宇宙攻撃軍には独特な腕立て伏せがあると言われている。
聞くところによると、以前ジオン士官学校の校長でもあったドズル中将が現場からの報告を総括して考案されたと言われる由緒ある腕立て伏せである。
それが普通の腕立て伏せと違うのはモビルスーツパイロットを鍛え上げるためだけに考えられたものだということだ。
もともと兵士としてはともかく、パイロットには単純な腕の筋力はあまり必要ないとされる。なぜならモビルスーツを動かすにあたってもっとも重要な筋力は腕ではなくあらゆる方向からかかってくる凄まじい重圧をもはね除ける首の力なのだから。
人体で一番重いのは頭部だ。その頭部を支えることによってはじめてバランスというものが出来てくる。
実際、操縦桿を握ってペダル操作を行えばそのことが嫌と言うほどわかる。パイロットとは常に重力負荷との戦いだ。横方向、前後方向、そして上下方向から息つく間もなく強大なGが襲い掛かってくる。それら全てを受けとめるのに首周りの頑丈な筋肉は必要不可欠だ。
教官たちの首を実際に見てみれば誰しもが納得するだろう。首周りの筋肉だけが異常に発達しているのだ。
モビルスーツ乗りかどうかは首さえ見ればすぐにわかるというのがジオン軍での常識だった。熟練のパイロットになればなるほど首の筋肉が発達している。
そして、一番大事なのは筋力ではなく心臓の力だ。
モビルスーツのパイロットは相当な強心臓でないと務まらない。
血液を全身に送り出す肉体的な意味でも、心理的なストレスにも耐える精神的な意味としても、そうだ。
急制動と急加速が続くために常に心拍数が非常に上がりやすい状態になる。戦闘へのストレスも当然それに拍車をかける。
モビルスーツが戦闘機動中には平均心拍数は一分間に180回近くにもなるという。心臓にかかる負担など推して知るべし、といったものだ。
当然、脳へ充分な血液を供給するといった意味でも強力な心臓が必要だ。もし血が足りなくなるとGによる意識喪失という事態に陥る。Loss Of Consciousness by G-force――所謂、G-LOCになってしまう。そうなってしまえばパイロットとしてお仕舞いだ。戦場で失神する兵士の末路は死以外に有り得ない。
そういった事にならないようにモビルスーツパイロットは特に筋肉の付け方にも注意して鍛錬を行わなければならない。全身に血液を行き渡らせる際、余分な脂肪や筋肉は邪魔になる。
だからこそバランスよく常に全身への負荷をかける均等な調練が行われることになる――――という話である。
すべて同期のやつらから聞いた話だ。その話が本当なのか嘘なのかは知らない。
だが俺たちの調練を主に担当するライカー教官は宇宙攻撃軍出身であり、変わった腕立て伏せをさせるということだけは確かである。
まず両手を床について右足だけを大きく上げた状態で腕立て伏せをする。
今度は右足を体の内側に入れて腕立て伏せをする。
それをもう一度繰り返した後、そしてそのまま左足も同じようにやっていく。
腕を曲げて伸ばす。腕を曲げて伸ばす。足を入れ替え。
4回で1セットの腕立て伏せだ。足の動きが加わっただけのように思えるのだがこれが段違いにキツイ。
通常の腕立て伏せならばやり続けていくうちに筋肉の疲労感と痺れが貯まっていき、段々時間の感覚を失っていく。そして、それでも続けているとある種の瞑想状態に入ることがある。思考がひどく緩慢になり、ただ腕を曲げて伸ばすことを行い続ける機械に成り切れるのだ。思考と体とが切り離される。次第に間接と筋肉が訴える痛みも何処か遠くに行き、余計なことも考えずにただ体だけが腕立て伏せを行う奇妙な状況が出来る。勿論、体力が続く限りではあるが。
マラソンなどで長時間走り続けた結果起こるランナーズハイと言われるものに似ているかもしれない。脳内に過剰分泌されたβ-エンドルフィンが苦痛の症状が緩和されるのだろう。
しかしこの腕立て伏せは単調な腕の動きだけでなく、同時に体のバランスをとり続けなければならないので頭を空っぽにしてただひたすら腕立て伏せをこなしていくことが難しい。モビルスーツパイロットたる者は機械的に物事をこなすだけではなく常に頭を動かしていなければならない、というわけだ。
まともな神経ではない。恨むべきは先人の知恵である。なんてものを考えやがるんだというのが俺の正直な感想である。
「1、2、3、4」
ライカー教官が数える声に続くように俺達は地面に向かって叫びを張り上げた。
「1ッ、2ッ、3ッ、4ッ!」
くそったれ!
疑似重力に従って、額から顎に向かって汗が流れ落ちてゆく。
号令に合わせて体を下げ上げ下げ上げ、そしてそのまま一秒感の間が訪れる。上半身は静止したままで足だけを入れ替える。
目に入り込んだ汗が染みて痛みを訴えた。手で拭うわけにもいかないので二度三度瞼を瞬かせて我慢する。
馬鹿みたいにだだっぴろい総合演習場の中で俺たちは腕立て伏せをただやり続ける。
「1、2、3、4」
「1ッ、2ッ、3ッ、4ッ!」
乳酸が溜まった腕が震える。背中が痒い。周囲に充満した空気はひたすら汗臭く、肌にぬっとりとした感触を残していく。
共に教練過程を越えた予備訓練生802隊、総勢三十二名が腕立て伏せの姿勢で固まっていた。
号令を掛ける三名の教官は各グループの前で不動の姿勢で立って、こちらを眺めている。そうやってひいひい言いながら腕立て伏せをしていると気が付くことがある。こちらを見つめる視線の中に、厳格な教官としての顔とは別に同じ失敗を繰り返す自分の息子を見るかのような、ちょっと奇妙な表情が浮かび上がることがある。中には露骨に面白がっているような顔も向ける教官もいた。だがその表情に同情と憐憫とが入り交じっている辺り、もしかしたらその教官もこの腕立て伏せをやってパイロットとして育ってきたのかもしれないと思ったりすることがある。
その点、真ん中に立っているトーマス・K・ライカー軍曹は違う。実質的に訓練兵を纏めている人物でもある。俺たちには一切の容赦もない。
絵に描いたような歴戦の教官といったイメージをして貰うと判りやすい。
鋼鉄のように鍛え上げられた身体に左頬に大きな傷痕のある強面の顔、そしてそのまま頭に軍帽が載っかっているような特徴的な人物だ。
ケツの青い俺たちを蹴り上げる機械である。血液の代わりに全身にオイルとヘリウム3が流れている調練マシーンだ。
心臓が超硬スチール合金で出来ているんじゃないかという噂もあった。
「よし、そのままの状態で聞け」
「サーッ、イエス、サーッ!」
暑苦しい空気の中で野郎共の声が唱和した。
勿論、俺も半ばヤケクソ気味に叫んだ。こうやって重なると自分たちの声でも芯が通った軍人らしく聞こえるのだから不思議なものだ。
これを聞く時、俺はいつも他人事のように感心させられる。訓練生の七割は男であって、ということは三割は女だというのに一糸乱れぬ返事だ。
皆が皆野太い野郎共の声でがなり立てている。これこそ訓練の賜物としか言い様がない。
ライカー教官は大きな歩幅で数歩だけ足を進めながら、一呼吸だけ間を取って、重々しく口を開いた。
「お前たちは下士官ではなく士官となるべくして育てられた軍人だ」
そのまま奥行きのないような目で俺たちの顔をじっと見下ろした。
先日の宙域機動訓練の終了に伴い、予備訓練生802隊の宇宙での最終実地訓練が終了した。
通常ならそれは代わり映えしない調練の日々の終わりを意味する。と思っていたら喜ぶ暇もなく俺たちはすぐにコロニー内にとんぼ返りさせられることになった。
そして昨日は30kgにもなる背嚢を背負っての重装行軍訓練。走れと言われて一日走る。宇宙帰りの身体が疑似重力に慣れるまでもなく延々と歩き続けた。そして今日は朝からずっとこれだ。
軍隊に叩き込まれたての新兵のような扱きの日々だ。まるでここに入ってきた頃に逆戻りしたような錯覚さえ覚える。あの時と違うのは自分達の体力くらいだろう。
苦痛から意識を逸らすためにそんなことを考えていると教官は俺の斜め前で足を止めた。ぎくりとした。
「ここを卒業した後には少尉任官されることになっている。これがどういうことかわかるか、ローレン」
俺のすぐ隣りにいたローレンが声を振り絞るようにして返答をあげた。
「はい。いいえ、わかりません教官!」
ライカー教官がゆったりと立ち位置を直して腕を組んだ雰囲気が感じられる。
隣で静止しているローレンの緊張が俺にも伝わってくるようだ。幾人かの吐息が冷たく総合演習場に響いていた。
俺たちは地面を見つめながら凍り付いた銅像みたいにただ身体を支えることに心を砕いていた。
「それはお前たちが将校になるということだ」
「はっ」
「俺はお前達のことを模範的なジオン軍人として調練したつもりだ。そのことに間違いがあるか」
「ありません、我々は常に兵士であろうと努めております!」
「お前たちはモビルスーツに乗ることになる。だがその辛さをよく覚えておけ。兵の辛さを知らなければ将校にはなれない」
汗がこめかみを伝い小刻みに震える右腕に流れていった。
動かないということは時に動くことより辛い時がある。例えば今だった。
「ジョン・ハーモン!姿勢を崩すな!」
遠くから別の教官の罵声がとんだ。心の中でルームメイトに同情しつつ、腕を伸ばしながら殊更自分の姿勢に気を付けることにした。
人の振り見て我が振り直せ。これまでの人生の過程において、数多くの無用なトラブルを回避させてくれた格言である。母方の先祖が住んでいた東洋の島国の言葉らしい。
家族が俺に数多く持たせてくれたものの一つである。この言葉に従っていることを俺は少なからず誇りにして生きていた。
「……将校だ」と少し毒気を抜かれたようにライカー教官は繰り返した。
「はっ」
「その自覚をしっかりと持て」
「はい、了解しました!」
よろしいローレン、と言った後にまた一つ息を吐いて、ライカー教官は軍帽を被り直した。
「だがミノフスキー粒子がある限りお前たちはどれだけ昇進しても最前線に叩き込まれるだろう」
教官は付け足すように続けた。「そういう時代だ」
素早い決断を求められる、というのは戦場というものの特性の一つかもしれない。
部隊指揮官が前に出ることは現代ではよくあることだ。現代戦ではミノフスキー粒子化で通信が取り合えなくなるということが往々にあるため、上級将校自らがモビルスーツに乗って前戦で指揮系統を構築することも珍しくない。恥ずかしながら俺は歴史についてはここに入隊するまでほとんど何も知らなかった。今もそれほど自信があるわけでもない。戦史はC評価だ。しかし佐官や将官までもが最前線まで出張ってくることなど昔ではとてもじゃないが考えられなかったことだろうということは何となくわかる。
「モビルスーツ一つ作るのにどれだけのコストが掛かっているか、などとは今更言わん」
そう言ったライカー教官の目つきが据わる。その瞳孔に鈍い光が灯ったように見えた。
「いいか。兵士の命を無駄にするな」
そう一つ一つの単語を句切るように言葉を落とした。
教官は厳しい目つきを俺たちに注いだ。軍隊ヒエラルキーにおける上位階級者の視線である。これは軍曹としての言葉だ。
緊張が走り、もう限界まで反っていたと思っていた背筋が自然と伸び上がった。一切の雑音が頭の中から消え失せる。教官の呼吸音まで聞き取れるように耳をすませる。
五感が鋭敏化して兵士として体が命令を聞く体勢に移行した。軍隊における上位者の言葉というものはそれほどの力を持っている。
もはや腕の痛みは大したことではなくなっていた。耳に届く教官の声に比べればそれはなんというものでもなかった。
「自分の命を無駄にするな」
ライカー教官はまるで言い聞かせるようにして俺たち一人一人の顔を順々に見下ろしていった。
眉間に皺が寄っているいつも通りの表情だった。
「お前たちの行動一つで人の生き死にが変わるということを常々忘れないようにしろ」
その言葉を聞いても驚きはなかった。ただ少し悲しかっただけで俺の感情はほとんど動きを見せなかった。
数分が経った。みんなはいつしか教官のタイミングに合わせて同じように呼吸をしていた。
ライカー教官はただ話したことをしっかりと頭に叩き込んでおけというような顔をして、じっと黙り込んでいた。
俺もそれについてしばらく考えてみた。自分が人の上に立って命を預かるということについて。軍人として連邦と戦うということについて。
それと少しだけ故郷に残してきた家族についても。
「以上だ。諸君等の奮闘に期待する」
「イエス、サーッ」
予備訓練生802隊の三十二名全員で力いっぱいの返答を床に叩き付けた。
まいったことに俺たちにはそれ以外に言葉が出てこなかった。誰もが返事を張り上げることで頭がいっぱいで何も思い浮かばなかった。
苦痛の波がなくなった代わりに体は恐ろしく重かった。それでも誰もがただひたすらまっすぐに両腕を伸ばし続ける体勢を止めなかった。
三名の教官は大きく手を叩いて頷いてくれた。熱気が渦を巻く。総合演習場に人の意志のようなものが猛っているように思えた。
熱に頬が上気する。涙を流すことだけはなんとか堪えた。全てはここから始まるのだから。
数日後、俺たちはジオン公国士官学校を卒業した。