【青森城】〔西暦1588年春〕
青森で4高等学校研究所が発足した。
「全てにおいてSBや北邦にある研究機関の下位互換であるが、それでも国内研究所が有れば何かしらの発明が見込める。」
という意味で作られた。
高等学校も東西南北で名前がつけられ、東校と北校は農産物の品種改良に強く、南校と西校は工業製品の研究に長けていた。
この4校のおかげで鎖国してからも青森は西洋に科学技術で負けることはなかった。
特に1発目に西校が開発したネジの旋盤加工(初期)は工房で雑賀衆等の職人達にしかできなかったネジ製造を6、7秒に1個ペースを水力の力を使うことで量産に成功させたのだ。
雑賀衆等の職人集団は旋盤加工機を作ったり、それ以外にも仕事があったので文句は出なかった。
〔夏〕
評定会で金利上限法が成立。
年利10%以上を違法とし、法外なヤミ金は兵士に捕らえられることとなる。
また警察制度の導入もこの時期である。
北邦では数百年前から存在していたが、青森では武装警察が導入された。
帯刀許可であり、江戸時代には足軽身分となるが、切り捨て御免は特例(辻斬り犯、強盗殺人犯の逮捕)を除いて禁止された。
〔秋〕
駅馬制度の導入開始。
経済力の飛躍のために物流の効率化を計った。
この時期に日ノ本最大の銅山が発見される。
評定会、斎藤家どちらもこれを隠す。
採掘もせずにである。
秀吉に漬け込まれたら堪らないためである。
「耐えるとき・・・。」
〔冬〕
道元・・・54人の子持ちとなる。(男30 女24)
財政が圧迫され始めたので北邦に子育て支援を側室が要求。
通常の半分となるが支援を引き出すことに成功し、促成教育を開始する。
1歳から6歳までを対象にした血縁要員としての教育だった。
一番この事実に納得していたのがモッピーこと箒姫である。
「結構な腕前で。」
茶道
「鯛の煮込みと味噌でんかくでございます。」
料理
チクチク
「衣でございます。」
裁縫
パチパチ
「1貫半。」
計算
等々・・・産まれた時はヤバイやつであったが、今は一番落ち着いた女性となっていた。
「女傑の才あり。」
そんな噂が流れ徳川の家臣である本田忠勝が訪ねてきた。
「我が殿の4男である福松丸との交際を検討してみないか?」
とのことだった。
道元は離縁不可、序列は何でもいいという条件箒姫を送り出した。
「本田殿・・・1の年で自我がある私は妖怪かもしれませんな。」
「龍興殿はそうなると妖怪の親玉・・・ぬらりひょんですかな?」
「ふふ、さぁどうでしょう。」
「年がもう少し有れば私があなたを奪っていたかもしれませんな。」
「ふふ、まだ幼い福松丸の世話は任せてください。」
この時福松丸は8歳であった。