湿った音を響かせて、無数の触手を蠕動させつつ、思う。
―――本当に、月の魔物は死んだのか。
狩人の夢が明けない。
一度は確かに白みかけたはずの空は再び闇に覆い尽くされ、ただ月のみが真円を描き、凄絶なまでの輝きで地上の総てを鉛色に浮かび上がらせている。
(それはよい)
そのこと自体には、別段問題はないのだと花に埋もれて「彼女」は思う。
花畑で佇む幼女といえば、なるほど聞こえはよいのだろう。身に纏うのは純白のワンピース一丁で、その生地に負けず劣らず肌が白い。詩人ならば、白磁のような、といったあたりの評価を与えるだろう。流れる髪は黒絹ですら嫉妬のあまり気死しかねないほど艶めかしく、黒と白の対照は、見る者に美とは何たるかを悟らせずにはいられまい。
ただ、問題があるとすれば。
……彼女が纏うワンピース。その裾からは幾本もの黒光りする触手が顔を出し、あるものは所在無く虚空を掻き毟り、あるものは小さな足に絡み付き、粘度の濃い体液を分泌しながら絶えず蠕動していることだろう。それに伴いにちゃにちゃと、湿った音が厭らしくも撒き散らされる。真っ当な感性の持ち主ならば耳を引き千切り鼓膜を突き破ってでも聴取を逃れたくなるに相違ない、不快で冒涜的な音だった。さらにはこれだけの触手を生やし、無遠慮にだらだらと粘液を垂れ流しているにも拘らず、幼女の纏うワンピースには染みの一つも出来ておらず、また不自然な体積の盛り上がりも見受けられないのである。
―――いったいあの下はどうなっているのだ。
幼女の柔肌からどのようにして触手が突き出ているのか。ほんの僅かでもそのことに思いを馳せてしまえば、もう取り返しはつかない。自覚のないまま正気を失い、やがて狂気的な悪夢の最中に佇み脳漿を破裂させかけている己の姿を発見するはめになるだろう。
敢えて意識するまでもない。ただ其処に在るだけで世界を歪ませ、致命的に汚染する。
それこそが上位者たるの権能。ヤーナムという、一度足を踏み入れれば地獄が静かな保養地としか思えなくなる、あらゆる意味での「極地」を駆け抜け、ついには人の範疇を超越し、新たなる幼年期へと到達した名もなき狩人の、これが現在の姿であった。
「………」
この丘からは満月がよく見える。
かつてゲールマンを屠り、月の魔物を返り討ちにしたこの場所が、彼女の最近の定位置だった。
かといって、彼女に月見を楽しむ風雅などない。彼女の思考を占領するのは、たった一つの懸念のみ。
―――月の魔物は、本当に死んだのか。
そのことのみを思い、胃の腑を炙られるような不安を感じ続けていた。
そもそも彼女は既に上位者。脳などという未熟な思考機関からはとうに解放されているのだ。その思索は新たなる境地―――超次元のものであり、筆舌に表すのは不可能である。
さりとて我々は三次元に縛られた身。如何に欠陥だらけで人間同士の接触に於いてさえ時に語り手の意図するところを十分の一も伝えてくれなくとも、言語という道具を使用するしか術がない。
ゆえにこれより先も彼女の思考を文字で以って表現する。本来在るべき神聖さを損なうこと甚だしく、涜神と罵られても仕方のない所業であるが、どうか御容赦願いたい。
閑話休題。
彼女はかつて、確かに月の魔物を撃破した。殺して膨大な血の遺志を引き継ぎ、それが既に臨界を迎えつつあったところへの最後の一押しとなり、幼年期のはじまりという上位者の赤子としての覚醒を成し遂げた。
それは、それこそは、ビルゲンワースに端を発する数多の狂人どもの願いの極み。ただそれのみを切に願い、夥しい死骸の山を築き上げ、しかも何らの成果も得られず、ことごとく失敗に終わり、ただ呪いと恥ばかりを積み上げた彼等は、これといった由縁もなく、ヤーナムにふらりと現れた異邦人が総ての成果と果実をもぎ取っていったと聞けば一体どのような貌をするのだろうか。
憤怒、呆然、嫉妬、悲嘆―――いずれにせよ、彼女にとってはどうでもいい。彼等がなんと吼えようと、彼女が勝利者である事実に揺らぎはないのだから。
(勝利者。……)
負うべき過去が何一つない低能力者、所謂持たざる者だった彼女にとって、その響きは甘美であった。
事実、彼女は勝っている。
完勝といっていい。
ヤーナムに蔓延るありとあらゆる獣を殺戮し、神の墓を暴ききり、正気を失くした狩人、呪いの塊、果ては正真正銘の上位者まで―――行く手を遮るものみな総てを惨滅せしめ、狩人の夢と呼ばれたこの領域を奪い取り、己の揺り籠へと変えてみせた。
(紛れもない勝利である。我ながら、成し遂げた偉業に惚れ惚れするぞ)
そういう意識だから「偉業」の成果物を誇り、愛することに躊躇いはない。
中でも格別の想いを懸けているのが、月の魔物から支配権を奪い取った狩人の夢と、その中で佇む人形である。
外敵に脅かされずに済む安楽な在所と、己に惜しみなく愛を注いでくれる養育者。人形に抱かれて過ごす時間は蜜のように甘く、優しく、穏やかで、その「愛」が何処に淵源を発するかなど些事としか思えなくなっていた。
だが、あるとき―――手足が生え揃った頃だったか―――ふと思ったのだ。
―――あいつは、月の魔物は、本当に死んだのか。
―――永遠の夜。決して明けない狩人の夢。それを私は、私の能力が成立させていると信じていたが……よくよく考えてみれば、そんな保証が何処にある?
何処にもない。ただ、彼女が上位者としての感覚でそう認識しているだけである。
人形は、いわば己の一部。彼女が何を口にしたところで所詮は鏡に叫んだ言葉が反響しているに等しく、何の保証にもなりはしない。
彼女は己の基盤に対して、何ら客観的な確証を持たない。
(指先の感触のみを頼りに巨象を探り、あまつ理解したと自惚れる盲人。それが私ではないか)
衝撃的な仮説であった。
戦慄のあまり血の気が退いて、ただでさえ白い肌が死人以上に青ざめた。
(そうだ、何故こんなことに気付かなかった。私は赤子だ、
人の階梯に於いてさえ、赤子と大人の間には到底覆しえない絶対的な力量差が横たわっている。なればこそ親は子を、あの獣性丸出しないきものを無事に養育出来るのだ。
(もしこの定理が、上位者の世界に於いても通用するとしたならば)
あるいは、そう。産まれたばかりの上位者の認識を誑かす程度、真に完成された上位者ならば造作もないのではあるまいか―――。
(なんということだ)
むろん、三次元の先を見透かし宇宙の深奥に迫る彼女の瞳はこれら疑惑の悉くを否定している。過度の危機意識が産んだ妄想に過ぎないと看破している。月の魔物は確実に、完膚なきまでに死んでいるし、この夢は彼女の独占下にあると告げている。
だが、彼女は生来疑り深くできていた。
(とても暢気に信じていられない)
物事は常に最悪を想定し、それに対する心構えを作り上げておくべきであろう。
人間時代に開眼した人生訓である。
この場合の「最悪」とは、即ち此処は未だにあの怪物の牢獄で、自身を抱く人形の手もその実月の魔物の触手であり、事を成したと図に乗る己を遥か天蓋より俯瞰して、嘲りながら愛しんでいるのではないか、ということである。
かつて滅した月の魔物は、謂わば端末、もしくは水面に映った影に過ぎず、「本体」は今なお天に在る。己の所業など、所詮はその巨大すぎる総体の極々一部、小指の先を傷付けて、ちょっと血をこぼさせた程度に過ぎぬと喝破されることである。
「………」
絶望的にも程がある。彼女は泣きそうになった。幼年期を迎えて以来、初めての落涙への欲求であった。
(いや、単に敵が強大なだけならまだいい。そんなものはいつものことだ。それよりも、彼女を疑わなくてはならないのが辛い)
むろん、人形のことである。
ヤーナムでのたうちまわっていた当時から、あの人形は彼女の心の支えであった。誰も彼もが正気を失い、錯乱のあまり手前の首を掻っ捌くならまだしも、こちらに刃を向けてくる不届き者までいる中で、一貫して彼女を案じ、いたわりの言葉をかけてくれたのは人形ではないか。
ルドウイークにとっての月光がそうであったように、彼女にとって人形は、荒れ狂う暗黒の大海で見出した一条の燈火に他ならなかった。
依存するな、という方が無理である。
最初は苦手だった無機質な瞳にも、いつしかある種の安堵を覚えるようになっていた。有機物はとにかく変化し易くていけない。
性別も、創造主と被造物の関係も、あらゆる総てを些事と切り捨て超越し、彼女は人形を愛していた。だからこそ、人形が自分以外の何者かの繰り糸に繋がれているという事態には我慢がならない。想像するだけで虫唾が走った。
(……もしこの危惧が、真実であったなら)
その時は何としてでももう一度、月の魔物を殺さねばならない。殺して、愛しい人形を奪い返さねばならない。
触手が一斉にわなないた。重力を無視して幼い肢体がふわりと浮かぶ。滾る戦意と殺意とが、夢の世界を鳴動させているのだ。
(―――と、景気よく啖呵を切るのはいいが)
とはいえそれも長続きはしない。すぐに沈静した。
如何に猛って見せた所で、現状彼女に打てる手などありはしないのだ。そもそも「敵」が本当に存在するかどうかさえ不確定である。これを確定させるには、時を待つ以外になかった。
時の流れに従い、彼女は自然と上位者として成熟してゆくだろう。今の時点でも、蛞蝓以外のなにものでもなかった最初期と比べれば、蔵する力は天地の差がある。況や完成の暁をや、というものだ。
不安の余り喚き散らしたくなろうとも、見えざる支配者が忌々しいあまり総てを引き裂き打ち壊したくなろうとも、それら衝動の一切を呑み下し、じっと耐え続けねばならない。
(ままならないな。早く大人になりたいものだ)
多くの少年少女が一度は抱くであろう憤懣を、彼女も思った。
(古来、「待つ」という作業を上手くこなせた者こそが勝利者たるの資格を手に入れてきた。それは承知している。しているが―――やはり考えてしまうな、なにか妙案はないものか、と)
思索に耽り、結局何も思い浮かばず、腹立ち紛れに人形の膝を借りて寝る。最近の彼女の行動は、一連の流れの繰り返しに過ぎなかった。
(……いっそのこと)
しかし、今回のみは違う。
積み重ねた懊悩を踏み台に、彼女の思考は恐るべき飛躍を遂げようとしていた。
(私の因子を、私の血を、広く人界に広めてみるか?)
数多蠢く人類にとっての死刑宣告。彼女はそれを、何ら気負わず考慮の俎上に乗せてみせた。
実際問題、やろうと思えば一瞬である。本当に、瞬き一つする間に片がつく。
目を閉じ、開けてみればもう、世界は一変しているだろう。最初は誰も気付くまい。だが、数十億人総ての血管には確かに彼女の血液が混入しており、音を立てて全身を駆け巡っているのだ。
やがて獣の病が発症する時が来る。それは決して逃れられない約束された破滅の日。太陽は熟れた果実の如く糜爛して沖天から切り落とされるだろう。夢と現は境を失い、人々は啓蒙的真実との対面を余儀なくされる。そしてきっと悟るのだ。嗚呼、無智こそが人間に与えられた最大の幸福であったよと。
早い話が、ヤーナムの悪夢が全世界規模で展開される。現生人類の内、九割九分九厘は生き残れまい。みな獣に堕ちる。堕ちて、残った一厘の「例外」が上位者の高みへ達する為の贄となる。
通常、如何なる上位者であろうとこれほど容易く人類滅亡を成し遂げるなぞ不可能だ。そも、人間の側から執拗に求められない限り、悪夢の世界へ導くことすらおぼつかない。口にするのも憚られる凄惨な儀式を繰り返し、それでも大方失敗するのが上位者との接触である。
だが、彼女だけは違う。彼女だけは例外だ。儀式も「求め」も必要なく、望んだ相手の意識下にいくらでも潜行が可能である。
何故なら、彼女の前身が「人」だから。なんら特異な産まれでもなく、当たり前のように普遍の無意識に接続された泡粒の一つに過ぎなかったから。
……その、かつての経絡を、彼女はしっかりと確保していた。人は皆、無意識下で繋がっている。本来祝福であるはずのこの事実が、全人類をして逃げようのない袋小路へ叩き込む呪詛と化した。
そう、根元にて繋がっているのならば。
そこまで潜って毒素を流せば、全ての枝葉が漏れなく朽ちる。
―――普遍無意識とはよくできた仕組みである。まとめてやるには最適だ。
とまで彼女が思ったか、どうか。
いずれにせよ、彼女はいつでも人類種を滅ぼし得た。
にも拘らず、今の今まで一指も触れないどころか意識さえしなかったのは何故か。理由は極めて明快で、単純に興味が無かったからである。
かねてより、彼女は上位者の何が不可解かといっても、彼等が漏れなく赤子を求める理由が分からなかった。
―――何が楽しくて、態々親になどなりたがるのやら。
これは彼女が筋金入りの子供嫌いだったことに起因しよう。
理屈などない。ただ足元を子供達が元気いっぱいに駆け抜けて行くと、微笑ましさを感じるよりも腹の底から煮え滾る鉛のようなものがこみ上げてきて、地平線の彼方まで蹴り飛ばしたくなるだけである。
病的といっていい。
だが、この「病」に犯されていたればこそ、彼女は生物が当然備えていて然るべき子孫繁栄の欲求とも無縁であったし、ひいては人類の安寧も保全されていた。彼女は新たなる幼年期を己一人のものとして独占しており、この星に自らの血族を繁栄させ、統治しようとかいったその手の支配者的欲求は毫も抱かず、夢想だにしたこともなかったろう。
彼女には、次代も未来も必要なかった。
知ったことではないのである。ただ、自己のみがあった。
なにものの干渉も受けず、なにものにも干渉せず、ただ狭く閉じたこの世界で人形と共に在り続ける。この状態が永続するならば、他には何も求めない。
ただ、誰にとっても不幸だったのは、彼女の猜疑心が最早パラノイアの域にまでさしかかっていたことだろう。
かつてゲールマンの介錯に身を委ねなかった理由の半分以上がここにある。あの老いた最初の狩人は、自らの刃に首を刈られることで夢から目覚めると彼女に説いたが、冗談ではなかった。
「所もあろうに、このヤーナムで。他人に自らの生殺与奪を委ねる馬鹿が何処にいる」
と、面と向かって罵倒した。
第一、ゲールマンの言が真であると信じる根拠が全く無かった。うかうかと話に乗り、いざ首を刎ねられてみれば目覚めるどころか永遠の眠りに直行したとあっては何がなにやら分からない。
獣狩りに於ける蘇生でさえ、彼女には不安でたまらなかったのである。今までがそうであったからといって、これからも同様であるとは限らないのだ。思い込みほど危険なものはないだろう。
力及ばず、斃れる度に、拡散して曖昧になりかける意識を必死の思いで掻き集め、最後の瞬間まで手放そうとしなかった。
そういう、悪く言ってしまえば常人離れした生き汚さが、過去存在した如何なる狩人よりも多くの死を経験したにも拘らず、獣性に堕することなく、逆に上位者の高みにまで彼女を押し上げた一因であったかもしれない。
とまれ、彼女はゲールマンに渾身「否」を叩きつけた。
その後の顛末は、語るまでもないだろう。
あの獣狩りの夜に於いて、彼女の猜疑心は確かに有効に働いた。
だが、今となってはどうであろう。少なくとも人類にとって災禍の呼び水になったことは間違いない。いるかどうかも分からぬ敵の巨影を幻想し、恐怖し、恐怖が昂じるあまりその恐怖の源を抹殺せねばならないと意味不明な覚悟を決め、その行為に必要な力を求め、差し当たって貴様等全員贄になれと宣告されたのである。
(私の血を広く人類に拡散させる。多くは獣に堕ちるだろうが、私と同様、上位者への進化を果たす者も現れよう。とくれば、宇宙に遍く存在する上位者共もこの事態を放っておくまい。海からも空からも、歓喜の叫びを上げながら殺到してくるに違いない。これは上位者の実像を掴む、またとない好機である)
場合によっては、と彼女は思案を続行する。
(上位者狩りを再開するのも悪くはないな。特に産まれたばかりの上位者ならば、今の私でも狩れないことはないだろう。狩って、その血の遺志を継承し、この身を更なる高みへ引き上げる。素晴らしいじゃあないか)
我ながら妙案である、と彼女は何度も点頭した。犠牲になる無辜の民への同情など欠片もない。むしろ、己こそ被害者であると信じていた。
(月の魔物が私を脅かしさえしなければ、こんなことをせずに済んだのである。そう、これは防衛の一環だ。どんな生き物にも危機に晒されれば己が身を守るべく行動する義務がある。その際、選択する手段は有効性にのみ注目すべきで、倫理や善悪などに囚われる必要はまったくない)
性質の悪いことに、彼女は本気であった。
罪悪感を紛らわせるための詭弁ではない。本当に、心の底から、我が身の哀れと儚さを嘆き、上記の思考を巡らせていた。
人類こそいい面の皮であろう。こんな理由で滅ぼされていてはたまったものではない。多少なりとも気骨のある者ならば、このような邪悪が許されるべきではないと激怒して、一も二もなく武器を取り、征討に立ち上がるに違いなかった。
(しかし、ふむ。………)
だが、人類にとって真に最悪なのは、彼女があっさりこの流れを見破ったことかもしれない。
人類最初の超越を成し遂げた栄誉。その甘美な響きに酔っ払い、慢心し、己に敵意を抱く元人間の上位者が如何に群がり出でようと、所詮は二番煎じの後進に過ぎぬとたかをくくってくれたなら、彼女の余命も長くはなかったとみて相違ない。
が、実際の彼女はそれとは真逆。どんな妙案が浮かんでも、例のパラノイア気質によって盲目的に熱中し続けるということが出来ず、すぐに醒め、毛一本ほどの綻びを見付けてもそれを契機に全体像が土崩するのではないかと心配する阿呆であった。
そうでなくとも、人間の底力という一点に於いて、彼女が油断を許すはずがない。
「生まれてくるべきではなかった」と嘲罵されるほどの劣悪な環境から身を起こし、人類進化の極北まで到達したのは他ならぬ彼女ではないか。人が秘めたる可能性―――その侮るべからざるところは、骨身に染みて熟知していて然るべきであった。
(前後の順による有利など、簡単に引っくり返される)
自分を強化するための策で自分の滅びを招来してしまってはたまらない。一工夫凝らす必要があった。
(考えよう。要は、私に彼等の敵意が降りかからなければよいのだ)
こういう場合、採るべき手段など決まっている。鉾先をそらしてやればいい。適当に分かりやすい邪悪を引っ張ってきてそいつを矢面に立たせ、己は影に隠れて実利のみを啜るのだ。
好都合なことに、彼女にはその「邪悪」として立たせるにうってつけな連中に心当たりがあった。しかもその連中ときたら、一発で人類種の敵性存在と分かる容貌をしている上に、まともに人間とコミュニケーションをとれないため、彼等の口から己の所業が漏れる心配もない。
(上位者を利用しよう。変わり映えしない日常に倦む者、夢のような神秘に焦がれる者、啓蒙的真実の探求者。彼等を片っ端から上位者の悪夢に接続してやろう。両界に縁を持つ私ならそれが出来る。互いに求める者同士だ、泣いて喜ぶに違いない。はは、まるで結婚相談所で橋渡しをしてやる気分だな)
対象を選ぶ以上、規模は必然として縮小されるがやむを得ない。思えば最初から全人類が対象は大風呂敷を広げ過ぎたと自省する。一歩一歩、着実に事を運ぶ謙虚さを、彼女は既に取り戻していた。
そして、この夜以降。
世界は急速に幽明の境を失ってゆく。なにせ、思春期の少年少女がファッション感覚で実行した黒魔術でさえ、本当に異界と繋がってしまうのだ。秩序が保てる筈がなかった。
陽が落ちて、誰かの絶叫が聴こえても、決して戸を開けてはならない。通りの向こうから何かを引き摺る音が聞こえて来たら、即座に自分の頭を鉛玉でぶち抜こう。さもないと、死ぬよりもおぞましい目に遭わされる。
海を眺めるなど以ての外だ。呪いと海に果てはなく、ゆえにすべてがやってくる。そんな気はなくとも、啓蒙的真実に触れてしまう危険性が最も高い。そして一度触れてしまえば、もう取り返しがつかないのだ。永遠に記憶に刻まれて、昼も夜もなく思い出し、果ては麻薬に溺れるか、死に救いを見出すか。いずれにせよ、碌な末路ではない。
やがて人は、理解した。
自分達の支配が如何に惰弱で、無智の上にのみ成り立ち得る、仮初のものであったかを。
狂気と恐怖と苦悶と悲嘆が世界を覆い、終わりなき哀哭が木霊する。
しかし、それでも、希望はあった。
ある地点に於ける混沌が窮極に達し、一個の小宇宙を形成するに至ったとき、その希望はやって来る。
全身を幅広の古びた狩装束に包み、月の光を凝縮させた大剣を携えて、一人の狩人がやってくる。
その素顔を見た者はいない。声を聞いた者も同様だ。彼―――もしくは彼女―――は誰の呼びかけにも応える事無く、ただ淡々と悪夢の坩堝に身を投じ、中で蠢くかつて人であった者共を狩り立てるのみ。
ただ、僅かな生存者の語るところに依れば、意外なほどの小柄らしい。はっきり言って担いでいる大剣の方が余程大きく、そのくせ重さを感じさせない軽妙な動作を演じてのけるものだから、もうそれだけで悪夢の住人たるに相応しいと納得できる。
その殺戮技術は圧巻の一言。狩人が歩を進めるところ、屍骸の積もらぬ場所はなし。本来人間にとって絶対の脅威であるべき獣や怪異が、逆に咽び泣いて許しを乞うたとまで囁かれた。
むろん、根も葉もないつくり話である。だがこれを単なるつくり話と切り捨てられず、
―――あるいは?
と疑わずにはいられないまでに、狩人の勇名は「絶対」のものとして響き渡っていた。
血気盛んで向こう見ずな若者達が、この狩人の伝説にどれほど勇気付けられたかは、ちょっと窺い知れるものではない。
―――あの背に続け。
口々にそう言い騒ぎ、奮い立ち、そして殆どが帰らなかった。
まこと、無智とは幸福なものである。