【江戸】〔西暦1645年夏〕
家光が病気から回復の兆しが見え始めた頃、大老であった忠吉がついに病死した。
彼は寿命を削りながら自分の藩から大坂(青森は別として)軽工業の工場群である関東中西ベルトを作り上げた。
また道の舗装、港の整備、寺子屋の制度化等に尽力し、徳川の産業基盤を作り上げた。
また、貿易の利益が膨大なため相対して年貢の引き下げがぼちぼち始まり、貨幣の浸透が農村にまで波及していった。
忠吉の遺体は復活することなく秋田に埋められた。
「彼の死は痛いですが・・・我が弟達の出番が出てきましたね。さて、どういたしましょう。」
約2年で家綱は自身が考えていた3つのやるべきことを終わらせていた。
琉球は一部を一時直轄地とし、新たに琉球藩10万石として末の弟の綱吉に任せた。
末といっても22歳なので問題はなかった。
(それよりも酷いマザコンになりかけてましたからね・・・はっきり言えば左遷ですが、貿易基地としての役割もありますし、台湾に食い込めれば幸いですかね。)
で、小笠原諸島に関しては中立派の若い旗本達に島々を与え、浪人の登用場所とした。
家光の様々な小大名の一斉改易が原因である。
(中立派の保護にもなりますからね。)
幕府は数種類の派閥で政争がおこなわれていた。
まず大御所派・・・これは家光の側用人等のごく少数であり、将軍である家綱の命令も受け入れている。
次に保守派・・・革新反対派ともいい、老人か戦国に憧れた若者が多くいた。
これに協力している井伊家を除いた徳川四天王の三家である。
で、若者や下級旗本や御家人の多い革新派、知識層や上級旗本が多い中立派、血縁が多い将軍派となっていた。
「そろそろ消す必要がありますね・・・白組若頭の刃都辺さん、できますか?」
「は!!」
シュ
忍びはすぐにいなくなる。
「これで動きやすくなりましたね。さて、台湾問題を協議しますかね。」
翌日、江戸の屋敷にて集まっていた保守派が惨殺されているのが発見された。
【イタリア バチカン】
戦争によって力を取り戻しつつあるバチカンでは、国教がないソ連の情報を集め、調べられた情報により大混乱に陥っていた。
「社会主義に・・・共産主義だと!?」
「この思想が広まれば我ら教会は消えてしまうではないか!!」
「戦争をしている場合ではないぞ!!王や皇帝の地位も危険になるのではなかろうか!!」
「悪い話だが、この国とオスマンが結託しているらしい。」
「それだけではない!!北邦も後ろにいる。」
「早急に手を打たなければ。」