【江戸】〔西暦1632年正月〕
家光は全大名を集め広間にて宣言した
「祖父や父はそなた達の力を借りて将軍となった。だが余は生まれながらの将軍である。余に家臣として仕えることに異存の有るものがおれば・・・ただちに国へ帰り一戦交える支度をせよ!!決して邪魔立てはせぬ!!」
「その時はこの政宗が上様の代わりに出陣いたす!!」
「我が強兵青森男子の錆となる覚悟をいたせよ!!」
ここに家光の時代の強硬な基盤が出来上がる。
この数日前に家光の弟忠長が発狂の後に自害していたため、諸大名は色々と不安になっていたが、今回の宣言により幕府に逆らう勢力はいなくなった。
〔春〕
後に寛永の改革と呼ばれる一大改革が始まった。
先ずは家康、秀忠が大きくした大奥の大粛清をおこなった。
今の家光の正室は公家の鷹司孝子であったが、不仲であり、権力は育て親のお福と嫡子を産んだ合理主義の長門であった。
2人は家光の粛清に賛成し、約200名いた大奥を20名まで追放した。
大奥は2人の女傑に任せた家光は政治改革に乗りだし、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立し、徳川7家から緊急時の最高権力者である大老が出される決まりも定められた。
この時に酒井忠利に武家諸法度の改定に着手を命じている。
〔夏〕
キリスト教の布教禁止を発布し、数年早くポルトガル船来航を禁止する。
ただし現キリシタンは布教しないのなら引き続き信仰することを許される。
〔秋〕
「そもそも余は北邦の地や大韓の地を知らぬ・・・制度や内情を知るためにも使節を派遣しよう。」
将軍である家光自身が直接向かいたかったが無理だと判断し、幕府から伯父である徳川忠吉の派遣を決定した。
忠吉は徳川家の中で長老的立場であり、家光は昔に叔父も北邦に行きたいと言っていたのを聞いていたのでこの人事となった。
また、若手の下級武士、外様でも希望した大名は北邦に向かうこととなった。
案内は斎藤龍興が務める。(大韓民国は対馬藩が案内を担当)
【北邦】
使節は北海道に広がる工場と見慣れる機械に驚き、さらには農民と思われる人物達の知識の高さにただただ驚いた。
今回の使節は内部調査だけなので簡単に済ませられ、書物や古い文献を読み漁る者もいれば、政治の仕組みなどを北邦政府の案内人に聞く人もいた。
共通したことは
(((日ノ本も改革に着手せねば!!)))
ということだった。
友好の証として北邦からはクリッパーを送られ、使節の証言を基に家光は近代化を進めていく。