下ネタという概念が存在しない退屈な文明開化 作:Z-Laugh
前略、狸吉へ
お前とソフィアの手紙で時岡学園に賊が侵入したのを知ったが、その時お前は何をやっていたのだ。そんな賊の一人や二人、男手がない女学校ならお前が率先して賊を捕り押さえなければならない所だろうが。村にいる時から猿を捕まえる程度で自惚れずに素手で猪を仕留める位にはなっておけと言っておいたのに全く情けない。再びそのような失態をしない為にも体を鍛えろ沢山飯を食え。そして賊を捕り押さえるのに必要な頑健な体を作り上げろ。同封した金はその為に使え、それが出来るまで仕送りはして来るな。
母より 草々
追伸
お前の背広姿の絵が村で評判になり、負けてたまるかと村長が背広を新調したぞ。休みで村に帰って来る時にはソフィアに許可を貰って背広を着て帰ってこい。楽しみにしているぞ。
クソッ!こう来たか。金を突っ返される事を想像しはいたものの、まさかこんな理由で更に金額を上乗せされて当初の四倍の額の金を突っ返されるとは思いもしなかった。確かに僕に賊を捕り押さえる体力があれば僕は今頃《S○X》の構成員ではなく、《雪原の青》を捕り押さえた英雄として学園で評価をされていたのかもしれない。しかし今の僕はそうならないで良かったと思っている。絶対母さんには言えない秘密を持ってしまった事には罪悪感を感じるが、それ以上に文芸復興運動が楽しくて堪らない。早乙女さんの卑猥な絵を見れる楽しみだけの話じゃない。本居さんや版画制作をしてくれている職人さん達との話や版画が出来上がって行く様子を見ているだけで胸が高鳴る。それにほぼ同世代といえる一つ上の華城さんと二つ上の早乙女さんが父さん譲りの知識を拒否する事なく聞いてくれる事も凄く嬉しい。卑猥な文芸復興を長い人生の目標にした訳ではない。ただ目の前の状況に振り落とされない様に必死にしがみついて、ついでに楽しんでしまっているだけの刹那的なモノを感じないではないが、僕は今はこれでいいと思っている。世の中を変えると息巻いてはいるものの僕や華城さんや早乙女さんが時岡学園を去ってしまったら、すなわち僕が他の仕事についたり、華城さんや早乙女さんが卒業してしまったら実は案外あっさり縁が切れてしまうのかもしれない。そう考えると今の時間がとても大事に思えて、どうしても辞めようという気持ちにはなれなかった。その為にも少なくとも華城さんが学園にいる間は僕は母さんに秘密を持ち続けなければならないし、それを誤魔化し続けなければならない。となれば僕は母さんから出された課題を着々とこなし手紙で報告し続けなければならない。
手紙を貰った翌日から朝の正門掃除はおろか目が覚めて朝食を取る前に村で母さんに鍛えられていた様に横濱の街を掛け足してから一時間程の鍛錬をする事にした。村の道に比べれば石畳の道や大勢の人に踏み固められた道は走り易く、毎朝、近所を流れる大岡川を遡る様に一里(=4キロ弱)ほど離れた上大岡と呼ばれる辺りまでやって来ては学園に戻るという掛け足をしてから学園内で母さんに教わった型の練習や腕や足を鍛える鍛錬を行った。無論それだけでは母さんを信用させる事も出来ないので腕試しとばかりに近所で問題になっている悪さをする野良犬を捕まえては邏卒(らそつ=明治時代の警察官)に引き渡した。そんな事を続けていて、その数が二十を越えた辺りで地元の司法省(=明治時代に警察権を持っていた官庁)役場から時岡学園に僕の事を表彰すると通知が来た。これにはソフィア理事長を始めとする学園の教職員のみんなから褒められて、女学生の間でもアッという間に噂になり挙句、朝の正門前の掃除をしている時には近所の人からお菓子やらなんやらを差し入れして貰う程になっていた。無論これには華城さんからも
「そんなにメス犬が好きなの?せいぜい頑張るのね」
と、お約束の様な概ね好意的な褒め言葉?を貰ったのだが問題は・・アンナさんだった。あれは司法省役場で表彰状を受け取って学園に帰り、それをソフィア理事長に報告した後の放課後の事だった。アンナさんと華城さんにも表彰状を見せようと思い理事長や教職員の皆さんへの報告が済んだ後、その足で学園議会本部へ向かったのだが、そこでは華城さんとアンナさんが二人してドーナツを食べていた。
「あれ?どうしたんですか。そのドーナツ」
「あら狸吉さん、いい所へ。お母様から聞きましたけど本日は役所に出向いて野良犬退治の表彰をしていただいたそうですわね」
「ええ、さっき理事長にもその事を報告して来たところです。これが、その表彰状です」
「へ~、狸吉にしてはやるじゃない」
「綾女さん、そんな言い方はないですわ。学園のみならず学園近隣の平和の為に頑張ったのですからもうちょっと言い様があると思いますわ」
「まあまあ、アンナさん。華城さんも口ほどに悪い印象は持ってらっしゃらない様ですから」
「そうでしょうか・・・まあ狸吉さんがそう仰るならいいのですけど」
「そうよアンナ。私だって狸吉の活躍には感心しているし何より、そのおかげでアンナ特製のドーナツを食べる事が出来たんだから喜んでいるわよ」
「え、それってアンナさんが作ったんですか?」
「はい、狸吉さんが表彰されると聞いてお祝いに頑張って作ってみましたの。お一つどうぞ」
そう言ってアンナさんは重箱を僕に差し出して来てくれた。見れば形の揃った茶色い輪っかが十個は入っていたのだろうか?半分空になり五個のドーナツが重箱に入っていた。僕はアンナさんに薦められるままにドーナツを一つ手に取り、食べてみると小麦を油で揚げた特有の香ばしさと小麦菓子ならではのフワフワとした触感、それに砂糖の甘さと何やら甘い香料の様なモノが混ざっていて得も言われぬ美味しさだった。そう言えば初めてドーナツを食べた時は早乙女さんに冷やかされて味わう前に吹き出しちゃったもんな。
「これがドーナツですか。美味しいモノですね」
「あら、狸吉さんはドーナツを食べるのは初めてですの?てっきり綾女さんにご馳走して時に
一緒に食べたモノだと思っておりましたわ」
「アンナ、それが酷いのよ。狸吉ったらせっかくアンナに助言して貰ったけど、ドーナツが何か解かってなかったものだからカフェの人に珈琲にドーナツを添える注文をするだけして私の前にドーナツが運ばれて来てから、何ですかソレ?みたいな顔をしたのよ」
「まあ!狸吉さんたら」
「華城さん、それは言わないで下さいよ。アンナさんも笑わないで下さい」
「まあ狸吉は運がいいわね。これだけ美味しいドーナツが初めてのドーナツなんだから」
「そうなんですか。他のを知らないんで」
「そうよ。これは私が食べた中でもピカ一の美味しいドーナツよ。それは私が保証するわ」
「あ、綾女さん、褒めすぎですわ」
「そんなことないってアンナ。これだけ美味しいなら私も作り方を教えて欲しい位だもん」
「そんな特別な事はしてませんわ。本の通りに作っただけですし・・・工夫と言えば・・・狸吉さんを思って滴った《愛の滴》をタップリ混ぜた位ですもの」
「あいのしずく?」
華城さんは不思議そうな顔をしたが僕は・・・その言葉に胃から何かが逆流しそうになっているのを感じた。
まさかアンナさん。アレを食べ物に混ぜたのか?アレを。
そう言えば僕がアンナさんに襲われた時、華城さんはアンナさんが《愛の滴》発言をした後に助けに来てくれたんだっけ。笑顔が壊れた僕を見て華城さんが不思議がりながら
「狸吉、あいのしずくって何?」
「い、いや・・・それは」
何て説明すればいいんだよ。さっき見た重箱の様子と華城さんの話からして彼女もアンナさんの《愛の滴》入りドーナツを食べちゃったって事だろ。しかも美味しかったと喜んでいたのだから、その気持ちに水は差せないし何より気の毒過ぎる。まさか自分が他の女の愛液入りドーナツを食べて喜んでいたと知ったら、いくら下ネタ好きの華城さんでも気を失って引っくり返ってしまうだろう。ここまで体を張った、最新の西洋菓子を使う下ネタ見た事も聞いた事も無いよ。それこそ父さんや本居さんだって聞いた事ないと思う。僕が《愛の滴》の正体を話す事が出来ずに固まっているとアンナさんが嬉しそうに
「ふふっ、これは私と狸吉さんだけの秘密ですわ」
「え~、アンナなにそれ、親友の私にも言えないの」
二人の女学生が楽しそうにジャレ合っている。事情を知らなければ凄く微笑ましい光景なのに、裏側に隠されているモノが邪悪すぎる。
「じゃ、じゃあ僕はそろそろ仕事に戻りますね」
「あ!狸吉さん。どうぞ残りのドーナツをお持ちになって下さい。狸吉さんのお祝いの為に作ったものなのですから」
アンナさんが僕に既に謎の物体にしか見えなくなった輪っかの入った重箱を押し付けて来た。キッパリ断るか?それとも受け取ってからアンナさんの見てない所で処分するか?生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。しかしグズグズしていたのでは華城さんに《愛の滴》の正体を嗅ぎ回られてしまうから僕は笑顔で
「ありがとうございます、じゃあいただきますね。夕飯の後の茶受けに食べる事にしますよ」
「ええ、是非そうして下さい。重箱は明日返して下されば結構ですから」
僕は笑顔で重箱と表彰状を手に持って学園議会本部を後にした・・・しかし僕の対応は少し遅かった様でその後すぐに宿舎の中に手紙を投げ込まれ華城さんからカフェに来る様にと呼び出されてしまった。止む無く謎物体入り重箱を持ってカフェに出掛け、奥の部屋に行くとそこには既に華城さんと早乙女さんがいて
「狸吉、アンナと二人だけの秘密を持てて楽しい?」
「アンナお手製のドーナツを独り占めとは感心せんな。ワシにもよこさんか」
二人とも僕から謎ドーナツを取り上げる気満々なのだが・・・いや、いいんだよ。こんなモン欲しければいくらでもどうぞ。なんなら熨斗を付けて差し上げたい位なんだよ。けど、それは人としてやっちゃダメな事だよね。公衆の面前で卑猥な言葉を叫んで卑猥な春画をバラ撒くより質が悪いと思う。しかし僕がそうやって考えている間に早乙女さんが重箱に手を伸ばして来て両手に一つずつ謎ドーナツを取り、口に頬張ってしまった。
「あ、ダメです、早乙女さん。吐き出して下さい」
「はひをひっへほふほは。ほんはもっはひはひほほはへひふは」
「狸吉、あなたそうまでしてアンナお手製のドーナツを独り占めしたいの」
「・・・わかりました。言いますよ、アンナさんが言っていた《愛の滴》の正体なんですけど」
華城さんは一度小さく頷いてから僕を射抜く様に見つめ、早乙女さんは謎ドーナツを咀嚼したままこちらを見ている。
「あ、早乙女さん少しの間、横を向いていただけますか。少しの間だけですから」
「はんひゃ?へんははふひゃほ」
《愛の滴》の正体を知って咀嚼した謎ドーナツを僕に向かって顔射されては堪らないので予防線を張ってから
「アンナさんが学園議会本部で言っていた《愛の滴》というのは彼女の愛液なんです」
「は?」
華城さんの目が僕を射抜くのを止めて大きく見開かれた。一方、早乙女さんは咀嚼していたドーナツをゴックン、いや呑み込んでから
「そんな事は知っておる、ワシはお主とアンナの情事を天袋から見ておったのじゃからな」
「早乙女さん、大変言い難いんですけど・・・そのドーナツ・・・その《愛の滴》入りなんです」
「は?」
今度は早乙女さんが大きく目を見開いた。三人して黙り込み、どれほど時間が過ぎたのだろうか。僕は意を決して
「僕は今のところ体の異常は有りません。華城さんはどうですか?」
「・・・」
「早乙女さんは大丈夫ですか?」
「・・・」
返事がない、ただの屍のようだ。また痛々しい沈黙が続くのかと思っていたら二人がワナワナと震え始め、爆発する様に僕に文句を言ってきた。
「なんてモノを食わすのじゃ!」
「どうすんのよ狸吉。三つも食べちゃったじゃない!
その上、ピカ一って褒めちゃったし。これじゃあピカ一じゃなくてテカテカの一品じゃない」
「知りませんよ。僕だって何も知らずに一個、完食しちゃったんですから」
「アンナの奴、少々常軌を逸しておると思っておったが。これ程までとは・・・」
「狸吉、アンタ私の親友を変態に仕立て上げた責任をどう取るつもりよ」
「それこそ僕のせいじゃないでしょ。僕だってれっきとした被害者です」
「何を言っておるのじゃ。お主一人が犠牲になればワシらは無事だったのに、こんな目に遭わせよって」
「全くよ、アンタなんか上の口でも下の口でもアンナに食べられちゃえば良かったのよ」
「そこまで言わなくてもいいじゃないですか。僕だって避けられるモノなら避けてましたよ」
「い~や言わせて貰うぞ。これはお主のせいじゃ、ワシの様な天才絵師が愛液入りドーナツで死んだとあっては世の笑い物じゃ」
「そうよ、明日からどんな顔をしてアンナに会えばいいのよ。挿入前に出しちゃった童貞や中折れのおじさんよりも気まずいじゃない」
「それは僕も同じです。僕なんかアンナさんに襲われた翌日から、その気まずさを味わっているんだから自分だけ被害者みたいな顔をするのは止めて下さい」
「なに言ってんの、狸吉は攻められ好きだから被害どころかご褒美でしょ。私はあなたと違うのよ」
「ご褒美じゃねえ!」
「・・・とにかく・・・時は巻き戻せないのだから、この事はなかった事にしましょう」
「そうじゃな・・・それしかないじゃろうな」
「・・・これからはアンナさんが持って来る食べ物に注意が必要ですね」
「食べ物だけじゃないわよ。アンナがあなたに渡そうとする物は全てを疑いなさい。食べ物以外でも身に付けるモノ、道具として使うモノ、狸吉の肌に触れる可能性があるモノや手で触る可能性のあるモノは全てアンナに『汚染』されていると思って間違いないでしょうね」
「卑猥とはこれ程までに人を狂わせるのか、ワシは少々認識が甘かったのかも知れん。性根を入れ直して取り組まねばならんな」
「アンナさんのは特別です。あそこまで色狂いになる人は滅多に、いやほとんどいない筈です。今のアンナさんじゃ僕の父さんや本居さんが見ても驚いて逃げ出しますよ」
「親友の事をそこまで悪しざまに言われるのは気分が良くないけど・・・認めるざるを得ないわね。とにかく狸吉はこれからむやみにアンナから物を貰わない様に。そんな事する位ならメス犬狩りで犬相手の方が遥かにマシよ」
「だから、そういう目的で野良犬捕まえてんじゃない!それよりコレ、どうしましょう?」
「そんなモノ、お主が責任を持って処分せい」
「そうね、それしかないわね。まあ野良犬を捕まえる時の餌にでも使ったらいいんじゃない」
「それって・・・犬を毒殺するみたいで気分が悪いんですけど」
それっきり誰も喋らなくなり無言のまま解散。僕達は衛生第一の飲食店であるカフェに謎ドーナツを持ち込んだ事を店の御主人に三人して謝罪した。しかし謎ドーナツの真相を伝える勇気は誰にもなくて御主人からは
「まあ、タマの持ち込みなら大目に見ますよ」
と、優しくも勘違いな言葉をいただいた。本っ当にごめんなさい。
「やあ、待っていたよ」
一枚目の版画が完成してから二週間後の日曜日、僕と華城さんと早乙女さんの三人は本居さんの家を訪ねていた。その理由は早乙女さんの五枚の絵の版画が全て完成したという知らせを聞いたからだ。
「それで、どんな出来なんですか?」
「そんなに慌てなくていいよ狸吉君。ほら、これだ」
凄い!正にこの一言が全てだった。西洋画の様な写実性と浮世絵の様な遊び心が合わさった絵で描かれている男女はいずれも肉感的で、その表情もとても豊かだ。それに何よりこの色合い、これが本当に版画なのか?と疑問になる程に多彩で立体的な五枚の絵は本当に息を呑む出来栄えだった。華城さんは満足気に何度も頷き、制作過程に数多く立ち合った早乙女さんですら版画での自分の絵の再現度合いに驚きが隠せない様だった。
「こんな版画見た事ないですよ」
「そうだろう。私も長年地本問屋をやっていたが、これ程の物に出会えたのはそれこそ数えるほどしかないよ」
「これが玄人の技なんですね。私では到底この品質の作品は刷れません」
「ああ、それについては職人達が早乙女さんの絵の凄さに引っ張られた様な部分があってね。もう仕事という言葉では表せない作業状況でね。なんと言うか、もう職人の意地が暴走した感じだったよ」
「ワシの我儘をここまで再現してくれるとは・・・本当に有り難い事じゃ」
「華城さん、これならいけますよ。学園に限らず世の中の老若男女全てに卑猥な物への関心を持たせる事が出来ます」
「そうね。これは活動範囲を広げざるを得ない出来だわ」
「本当にこれをバラ撒く気かい?時代が時代なら金を出して買いたいと言う人間がいくらでも現れるモノだよ」
「私の後援者や本居さん、それに職人の皆さんには一枚ずつ計五枚の絵をお渡しして、残りの約千枚の絵は全てバラ撒きます。それが私達《S○X》の願いであり後援者達の意思でもあるんです。無論、これ程の版画を作成して下さった人達にこの絵が世間をアッと言わせる所をご覧に入れたいんです」
「そうか・・・そうだね、絵は人に見て貰って楽しんでもらう為の物だ。思い切りやりなさい」
「ありがとうございます。それではこの絵は私がお預かりして本居さんにはお手数ですが早乙女先輩の次の作品を見ていただきたいのですが」
「いいだろう。早速見せて貰えるかい」
「じゃあ早乙女先輩はこのままここで本居さんと次の版画にする絵を選定して貰えますか」
「よかろう」
「じゃあ狸吉、私達は本居さんと職人さん達に渡す分をここに残して、それ以外は私の家に運ぶわよ」
「わかりました」
そうして僕と華城さんはおよそ千三百枚の春画を持って華城さんの家へと移動した。千枚以上の絵を運ぶというのは中々、骨の折れる作業で、それこそ母さんの手紙をきっかけに体を鍛えてなかったら大八車を使う羽目になっていだだろう。それでも途中休み休み、どうにか華城さんの家に辿り着いた。ちょうど時岡学園を挟んで例のカフェの反対側に位置する古びた一軒家だった。
「じゃあ狸吉、そこから庭に回ってくれる」
華城さんの指示で庭に回りとりあえずと言った感じで縁側に絵を運ぶ。庭と玄関先を繋ぐ狭い道を絵を痛めない様に蟹歩きをしながら庭に出ると、そこにはこじんまりとした庭があり、華城さんが縁側から
「狸吉、こっちよ」
笑顔の華城さんが楽しそうに僕に指示を出す。僕もなんか楽しい気分になりながら重い荷物を縁側まで運び終えると彼女に断る事なく縁側に尻もちを突く様に腰掛け、大きく深呼吸をした。
「ふふ、お疲れ様。今、お茶でも入れてあげるわ」
「すみません」
華城さんがお茶を入れる為に家の奥に入って行くと僕は一人、目線を狭い庭から空へと向ける。梅雨の合間の好天で、もう間もなく夏になろうという時期の深い青色の空。こんな風に縁側に腰掛けて空を見上げるなんて横濱に来てから初めてかもしれない。本居さんの地本問屋の二階も学園のレンガ建ての宿舎も住み心地はそれなりであるが、やはり僕にはこういう古臭い昔ながらの家の方が合っている様だ。ついつい居心地が良くって、座った状態から後ろに両手をついて更にそのまま仰向けに寝転んでしまった。木の匂いがする・・・僕にとっては当たり前過ぎるこの匂いは本居さんの地本問屋の二階にいた頃は気にもしなかったが学園のレンガ建ての宿舎では嗅ぐ事の無いせいか、この匂いは僕の心に郷愁を呼び起こす。故郷の空の高さ、山の青さ、川の清さ、そんな当たり前だった風景が無性に懐かしい。母さんは?村のみんなは?いつも通り暮らしているだろうか?そんな事をつい考えてしまっていると
「こら、くつろぎ過ぎ」
呆れている様な楽しそうな表情をしながら僕を見降ろし、その手にはお茶が入った湯呑が乗っているであろうお盆を持っていた。
「あ、すみません。なんかこういう感じの家、久しぶりでつい、くつろいじゃいましたよ」
「学園の宿舎はあんなに立派なのに贅沢な話ね」
「全くです。これ以上ないっていう位の待遇なんですけど・・・僕にはこういう古臭い家の方が合っているみたいです」
「ふふ、それは私も同じよ。真新しい女学校も楽しいし、文明開化で新しい建物が沢山建つのを見るのも好きよ。そんな様子を見ながら珈琲を飲むのも大好き。けど心からくつろげるのは、こういう家なのよね」
「意外ですね。僕みたいな田舎者ならともかく、華城さんは元・衆議院議員令嬢なんでしょ。洋風の家に慣れてるとは言いませんが、それなりに立派な家に住んでたんじゃないんですか?」
「そんな事はないわ。私は家の事情で親元を早くから離れて叔母の所に世話になっていたから」
「そうだったんですか・・・すみません、立ち入った事を聞いてしまって」
「気にしないで。こういう事は見栄を張ってもしょうがない事ですもの」
なんか気が抜けたと言うか、張りつめていたモノが緩んだと言うか、妙に安堵感のある表情の華城さん。こんな彼女を見たのは出会ってから初めてかもしれない。元々美人で長い黒髪も大きな瞳も凄く魅力的な女性だ。それによく見ればアンナさん程ではないが体つきも出る所が出てて、引っ込む所が引っ込んでいる。下ネタ好きが玉に瑕だが最近の僕はそれを御愛嬌の範疇で済ませてしまっている。なんなんだろう?カフェで制服を借りた時に華城さんに手を握られて事務所から連れ出された時にも感じたが、華城さんからは文芸復興活動に向ける熱以外に正体のわからない暖かいモノを感じる。
あの時も感じた、今も感じている。この感覚は今迄に感じた事がない程に僕の緊張をほぐしてくれて心が穏やかにしてくれる。僕は華城さんが淹れてくれたお茶に手を付ける事も無くボケ~っと庭を見ていた・・・そう、彼女と一緒に。
「お茶が冷めるわよ」
「え。ああ、そうですよね」
僕がやっとお茶に口を付けると華城さんは
「じゃあ狸吉、この絵をどこでバラ撒こうかしら。あなたに何か考えはある?」
「そうですね・・・一か所で一度に全部バラ撒くのも芸がない様に思いますね」
「出し惜しみをするつもり」
「まさか。そんな野暮な事をしたくありません。ただ学園の外での活動は当然として、学園の中にもこの絵をバラ撒きたいですね」
「時岡学園の中にも」
「ええ、この間の華城さんの版画バラ撒きと僕の犬作戦が上手く行った訳ですし、更に追い込みをかけたいですね。それに・・・生徒達も新しい絵を欲しがっているんじゃないかと思いまして」
「ふふ、狸吉も案外性格悪いわね。けど、それは私も賛成よ」
「それと時岡学園だけじゃ犯人が学園の関係者だと思われちゃいますから他の学校にも仕掛けたいし、若い人以外が集まる所でも色々してみたいですね」
「とりあえず広報活動が出来るのは私たち二人だけなのよ。そんなに欲張ったらダメ」
「そうですね。じゃあ、こういうのはどうでしょう」
僕は華城さんと目を合わせずに思い付いた作戦を話すと
「ふふ・・・アハハハハッ!狸吉、アンタを仲間にして良かったわ」
「じゃあ決まりって事で」
「そうね、これは面白くなりそうだわ」
「あれだけの絵です。出来るだけ大勢の人に見て欲しいですからね」
そうして僕達は冷めかけたお茶を飲み干して作戦を具体化すべく話し合いを始めた。
「ふう、これでヨシ」
週が開けて、更にその週の週末の土曜日の朝がやって来た。僕はいつも通り、朝の鍛錬に出掛けずに華城さんから預かった五種類、計千枚の版画を十の束に分けてから赤い風呂敷に包み、彼女と打ち合わせた十の場所に置いて来た。土曜日は学園の授業が午前中だけで昼前には生徒達は学園を後にする。その時に僕が華城さんに提案した作戦が決行される。さあ、生徒達は、そして世間の人達は、どんな反応をしてくれるのだろうか?版画の出来もさることながら、この作戦は華城さん一人では到底出来ないド派手なモノだから、きっと世間をアッと言わせる事になるだろう。《S○X》の活動の仕込みが終わると僕は学園に戻り、いつも通りに朝の正門前の掃除をする。徐々に生徒や教職員が学園に登校・出勤して来る中、華城さんが登校してくる。
「準備万端です」
「御苦労さま、早乙女先輩も楽しみにしているわよ」
すれ違う瞬間に一言ずつ言葉を交わし今日の作戦決行の確認をし合う。本居さんの言葉じゃないけど、さあ宴の始まりだ♪
昼前の授業が終わる十分ほど前になると僕は職員の人に買い物に行ってくると言ってから風呂敷包みを持って学園を出た。行き先は学園から半町(=約五十メートル)ほど離れた大通り沿いの洋館。隣の家の屋根を伝って道行く人に見つからない様に洋館の屋根の上に昇ると、そこには僕が今朝置いておいた赤い風呂敷包みがある。屋根の上からは道行く人は勿論、時岡学園の時計塔も見える。僕は持って来た風呂敷包みを開けて中から白い覆面とマントを取り出し身に付ける。ニセ《雪原の青》の完成である。まあ本当に活動をする訳だから、ある意味本物なんだけど。そうして屋根に張り付く様にして人の目をやり過ごしていると時岡学園の時計塔が午前の授業が終わった事を知らせる鐘を鳴らした。澄んだ鐘の音が消えていって再び町にざわめきが戻ろうとした瞬間だった。時岡学園の方から大勢の人達が一斉に声を上げた。うん予定通りだな。僕は身を起こし赤い風呂敷包みを開け、中に入っていた卑猥な版画百枚を手に取ってから屋根の上に立ち上がった。
「はーはっは!つまらない時代に風穴を開けるべく《雪原の青》から大衆へ贈り物だ!」
ワザとらしくも大声で眼下の人達に呼び掛けてから手に持っていた版画一斉にバラ撒いた。眼下の人達が何事かとバラ撒かれた絵を手に取り一様に驚いた顔をして声を上げている。しかし僕はその事に感心しつつも、再び屋根に張り付く様に隠れてから白装束を脱いで脇に抱えてから、その場を離れ次の目的地に全速力で向かう。次の目的地は一町離れた乾物屋の屋根の上なのだが、その途中、また絵がバラ撒かれて大勢の人が声を上げる。僕は乾物屋の屋根に上がると再び白装束を着て洋館の上でしたのと同じに、まるで歌舞伎役者の様に見栄を切りながら声を出し版画をバラまいた。
これが今回の作戦。最初は華城さんが白装束姿で時岡学園の屋上から版画をバラ撒く→それで上がった生徒達の声を合図に僕が洋館の上で同じ様に版画をバラ撒く→僕が騒ぎを起こしている間に華城さんは時岡学園から大急ぎで僕がいる洋館と次の目的地である乾物屋の中間にある呉服屋の屋根に上がり僕が今朝置いておいた版画をまたバラ撒く→華城さんが二度目の騒ぎ起こしたの間に僕は乾物屋の屋根に移動して版画をまたバラ撒く。これを約五町の距離で二人して五回ずつ繰り返し、計十回の卑猥な版画のバラ撒きを実行したのである。横濱の大通り五町を舞台にわずか五分程の間に千枚の卑猥な版画が乱れ飛んだ。その上、バラ撒く時には僕も華城さんも白装束を着て、自らを《雪原の青》と名乗り実行犯が複数なのか単独なのかを解かり辛くするという念の入れようだ。 僕は学園の戻ると教職員の人達に学園内の清掃と絵の回収をする事を言ってから用務員の仕事に戻り、華城さんは追跡をしたが途中で《雪原の青》を見失ったと言って学園議会本部に戻って行った。僕自身の清掃や教職員達の回収作業で集まった版画はたった三枚というほぼ全ての版画が生徒達の手に渡ったと言う上々の首尾だった。やはり生徒の帰り際を狙ったのが功を奏した様だ。僕はそのまま職員に一言断わってから掃除道具を持って学園近くの道路の清掃活動に出掛けた。しかし大通りには、ほとんど版画が残っておらず、残っているのは取り合いになったのであろう破れた絵だけであった。官憲が駆け付けて来た頃には大通りの清掃がすっかり済んでしまっていて、しょうがないと言った感じで官憲は僕が拾い集めた破れた版画と学園内で回収された三枚の絵だけを犯行の証拠として回収してから道行く人に聞き取りをしていた。
―新都横濱ニ怪人現ワル―
先ノ土曜日正午、開花シタル文明ニ活気ヅク横濱ニ雪原ノ青ヲ名乗ル怪人ガ出現。其ノ装束ハ真白ノ覆面ニ真白ノ外套ヲ纏ウト言フ極メテ清潔ナル様子ナレド、ソノ行状タルヤ奇怪ニシテ横暴也。白昼堂々ト幾百枚ノ卑猥ナル浮世絵ヲ撒キ散ラシ人心ヲ大イニ惑シタリ。官憲ガ駆ケ付ケルモ時既ニ遅ク怪人ノ姿ハ消エ残サレシハ道端ノ破レタ数枚の絵ノ残骸ノミ也。今回ノ事件ヲ重ク見タ当局ハ広ク情報提供ヲ呼ビ掛ケルモ杳トシテ情報ハ集マラズ。新都・横濱ニ暗雲タレ込メタル様相ナルガ一刻モ早期ノ怪人逮捕ガ望マレル。
《S○X》の活動が大成功に終わった週明けの月曜日、朝の正門の掃除をしていると登校して来た華城さんから折り畳まれた紙を無言で手渡された。掃除を済ませ周囲に人気が無くなるのを見計らって、その紙を広げてみると一枚の号外新聞だった。目を通すと昨日の事件が大々的に取り上げられていた。まあ何も知らない第三者が事件の概要を聞けば、こんな感じの記事になってしまうのだろうなと思っていたのだが、その号外新聞を読み進めると右下隅に社説が載っている事に気が付いた。
―社説―
コノ事件ハ新タナル歩ミヲ始ムル我ガ国ニトツテ由々シキ事態ト思ワルル人少ナカラン哉。ナレド古キヲ訪ネ新シキヲ知ルト言フ諺ノ通リ先人ノ知恵ヲ知ル事モ文明ヲ開花サセルニ必要ナ事ト言ワザルヲ得ナイ。回収サレシ卑猥ナル版画ハ西洋式ノ図柄ナレド浮世絵版画ノ技法ヲ用イタル物デアルト推測サレ、実ハコノ版画コソガ新タナ文化ノ一端ナノデハトサヘ思ワレル。真実ヲ見極メル目ハ常ニ大衆ニ有リ。今回ノ事件ガ激動ノ時代ノ必然ナノカ、只ノ悪戯ニ過ギヌカハ今シバラクノ観察ヲ要スルモノ也。
へぇ・・・新聞社がこんな社説を掲載するなんて僕は正直、驚いた。もちろん僕達《S○X》の活動はこういう風潮を生み出す事が目的なのだから、こういった社説は大歓迎なのだが、ここまで短時間で、しかも天下の公器である新聞にこの様な意見が飛び出してくるとは完全に予想外だった。何故これ程までに早い反応が現われたのだろうか?新都と呼ばれる程に世の注目を浴びる横濱で事件が起こったからという理由だけでは説明がつかない。これは大衆が、明治政府の行政に関わらない人達全て、いや行政に関わる人達の一部にも今の表現規制に対する不満があるのではないかと思わざるを得ない。さすがに新聞社も僕等の活動を全面的に肯定している訳ではない様だが今の表現規制を考える必要がある事を匂わせてくれている。
僕達の考えは間違ってない、そんな確信にも似た気持ちを感じ、正門掃除を終えようとした時である。二人の背広姿の男性が僕に話し掛けて来た。見ればキチンと背広を着てはいるが、その目つきは異常なまでに鋭く体つきも武道の経験がある様に思わせるほどに厳ついモノだった。どちら様でしょうか?僕から尋ねると二人は司法省の役人で理事長に会わせて欲しいと言ってきた。司法省の役人が何故、時岡学園に来たのだろう?もちろん昨日の事件絡みであるとは思うが捜査と言うなら邏卒などを引き連れて、もう少し物々しい感じでやって来るものなのではないだろうか?実際、僕の父さんが捕まった時などは十名近い邏卒や役人が問答無用で家に乗り込んで来たからな。僕は二人を学舎一階にある受付に案内して、そのまま受付の職員の指示で二人を理事長室まで連れて行った。二人にドアの前で待っている様に伝えてから僕は理事長室のドアをノックして
「失礼します、奥間です」
「はい、どうぞ」
理事長の返事を受けて僕はドアを開けて一人理事長室に入り司法省の役人が二人、理事長への面会を求めている事を伝えると、彼女は同じ部屋にいた女性秘書と不思議そうに顔を見合わせてから司法省の二人を中に案内する様に指示して来た。僕は言われるままに役人二人を理事長の前まで連れて行き役人二人を残して僕だけが理事長室を出た。しかしこのまま知らん顔をして仕事に戻る事は出来ないと思い。周囲を見回してから理事長室の中で何が話されているかをドアに張り付いて聞き耳を立ててみた。幸い学園内は一時間目の授業が始まったばかりで廊下には誰もおらず静か過ぎる位で聞き耳を立てるには持って来いの状態だった。
「お忙しい所に突然押し掛けて申し訳ございません」
男の声から会話が始まる。
「いえ、それで司法省の方が当学園にどう言った御用でしょうか」
理事長が返事を返すが、二人の会話に割って入る様な感じで女性の声がする。
「わざわざ、お出で頂いたのに恐縮ですが理事長はこの後予定が詰まっておりまして、あと二十分ほどしたら出掛けなくてはならないんです」
理事長の女性秘書が役人に長話をしない様にと釘を刺す。
「それでは手短に。実はこの絵の事なんですが」
「・・・それは土曜日にバラ撒かれた版画ですね」
「はい、現場検証をした邏卒が時岡学園さんから押収させていただいた品です」
「その絵が何か?」
「土曜日の事件ではコレを含めた少なくとも五種類の版画がバラ撒かれた事が判明しています。これだけの品質の版画をあれだけの枚数、更に版画をバラ撒く手際と言い計画的かつ組織的な犯行だと我々は考えております」
「え!組織的?」
「はい、以前からこちらの学園を始め横濱の十代後半の子供たちが通う教育機関で《雪原の青》が卑猥な創作物をバラ撒いているのはすでに周知の事実で、我々司法省を交えた学校関係者との対策会議を行ってきましたが、その正体は分かっていませんでした」
「そうですよね。女性の単独犯というのが有力な見方でしたわよね」
「我々も、そう思っていたのですが昨日の犯行は一人の人間でやれる事ではありません」
「協力者がいると仰るんですか」
「はい、しかもかなりの多数。その内の一人は昨日の犯行を一緒に行なった《雪原の青》の相棒と言って過言ではない人間でしょう」
「あれ程、徒党は組まないと高らかに宣言をしていたのに」
「全くです。我々司法省も《雪原の青》に対する考えを一から改めて、捜査を開始しました。《雪原の青》の足取りを追う事自体に変わりはありませんが、あれ程の大量の版画を制作するには大量の紙を始めとする画材が必要ですから、その線からも捜査を始め更にこの絵を描いた人間も併せて探しております」
「そうですか・・・あれ程の騒ぎになったのだから、それも当然かもしれませんね」
「そこで私達がここに来た用件なのですが、この学園の絵画特待生の早乙女乙女さんにお会いしたいのですが」
「早乙女さんに?まさか彼女をこの絵を描いた犯人だとお疑いなんですか」
「私達も絵を描いた人間を探すにあたり画商や職業絵師等の協力を得て、この絵が描けるであろう人間数人に目星を付けました。その一人がこの学園の早乙女乙女さんなんです」
「では、早乙女さんを逮捕するのですか?」
「いえ、まずはお話を聞かせていただきたいのです。聞けば早乙女さんは学園内の寄宿舎にお住まいだとか。ならば保護者にあたる学園の理事長にお断りをさせていただいてから事情聴取と、出来ましたら彼女の部屋の家宅捜索をさせて頂きたいのです」
「寄宿舎の家宅捜索!そんなモノは許可できません」
「無論これはただの協力要請に過ぎませんが、この先絵を描いた容疑者が絞られてきてその中に早乙女さんが残れば司法省から家宅捜索命令を言った形で強制捜査を行う事になってしまいます。」
「強制捜査・・・」
「理事長が以前から学園内に官憲の手が入る事を嫌ってらっしゃったのは我々も会議などを通じて存じております。ですから、そうなる前にごく少数の人間だけで事情聴取と家宅捜索を済ませたいんです」
「そういう事ですか、それなら止むを得ませんね。しかし今日の今日はさすがに無理です。私はこれから予定がぎっしり入っていて事情聴取や家宅捜索に立ち会う事が出来ません。これから秘書に明日の予定を全て変更させて予定を空けますので明日この時間にお出で頂けませんか」
「わかりました。では、その様に。では今日はこれで失礼させて頂きます」
これは大変な事になったぞ。僕は役人二人が理事長室を出る前にドアから離れて用務員の仕事に戻ったが官憲の捜査の進捗状況が気になって仕事がロクに手につかなかった。しかし絶対明日の朝までにやれる事がある筈だ。自失しつつも必死に考えをまとめて僕は二つの事を思い付いた。一つ目は勿論、今夜の内に早乙女さんの部屋から卑猥な絵の題材や習作などを片っ端から僕の部屋に移動させる事。幸い僕は司法省から表彰をされた事がある人間で僕の宿舎は捜査の対象外の筈だから一時避難であれば問題は無い筈だ。
そして二つ目は司法省の役人が早乙女さんを容疑者にし切れない事だ。早乙女さんは元々、洋画・油絵の絵師であり浮世絵の絵師ではない。更に絵の作者を限定するには洋画であればその筆使い、筆致で推測が出来るが浮世絵の場合は絵を描いてから版画になるまでに多くの人間の手が入るで絵の作者が断定し辛い。無論、過去に同様の作品を描いていた経歴があれば確定される可能性は高くなるが早乙女さんのあの五枚の絵は言わば彼女にとって初めて描いた卑猥な絵だから過去の作品がなく比較のしようがない。ならば、やるべき事は証拠の隠滅と早乙女さんに事情聴取の時にボロを出さない様に言い含める事だけだ。僕は出来るだけ早く用務員の仕事を済ませ早乙女さんの卑猥な絵に関するモノを僕の部屋に運び込む準備を整える。散らかり気味だった部屋を片付けて押し入れと天袋を整理して出来るだけ広い空間を空けておく。そして放課後、僕はアンナさんに出会う危険性も顧みず学園議会本部へ足を運んだ。しかし幸いアンナさんは不在で学園議会本部には華城さんしかいなかった。
「あら狸吉、慌ててどうしたの。とうとう性欲が抑えきれなくなってアンナにお相手をして欲しくなったの。言っておくけど、それはアンナの親友として断固阻止させて貰うわよ」
「違います。そうじゃなくて、今ここには華城さんしかないんですよね」
「ま、まさか狸吉、あなた私を性の慰みモノにするつもりじゃないでしょうね。いくら私が魅力的だからって、そのほとばしり過ぎる性欲をぶつけ様としては駄目よ」
「だから違いますって。土曜日の事件について司法省の役人が学園に事情聴取に来たんですよ」
「司法省の役人が?普段私が活動した時には邏卒が来るだけなのに」
「理事長室に張り付いて聞き耳を立てて中の会話を聞いたんですけど司法省の役人がここに来たのは早乙女さんを絵の作者ではないかってアタリを付けて来たんですよ」
「捜査の手を絵の作者の方に回して来たのね」
「それだけじゃありません。《雪原の青》の足取りを追うのは従来通りで《S○X》の存在にも気付いている様子です。それに絵の制作に必要な画材の調達面からも捜査を始めるそうです」
「司法省がそこまで捜査の手を広げて来たというの?」
「ええ、土曜日の活動が思った以上に取り締まり側を刺激してしまった様なんです」
「活動が拡大すればいずれ、こういう事になると思っていたけど・・・ここまで早くそうなるなんて思いもしなかったわ」
「とにかく《S○X》の今後については後回しにして早乙女さんに卑猥な絵を描く為の資料や習作を一時的に僕の宿舎に移動させて、早乙女さんに事情聴取の時にボロを出さない様に言っておかないと」
「そうね。それについては私が今から早乙女先輩に伝えてくるわ。狸吉は今晩、早乙女先輩の部屋の窓からブツを運ぶ手配をして頂戴」
「ブツって・・・ソレじゃ犯罪者みたいじゃないですか」
「私達の活動は反体制の非合法なものよ。それに学園内で卑猥という言葉は極力使わない方がいいの」
「まあ、どこで聞き耳立てられているか分かったもんじゃないですからね」
「さすが覗きと盗み聴きについては一家言ある様ね」
「そんなモンないです」
「その上、体を鍛えているのでしょ、もう文芸復興運動じゃなくて犯罪見本市と言った感じね。私も用心しないと狸吉の底なしの性欲の餌食にされかねないわね」
「そんな訳ないでしょ」
「え?見るでなし、聞くでなし、体で感じるでなし・・・まさか狸吉、あなた舐める気ね。これでもかって位にあんなトコやこんなトコを舐め回す気ね」
「どこ舐めんだよ」
「もちろん、まずはオッパイとおま・・」
「もういいです!とにかく一刻も早く早乙女さんにこの事を伝えて下さい。僕は清掃するふりをして寄宿舎の北側を僕の宿舎の間に荷物を運ぶのに障害になる物がないかを確認して来ますから」
「そうして頂戴。運搬開始は午前二時という事で、狸吉もそのつもりでね」
「午前二時ですね。じゃあ時間になったら早乙女さんの部屋の窓の下に行きます」
「じゃあ私は早乙女先輩に狸吉の部屋に移動させるブツを時間までに集めておくよう伝えておくわ」
華城さんは大急ぎで早乙女さんのいる寄宿舎へ、僕は箒とチリトリを持って僕の宿舎から早乙女さんがいる寄宿舎の北側の一番端までの間に大きな石やゴミが落ちていないかを調べに行った。深夜に速やかに荷物を移動させる為に邪魔な物は出来るだけ排除しておきたいからな。掃除をする振りをしているせいか深夜に通路として使う予定の場所以外、寄宿舎の周りも入念に掃き掃除をしたり雑草抜きをしたりして、時々、窓が開いては寄宿舎住まいの女学生から「お疲れ様です」「頑張って下さいね」などの声を掛けられたりしていた。そして仕上げとばかりに北側一番端の窓の辺りの掃除をしに行くと、やはり窓が開いて中から早乙女さんが顔を出して来た。
「ふぅ・・・御苦労じゃな」
「運び出すブツは集めて貰えましたか」
「うむ、丁度、寄り分け終わったところじゃ」
「どれくらいの量がありそうですか?」
「まあ一抱えと言った感じじゃな。ちょっと見てみろ」
そう言って早乙女さんは手招きをして僕に部屋の中を見る様に言ってきた。すると僕が運び出し易い様に窓際に卑猥なブツを集めておいてくれて、その量は僕が本居さんから貰った本や絵よりは遥かに少なかった。
「それくらいなら一度に運べそうです」
「そうじゃろ。それに参考にしたお主から借りた本や絵はともかく、ワシの描いた習作なぞは折り畳もうが丸めようが好きにしてよいぞ。なんなら今から燃やしてしまっても構わんぞ」
「そこまでする必要はないですが運びやすくなって助かります」
「では午前二時に待っておるぞ」
そうしてブツの下見と通路の確保が終わった僕は宿舎に戻って仮眠をとる。そうして約束の時刻まであと二十分となった時、僕は以前華城さんから貰った黒装束に着替え大風呂敷を一枚持って周囲を警戒しながら宿舎を出て、物陰に隠れながら北側の端の部屋の窓の下を目指した。しかし、その途中僕の背後で足音がしたので慌てて植え込みの陰に隠れ、月夜の学園内を誰が歩き回っているのかと周囲を伺い直すと、足音と共に荒い呼吸音が聞こえて来た。深夜の学園に化物、まるで女学生達が噂する学校の怪談だなと少し可笑しくりながら、その正体を探るべく音のする方に目を凝らすと、そこには銀髪の美しい女が時岡学園の制服ではない袴姿で歩いていた。
「アンナさん!」
僕は声を出さずに口だけを動かしてその存在を確定した。良く見れば目がうつろで口もだらしなく開き、いつもの凛とした様子は無く、引きずるような小さい歩幅でゆっくりと彷徨う亡霊の様に歩いていた。
「狸吉さん、どこですの?」
「!」
「・・・堪らないのです。あなたの匂いと感触が恋しくて・・・」
まさかアンナさん夜這いに来たのか。しかし僕の部屋に出入りする事は母親であるソフィア理事長に禁止されていた筈。もし、辛抱堪らずにここに来たのなら偶然とはいえ、宿舎の外にいた事は幸運だったのかもしれない。しかし、どうやって僕がここにいる事を突き止めたんだ?そんな疑問を抱き始めた時、半病人の様なアンナさんが
「しますわ、狸吉さんの匂いが。この私を夢中にして離さない芳しい香りがこの辺りからしてますわ・・・こんな夜中に出歩くなんて悪い人。捕まえてお仕置きですわ♪」
異様な迫力の笑顔でお仕置きとか言われても恐すぎるんですけど。それにしても匂いで僕を追跡するなんて犬じゃないんだから勘弁してくれよ。どうにかしてアンナさんを振り切らないとマズイなと思っていると学園の時計塔が二時を指す。時間がない!しかし今のアンナさんの嗅覚と元々の運動能力を考えれば逃げ切るのは容易な事じゃないし、まして早乙女さんから荷物を受け取って僕の部屋まで運ぶのなんて無理があり過ぎる。しかしこうしている間にも時間は過ぎていくし、アンナさんが徐々に距離を詰めてくる。マズイマズイマズイ、僕は背水の陣とも言える覚悟で黒装束の袴の中に両手を突っ込んで身に付けていたフンドシを外し、投げ易い様に手近にあった石ころを中に入れて丸めた。昨日の夕方から仮眠をとっていたせいで今夜は風呂に入っていない。ならばコレを囮にアンナさんを振り切る事が出来るかもしれないと思ったのだ。
「はっ!この匂いは」
既に鬼の形相と化したアンナさんがこちらを向く、僕はそれをさせない様に丸めたフンドシを寄宿舎から離れる様に正門の方に向かって力一杯放り投げた。月夜に飛行する丸めたフンドシ。布の端が丸め切れておらずヒラヒラとたなびいて、まるで鳥が月夜に羽ばたく様に見受けられた。それを見たアンナさんは恋い焦がれたモノが目の前に現れた感激の表情で、空飛ぶフンドシに負けない速度で走り出し正門近くに転がる丸めたフンドシに走っていくと突然男の怒鳴るような声でがした。
「捕まえろ!」
「やはり張り込んでいて正解だったな!」
二人の男が正門近くの茂みから飛び出して来た。アレはひょっとして昼間、学園に来た司法省の役人か!二人はまるでアンナさんと僕のフンドシの争奪戦を繰り広げんと彼女と同じ方向に走り出した。
「なんですの?深夜の学園に賊が侵入しているだなんて。許しませんわよ」
歓喜の表情が一転、怒りの表情に変わるとアンナさんは走り寄ってきた司法省の役人であろう男めがけて大きく蹴りを繰り出した。男は何とかかわそうとするも蹴りの鋭さの余り、その脇腹に蹴りを受けてしまい、痛みに耐えきれず脇腹を押えながら膝をつき、倒れてしまった。それを見た、もう一人の男は身を低く構え臨戦態勢を取る。やはり何かの武道の心得があるようでアンナさんもそれを感じ取ったのか警戒しながら身を低く構えてから男達と距離を取ろうとジリジリと後ろ歩きを始め、ゆっくりと僕が放り投げたフンドシの所まで辿り着くと男から目を離さないようにしながら後ろ手に手さぐりしながらフンドシを回収した。そうまでして欲しがるものかな?するとアンナさんは手にしたフンドシを顔に当てると恍惚の表情を浮かべ
「ふふ・・・今日の所はこれが手に入ったのだからヨシとしましょうか。あなた方も二度と学園に足を踏み入れない事ですわね。見逃してあげますから仲間の男を連れてとっとと学園の敷地から出ていきなさい」
そう言うとアンナさんは一気に学園の正門に向かって駆け出し、高さのある金属製の格子の様な門を軽々と飛び越え闇夜に消えていった。目の前からアンナさんが消えた男は倒れている同僚の男に肩を貸しヨタヨタと学園の正門に向かって歩き出した。
「くそっ・・・《雪原の青》め」
僕は大急ぎで他にも見張りがいないかを確認しながら早乙女さんの部屋の窓の下にやっと到着すると、いきなり窓が開き中から眠たそうに怒っている早乙女さんが顔を出し小声で僕に
「遅いではないか」
「すみません、アンナさんと撒くのに手間取りまして」
「アンナじゃと?一体何があったのじゃ」
「今ここで長話をする訳にいきませんから週末カフェでお話ししますよ。とにかくブツを!」
「わ、わかった」
やっとの思いでブツを手に入れた僕は大風呂敷にそれを包み背負う様にして再び周囲を警戒しながら自分の宿舎へ戻った。そして翌日には早乙女さんの事情聴取と寄宿舎内の家宅捜索が行われたが無論、早乙女さんは事情聴取の際にボロを出す事なく更に家宅捜索でもバラ撒いた浮世絵版画に関するものは一切見つからずに事なきを得ることに成功した。