下ネタという概念が存在しない退屈な文明開化 作:Z-Laugh
先程までの怒りぶりが嘘の様に背広猿は僕の肩を掴んだ力強さとは裏腹に実に冷静な態度で僕を学舎内に案内してくれた。背広猿について行く事、数分、僕は学舎のほぼ中央までやってきた。背広猿がとあるドアの前で足を止めるとドアに向き直りノックをした。すると部屋の中から二重に重なった澄んだ女性の声が聞こえてきた。
「「どうぞ」」
「失礼します」
中から聞こえてきた声に背広猿が答えノックしたドアを開ける。その一歩を踏み出す時に僕を一にらみして付いて来る様に無言の合図する。逆らっても仕方ないと思い背広猿の後ろに顔を伏せる様に前かがみでついて行くと部屋の中には大きな机が設置してあり、その中央に逆光で顔までは解からないが陽の光を反射する銀髪の中年女性が位置取り、更にその横に同じ銀髪の若い女学生が立っていた。
「轟力先生、その様子では《雪原の青》を捕り逃がした様ですね」
「面目次第も御座いません」
「お母様、その様な物言いは轟力先生がお気の毒ですわ」
「いえ、アンナお嬢様。理事長のおっしゃる通りです。《雪原の青》を捕り逃がした事に違いはありません。しかし、その時の状況を目撃した人間がおりましたので連れて参りました」
「そう、後ろにいる人がそうなのね」
「はい」
「はじめまして、私がこの時岡学園の・・・奥間・・・狸吉君?」
大きな机の中央を陣取るいかにも身分が高そうな銀髪の女性が名乗ろうとした矢先に僕の名前を呼んだので上目遣いで少し顔を上げてみた。
「はい・・・あ!錦ノ宮さん」
「やっぱり奥間狸吉君なのね。まあまあ随分久しぶりね」
「はい、かれこれ二年ぶりくらいでしょうか」
「もうそんなになるのね。お母様はお元気?」
「ええ、相変わらずです」
「ふふ、相変わらずなのね。ではお父様は?」
「三月ほど前に官憲に逮捕され北の流刑地に連れて行かれました」
「あ!そうだったわね・・・私にとっては相入れない人間でしたが狸吉君や爛子さんにとってはかけがいの無い一家の大黒柱、お気持ちお察しします」
「ありがとうございます。しかし父さんが逮捕された事がきっかけで僕は横濱に出てくる事になって錦ノ宮さんの学校で働けるんですから正に人間万事塞翁が馬です」
「じゃあ、本居さんの紹介で今日から住み込みで働いてくれる用務員さんって狸吉君の事だったの。それは何とも嬉しい偶然ね」
僕と錦ノ宮さんが親しそうに話しているのを不思議そうに聞いていた背広猿が痺れを切らして
「理事長、理事長はこの男の事を知っているのですか?」
「ええ、彼は奥間狸吉君。今日からこの時岡学園で住み込みの用務員をしてくれる人よ。そして私の親友の息子さんでもあるの」
「理事長の親友?」
「ええ、我が家の別荘がある村に住んでいる奥間爛子さん。出自は違えど同じ志を持つ芯の通ったとても強い女性よ」
僕の母さんを親友と呼ぶこの女性。名前をソフィア・錦ノ宮という。室町の頃から続く貴族の家柄で明治政府立ち上げの時に英吉利(イギリス)へ渡航し、議会政治の何たるかを学び日本に持ち帰った人間の一人である。元々は別の名前があったのだが英吉利での暮らしが忘れられずに自分で自分にソフィアの名を付け今でも英吉利の影響を強く受けた女性の権利に関する発言をしている著名人である。そんなソフィア・錦ノ宮さんが僕の故郷に別荘を持っており、そこで男まさりで男以上の腕っ節を持つ母さんと出会って意気投合。以来一月を空けぬ間隔で手紙のやり取りをしている仲なのである。
「そうでしたか、理事長の親友の息子。知らなかったとは言え妙な疑いを掛けて申し訳ない」
背広猿が僕の素性が分かった途端に丁寧に先程の無礼を謝罪してくれた。しかしあの状況では疑うなというのが無理な話であり折角むこうから折れてくれたのだからと思い
「いえ、分かって下さればいいんです。あの状況では見知らぬ人間が学園にいれば疑いたくなるのも無理は有りませんよ」
「そう言って貰えると助かる。ああ、そう言えば自己紹介がまだだったな、俺はこの時岡学園で教鞭をとる国語教師の轟力雷樹だ。大学を出たばかりだが他の教師に負けぬよう日々学園の繁栄と生徒の成長の為に力を尽くしている」
大学出たばかりって事は二十二か三って事か?それにしちゃ随分おっさん臭い顔だな。そんな口に出来ない感想を思い浮かべつつ僕は先程の白装束の変態について聞いてみた。
「あの~、先程の白装束の変態は何者なんですか?」
僕の問いにその場にいた3人が一斉にため息をついたが、その答えにソフィア・錦ノ宮の横に立っていたソフィアそっくりの女学生が答えてくれた。
「あの白装束は《雪原の青》という活動家です。」
「活動家?民権運動でもしてるんですか?」
「いいえ、彼女がしている活動は過去の卑猥な創作物の復興なのです。」
「卑猥な創作物の復興ですって?」
「ええ、文明開化と共に日本は新たな一歩を踏み出し、この時岡学園もその一翼を担う新たな教育機関なのですが、その際不要な物として捨て去った過去の卑猥な浮世絵や草子を再び庶民の手に届く様にと活動をしている不届き者です。」
過去の卑猥な創作物の復興・・・まるで昔父さんが聞かせてくれた西洋のルネサンスの様な話だ。日本より進んだ考えの西洋でも表現の規制が厳しかった時代があり、そのせいで文化の発展が遅れた時期があったらしい。しかしそんな考えを打ち破る様に禁忌とされていた過去の知識を振り返り新たな文化を築こうとした運動がルネサンスだ。確かに今の日本はその頃の西洋に似た状況なのかもしれない。過去から築き上げてきた粋や艶を否定して新しい物を是とする今の時代に反旗を翻す事はひょっとしたら時代の必然なのかもしれない。
しかし、この場でこの事を言う訳にはいかなかった。理事長のソフィア・錦ノ宮、教師の轟力雷樹、そして白装束の変態《雪原の青》をあからさまに不届き者呼ばわりした女学生の前でその発言をする事は僕にとって、とても不利に働くと母さんが鍛えてくれた観念がそう僕に警告してくれていた。
「とんでもない奴ですね。しかもあんな活動を女性がしているんだから、なお驚きです」
「《雪原の青》が女ですって!それは本当ですか?」
「え、ええ、あの声といい発言の内容といい女性としか思えません」
「そうでしたか、あの誰とも徒党を組まないと宣言をしていた凶悪な活動家が私と同じ女性だったなんて・・・こんな事では日本が真の文明国になれませんわ」
「『雪原の青』が女性だって知らなかったんですか?」
「ええ、突然現れ、卑猥な言葉を言い散らかし、卑猥な浮世絵をバラまいてあたりが混乱している隙に消えてしまうので、その正体は全くと言っていい程に分かってなかったのです」
「あれだけの事をしておきながら正体を明らかにされないなんて・・・とんでもない奴だな」
「しかし今日は狸吉さんのおかげで《雪原の青》の正体に一歩近づけましたわ。もし、よろしければ私のお手伝いをしていただけませんか?」
「手伝い?」
「はい。実のところ《雪原の青》が行っている活動には官憲はもとより、この学校の関係者並びに教師も頭を痛めてますの。しかしコレという防ぐ手立てが無いものですから学園の生徒の間に卑猥な知識が広まりつつあるのです」
「ええ!この名門校でですか」
「はい、この学園に通う子女は上流階級の家の人間だけで、それこそ手の中の珠の様に大事にされてきた子ばかりです。そんな生活の反動もあってか学園に現れる怪しい活動家のバラまく卑猥な浮世絵に興味深々なのです」
「ああ、何でも知りたがる年頃ですもんね」
「実行犯である《雪原の青》は捕まえられない。学園の評判に関わるから官憲の介入はさせたくない。しかし学園の関係者だけでは卑猥な浮世絵を取り締まる事が出来ないのです」
「・・・それって、どういう事ですか?生徒の持ち物検査なり何なりして卑猥な物を持っていないかを検査すればいいだけじゃないですか」
《雪原の青》がバラまいた卑猥な浮世絵を持っているか、いないかを検査するだけの事が出来ないなんて、どういう事だ?そんな疑問を思い浮かべているとソフィア・錦ノ宮が
「恥ずかしながら、私達は何が卑猥で、何が卑猥ではないかが区別出来ないのです」
「卑猥な物が区別出来ない?」
「ええ、新たな教育機関として設立された当学園に雇われている職員・教員達は皆若く、そういう過去の知識より新しい知識を優先して覚えた人間ばかりなので過去の卑猥な創作物という物がまるで見当がつかないのです」
「そ、そんな」
そんな馬鹿な事が有り得るのか。今の時代、大学を出るなんて家が裕福である事は勿論、本人が優秀じゃないと卒業はおろか入学する事も出来ない筈だ。そんな世間で優秀と言われている人間が卑猥を解からない?頭がいいのをこじらせちゃって一周回って馬鹿になっちゃったんじゃないの。
「理事会の中高年層の人間は他にも仕事があって取り締まりに参加する事が出来るほど時間に余裕がないの。ですから生徒が《雪原の青》がバラまいた浮世絵を隠し持っていてもそれが卑猥な物である事が解からずに後になって判明すると言う事の繰り返しなのよ」
「《雪原の青》がバラまいた現場でなら、それが卑猥な物と断定出来るけど、時を置いて別な場所で見てもそれとは解からないという事ですね。しかも守る対象である生徒がそれを隠そうとするんだから余計に始末に負えないのでしょうね」
「ええ、どうにも手詰まりで・・・そこで狸吉さん。今アンナが言った通りに学園内の卑猥な創作物を取り締まるのに手を貸して貰えないかしら」
「僕がですか」
「あなたのお父様は知る人ぞ知る絵師で、その絵はあの爛子さんが悩み困り果てた物でした。聞いたところによれば狸吉さんはお父様からそういう知識を随分教え込まれたそうですね」
「はぁ・・・」
「実はこの時岡学園では生徒の自主性を育む為に学園内に生徒による議会を設置しております」
「女学校に議会ですか」
「ええ、現在議長を務めるのは、ここにいる私の娘のアンナです。この子を中心に生徒による自主的な卑猥な創作物の取り締まりを行っているのです」
「なるほど、職員や教員より生徒自身が取り締まりをした方が生徒間の情報がいち早く入手出来るのでしょうね」
「そういう事です。ただ、それも決定的な対策にはなっておらず・・・そこで狸吉さんがアンナに手を貸して下されば取り締まりの効果が上がると思うのです」
ソフィア・錦ノ宮の提案は僕を少なからず悩ませた。確かに教育の現場にこの様な活動を持ち込むのは良くない事だ。しかし古きを知ろうとしない人間が増えていく中で《雪原の青》の活動は僕にとって一筋の光明の様にさえ思える。やっている事は応援したい、しかしやり方が野暮過ぎる。艶はあるが粋ではない。そんな活動に対して僕はどういう立場でどう物を判断すればいいのかと思い悩んでみたが目の前の生活の事を考えればこの時岡学園での職を失う訳にはいかない。ならば理事長とその娘のやる事を応援する立場で行動をするのが一番だろう。
「分かりました。協力させていただきます」
「本当ですか、ありがとうございます。さすがはあの爛子さんの息子ね。では話が決まれば善は急げよ。アンナ、狸吉さんに学内を案内して差し上げなさい」
満面の笑顔で娘・アンナにそう指示をするソフィア・錦ノ宮。それに答える様に
「では狸吉さん、参りましょうか」
アンナと呼ばれたソフィア・錦ノ宮の娘に促されるまま部屋を出ると僕は学園内をアンナに案内して貰った。さっきまでいた理事長室、その隣の校長室、会議室、職員室、事務局などの運営に関する部署は学舎の一階に集中している。案内をされている間、何度となく他の女学生とすれ違い、その都度に上品な会釈をされる。もちろん僕といういかにも外部から学園にやってきた人間に対する礼儀作法を実行しているに過ぎないのだが、どうも女学生達の会釈の真の狙いはアンナ・錦ノ宮の様であった。会釈をする際、皆が皆、頬を染め上気した様な目つきでアンナを見つめている。そう、まるで憧れ、恋い焦がれた人間を見つめる様に。当のアンナ自身も会釈をされる度に笑顔で同じ事をして返し一言・二言何かしら声を掛ける。なんともユリユリしい光景だったがアンナの美しさを考えれば、それも当然の様に思えた。母親譲りの輝く様な銀髪に美しい顔立ち、襟元から覗くうなじは髪に負けない程に艶やかでどこまでも白い。着物の矢羽柄の線が大袈裟な曲線を描く程のふくよかな胸元とそれに相反する様な細い腰。そして袴の紐の位置からも分かるほどに長い足、どれをとっても美しく横を歩いていても何やら良い香りまでして来るのだからコレは男性のみならず女性をも魅了してやまない人間と思えた。
そんな事を考えながらも僕はアンナに連れられるまま学舎の二階へと上がって行く。調理室という料理の実践練習を行う為の教室、科学室という科学実験を行う為の教室、そして、
「こちらが図書室ですの。これ程の蔵書のある学校は、横濱はおろか帝都でも珍しいのですよ」
アンナが僕にそう説明をしながら図書室に僕を招き入れた。見ればそこらの書店も青くなる程の洋書の数々が見上げる程の高さの本棚の天辺から目の高さ辺りまでの棚に所狭しと立て並べてあり、更にそこから足元までの棚には和綴じ本が数多く平積みされている。また図書室の入口近くの本棚には外国語と日本語を対比した翻訳用の辞書なども数多く揃っており、これは本当に本居さんから譲って貰った清国の本を読み解くのに最高の環境だった。
「す、すごい。これ程の数の本が集まっている場所は初めてですよ」
「狸吉さんは本を読まれるのですか」
「ええ、子供の頃から父さんに色々な本を読み聞かせて貰った影響で故郷の村では誰よりも本を読んでいました。それに本居さんの地本問屋にいる三月の間も売る前の本を読み漁ってました」
「素晴らしですわ。学校に通わずとも貪欲に知識を身に付け様とする姿勢はこの学園の職員に相応しいと思います」
「大した事じゃありませんよ。理事長も言っていましたが僕の父さんが読み聞かせてくれた本は多分、この学園内には存在しない、駆逐されるべき内容でしたから・・・」
確かに僕は子供の頃から父さんに色々な話を聞かせて貰った影響で父さんの持っている本には全て目を通したし、手に入る本は片っ端から読み漁り、それを楽しくさえ思っていた。しかし、この学園ではその知識の大半が禁忌とされてしまうのであろうから折角のアンナの褒め言葉も何やら空しく心に響いていた。
「・・・上手く言えないのですが・・・」
そう前置きをしながらアンナが僕の手を取った。
「狸吉さんがお父様から教授された知識は世間では後ろ指をさされる物なのかもしれません。しかし毒も使い方次第では薬に成り得ます。どうかご自分の知識を卑下する事なく学園の繁栄の為にお役立て下さい」
「アンナさん・・・」
力強い意志を感じるその目には嘘偽りを言っている様子は全く無く、それに比例するように僕の手を握る彼女の両手にも力が入っていた。
「あ!あら、殿方の手を握るだなんてはしたない。失礼いたしました」
「あ、いえ、気にしないで下さい・・・それと・・・ありがとうございます」
「そ、そんな、お礼を言われる様な事は申してませんわ。本当にそう思ったのですから、どうか私に力を貸して下さい」
「はい。微力ながらお手伝いさせていただきます」
僕はつい感激のあまりアンナさんの手を両手で握っていた。彼女は驚きはしたものの僕の行動を拒みはせず、笑顔で受け入れてくれた。外見だけではない、心まで美しい人なのか。そんな感情を彼女に抱いた時だった。不意に本棚の陰から声が掛かる。
「男女が手を握り合うと子供が出来たりしないのですか?」
重く沈んだ様な口調でおかしな事を言って来た。慌ててアンナさんの手を離し、声のした方を見てみると一人の矢羽柄の着物に袴姿の女学生がこちらをこっそりといった感で覗き込んでいた。上流階級の子女が通うこの時岡学園の生徒、すなわちアンナさんをはじめ、廊下ですれ違った女学生達は皆一様に清楚で綺麗な出で立ちなのだが、この女学生は着物と袴こそ綺麗に着ているのだが女性の命とも言うべき髪をまとめもせず梳かしもせずザンバラなままにしていた。髪自体は艶やかで所謂、緑の黒髪なのだが、いかにも手入れをしていないせいでウネウネと波打ちまるで昆布かワカメの様であり眼つきもクマがくっきりと浮かび上がり何やら危ない人の様に感じる。
「不破さん、あなたはまたこの図書室でおかしな事を企んでいるのですか」
アンナさんがワカメ女に向かって叱責を始めた。
「先生方も職員の皆さんもあなたの行動は理解し難いと困ってらっしゃいますよ」
「アンナ議長、それは異な事を仰いますね。ここは学究の徒が集う学び舎です。知識を得ようと行動する事は当然だと思うのですが」
「言い訳はおよしなさい。やれ、どうすれば子供が出来るとか、何故男女は七歳になると同衾してはいけないのかとか、この学園で学ぶべき事から逸脱してばかりではありませんか」
「疑問を持つ事は新しい知識を得る為に必要な事です。それにこれは私の推測ですが昨今の上流階級における出生率の低下もその辺りの事が絡んでいるのではないかと」
「それとこれとは話は別です。私達は良妻賢母となるべく学園が用意してくれた教育要綱を学んで行けばいいのです」
どうも二人の話を聞いていると、会話は成立しているものの考え方や知識に差があり過ぎて噛み合ってない様に思える。アンナさんは真面目で学園の方針の信奉者であるが、この不破とかいう女学生は一連の発言から見てどうやら妊娠・子作りに異常なまでの関心を持っている様だ。
「あ!御挨拶が遅れまして。私はこの学園の一年生・不破氷菓と申します」
「・・・はじめまして、奥間狸吉です」
「奥間?ひょっとして奥間善十郎の関係者ですか?」
「奥間善十郎は僕の父ですけど、それが何か?」
「ああ!これこそ神仏のお導きです。神や仏が私に真実に辿り着けと仰っている様にさえ感じます。奥間さん、どうか私に子作りについて教えて下さい」
「はあ?」
「私は入学する前から今の上流階級の出生率の低下に問題意識を持っていたのです。しかし私の様な浅学な者では神の御技の如し子作りの真理に辿り着けないで困り果てていたんです」
子作りの仕方が解からない?上流階級で出生率が低下?ひょっとして卑猥な創造物を排除し過ぎたせいで、そんな事すらも解からない適齢期の男女が増えてきてしまっているのか。恐怖に近い危機感を感じていると不破さんは更にまくし立ててくる。
「この学園は横濱で最高の水準を誇る、すなわち開国・日本の最先端の教育機関です。それならばと思い入学を決意したのですが学ぶ事全てが子作りとは関係が無い様に思えて、独力で図書室などで研究を重ねていました。しかし、そんな努力もむなしく子作りの真理には辿り着けずにいたのです。しかし、そんな私の前に奥間さんが、あの奥間善十郎の息子が現われたのです。お願いします、奥間さんなら子作りの何たるかを全てご存じでしょう。どうか私に子作りを教えて下さい」
おいおい、子作りを教えてくれって真っ直ぐ過ぎるだろ。それってはめちゃって下さいって言っている様なもんだぞ。しかし無知ゆえの暴走である事は明白なのだから「はい、いいですよ」と言って不破さんと子作りをする訳にはいかない。必死になって教えを請う不破さんに戸惑っていると
「不破さん、いい加減にしなさい。狸吉さんが困ってらっしゃるじゃありませんか。」
「しかし、ここで引く訳にはいきません」
「いいえ、是が非でも引いていただきます。狸吉さんには今日から私達、学園議会による卑猥な創造物の取り締まりにご協力いただくのですから」
「な、なんですって・・・」
「話はこれで終わりです。不破さん、もう二度と狸吉さんにおかしなお願いをするのはお止め下さい。よろしいですね。」
子作りについて知りたい不破さんにとって僕は確かに救世主となれる人間なのだろう、しかし、その当てにしていた人間が反対勢力の味方をすると知った彼女はいかにも無念そうに項垂れてしまった。
「狸吉さん、参りましょう」
アンナさんの声かけに反応して僕は不破さんを置き去りにする様に図書室を出た。そして二階の一番奥の部屋の前まで来ると彼女はノックもせずにドアを開けて僕を中に招き入れた。
「どうぞ、狸吉さん。ここが学園議会本部ですわ」
今まで案内して貰った部屋や教室より狭い、それこそ半分程度の広さしかない部屋ではあったが机に椅子、書棚などが配置されており成程、学園議会本部といった感じがする部屋だった。
「アンナ、その人は?」
不意に後ろから声がしたので振り返ってみるとそこには・・・以前本居さんの地本問屋で井原西鶴の『好色五人女』を買って行った女学生が立っていた。
「あら綾女さん、いい所へ。ご紹介いたしますわ、この方は今日からこの学園に住み込みで働く事になった奥間狸吉さんです。私達、学園議会の取り締まりにも御尽力していただきますので綾女さんも仲良くしてあげて下さいね」
「奥間狸吉です。よろしくお願いします」
「華城綾女です」
地本問屋で会った時もキツイ印象のする女学生だったが、この場では一段とキツイ、いや僕の事を拒絶しているのではないかと思うほどに冷たい挨拶を返してきた。しかし、この華城綾女という女学生は廊下ですれ違うだけで頬を上気させていた女学生達と違いアンナさんと対等の立場であるかのように振る舞っていた。
「綾女さんは学園議会の副議長なんです。私の右腕、とても頼りになる親友ですの」
「アンナ、褒めすぎよ。私はそれ程に学園に尽力出来てないわ」
「そんな事ありません。お母様も褒めてましたわ、保護者の元を離れて一人東京で勉学に励むだけではなく学園議会で辣腕をふるって下さっているのですもの」
「それもアンナの力があればこその話よ。それより・・・奥間さんだったわね」
華城さんが僕を射抜く様に見つめて来た。
「アンナが頼りにするなら私に異議は無いけど少しでも妙な事をしたら、この学園から追い出してやるから、そのつもりでいなさい」
「まあまあ綾女さん、落ち着いて。奥間さんは先程、轟力先生と《雪原の青》に対峙した方でその正体が女性である事を見破った貴重な人材ですのよ。きっと私達の期待に応えて下さるわ」
「・・・そうだといいんだけど、結局のところ《雪原の青》を轟力先生と一緒に捕り逃がしたと言う事でしょ。まあ余り当てにせずに期待する事にするわ」
きつい物言いをしてくる華城さん。こりゃ種類は違えどアンナさんの信奉者である事に違いは無い様だ。彼女の前ではアンナさんへの馴れ馴れしい態度は控えた方がよさそうだな。
「アンナ、そろそろ時間よ」
「あら、もうこんな時間。狸吉さん、私はこれからお母様のお伴で近隣の学校と《雪原の青》対策会議に行かなくてはなりませんの。学園の案内が途中なのに申し訳ございませんが中座させていただきます」
「学園の案内をしていたの。それなら私がしてあげるわ」
「本当ですか!ああ、やはり持つべきものは友達ですわね。では狸吉さん、失礼いたします」
そう言い残してアンナ・錦ノ宮は学園議会本部を後にしたのだが彼女が消えた途端、華城さんの目がギラリと光り僕を見据えて来た。ここまで敵意をむき出しにする事ないのに、そんな風に思っていると
「付いて来て」
必要最低限の言葉だけで僕を学園議会本部から連れ出すと一階の事務局に向かい僕が住み込む職員用の宿舎についてアレコレと聞き始めた。どうやら先程の言葉同様に案内も必要最低限で済ますつもりの様だ。僕は華城さんに一言断ってから裏門横に置いてきた大八車を取りに行き正門前まで引っ張ってきた。そして華城さんの案内で学舎の真横にある学園の外塀沿いの宿舎まで案内された。小さいのだが学内の風景に溶け込める様な洋風のレンガ作りの一軒家、華城さんが事務局で借りて来た鍵でドアを開けると中は畳敷きの八畳一間で押し入れと天袋がついた極めて和風の作りだった。外見との差が激しくて思わず吹き出しそうになると
「さっさと荷物を運びこんで」
限りなく命令に近い口調で僕に大八車の荷物を部屋に運ぶように言ってきた。やれやれアンナさんの取り巻き連中との付き合いはこれからも気を使わされそうだなと憂鬱になりながらも風呂敷包みと本居さんから譲り受けた本や絵が入った茶箱を宿舎の中に運び込んだ。草履を脱いで座敷に上がりホッと一息付いていると華城さんは宿舎のドアを閉めて僕同様に座敷に上がり込んで来た。
「あ、あの華城さん?」
「ここなら誰にも聞かれる心配は無いわ」
「は?」
「ふふ、とぼけちゃって。まあさっきのアンナの前でのとぼけっぷりは中々堂に入っていたわよ。さすがは奥間善十郎の息子ね。童貞のくせに大した焦らし技だわ」
「か、華城さん・・・あなた」
「・・・まさか、本当に解からないの。だとしたら、とんだ見込み違いかもしれないわね」
先程までの攻撃色がすっかり消え馴れ馴れしい程に笑顔で僕に話し掛けてくる。
「なら改めまして。私は華城綾女、表の顔は時岡学園二年・学園議会・副議長、そして裏の顔はエロ活動家《雪原の青》よ」
「な!」
「あなた本当に気付いてなかったの」
「わ、分かる訳ないでしょ」
「私の様な女学生があんな古臭い地本問屋になんか行くと思う?アンナがあなたを学園議会本部に案内した時に都合よく表れると思う?妄想は布団の中だけにしておきなさい」
「じゃ、じゃあ華城さんは僕の事を最初から知ってたんですか?」
「ええ、私の活動を後援してくれる人達から奥間善十郎の息子が横濱に来ると聞かされて色々と調べさせて貰ったわ」
「一体何が狙いなんですか」
「もろちん、あら間違えた。もちろん奥間狸吉を私の仲間に引き入れたいのよ」
「僕を仲間にですって。そんな、さっき徒党は組まないって言ったばかりじゃないですか」
「それは時と場合、そして人によっていくらでも変わるわ。あなた程の人なら私の活動を一層面白い物にしてくれるに違いないもの」
「馬鹿な事を言わないで下さい。僕は錦ノ宮親子から学園での卑猥な創作物の取り締まりをする様に頼まれたんです。あなたの活動とは真逆の事をしないといけないんですよ」
「そんな事は言われなくても解かっているわ。それに私だって学園議会・副議長として学園内の取り締まりに協力どころか率先してしないといけない立場ですもの」
「獅子身中の虫か、僕はあなたの仲間になんかならないぞ」
「あら、随分お堅いのね。硬いのはあそこだけでいいのに」
「なんの話をしてるんだ」
「もちろん、もろちんの話よ」
「同じネタ二度使ってんじゃねえよ」
「あら、捗るオカズは二度といわずに何度でも使えるものよ」
「オカズの話じゃねえ。アンタの活動の話だ」
「なら間違ってないじゃない」
「・・・あんた頭おかしいんじゃないか。こんな名門校に通っていながら下ネタばかり言い放ちやがって」
「ふふふ、やはりあなたは私が見込んだ通りの人間の様ね。下ネタ知識が豊富でしっかり私の話について来れるのですもの」
くそっ!長年我慢し続けた下ネタ会話をいきなり始められたから、つい色々喋らされてしまった。しかし僕には解かる。このまま下ネタに身を沈めてしまえば行きつく先は北の流刑地、父さんと肩を並べて暮らす事になってしまう。気丈な母さんが僕に顔を見せない様に見送ってくれた気持ちに応える為にも、この悪魔の囁きは必ず振り払ってみせる。
「だからどうした。そんな垂れ流すみたいに艶話をしたところで何も変わらないぞ《雪原の青》」
「やはり分かっているわね。今の私の活動が粋には程遠い事まで理解しているなんて二度と出会えない程の人材だわ」
「粋じゃないと分かっていながら、あんな事をしているのか」
「勿論よ。私の最終目標は昔の様に艶と粋を堂々と話す事が出来る世の中を創る事。決してその場限りのお遊びじゃないのよ」
「そ、そんな事・・・出来る訳ないだろ」
「いいえ絶対出来るわ。狸吉、あなたは西洋のルネサンスという物を知っているかしら」
「ルネサンス・・・知ってる。父さんに何度も聞かせて貰った話だ」
「奥間善十郎、やはり恐るべき男ね。自分のみならず実の子にまで英才教育を施すなんて稀代の艶の達人だわ」
「要するにあんたは・・・自分の活動が時代の必然だって言いたいのか」
「そう。人は想像無しに生きられない生物よ。今は西洋文化といえばダボハゼの様に何にでも食い付くけど西洋文化に飽きたら確実に時代の流れは絶対に私達に向くわ」
「なら、その時まで待てばいいじゃないか」
「そんなには待てないわ。そうしている間にも行き過ぎた卑猥の撤去で子作りすら出来ない若い夫婦が上流階級に現れ始めているのよ」
「本当にそんな夫婦がいるのか」
「信じられないでしょうけど、これは本当の事なのよ。毎晩、一緒に夕飯を食べて、一日の話をして、別々の布団に寝ているのよ。それこそ男女七歳にして同衾せずという言葉を頑なに守っているの。奥間狸吉、あなたはこんな夫婦が増える事がこの国の為になると思っているの」
「そ、それは・・・」
「時代の流れが自然にやって来るのを待っていたのではこの国は滅びてしまうわ。武士や上流階級というまとめ役がいなくなった国が真の民主化を経て国力を蓄えるのを諸外国が指をくわえて待ってくれる筈が無いでしょ」
諸外国・・・確かに今の激動の時代、日本に近い隣の清国の一部や、そこから陸続きの国々が先進的な西洋文明の力で支配されつつある話を聞いた事がある。元々、大政奉還にしても明治政府の設立にしても要は西洋諸国からこの国を守る為の一連の動きに過ぎない。そんな状況下で武士に変わる支配階層の上流階級の連中が子供すら作れず、いつまで経っても子供の様な事を言い続けて腑抜けて行ってしまったら《雪原の青》の言う通りになってしまう。
「た、確かに・・・」
「今、文芸復興がなされなければ手遅れになってしまう。その為にも過去から脈々と積み上げられてきたこの国の先人の艶と粋が必要なのよ。」
「けど、あんたのやり方はどう考えたっておかしい。屋根に昇って卑猥な言葉を叫んだり春画(=エロイラスト)をバラまいたりするのは逆に文芸復興の妨げになるんじゃないか」
「普通のやり方では今の卑猥排除の流れを止める事が出来ないの。まずは第一段階として、こういう物があるんですよって知って貰う事から始めないといけないのよ」
「数を数えられない子供にそろばんは使えませんもんね」
「そういう事。まずは性知識の流布が必要なのよ」
何故この女の言う事はいちいち僕の心の琴線に響いて来るのだろう。一緒に行動すれば身を滅ぼすと母さんが鍛えてくれた観念が警告し続けていると言うのに、身を委ねずにいられない程に魅力的な信念を感じさせる。僕が望んでいた今の世に昔の艶と粋を取り戻す文芸復興運動に関われるのかと思うと押さえられない様な高揚感を感じ始めてしまう。その上、この華城綾女・《雪原の青》は今の自分のやり方が粋ではないとちゃんと理解出来ていて現在の活動を第一段階とまで言ってのけた。第一段階としての性知識の流布そして第二・第三段階でより具体的な文芸作品を知って貰ったり独自の作品を創作して貰ったりして世の大衆の力で行き過ぎた卑猥の取り締まりを止めて欲しいという流れを作り出す。これが実現できればきっと新たな文化を形成、すなわち日本のルネサンスが完成すると言っていい。それにもし、本当にそんな事が実現できれば・・・北の流刑地に抑留された父さんも釈放して貰えるかもしれない。
「さあ狸吉、私の仲間になりなさい。この先はとても素敵な世界よ」
「しかし・・・僕は今の仕事や生活を失う訳にはいかないんです」
「奥間狸吉、私はあなたにお願いをしているのではないの。仲間になれと命令しているのよ」
「え?」
「もし私の申し出を断るなら、今から事務局に飛び込んで学園の職員にあなたのその茶箱の中身を検閲して貰うわよ。」
華城綾女が本居さんから譲り受けた本や絵が入った木製の茶箱を指さしながら凶悪な笑顔を浮かばせた。
「な、なんで茶箱の中身の事を知ってるんです」
「言ったでしょ。私の活動には後援者がいるの、しかも一人や二人じゃないわよ。その人達の伝手であなたが地本問屋の御主人の本居さんからこの国の宝と言っていい本や絵を受け継いだ事は既に一部の好事家の間で評判なのよ」
「なんだって!」
「もちろん、その好事家達もあなたの本や絵を狙っているわ。しかし、あなたが時岡学園に就職してしまった為に易々とその交渉が出来なくなってしまったのよ」
「どういう事ですか」
「世の中の流れが卑猥の取り締まりを是としている中で、この時岡学園はその流れの中心と言っていい場所。いわば卑猥の真空地帯。自身の持つコネを使って学園内に客として入る事は出来ても、あなたを相手に卑猥な本や絵の話をする事までは出来ないのよ」
「じゃあ僕がこの茶箱を時岡学園の敷地内に運び込んだ事で、この学園が好事家達の注目の的になってしまったんですか」
「その通りよ。更に言えば官憲が卑猥な創造物を取り締まる中で、この時岡学園は理事長の方針もあって官憲介入がされ難い場所でもあるの。だからあなたの行動は結果的に卑猥な宝を安全地帯に運び込んだという事にもなっているのよ」
「そ、そんな・・・僕はただ引っ越しをしただけなのに」
「そんな言い訳が通る訳ないでしょ。学園にその茶箱を運び込んだ時点であなたは私の仲間になる事が決まっていたのよ。まあ悪い様にはしないわ、何しろ卑猥の真空地帯に桃色に弾ける卑猥な火薬を大量に仕掛けた様なものなのだから、今の状況は私にとっても好都合なの」
「僕を文芸復興の人柱にするつもりですか」
「それはあなたの返事次第よ。さあ選びなさい、職員にその茶箱の中身を検閲されるか、自分の意志とは関係無しに文芸復興の人柱になるか、私と一緒に卑猥な知識の流布をするか」
「そ、そんな」
「まだ迷うというの・・・これだから童貞は扱い辛いわ。そんなに何でも欲しがるものではないわよ。なら、一つご褒美も付けてあげるわ」
「ご褒美?」
「童貞のあなたには最高のご褒美よ。あなたがアンナと親しくなるのを後押ししてあげる」
「アンナさんと」
「アンナは学園の女学生のみならず若い職員・教員も、更には学園外からも交際を望む人間が後を絶たない程の美貌の持ち主、あなただってもしそうなれたらって思っているのでしょ」
「そ、そりゃ・・・あんなに素敵な女性は二人といないでしょう」
「学園議会本部でのアンナの発言を思い出してみて。私はアンナの親友であなたの気持ちを後押しするのに最高の位置にいる人間なの」
「・・・」
「これで決まりね。これからよろしくね、我が同士。奥間狸吉君」