【江戸城】〔西暦1601年春〕
俺は改めて改良された米や麦と青森の国絵(地図)を渡した。
「確かに受け取った。」
家康と秀忠は真っ先に徳川家についた斎藤家を譜代大名として扱った。
理由としては有力譜代大名であった伊井直政が関ヶ原にて受けた傷が治らずに下半身不全になってしまったのだ。
少しでも徳川家の戦力が低下したと見て未だに元気な豊臣家が関西で暴れられて経済が崩壊すれば目も当てられないため、数十年かけて巨大な経済力をつけた青森を建前だけでも支配する必要があったため、この配慮をしたのだが、龍興は
「譜代では不味いと思う・・・代わりに江戸まで船で行くことを許可してくれ、勿論500石以上の船を使うことはしないし、隻数もそちらが決めてほしいが。」
「枷でもあるんだがな・・・例外的に幕政に参加できるようにはするぞ。」
「そんなの要らないんだがな。」
「人質だよ。お前も年だ。ワシよりも長生きはしないと思うがな。」
「天下人が長生きなのは良いことだ。政治が安定するからな。」
後に参勤交代の移動期間と財政の圧迫を回避できる唯一の藩となる。
〔西暦1602年秋〕
江戸城にて道元に家督を正式に譲ったことを家康と秀忠に伝える。
また、徳川忠吉の移動が完了し、秋田家の旧家臣も吸収して50万石を保有した。
ここに秋田徳川家が誕生する。
【伊達領 仙台藩】
マニュファクチュア(工場制手工業)の波及が伊達家に伝わった。
「こりゃあいい。最高だ。」
居城を仙台に移し、仙台藩が確定し戦国が終わろうとしているのを感じていた政宗はどうやって国力を上げるか必死に考えていた。
できることをしなければならなかったので農地の開拓、治水工事、産業の育成をしていたがこれといった特産品が無かったのだ。
「よし、この方法を使い大量の農具を作れば・・・。」
残念なのは政宗以下家臣達も米こそが収入だったために石高と本税だけを意識した藩政となる。
【上杉家 越後藩】
対して上杉は120万石を保有していたが、幕府の警戒を避けるために20万石を家臣に分配して寄子の藩を5家作成した。
その穴埋めに工業を目につけ
「越後平野の開発と工業の発展をおこなって加工品を専売し、他国に売れば上杉家は200年安泰になるでしょう。」
直江兼続が主導して毎年黒字の上杉家と呼ばれる基礎を作っていく。
【青森藩 評定会】
青森藩では他国に売る肥料作りを急いでいた。
「食べ物は食べれば無くなる。しかしだからみんな作る。しかし肥料は作らない。なら売れる。」
このように売れる商品を作り続けるため評定会と青森藩、藩民は豊かであり続けた。