【北邦 参謀本部 空軍部署】〔11月30日〕
空軍は両津中将の直属の上司である大原が空軍の元帥としてトップに立ったが、実態は両津中将が完全に部署を掌握した。
これを陸海両軍、政府は承認し、戦術だけの空軍から独自作戦が展開可能なように進めるようにした。
両津中将が始めにおこなったことは窓際に追いやられた真中博士の名誉回復であり、とにかく速くて大馬力に耐えれる攻撃機の設計を任せた。
両津自身もRシリーズの限界が見えたからだった。
また、両津中将の下に大財閥との関係がある秋山少佐と中川大佐を召集し、経済界の関係を強化し、バリエーションを増やして戦況に合った航空機を使うために独自試作機を万単位で導入し、航空機に強くなっていた日本に共同開発を依頼し、韓国にも同様にした。
部隊編成も変更し、最高36機の中隊規模計算でしていたのを1軍団1024機編成に変更した。
エース制度の積極推進もおこない、カスタムの幅を広げ、戦略空軍へと変貌し始めるのであった。
現時点でR-00、4万9700機、R-1、2万1250機、R-2、1万100機、R-3、7250機、K-00(オートジャイロ機)700機、K-100(オートジャイロ機 3枚のプロペラが3ヵ所にあり、3トン近くの搭載量を誇る 地上支援機)500機、2式真中、6900機、メモリアルⅡ、4万機が戦力である。
「足りんな。ジェットエンジンなるものも基礎研究は始めたが・・・上手くいかん。となると現在ある機体を増やすしかない。」
その為には農南の工場群が完成するのを待つしかなく、北邦の土地にはもう大量に余っている場所などなく土地不足に悩むようになり、両津中将だけでなく政府も悩むのであった。
「仕方がない、趣味の設計でもしてるか。」
【日本】
戦争が終結してから凄まじい勢いで経済成長を遂げていた日本は植民地(同化政策中)のオーストラリアの開発を急いでいた。
今回の大戦で北邦と首都が近すぎるという問題を解決するために遷都する事が決定し、そのために未開発だった場所もくまなく開発された。
その中で人手不足が深刻化し、政府が産めよ増やせよを戦時中よりも徹底させた。
「稼ぎ時だ。」
田中角栄もこの時期に北邦から輸入した重機を操り、着々と資金を集めていた。
そんな中、人数が減った紺碧会では北邦と共同開発で何を作るか考えていた。
「史実のドイツ後期から末期の機体で良かろう。設計図はある。あちらからはエンジンと一部の電子機器を受けとれば後々有効なカードになるからな。」
日本では既に他国よりも早くジェット機の試作をしていた。
敗戦国でありながらも世界第三位の海軍と74式戦車相当の強力な戦車に兵器の数々、ジェット機が組合わさりながら高度経済成長中と超大国になり得る可能性が出てきた。
それにはまだマンパワーが少なかったが・・・。