さんが恐る恐るオレの顔へと手を伸ばしてくる。
「え、えっと何スか?」
「ストップ。あ、取れた」
そう言って、手でつまんだチーズケーキの欠片をオレに見せた。
「あ、すいません」
「えーっと……」
手に持った欠片とオレの顔へ交互に視線を動かす。
それから、少し赤面した顔で、
「えいっ」
とその欠片を口に入れた。その喉が艶めかしく動いた後、再び照れたように笑う。
「食べちゃった」
その頬がかなり赤く染まっていて、何この人、五つも上なのに何でこんなに可愛いの? とか思っちゃうわけなんだが。
「沙良色さん」
いつのまにか、ジュースを持ったお兄さんAが帰って来ていた。その顔が少し悔しそうだ。
「ありがとー。お金渡すね」
そう言って財布を取り出そうとしていたら、
「いえ、お金はその……こちらのお嬢さんが払ってくれまして」
と横へ避ける。
そこには、悠美さんと同じ服装の国津玲美が頬を膨らませて立っていた。ショートカットになったとはいえ、相変わらずの柔らかい癖っ毛を抑えるためか、ちょっとヘアピン多めだ。
「ヨウ君……」
プルプルと震えて怒りを露わにしている玲美を見て、ちょっとディアブロを部分展開して逃げようか本気で悩んでしまう。
「あ、あら玲美ちゃん。こんにちは」
「悠美さんこんにちは!」
半ば怒鳴るように声を上げてから、悠美さんとは反対側にドカッと勢い良く腰を下ろす。腕の三角巾が取れたってことは、完治したというお墨付きを貰ったのか。
「お、おっす。腕は治ったんだな。おめでと」
「ありがと! まったく、ちょっと隙を見せたら、すぐ女の人といちゃいちゃして!」
湯気が出そうなほど怒ってるが、言われなき中傷につい、
「そんなキャラだっけ、オレ」
とボヤいてしまう。
そして悩んだ振りをして腕を組もうとしたが、左腕がなくてスカってしまい、右腕が太ももの上に落ちる。さらにバランスを崩して倒れそうになってしまった。
「あっ」
玲美が咄嗟に背中に回って抱えてくれた。
……ああ、そういや無かったな、左腕。
慣れてきたつもりだが、ふとした瞬間に、無意識的に失敗をしてしまう。
その様子を見て、二人が痛ましい表情をしていた。玲美なんかは目尻に水滴まで溜めてやがる。
ラウラに切り落とされて、傷口が焼き切れたような感じだったせいか、くっつかなかった。まあその前に変形したディアブロでグシャグシャにされていたから、あとは壊死するだけだったし、ラウラにはむしろ先にやってくれてアリガトウとしか言えない。あと、脚部装甲がついていた膝から下は壊死寸前だったので、医者に切り取られた。
何かわざとらしい軽口を叩こうとしたが、面白い言葉が出て来なくて、押し黙る形になってしまう。
痛みはないし、気にしてもない。後悔もない。
だけどまあ、二瀬野鷹には膝から先と左腕がないことが、今の事実だった。
慣れなきゃな。どのみち、自分がやってきたことのツケなんだ。
そう思って心にウソを吐く。
「ねえ、お散歩行こっか」
悠美さんがポンと手を叩いて、笑顔で提案してくれた。
「暑いね」
玲美が車椅子を押し、悠美さんがオレの横を大きな日傘を差して歩く。病院の敷地内とはいえ電動車椅子は貸してもらえず、動力なしの物を使って散歩を楽しんでいた。
「まあ夏ですからね」
病院の中庭に生い茂った木々の下を、夏の残り香を味わうようにゆっくりと進む。オレたち三人の後ろと前には、しっかりと監視のお兄さんたちがくっついてきていた。
今日は風が吹いていて、木陰ならかなり涼しいぐらいだ。ただ、視界の左側が赤く染まっているせいか、メガネをかけていても生い茂った緑を完全に味わうことが出来ない。
「こんにちは」
悠美さんが行き交う他の患者さんたちに笑顔を振りまき、ちょっとした世間話なんかをしている。あの人、ホントにそういうところがアイドルっぽくねえよな。
今話している相手は、銀髪の女の子だった。目が見えないのか、細い棒を持って探るように歩いている。格好もオレみたいな検査着ではなく、袖や襟もとにフリルのついた清潔感のある白いワイシャツと、紺色のフレアスカートを着ている。まるで古い洋画のお嬢様みたいな服装だ。
つか、どっかで見たことあるな……ラウラに似てるのか? いや、あれって、確か、クーとか言う……確か篠ノ之束の助手か娘か、確かそんなのだったような。
「ねえ、そこのキミ」
オレも思いきって声をかけてみる。
「はい?」
目が見えない少女が、器用に呼びかけたオレの方を察知して振り向いた。
「ここに入院してるの?」
「はい」
「オレは二瀬野鷹。キミは?」
オレが問いかけると、目を閉じたままの少女が眉間に皺を寄せる。
「名前が、わからないのです」
「へ?」
「いわゆる記憶喪失、というものらしく」
「そうか……お互い、大変だな」
「私の髪が銀色なので、クロムとここでは呼ばれています。ここの人たちにはよくしてもらっています。それでは」
そう言ってペコリと頭を下げ、盲目の少女は一人で器用に歩き去って行く。
こっちの付き添いの女の子二人は、相手の目が見えないとわかっているのに、律義に笑顔で手を振って見送っていた。
「ヨウ君、どうしたの?」
笑顔のまま、悠美さんが尋ねてくる。
どうするか。
いや、この事実は彼女には話せない。何がどこで繋がっているかもわからないし、そもそも悠美さんは新しいIS学園理事長が偽物であると知らないはなずだ。
「……いえ、何でもありません」
「そう? それじゃ、そろそろ戻りましょうか」
「はーい」
悠美さんの言葉に、玲美が頷いてから病棟の入り口へと車椅子を押し始める。
……記憶喪失、ここで保護されている? どういうこった?
どうにもオレ自身がどう思うかは別にして、いつのまにか巻き込まれているようだ。
運命、ってヤツかね。
最近はよく夢を見る。たぶん昼寝が多くて、睡眠が浅いせいだろう。
今見ているのは、以前の人生の記憶だ。大学生を満喫していた。毎日、下らない会話を友人を交わし、ダラダラと冴えない人生を暮らしていた。
だがある日、友人の家からの帰り道だ。本屋に寄り道してインフィニット・ストラトスの八巻を買って、本屋から出た。
そして、暴走してきたトラックに横断歩道のど真ん中で轢かれた。
死亡する。
空を飛んでいる鳥がいる。鷹か。
目を覚ませば、オレは自分の部屋にいた。部屋の中でずっとインフィニット・ストラトスの本やDVDを見ている。PCを立ちあげて、メカニカルキーボードを叩き、お気に入りの掲示板を巡る。今日もISについて、読者や視聴者たちが活発な議論を交わしていた。
どれだけ時間が経ったかわからないが、オレはふと思い立って部屋の外へ出る。そうだ、友達の家に行くんだ。
毎日が同じような出来事の繰り返しである。
「……これは」
初めてだった。
隣を見れば銀髪の少女が立っている。誰だっけ、コイツ。
「ワールドパージ? いや似てるだけ?」
「誰だ?」
「私がわからない? ……そういうこと」
「えっと」
「これはもう終わった事象……なるほど。ただの記憶」
「何の話だ?」
「謎ばかり……何故、もう一機の紅椿がラボを襲ったのか。束様をどこにやったのか……」
「何?」
「起きて」
目を覚ますと、オレを覗きこむ少女がいた。目は閉じたままなので、ホントに覗きこんでるかはわからないが、顔はすぐ目の前にあった。
「っと、くーだっけ」
「クロエ・クロニクル。束様のお手伝いをしている」
「娘とか呼ばれてるんだっけ」
「なぜそれを?」
あからさまに怪訝な顔つきをオレに向けてきた。
「知ってるんだよ、オレは」
右手一本で上半身を起こす。時計を見れば、夜中の二時だ。
部屋を見渡せば、監視役のお兄ちゃんズが入口付近には壁にもたれかかって眠りこけていた。幸せな夢を見ているようだ。
「貴方が何者か、話して」
まるで見えているかのように少女はベッドの横にあった丸イスに腰掛ける。
清楚な服装で、外国映画に出てくる名門女子校の制服みたいなのを着ていた。
何者か、と問われて言葉に詰まる。
正直、銀の福音事件ぐらいから、どうにも自分のアイデンティティが揺らいでいた。
「私も聞きたいものだな」
声を聞いて、初めて闇の中で壁にもたれかかっている女性の姿を認識した。
「織斑先生!?」
「久しぶりだな」
そこに立っているのは、一夏の姉ちゃんで、元IS学園教員の織斑千冬だった。IS界では暫定最強の称号を持つお人で、意外に謎が多い。あと、生身で異常に強い。
IS学園から解任されたとは聞いてたが、何でここにいるんだ?
「織斑……千冬」
クロエと名乗った少女が即座に立ち上がり、自分の体を守るように両手に持った杖を構える。
「そろそろ答えてもらおうか、あの日、何が起きたのか」
悠々とこちらに向けて歩いてくる千冬さんに、少女が距離を取ろうとした。
「ここで捕まるわけには」
「逃げられると思うなよ。私から」
言葉が真実かどうかは別にして、本当だと思わせる迫力があった。
「……わかりました。織斑千冬。貴方は束様の友人と聞いています」
「二瀬野、こいつを娘と言っていたが」
急に話を振られ、思わず眉間に力が入る。
「間違いない、と言いたいところですけどね。オレが知ってるのは、そいつが篠ノ之束のラボで一緒に暮らしてたっぽいことだけです。あと娘と呼んでいただけってことか」
「ふむ。まあいい。とりあえず私から話すか」
そう言って、千冬さんはオレにブラックの缶コーヒーを投げてきた。
「夜は長いからな。これで目を覚ましておけ」
えーっと……。
「何でここにいるんだという素朴な疑問が」
「他にもこの病院に用事がある。ここを通りかかったのはたまたま……何だ、その目は」
「いや疑ってねえッスよ?」
「ふん……まあいい。コーヒーは?」
「あざーっす」
千冬さんがプルタブを片手で開けてから、オレに渡してくれる。意外にこういう細かい気遣いが効く人なんだよな、この人。
「まずは私から話そうか。あの日、何があったのかを」
「最初の作戦、つまり銀の福音とのファーストコンタクトのときだ。突然、私の元に束から連絡が入ったのだ。その直前に会っていたからな。様子が少しおかしかったのは気付いていたが、こちらもそれどころではなかったし、あの束をどうにか出来る戦力がいるはずもない」
壁にもたれかかっていた千冬さんがジャケットを脱いで、腕を組む。クロエはベッドの横に置いてあったイスにちょこんと行儀良く座っていた。
「ま、確かにそうですね」
篠ノ之束はISを提供できる科学力を持った人間であり、その気になれば世界相手に余裕で勝ってしまう軍事力を用意できる。
「と思っていたのだが、作戦中に回線へ割り込みをかけてきて、妙に慌てた様子で喋り出した」
「慌てた?」
「古い付き合いだが、本気で慌てた声を聞いたのは初めてだった」
「で、何だったんです?」
「自分ではどうにもならない事態が訪れた。あとよろしく」
「……戦慄の言葉ですね」
篠ノ之束でどうにもならない事態、というのはつまり、世界で一番の力を持った人間より強い何かが現れた、そう告げられたのだ。
「ああ。そこでぷっつりと回線が切れてしまい、以降、連絡が取れなくなった」
自分用のコーヒーを一口飲んでから、オレの方をチラリと見る。
仕方ねえ。ため息が出るぜチクショウ。
「まあ一夏とラウラから報告は聞いてるでしょうけど、偽物の篠ノ之束が現れました」
「未来から来た、などとふざけたことを言ってたが」
「自分の弟がウソを言ってるとも思ってないんでしょ」
からかうように笑いかけると、気まずそうに視線を逸らし、
「……あのバカ、誤魔化しはするが嘘はつかないからな」
と少し恥ずかしそうに呟いた。
「どうにも、紅椿らしいということしかわかってないです」
「お前と関係があるみたいに言ってたが」
「さっぱり。オレ自身もわかりません。ああ、嘘は言ってませんよ。投げやりモードなんで」
「ふむ……で、お前自身はどう思っているんだ?」
「オレ?」
改めて聞かれると困るな。
色々と整理できてない事柄が多すぎるし、何よりオレ自身がどうでもいいやと思ってるからなぁ。
「どうにも普通の人間じゃねえみたいですね」
「ほう」
「テキトーに掻い摘んで話すと、オレの来歴はどうにもオレが思ったようなもんじゃないらしく」
「来歴……? お前は間違いなく二瀬野さんちの息子だと思うが」
「あー。ざーっくりと話すと、オレはある程度の未来を知ってるんです」
オレの言葉に、二人が眉間に皺を寄せる。
「そういう反応はわかってたんですけど、まあ、オレの話は知ってますよね、織斑先生」
「もう先生ではないがな」
「んじゃ千冬さん。オレが知ってる、いや正確には知っていたって表現が正しいかな。オレが知っていたのは、オレがいないこの世界です」
「どういうことだ?」
「とりあえず違う世界、で良いのかな。そこでオレはこの世界を物語の中の物だと認識してました。で、ある程度の未来を知っていた。そんなオレが動いた結果が今の世界情勢です。それこそブラジルでの蝶の羽ばたきが、アメリカで竜巻になるように、色々と変わっていった。あ、責めるなら責めてもらって結構ですよ」
その言葉に、織斑先生が鼻で笑う。
「バカか。そんな姿になった結果を自分で責めるな。そんなことで何かが許されたり無かったことになったりはしないぞ」
「ま、そりゃそうだ」
「それは私も同じだからな。私がもしあの時……いや、何でもない」
渋い顔でコーヒーと一緒に自分の言葉を飲みこんで黙り込む。
言いたかったのはおそらく白騎士事件のことだろう。あれによって世界は大きく変遷したのだ。
未来を変えた、という点ではオレも千冬さんも同じで、そしておそらく、篠ノ之束も同じような自覚があるんだろう。悔やんでいるかどうかは人それぞれだろうが。
「まあ、オレは違う世界から来たと思ってたんだけど、どうもそれは違って、未来から来たみたいなんです。オレがISを外せないの、知ってますよね?」
「ディアブロ、という名称か」
「そうです。このISのコアナンバーは、2237。つまり今現在、ここには存在しないISコアです」
クロエが息を飲んだ。
ISコアは、ISを作る中心となる物体だ。その中身は完全にブラックボックスであり、生成できる人間は篠ノ之束のみ。
そのコアには固有のナンバーが刻まれており、コアの総数は表向き467個となっている。つまりコアナンバーは467とプラスアルファまでしかない。四ケタというコアナンバーは異常なのだ。
「未来から来た、か。それはつまり、あの束も」
「オレたちは見て聞きました。自分を神と言い、時を越えたと自称し、そして箒をマスターと呼びました」
「紅椿か」
それ以上は話すこともなく、オレはこの場を仕切る千冬さんの言葉を待つ。
一分ぐらい熟考した後だろうか、ゆっくりと、
「クロエと言ったな。お前はどうなんだ? 何があった?」
と尋ねた。
「……それは」
「話してみろ」
珍しく優しい声色で問いかける。意外に生徒以外には優しいのかもしれないな、この人。そういや小さいときもそうだったっけ。
「……私にもよくわからない。言えるのはラボを強襲され、フルスキン型の……おそらく紅椿が現れ、空間に突然、穴のような物が開けて、束様がそこに吸い込まれたとだけ」
「さっぱりわからん。日本語で頼む」
「私にもわからない。束様は何かご存じみたいだ。直前で、とうとう来たか、と。あとは私をISに押し込んで自動モードで射出した。そのISの中にデータがあった」
「そのデータの中身は?」
「……正直、意味がわからない。貴方のデータもあった。こいつが怪しいとあったが」
「オレが怪しいのかよ」
つか、オレのこと知ってたのか。意外だ。
「だが、貴方は普通の人間のようだ」
「至って普通じゃねえよ。相当に頭のおかしい人だぞオレは」
「あとは、貴方に助けを求めろと」
「はぁ?」
思わず大声で問い返してしまう。
「……正直、意味がわからん」
千冬さんも呻くように呟いた。
「ねえ千冬さん」
「なんだ」
「オレ、篠ノ之束に無視されましたよね」
「……覚えてたのか?」
申し訳なさそうに、千冬さんが問い返してくる。
「そりゃ強烈な体験だったんで。なんで今さら、オレに?」
つい言葉に棘が生えてしまい、クロエを睨んでしまった。
「わからない。私にもわからないことだらけだ。ただ、束様とは連絡が取れない」
「いやさ、だからオレなわけ? オレは確かにちょっと頭がおかしいが、篠ノ之束とは面識もねえ」
間近で見たことがあるが、あれは面識と呼ばないだろうな。向こうは認識してなかったんだから。
「私も別に貴方を頼りたいわけではない。ただ、少し前から貴方を調べていたのは間違いない」
「あん? どうしてオレをだ?」
思わず食ってかかろうとしてしまうが、体のバランスが上手く取れなくて、ベッドから落ちそうになる。千冬さんが慌てて支えてくれた。
「落ち着け二瀬野」
「い、いやだって、今さら篠ノ之束が助けてくれだって!? ふざけんなって話ですよ」
「だから落ち着け。何も、お前が受けなければならない話ではないだろう?」
自由に動けないオレの体をベッドに戻しながら、諭すように問いかける。
「そ、そりゃそうですけど! でも、何で今さら」
幼い頃のオレを無視した世紀の天才を助けろなんて、意味不明にもほどがある。
「とりあえず二瀬野、それとクロエだったな。この件は私が預かる。二瀬野は別に何もしなくて良い。今はゆっくり休め」
「言われなくてもそうしますよ」
吐き捨てるような言葉に、クロエが不満げな顔をしていた。
もしオレが一夏のように、幼い頃から篠ノ之束に認識され、せめても知り合いとして関係を構築していたなら、話は変わってきただろう。
だがこの二瀬野鷹は、篠ノ之束に認識すらされなかった。
助ける義理がねえし恩もねえ。
ふざけてやがる。
「いいかクロエ、オレは決して篠ノ之束を助けねえからな。んじゃさっさと自分の部屋に帰れ」
それだけ明確に告げて、オレはベッドで不貞寝を始めた。
千冬さんの口からため息のような音が漏れてくる。
それ以上の会話はなく、納得いってなさそうなクロエを千冬さんが連れて行くようにして、二人が無言で部屋からいなくなった。
そうだ、オレは篠ノ之束のために何かをするつもりはない。
動機ってのは大切だ。
玲美が同じような目に会えば死んでも助ける。理子や神楽、それに悠美さんだって同じだ。一夏や箒や鈴の場合でも一緒だし、セシリアが敵に捕まったってんなら、微力な死力を尽くしてやる。シャルロットとラウラの場合はちょっと微妙だが、それでも一夏が助けるってんなら、なるべく頑張ってやろう。場合によっちゃオータムだって助けるつもりだ。義理があるからな。
だが、篠ノ之束だけは別だ。
オレはヒーローじゃない。だから何でもかんでも守ったりしないし助けたりはしない。
銀の福音の暴走も、その前の無人機強襲だって、アイツのせいだ。
良い気味だ。オレが自由もなく生きて行くなら、あいつだってどこかもわからない場所で朽ちていけばいい。
それで初めて同等だ。オレたちは、似た者同士なんだからな。
だから、二瀬野鷹は、動かない。
九月三日、車で輸送され辿り着いたのは、如何にもデザイナーが設計しましたといわんばかりの建物だった。
「どこスか、ここ」
付き添いにも答えてくれる人間がおらず、不揃いのスーツなのに同じような無機質の印象を受ける男たちに押され、自動ドアをくぐる。
ガラス張りのエントランスの中は白衣を羽織った人間が多いように思えた。
何かの研究所かな、と思ったがさっぱりわからん。金属プレートの案内板も大した内容が書いていない。
「行くぞ」
車椅子を押す男の声が堅い気がした。
エレベータから降りて辿り着いたのは、診察室みたいな場所だった。
ドアを開ければ、机の上のノートPCに向かってひたすら端末を打つ女性がいた。歳は五十歳過ぎぐらいだろうか。あまり外見に頓着がないタイプなのが、白髪交じりの髪をばっさりと顎のラインで切りそろえ、大きな丸いメガネをかけていた。彫が深い顔つきを見るに、日本人じゃなさそうだ。
「おや、到着したいかい?」
イスを回転させて、オレの方へと向かう。
「私たちはこれで」
付き添いたちが頭を下げて部屋から出て行く。
「はいよ」
白衣を着た女性が手で追い払うようなジェスチャーをした。どこの国の人間かは不明だが、日本語は随分と流暢なようだ。つか、オレの知ってる外人はみんな、日本語が堪能だ。逆にオレは外国語が苦手である。翻訳サイトの使い方は一流な気もするんだけど。論文とか読めるし。
「あの」
「ああ失礼。自己紹介がまだだったね。私の名前は……まあドクターとでも呼んでくれ」
「はぁ……、二瀬野鷹です。よろしくおねがいします」
「うんうん、中々に礼儀正しくて良いね。まずは診察から行おうか。上着は一人で脱げるかい?」
「了解です」
メガネを膝の上に置き、右手一本でTシャツを脱いで、体を露わにする。
ドクターと名乗った女性は首にかけていた聴診器を摘まみ上げ、オレの胸へとつけた。
「ふーん。生きてるねえ」
珍しい生物でも見つけた学者みたいに、しげしげとオレの体を観察しながら診察を続けていた。
「はぁ……まあ、そのつもりです」
「ふむ、じゃあちょっとこれを見てくれるかい?」
少し楽しそうにノートPCの画面をオレへと差し出す。
仕方なしにメガネをかけ直して、表示されているものに目を向けた。
「……ん?」
どっかのマンションの一室が映し出されている。監視カメラの映像か何かみたいだけど、よくわからん。そこには何か大人が二人写ってた。二人とも休日なのか、リラックスした様子でテレビを眺めて、お菓子をつまんでいる。
何か見覚えのある光景だ。
「……ってこれ」
「そうだよ、キミのご両親さ」
目の前のドクターが、愉快気な表情を隠し切れずに喉の奥で笑う。
映っているのは、オレのオヤジと母さんだった。日本政府によるVIP保護プログラムにより、名前と職場を変え、オレも知らない場所で暮らしている。今はさらに一歩進んだ保護プログラムに入っている、と政府の人間に言われていたが、平日の昼間からオヤジもいるってことは、軟禁状態ってことか? よくわからん。
「これが何ですか?」
「いいかい? 見てなよ、このボタンを押すと」
そう言って、ドクターがエンターキーを叩く。
その瞬間に、画面の中で爆発が起きた。
「は!?」
「ああ、残念。これで自由かい。良かったねえ」
「なに……が」
「死んだよ、キミのせいで。ああ残念だねえ。惜しい人を亡くしたねえ。まだまだ研究してない個体だったんだけどねえ」
「てめえ!!!」
瞬時にISを部分展開し、右腕で目の前の女の襟を掴んだ。
「何のつもりだ!!」
「ギブギブ。待ちたまえよ検体M1、いや二瀬野クン。今のはただの加工映像さ。その証拠にほら」
宙ぶらりんになったドクターが地面に落ちたノートPCを指さす。
切り替わった映像は、平和な夫婦の光景の続きのままだった。
「……どういうこった」
手を離すと、クソ女が地面にドンと落ちる。尻をさすりながらメガネをかけなおし、ゆっくりと立ち上がる。
「いたたたた。年寄りはもっと丁寧に扱いたまえよ」
「そうして欲しいなら、そういう誠意を見せろよ。どういうこった?」
「いやいや、日本政府がキミの扱いに困っててね。だから、私たちで引き受けてあげたんだよねえ」
「あん?」
「それでまず、キミが今、どういう状況下にあるか教えてあげたんだよ」
「んなこたぁ充分に知ってる」
「わかってなかったから、気ままに外へ遊びに出たんだろう?」
それは多分、一夏たちと篠ノ之神社での祭りに出かけたことを言ってるんだろう。確かにISを使って、勝手に外出し大問題になっていたようだ。だがそれ以降は部屋でじっとしていたし、護衛の兄ちゃんたちにすら迷惑をかけていない。変わったことと言えば、昨日のクロエの件ぐらいだ。
「……ここはどこだ?」
「ここ? ああ、私たちのことかい?」
「そうだ! 今すぐここをぶっ壊してやってもいいんだぞ、オレは!」
「さっきみたいにキミのご両親を始末するためのボタンは、ここだけじゃないよ。全部で八か所の機関で握ってるんだよねえ」
「このババァ!」
オレが凄んでも、どこ吹く風かイスにかけなおして襟元を正し、バカにするような笑みを浮かべている。
「さあ状況はわかっただろう? ISを解除して座りなおしたまえよ。今日からキミは遺伝子提供検体M1だ。そう呼ばれたら返事するんだよ、M1」
……なんだコイツは。
遺伝子提供検体? 何かの研究所なのか? それにしても状況が特殊すぎる。目の前のコイツも、真っ当な人間にゃ見えねえ。
「これからキミは一カ月か一年か、それとも一生か。私たちの研究の礎になって世の役に立つんだ。大丈夫、殺しはしないよ。躾けには慣れてるし、キミもすぐに慣れるよ。そして、そう努力をするんだ。いいかい?」
楽しそうに舌舐めずりをして、検査着を着たオレの襟首をグッと掴み上げる。そこにある笑みが気持ち悪くて仕方ない。
……とうとうやってきたのか。オレのやってきたことに対するツケが、ここでまとめて請求されようとしている。
「てめえは、何者だ?」
オレの問いに、目の前のドクターは鼻で笑う。その顔つきは、まるで狡猾なヘビのようだ。
「教えても大したことないだろうし、まあ私たちは昔から、こう名乗ってるよ」
メガネの奥が狂気と愉悦に満ちた光を灯す。
「遺伝子強化試験体研究所、と」
後半戦開始。