下ネタという概念が存在しない退屈な文明開化   作:Z-Laugh

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タテ書きにすると若干、読み難さが紛れます。


序章

「お●んぽおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 僕は転職初日に職場の屋根を駆け抜ける変態を見た!ここは貴族・資産家の子女が通う横濱有数の女学校・時岡学園。その学業の優秀さと品行方正ぶりは巷では有名であり、この学園にさえ入学出来れば良妻賢母間違いなしと言われる程の名門女学校だ。なのに何故、官憲に捕まりかねない程の卑猥な言葉を口にする覆面マント姿の人間が学舎の屋根を走り抜け、その際に卑猥は浮世絵をバラまいているんだ?

 

 

 

 

― 3ヶ月前、とある地方の村 ―

  

 

「じゃあ、しっかりな」

「うん。母さんも元気でね」

「私はいつだって元気だ。村の誰よりもな」

「そうだね、なにしろ《鋼鉄の鬼女》だもんね」

 

 

 ゴンッ!

 

 

「その名を呼ぶなと言ってるだろ」

「いってぇ~~~、息子の旅立ちの日にこういう見送り方をするかな」

「やかましいっ!全く・・・減らず口ばっかり達者になって。そういう所は父親にそっくりだ」

 気丈な母さんが少し寂しそうな表情をした。まあ僕も減らず口を叩いたものの正直後ろ髪を引かれる思いだ。生まれ育った村から横濱に旅立つと言うのだから、この次に母さんに会えるのは一体いつになるのやら。そう思うとホッとした様な寂しい様な気持ちになる。

「まあ、その調子なら食いっぱぐれる心配はなさそうだな。横濱でもしっかりな」

「うん、父さんの知り合いの伝手がこんな風に役に立つ日が来るとは思いもしなかったよ」

「ふふふ、あの男には苦労ばかり掛けさせられたからな。父親として、亭主として少しは役に立って貰わんとな」

 呆れつつも楽しげにそう言うと母さんは手に持っていた鳥打帽子を僕の頭に被せてくれた。

「これって・・・父さんの」

「ああ、あの新しモノ好きの馬鹿が贅沢する程の金は無いと言うのに飛び付く様に買って来たものだ。丁度・・・お前が生まれた頃にな。」

「父さん、いつもこの帽子を被っていたよね」

「ああ、絵を描く時も売りに行く時も野良仕事や買い物に行く時も・・・捕まった時でさえな」

「そうだったね・・・あの時も被ってた」

江戸で著名な浮世絵師に師事し自ら浮世絵師になる事を目指した僕の父さんは善十郎の名を師匠に付けて貰い浮世絵師としての人生を歩み始めるも大政奉還・開国と共にこの国に大量に流入してきた洋画を見て自分が今まで築き上げた技術に西洋絵画の様式を取り入れ始めた。しかし、その事が師匠を始めとする関係者に疎まれ更にはその露骨すぎる性的表現は一部の好事家には支持されたものの大衆と官憲には厳しい批判をされ、江戸での絵師としての活動を断念せざるを得なかったらしい。

 

 

 けど父さんは江戸で駄目ならと江戸から遠く離れたこの村にやって来たのである。そんな父さんが村で母さんと出会ったらしい。母さんは子供の頃に周囲の大人達から随分と嫌な思いをさせられたそうで、その反動で若い頃から村の男達と力ずくの喧嘩を繰り返し父さんと出会った頃には既に村一番の戦闘力を持つ女《鋼鉄の鬼女》と呼ばれていた。東京でつまはじきにされた父さんと村で疎まれていた母さん。よく似た境遇の二人はそれほど時間がかかる事なく一緒に住み始め僕が生まれたそうだ。村の他の家と同じに両親は野良仕事で糧を得ていたのだが父さんのもう一つの顔である絵師としての活動は細々としたものではあったが特定の好事家から贔屓にされ、そのおかげで我が家は村の中では比較的裕福な家庭だった。しかし先月、突然の官憲による取り締まりで父さんは敢え無く逮捕。北の流刑地へと連れて行かれてしまった。残された母さんは僕を食わせていく為に必死になって働いてくれた。もちろん僕自身も一生懸命働きはしたが母さんと僕の努力だけでは父さんの稼ぎの穴を埋める事が出来ず、止む無く僕は家を出て横濱で働く事にしたのである。

「文明開化に沸く横濱はさぞ人が多いのだろう。しかし、その反動で一人でいる事が寂しくなると、いけないからな。その帽子を持って行け」

「ありがとう母さん、大事にするよ。けど父さんの伝手で横濱での仕事が見つかったんだし、母さんも一緒に来ればいいのに」

「いや、私はなんだかんだ言って、この住み慣れた村を離れる気にはならないし、あの男が帰って来た時に出迎える人間がいないのも可哀そうだろ」

「そうだね・・・それはもう散々話したもんね」

「そういう事だ。じゃあ横濱では頑張れよ、手紙を書け。書かないと横濱まで督促に行くぞ」

「母さんなら本当にそうしそうで恐いよ」

「盆と正月にも帰って来い。帰って来ないと横濱まで迎えに行くぞ」

「・・・だったら一緒に横濱に来ればいいじゃんか」

「・・・そうもいかんさ」

 母さんは寂しそうな笑顔で僕の肩を掴むと腕づくで僕をクルリと反転させて文字通り背中を押してくれた。僕は母さんが今、顔を見られたくないのだろうと思いながら振り向かずに歩き始め、背中を見せたまま手を振って

「じゃあ、行ってくるよ」

 そうして僕・奥間狸吉・十五歳は着物姿に草鞋履き、風呂敷包みを肩にしょい、ざんぎり頭に鳥打帽子を乗せたまま生まれ故郷を後にした。横濱で待っているトンデモナイ日常の事など爪の先程にも予想出来ずに。

 

 

 

 

 七日を掛けてやってきた横濱は実に賑やかな場所だった。人も店も多く更に所々に西洋風の建物が建ち始めていて僕の村では話に伝え聞いただけの文明開化が今まさに行われている真っ最中の様に見受けられた。大政奉還による明治政府の設立は僕の村にも少なからず影響を及ぼしていた。村人一人一人の戸籍の登録、それに伴い武家以外の人間も氏を名乗る必要から我が家では父さんが奥間の姓を選んだ。

「江戸からこの村にやって来て絵を書き続けていると、ここが江戸の奥座敷って感じだよな」

 

 ガスッ!

 

「ウッ!奥の間って足を踏み入れる時の高揚感が堪らないし、部屋に辿り着く前に色々捗っちゃうな」

 

 ドスッ!

 

「グフッ!初めて母さんの体の奥の部屋の入り口を叩いた時のあの感触と言ったら・・・」

 

 ゲシッ!

 

「グハッ!母さん、首はいかん、首は」 

 とんでもない理由で決められた姓だったが、なんだかんだ言って母さんは最終的に父さんの言い分を受け入れちゃってたもんな。村のみんなが氏を名乗り始め、最初の頃は姓を呼び合うのが随分と照れ臭かったが慣れるに従い村にも西洋の文明がわずかではあったが入り込んで来た。選挙と言う金持ちの投票を経て村の名主が村長という肩書を名乗り始め、時代に乗り遅れてはいけないと田舎の村にありながら着物を西洋の背広に着替え、草鞋を皮靴に履き替え、仕上げに山高帽被りステッキを持って村を闊歩し始めた。僕から見ればおかしな旅芸人の様にしか見えなかった村長の恰好も今、こうして横濱の街を歩いているとなるほど!あれが最先端だったのかと感心させられる程に街中には背広姿の男性やドレス姿の女性が多く見受けられた。

 

 

 感心しながら周囲をキョロキョロと見回し、時には人にぶつかりながら、そして道に迷って馬車道と言う名の人が大勢歩く大通りを行ったり来たりしながら母さんに手渡された紙に書かれた住所を目指す。そうして辿り着いたのが一軒の地本問屋(=本屋)だった。街を賑やかす西洋風の建物や服装とは縁のない昔ながらの佇まい、木造の一軒家であるがその奥行きは結構長く、まさしくうなぎの寝床といった感じだった。

「御免下さい」

 僕は恐る恐る店に足を踏み入れながら店の奥に向かって声を掛けると、その声に反応して店の奥から一人の初老の男性がやって来た。

「いらっしゃい、今時の若い人が昔の浮世絵や草子に興味を持ってくれるのは嬉しいよ。さて何かお探しかな?」

 優しい、いかにも人慣れた笑顔を浮かべながら俺に話しかけてくる初老の男性に向かって僕は腰を追って深々と頭を下げつつ自己紹介をした。

「は、はじめまして。奥間善十郎の息子の狸吉です」

「おおっ!善十郎さんの息子さんか。遠い所よく来たね」

「はい、今日からお世話になります」

「はいはい、よろしく頼むよ」

 そう言うと初老の男性は僕を店の奥へと案内してくれた。とりあえずといった感じで座れる程度の広さの座敷に通される。無論と言っていい程に壁際には本が積まれ客間と言うより倉庫に近い印象の部屋だった。初老の男性手ずから茶を入れてくれて僕の目の前に置くと

「私が店の主人の本居だ。善十郎さんの作品も数多く扱わせてもらったよ」

「本居さんですか、いかにも地本問屋っぽい姓ですね」

「そうだろう、これでも結構考えたんだ」

「いい姓だと思います。名前って結局のところ人に覚えて貰うのが肝心ですもんね」

「そうだろう、私もそう思うよ。しかし・・・そんな考えはもう古臭いのかもしれない」

「何でですか?武士以外の人間が姓を名乗るなんて真新しい習慣ですよ」

「いや、実はね・・・」

 店の主人・本居さんが表情を曇らせて言い難そうに言葉を繋げようとした時、突然部屋の入口から女性の声がした。

「お父さん、片付けは進んでいるの?って、あら、お客様?」

「ああ、前から話しておいただろ」

「前から・・・ああ、どっかの田舎から出てくるっていう狸だか狐だか言う子ね」

 高飛車な態度と物言いで僕と店の主人を立ったまま見降ろして来る西洋ドレス姿の女性。僕は訳の分からないままに店の主人に視線を向けると、それに答える様に

「私の娘だよ」

 たった一言、気が進まない様子で紹介をしてくれた。それを見て聞いて、僕はとりあえずといった感じで店の主人の娘に頭を下げた。

「はじめまして奥間狸吉です」

「あなたの名前なんてどうでもいいわ。それよりお父さん、早く店の片づけをして頂戴ね」

「なんですか。父親に向かってそんな物言い無いじゃないですか」

「使用人の分際でうるさいわよ。まあ私が店を継いだら田舎者なんかは雇わないけどね」

 店を継ぐ?僕を雇わない?どういう事かと思いながら店の主人を見ると実にすまなそうに

「実は君が来る事を了解した後に事情が変わってね。娘がこの問屋を継ぐと言い出したんだよ」

「そうよ、こんな古臭い地本問屋なんて続けてても先が知れてるわ。私が店を継いで最新のカフェにするのよ」

「カフェ・・・って西洋の茶屋の事ですよね」

「ふぅ・・・まあアンタみたいな田舎者にはそういう言い方の方が分かり易いのでしょうね。とにかくこの店はあと三月で閉めてカフェに作り替えるから」

「そ、そんな」

 僕が店主の娘の言葉に唖然としていると店の主人はすまなそうに

「申し訳ない。以前から店を継ぐのを嫌がっていた娘が店を継いでくれると言ってくれたので任せてみたら、こんな事になってしまったんだ」

「じゃあ僕はどうなるんですか?」

「もちろん、君の仕事は探しておいたよ。私も長年、地本問屋を営んでいてあちこちに伝手があるからね。とにかく目先の三カ月はこの店の後片付けを手伝ってくれ。そしてその後は私が紹介する仕事をして貰う事になるから」

「・・・わかりました」

 店の主人と一緒に落ち込んだ顔をしていると店主の娘はフフンといった感じの嫌味な笑いを浮かべて店から出て行ってしまった。自分が継ぐ店の後片付けすらしようとしない跡取りなんてこっちから願い下げだ。内心そう思いながら僕は店の主人の案内で店の二階に連れて行かれた。

「これからこの店で働いている間はこの部屋を好きに使ってくれ。その後は私が紹介する職場に住み込みになるから、あまり荷物を広げ過ぎない様にね」

「わかりました。しかし・・・残念です。せっかく横濱の地本問屋で働けると思っていたのに」

「地本問屋という商売に先があるかないかは世間様が決める事だが娘曰くは先が無い商売らしい。そう考えれば若い狸吉君は泥船に乗らずに済んだのかもしれないよ」

「・・・僕はそうは思いません。本は・・・絵は・・・人に夢を与えてくれます。カフェの飲み物も美味いでしょうが本や絵ほどに夢を与えてはくれない筈です」

「さすがは、あの善十郎さんの息子だ。きっとお父さんから色々と教わったのだろうね」

「はい、母さんに怒られる様な事も沢山教わりました」

「はっはっはっ!なるほど、これは筋金入りだ。今日は旅の疲れをゆっくり癒すとして、明日から働いて貰うよ。仕事はさっき言った様に店の後片付けだが知り合いの同業者に買い取って貰う本と捨てる本を仕分けるから・・・捨てる本は狸吉君の好きにするといい。きっと中にはお父さんの絵もあると思うよ」

「父さんの絵、ホントですか?」

「ああ、知り合いの同業者も残念がっていたよ。数こそ売れないが店に置いておけば確実に売れる品だからね」

「だったら何で捨てるんですか?」

「近頃はそういう類の本や絵を官憲が厳しく取り締まっていてね。下手に扱っていると営業を停止させられてしまうんだよ」

「・・・そうだったんですか」

「君にならワシの店にある良い物を確実に残しれくれるだろう。三月先の引っ越しが少々手間になるだろうが出来るだけ沢山の物を持って行ってくれ」

「分かりました。明日から・・・よろしくお願いします」

 

 

 そうして翌日から店の主人の指示で本の仕分けの手伝いが始まった。店先に並ぶ最新の本は後回しにして店の奥の客間や倉庫などにある本や浮世絵から整理を始めていた様で奥の倉庫は戸を開けると数多くの本が部屋の左右に積み分けられていた。聞けば、左側が同業者に買い取って貰う本、右手が捨てる本だと言う。その比率は左右・三対一といった感じだった。店の主人の指示で、とにかくまずは店にある本すべてをこの二種類に仕分ける作業が始まった。他の部屋や他の倉庫から僕が本を運び主人が本を分ける。そうして約三週間を掛けて本の仕分けが終わると最終的にその比率は五対一になっていた。今度は本の種類ごとの分別が始まる。人情物・芝居物・お伽話や絵巻など、とにかく種類が多かったが店の主人の本の知識は大したもので僕がその指示について行けない程に素早く分別をして行く。

 

 

 そうして分別が終わると次は目録作り。山と積まれた本を一冊一冊吟味する様に目録に記載していくと、いくつかの分別間違いが見つかる。そうして何度となく目録作りをやり直して二週間を掛けて目録が完成した。 それからは店の主人が目録を持って同業者廻りを始める。僕はその間、店番として店に残り店先にある最新の本を売っていた。しかし客足は思った程良くない。やはり地本問屋などという商売はもう時代遅れなのだろうか?近所に出来たという洋書を数多くそろえた地本問屋ならぬ書店に行くと成程と思えるほどに目新しさを感じる。洋書はその表紙・背・裏表紙が硬い紙で出来ており立てて置く事が出来るので棚に一列に並べられ一目で数多くの種類の本がある事が分かる様になっている。しかし昔ながらの和綴じ本(わとじぼん=紙の端を細い紐でくくった本)は洋書の様に立てる事が出来ない為に平積みにして置かなくてはならない。新しい形態の地本問屋・書店の商品の種類の豊富さと展示の目新しさは文明開化に湧く横濱の人を大いに引きつけている様子だった。まるで刀と銃の勝負の様だ。そんな事を思いながら店番を続け時折、店の主人の指示で同業者の買い取りが決まった本を大八車に乗せて運んだりしていた。

 

 

 そんなある日の事、いつも通りに店主は同業者廻り、僕は店番をしていた時だった。店にハイカラさんがやって来た。矢羽柄の着物に袴姿、足元は西洋ブーツを履いた女学生だ。髪は三つ編みで目付きが少々きついが中々の美人で歳の頃なら僕と同じ位だろう。店先に並ぶ和綴じの本をしげしげと眺めるとタマに手にとって中身を確認している。しかし表情からしてどうやら満足いくものではなかったみたいで音を立てる様に本を閉じると元の場所に戻してしまう。やっぱり今は新しい物だけが受け入れられる時代なのだろうか?そんな落胆をしているとハイカラさんが僕に話し掛けて来た

「『好色五人女』はないかしら?」

「井原西鶴のですか・・・今時珍しいですね。西鶴の浮世草子を読もうなんて」

「今時って何かしら・・・確かに今の時代は何に付けても西洋の物が有り難い様に思われがちだけど日本にも西洋の物語に負けず劣らない物が沢山あると思うわ。そうは思わない?」

「思いますよ。凄くそう思います。本だって絵だって日本の物が西洋の物に劣っているとは思えません。日本の作家だって・・・素晴らしいモノを書いているんですよ。なのに西洋の物は良くって、日本の古い物はけしからんなんてどう考えたっておかしいですよ」

「そうね・・・私もそう思うわ。で、『好色五人女』は置いているのかしら?」

「すみません、店先には無いんですよ」

「という事は店の奥にはあるのかしら?」

「はい、あります。しかし店の主人が別の店に売ると決めてしまった物なのでお客様にはお譲り出来ないんですよ」

「どうにかならないかしら」

「そうは言われても・・・僕じゃ決められない事なんです」

「近所の書店とか言う不粋な店はもちろん、地本問屋も随分回ったのだけれど置いてなくて困ってるのよ。なんとかして頂戴、たぬ・・・小僧さん」

「う~ん・・・しかし・・・」

「情けは人の為ならずと言うでしょ。私に親切にしたらきっと良い事があるわよ。それに本という物は地本問屋や書店に並べる為にある物ではないわ。本はあくまで人が見て読む為の物なのよ」

 怒っている様な強い目力で僕を見つめるハイカラさん。彼女の言っている事は極めて正しい。確かに本は人が夢見る為に見たり読んだりする物で同業者の間でやり取りする為の物じゃない。それに何よりハイカラさんの恰好をした女学生が江戸時代の浮世草子に興味を持ってくれた事が何より嬉しい。どうせよその地本問屋の店先に並べておいても売れる事なく埃をかぶり下手をすれば官憲に摘発され徴発されてしまうのだから、ならばいっそ今この場で読みたいと言ってくれてる人に買って行って欲しい。

「ちょっと待ってて下さいね」

 僕はハイカラさんに一言そう言うと店の奥に駆け出し倉庫から井原西鶴の『好色五人女』の写本を手に取り店先に戻った。

「こちらでよろしいですか?」

「ええ、これでいいわ。けど、これを売ってしまってあなたが店主に怒られたりしない?」

「そんなの・・・覚悟の上です」

「ありがとう。ちなみに小僧さんはこの本を読んだ事があるのかしら?」

「読んだ事はありません。けど父さんが好きでよく読み聞かせて貰いました」

「凄い家ね。子供に井原西鶴を読んで聞かせるなんて・・・今の世では考えられないわ」

「はははっ!そうかもしれませんね。僕の父さんはそういう部分が行き過ぎた人でしたから」

ぼそぼそ(ええ、よく知ってるわ)

「え?なんです?」

「何でも無いわ。じゃあお代はこれで」

「はい、確かに。ありがとうございました」

「こちらこそ。この本、大事にするわ」

 そう言ってハイカラさんは和綴じ本を両手で胸元に抱えながら店を後にした。もちろん、その後、僕は売り先が決まっていた本を勝手に売ったことで店に主人に怒られ呆れられ・・・そして褒められた。

 

 

 そうして僕が横濱にやって来てから丸2ヶ月で売るべき本は全て売れ、残るは店頭の本と倉庫で廃棄されるのを待っている本だけだった。そうなると店の主人は店番を、そして僕は倉庫で本当に捨ててしまう本と僕が貰って行く本とに仕分けを始めた。店の主人が言っていた通り父さんの絵が入った本、名作と言われる艶話の数々。小さい頃から父さんに知りたくもないのに読み聞かされ、見せつけられた物ばかりだ。まあ、その都度、父さんは母さんに折檻されていたけどね。そうやって身に付けた多くの知識は故郷の村では父さん以外の前では披露される事なかった。それをすれば僕も父さんと同等の扱いをされてしまい村で暮らし難くなると考えた母さんが僕にその知識を頭の奥底にしまい父さん以外には決して話しては駄目だと言い聞かせ続けてきた。

 

 

 目の前にある本や絵、そして僕の知識も過去の遺物としてただ埋没していくだけなのだろうか?確かに生きていく上で絶対必要な物じゃないけど、そんな生きていく上でのゆとりを奪い取られた気分がして、どうにも腹立たしかった。誰でもいい、誰か僕の話を聞いてくれ、そして・・・もっと色々な話を聞かせてくれ。そんな思いが膨らんだ矢先に父さんが官憲に捕まり僕が村を出て横濱の地本問屋で働く事が決まった。正直、その時、僕は地本問屋の主人や店の常連さん等を始めとする大勢の人間とそういう話が出来る楽しい生活が待っているものだと勝手に期待を膨らませていた。しかし、そんな夢や希望はわずか3ヶ月で破れ去り近所の乾物屋から譲って貰った大きな木製の茶箱に残す本や絵を丁寧にしまっていった。まるで父さん譲りの僕に知識を無かった物にするかの様に。

「さすがは善十郎さんの息子だ。良い物だけを吟味したね」

 店の主人が僕が茶箱にしまった本や絵を一つ一つ確認していく。それが済むと廃棄する本の山から二・三巻の絵巻と数冊の本を選び出しそれらも持って行くようにと薦めて貰った。見た事ない絵柄の絵、浮世絵でもない洋画でも無い、かと言って父さんの絵の様なその両方を合わせた様な物でもない。

「これは?」

「よく見てごらん、文字が漢文だろ。それは清国の絵なんだ。日本の物とも西洋の物とも趣が違うが中々の名作だよ。次の職場ではその本を読み解く為の辞書などが借り易いから持って行くといい。きっと君の知識を広げてくれるだろうし何より君ならきっとその価値が分かる筈だ」

「そうですか。確かに父さんは浮世絵に始まって西洋の絵の様式なんかを取り入れて色鮮やかな絵を好んでましたし、その為に色々な内容の本と選んで読んでいました」

「・・・狸吉君、君は絵を描かないのかね?」

「いいえ、絵を描く事は・・・母さんに止められてましたから。と言うか僕が絵を描くと母さんがとても悲しそうな顔をしたので出来ませんでした」

「爛子さんも苦労されたんだね」

「はい。僕が真っ当に生きていく為に必要な事は全て母さんから教わりました。しかし・・・」

「しかし?」

「人生を豊かにしてくれる知識は全て父さんから教わりました。今の僕は父さんと母さんの教えで出来ているんです」

「残念だよ、もっと狸吉君と色々な話をしたかった」

「僕もです。今薦めて貰ったみたいに色々聞かせて欲しかったです」

「まあ、これが今生の別れと言う訳じゃない。仕事が休みの時には店ではなく私の家に遊びに来るといい。話はもちろん、私の友人もたくさん紹介してあげるから・・・どうかこの国の素晴らしい艶や粋を絶やさないでくれ。」

「分かりました。絶対遊びに行きます。」

 僕が来た事により店の本の処分が思った以上に早く終わり、店の主人の生活道具を新居に運び込むと予定より一週間早く店の中は空っぽになっていた。物のない空間と言うのはその広さに比例して寂しさや空しさを感じる。父さんが捕まった時、官憲が僕の家に入って来て父さんの仕事部屋に土足で入り込み、その一切合財を運び出した時にも感じた感覚だ。

「もうちょっと早く出来なかったの。待ちくたびれたわ」

 にやけた笑顔で僕を見て悪態をつく店の主人の娘。ここまで来ると店の主人も最早、娘に何か言おうとは思わないのだろう。黙って娘の言動を眺めている。僕はそんな心の通じ合っていない親子を尻目に大八車に故郷から持ってきた荷物と本や絵が入った大きな茶箱を乗せる。

「3ヶ月の間、お世話になりました」

「さっさと消えて頂戴。もうすぐに建築家の先生がいらっしゃるのだから」

「達者でな、遊びに来てくれるのを楽しみにしてるよ」

「はい、必ず遊びに行きます」

 そう言って店の主人に別れを告げて僕は大八車を引き始めた。行き先は新しい住処にして職場である時岡学園。さすがに地本問屋を長年商って来た主人であり学術関係者に知人が多く僕を時岡学園の住み込みの用務員をして雇って貰う様に話を付けてくれていたのだ。更に主人の口利きで図書室の本を授業時間以外なら好きに見ても良い事になっているので主人から譲り受けた清国の本を読み解く作業も出来るし何より給金が故郷の母さんに少々の仕送りが可能なほどに高いし家賃も必要ない、ある意味理想の職場だ。人間いたる所に青山あり!この言葉嘘じゃないな。そんな気持ちを胸に僕は大八車を引く手に力を込めた。

 

  

 そうしてやって来た時岡学園。正に時代の最先端を行かんとする姿勢がそこかしこに見受けられる。まずはその学舎、レンガ造りの洋館でその広い敷地を取り囲む様に、やはりレンガ造りの壁が建ちそびえている。ちょっと見、学校と言うより城といった趣だ。しかし不思議とそんな攻撃的な印象を抱かずに済むのはこの学園の象徴とも言うべき時計塔の存在のせいだろう。時計仕掛けの鐘の音が授業の開始や終了を知らせ近所の人はその澄んだ音のおかげで時計を見ずに暮らす事が出来ているらしい。学園の象徴、いや町の象徴と言っていい貫禄と優雅さを備えた学舎を前に大八車を引く僕は少し怖気づいてしまった。学園の正門を出入りする人達は皆矢羽柄の着物と袴姿の女学生か背広姿や外套をまとった貫禄ある男性、更に数こそ少ないがドレス姿の女性も出入りしており、僕の様な着物と草履、申し訳程度に鳥打帽子を被っただけのエセハイカラとは人種が違うように思えた。大八車を引きながら正門をくぐる勇気も無く裏に回って裏門から周囲に人がいないかを確認しつつ音を立てない様に静かにというかこっそりと言った感で学園の敷地内に入って行った。

「これじゃあ泥棒だよ」

 一人そうごちると僕はとりあえず大八車を置いて学舎正面の受付を目指そうとしたその時である。どこからともなく男性の大きな声が聞こえてきた。

「あっちだ!裏門の方へ逃げたぞ」

「早く捕まえろ。不届き者が学園に出入りしているとバレたら学園の面目は丸つぶれだぞ」

「畜生・・・《雪原の青》め」

 大きな男性の声がそれこそ3・4人分聞こえてきた。その声には焦りと怒りが混ざり込んでいて突然その声を聞かされた僕さえも一瞬で緊張を強いられてしまった。そんな緊張感が場を支配した瞬間、絹を斬り裂くような甲高い声が周囲の空気をまたしても一変させた。

「お●んぽおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 え?今、何てった?上流階級の子女が通う名門女学校では絶対聞く筈のない言葉が天高らかに叫ばれたのである。反射的に声のした学舎の上の見てみると白の覆面に白の外套を纏い、その外套から飛び出した手からは官憲が見たら絶対取り締まりをするであろう卑猥な浮世絵がばらまかれていた。

「な、なんだあいつ?」

 得体の知れない変態を前に僕は硬直したがその直後、先程聞こえてきた声の主であろう厳つい男が走り寄って来た。

「おい、そこで何をしている」

「いや、僕は学園の受付に用があって・・・」

「学園の受付に用のある者が何故、裏門にいるのだ?さては貴様、《雪原の青》の仲間か。」

「せつげんのあお?」

「しらばっくれるな。屋根にいた白装束の賊の事だ、その大八車で奴を救出に来たのだろう」

「ち、違いますよ。僕はあんな変態と関係ありません」

「やかましい!言い訳なら警察で言うんだな」

 端から僕の話を聞こうとしない背広姿のゴツイ男はその巨大な猿を思わせる厳つい肩に力を込めると綺麗な線を描いていた背広が隆起した筋肉に押され無理やりに丸みを帯びさせられる。冗談じゃない、話も聞いて貰えない内に警察に捕まるなんてゴメンだ。そう思った瞬間、僕と背広姿の猿の間に沢山の紙吹雪が乱れ飛んで来た。

「時岡学園の教師が無実の人間に罪を着せようとするなんて、この学園も落ちたものね」

 声のする方を見てみると、そこにはいつの間に屋上から降りて来たのだろうか?白装束の変態がいた。驚きながらも、もしやと思い先程の吹き乱れ地面に落ちた紙吹雪を見てみると、やはり卑猥な浮世絵だった。こいつ一体何を考えているんだ?

「《雪原の青》ここで会ったが百年目、神妙のお縄を頂戴しろ」

 背広猿が白装束の変態に力強く勧告する。しかし白装束の変態は全くというほど怯まずに

「お縄を頂戴?悪いけど私は縛られて快感を感じるクチではないのよ。そういうお遊びがしたいなら、どっか余所でやってちょうだい」

「何を訳の分からない事を言っているんだ。仲間のその男と一緒に捕り押さえてくれる」

「やれやれ、本当にこの学園の行く末が心配になってきたわ。いい、その使い込まれてガバガバになった耳の穴を愛撫してからよく聞きなさい。私は誰とも徒党を組まない活動家、その事は以前からはっきり宣言している筈よ。それとも、その充血前でスカスカの海綿体の様な脳みそではそんな事も理解出来ないのかしら。」

「い、言わせておけば・・・」

 背広猿が身を低く構え今にも白装束の変態に飛び掛からんとする。しかしそれを見ていた白装束の変態は

「待ちなさい。これだから童貞は扱い辛いわ。慌てる童貞は持って一分という言葉を知らないのかしら?」

「今さら命乞いをしても無駄だぞ、《雪原の青》」

「それはこちらの台詞よ。あなたは私の白マントの下がどんな格好か解かっているのかしら」

「知るか!そんなもの」

「ひょっとしたら何も着ていないのかもしれないわよ。もし、そうだとしたら私を捕り押さえようとしたあなたは白昼堂々と全裸の女を押し倒した事になるわ」

「学園の名誉を守る為ならば多少の泥をかぶる覚悟は出来ている。そんな脅しには乗らんぞ」

「ふふふ、やっぱりあなたの頭の中は充血していない海綿体の様ね。ならもし・・・私が秘密裏に入手した時岡学園の制服を着ていたとしたらどうかしら」

「な、なんだと。」

「全裸の変態を捕り押さえたのなら英雄譚で済むけど、制服姿の女性を押し倒したとしたら・・・あなたは社会的に死ぬ事になるわよ。それでもかかって来る覚悟があるかしら」

「く、くそっ」

 とんでもない脅し文句を言いやがるな、この変態。しかも話の内容や声からして白装束の中身は女の様だ。横濱っていう所はおっかない所だな、こんな変態行為をする女がいるんだから。そんな呆れと感心を持って白装束の変態と背広猿のやり取りを見ていると白装束がじりじりと僕や背広猿から距離を取り始める。

「もう一度言っておくわよ。その男は私の仲間ではないわ。無益な捕り物は止めておきなさい」

「貴様の言う事など信用出来るか」

「まあ信用するもしないもあなたの勝手よ。ではそろそろお暇させていただくわ。さよならパイパイ、また会いま●こ。」

 聞くに堪えない捨て台詞を残して白装束の変態は地面を蹴って裏門から出て行ってしまった。残された僕と背広猿は呆気に取られていたが背広猿が少し早く我に帰り僕の肩を掴んで来た。

「話を聞かせて貰おうか」

「だから、僕は・・・」

「分かっている。お前が見た事を話して貰うだけだ。付いて来い」

 

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