下ネタという概念が存在しない退屈な文明開化 作:Z-Laugh
翌・日曜日、僕は普段着の田舎から持ってきた着物を着て、頭には父さんの鳥打帽子を被り学園近くのカフェへと向かった。少々時間は早かったが呼び出した人間として遅れる訳にはいかなかったので今日集まる誰よりも早くカフェに着ける様に学園の宿舎を飛び出した。しかし、そんな目論見は僕より早くカフェに来ていた華城さんにいとも簡単にぶっ壊された。以前《S○X》の創立をした個室に先んじて座っている華城さん。ダイニングテーブルの上には花飾りしか置いてなくて、まだ何も注文をしていない様子だった。
「早かったですね」
「まあ、せっかく狸吉が早乙女先輩を誘い出したのだから遅れる訳に行かないでしょ。それにしても狸吉、あなたね~」
僕の姿を見るなり不機嫌そうな表情だった華城さんがその口調まで不機嫌にすると
「なにその格好?元の木阿弥じゃないの」
「け、けど背広は学園からの支給品ですし休みの日には着れませんよ」
「別にあの背広を着ろとは言ってないわ。横濱で暮らしていくなら学園の外でもそれなりの恰好をしなさい。じゃないと逆に目立ってしまうわよ」
見れば華城さんは学園と違い髪を二つに分けた三つ編みにして、その服装もこの間の様な袴姿ではなく薄い桃色の縮緬(ちりめん=シボと呼ばれる小さなシワが沢山ついた生地)の着物に藍色の塩瀬(しおせ=つるっとした質感で光沢が感じられるの生地)の帯を締めたいかにも今時の若い女性のする格好をしていた。
「逆に目立ちますか?」
「ええ、悪目立ちね。そんな風に目立ちたいなら、そのボロ着物に私の浮世絵を張ってあげましょうか。さぞ目立つし周囲の耳目を集める筈よ」
「勘弁して下さい。次の給金が入ったらもう少しましな格好をしますから」
「そうして頂戴。普段から目立つような事をされると、私達の活動をする時に悪い影響が出かねないわ。もっと街を歩く男性の服装を見習いなさい」
「とは言っても背広は高くて手が出ません」
「別に背広を着る必要はないわ。中途半端に着ても官憲か郵便配達人にしか見えないもの。呉服屋で普通に買い物をすればいいだけよ」
「分かりました。稼ぎの範疇で何とかしてみます」
すると部屋のドアをノックする音がしたので華城さんとドアの方を見るとカフェの御主人が僕等に珈琲と皿に乗った茶色の輪っかを持ってきてくれた。華城さんはそれを見て喜色を露わにして目の前にそれを置かれると手を合わせて喜んでいた。一方の僕は輪っか無しで珈琲だけが目の前に置かれた。
「奥間様からの贈り物です」
「え、狸吉が用意する様に言ってくれたの」
「はい先日、この部屋の予約においでになった時に綾女様には珈琲にドーナツを添える様にと熱心に頼まれましたので御用意させていただきました」
「そ、そう・・・ありがとうね狸吉」////
「では、ごゆっくり」
そう言ってカフェの御主人が部屋を出て行くと
「でも狸吉、よくドーナツなんて知っていたわね」
「それアンナさんに教えて貰ったんですよ。華城さんの機嫌を直すにはそれが一番だって」
「もう、アンナの奴」
「あの華城さん、自分で注文しておいてあれなんですが、どーなつってなんなんですか?」
「・・・知らずに頼んでおいたの。まあ、いいわ。今回は狸吉の気遣いを考慮して教えてあげるわ。ドーナツっていうのは、この茶色の輪っかの事よ」
「それがどーなつなんですか。それって食べ物なんですよね」
「ふぅ。そこから教えないと駄目なの。アンナがあなたの事をからかっていたらって思わなかったの」
「アンナさんはそんな事しませんよ」
「そうね・・あなたの言う通りだわ。ドーナツと言うのは西洋の小麦菓子なのよ」
「小麦ですか。それに随分変わった形ですね、まるでアルファベットのオーみたいです」
「そうね、確かにオーだわ。これは小麦粉を卵と練り合わせてから輪にして油で揚げて砂糖をまぶしてあるから、これを珈琲のお茶受けにする時は珈琲に入れる砂糖を少なくするのよ」
「茶が苦い方が菓子の味も引き立ちますもんね」
「そう言う事。狸吉はドーナツが何なのか知らない位だから食べた事も無いのでしょ。半分食べてみる?」
「え、いいんですか。それって華城さんの好物なんでしょ」
「まあ今回だけね。次からはどんなに羨ましがっても分けてあげないから、そのつもりでね」
そう言うと華城さんはドーナツを手にとって半分に割ると、その片方を僕に差し出してきた。手に取ってみると砂糖のざらついた感触と油で揚げた事が解かる独特のぬめりを感じたが、先日の珈琲同様、華城さんは躊躇なくドーナツを頬張るので僕もそれを真似て頬張ってみた。
「なんじゃ、お主が見せたかった面白い題材とはいちゃつく男女の事だったのか。悪いがそんな物は描き飽きるほどに描いておるわ」
突然、部屋の入口から早乙女さんが僕等を呆れる様な眼で見ながら、そう言い放ってきた。僕は頬張ったドーナツの味を確認する前に驚きでそれを吹き出してしまい咳き込んでしまった。
「ちょっと、狸吉。なに噴き出してんのよ」
華城さんの言葉に返事も出来ずに僕は手近にあった珈琲を手にとって咳を止める為に砂糖も入れずにゴクリと一口のみ込んだ。苦い!物凄く苦い!しかし良薬口に苦しという言葉もある位だ。どっか体の悪い所を直してくれるかもしれないし、それにこれ朝に飲んだら凄く目が覚めそうだな。そんな下らない事で感心して落ち着きを取り戻した時には早乙女さんが向かい合って座る僕達の横の席に座っていた。丸いダイニングテーブルを三人で取り囲む様に座ると
「よく来てくれましたね」
「ふぅ、来たのは良いが、この様子では大した物は期待出来んのう」
「別に僕と華城さんが題材になる訳じゃありませんよ。僕が見せたかったのはコレなんです」
そうして僕は宿舎から持ってきた三冊の本を取り出した。
「なんじゃこれは?」
「これは僕の父さんの絵が入っている本なんです」
「お主の父親だと?」
「狸吉、それって・・・」
「ええ、本居さんに譲って貰った物の一部です。早乙女さん、この絵なんですけど」
「どれどれ・・・ふむ・・・変わった絵じゃの」
「ええ、僕の父さんは元々は浮世絵師だったんです。しかし文明開化で沢山の洋画がこの国に入ってきたのを機に自分の絵に洋画の要素を加えたんです」
「ほお、そういう試みをする絵師が多かったが、その手の絵師の絵はどれをとっても中途半端で好きになれんかった・・・しかし、これは中々の物じゃな」
「ありがとうございます。父さんの絵は世の中に広く受け入れられはしませんでしたけど、一部の好事家には贔屓にして貰って細々ではありましたが確実に金が稼げていた物なんです」
「なるほどのう、この品質ならそれも頷ける話じゃ」
「で、早乙女さん。これがあなたに見せたかった面白い題材なんです」
「これがか。女の裸なぞ絵画の題材としては極めてありふれておるものだぞ」
「そうでしょうね、僕の父さんも言ってましたが洋画にはそういう絵が沢山あるそうですね」
すると僕と早乙女さんの話に華城さんが口を挟んで来た。
「洋画の主な題材は女性の裸。しかし昔、西洋でも表現を厳しく規制した時期があった名残であからさまに女性の裸を絵に描く事は禁忌らしいのよ」
「そうなんですか?父さんの話だと、色々な図柄の女性の裸の絵があるそうですよ」
「うむ、その通りじゃ。横たわったり、踊りの様な仕草をした物や中には背中に羽が生えておる物まであるのじゃぞ」
「そう、それよ。西洋の好事家達はあからさまに女性の裸を絵師に描かせる訳に行かないから裸を描かせる理由を探したのよ。それで行き付いたのが旧約聖書なの」
「聖書じゃと、確かに聖書の物語を題材にした洋画は多いが、聖書の教えを守るキリスト教こそが表現を弾圧した集団であろうが」
「早乙女先輩、良くご存じですね。実はそれこそが聖書が絵の題材になった理由なんです」
「どういう事じゃ?」
「馬鹿正直に女性の裸の絵を描くとキリスト教会から弾圧を受けてしまいます。だから聖書の物語を題材にする事で女性の裸を描いても言い訳が出来るようにしたんです」
「弾圧の理由を逆手に取ったのか。西洋人も中々やるのう」
「要は卑猥を求める人間に洋の東西はないと言う事なのでしょうね」
「それって凄い事ですね。日本で言えば女性に官憲の制服を着せて絵を描く様な物ですよ」
「お主の言う通りじゃな。で、お主らは女に制服を着せてワシに描かせようと言うのか?」
「「まさか」」
不意に僕と華城先輩の声が重なり二人して驚きながら口ごもると、華城先輩が僕に先んじて
「そういう発想は大事かもしれませんが私達が先輩に描いて欲しい物は卑猥なんです」
「卑猥じゃと?そんな物をどうやって描けばよいのじゃ?」
「それは色々な題材や方法があると思います。狸吉が持ってきた絵もその一例でしょうね」
「ただ女の裸を描くだけではなく卑猥を表現しろと言うのか。何とも抽象的な注文じゃな」
困り顔の早乙女さんに僕は言った。
「そりゃそうですよ。江戸の昔、いえ、それ以前から卑猥は色々な形で絵にされてきましたが絶対の正解が無い物ですからね」
「ふむ。お主の言う通りなら面白い話じゃな。女の裸は絵の題材としては古今東西で使われて来ておるから絵画で出来る事はやり尽くされておる。それに対して卑猥の表現はまだまだ探求の余地があるのじゃな」
「その通りです、早乙女さん。別の父さんの真似をする必要はありません。あなたが思い付いた物を描いてくれればいいんです」
「なんじゃ、その口ぶりは?まるでわしが描く卑猥な絵画が必要な口ぶりじゃな」
早乙女さんがその幼い顔に猜疑心一杯の視線を込めると華城先輩が珈琲を一口すすってから
大きく息を吐きキッと早乙女さんを見据えた。
「ええ、私達は早乙女先輩が描いた卑猥な絵が必要なんです」
「お主らの夜の発奮材料にでもしたいのか?」
「違います!私達は今の世に文芸復興を成し遂げようと考えているんです」
「文芸復興じゃと、西洋のルネサンスをこの日本で実現しようと言うのか」
「はい、今の日本は昔の西洋の様に表現が厳しく規制されてしまっています。私達《S○X》はその事がこの国の為にならないと考えている団体で、その活動を通じて洋の東西を問わず卑猥な創造物を保護、そして制作していきたいと考えているんです」
「面白事を考えておるな。確かにわしも今の世の表現規制は面白くないと思っておったのじゃ。何かに付けて美しいだ、清廉だと、見た目綺麗な物ばかり求めておって肝心のその中身を知ろうとせんのは人の知性と感性を侮辱する行為と思っておったのだ」
「なら早乙女先輩も私達と志を同じくする人間と言う事でよろしいでしょうか。それならば先輩には卑猥な絵を描いていただいて、私達はそれを使って世の人に昔の様な艶と粋を思い出して貰う為の広報活動を行う、そういう役割分担にしたいのですが」
「・・・まるで悪魔の囁きじゃのう。わしに身を滅ぼせと言っている様にさえ聞こえる・・・しかし、その様な面白そうな事はとても参加せずには居られん。よかろう、わしがその卑猥とやらを絵にしてやろう」
僕と華城さんは目を合わせて笑顔を浮かべた。まさか本当にこんなに簡単に早乙女さんを仲間に出来るなんて思わなかった。これで活動の目処がついた、そう思っていたのだが意気軒昂だった早乙女さんがダイニングテーブルに頬杖を付いて大きく溜息をついた。
「早乙女さん、どうしたんですか?」
「卑猥とは何なのじゃ?」
「はあ?」
「お主が言った様にその描き方に絶対の正解が無いと言うのはいいのじゃ。それを模索するのが面白いのじゃからな。しかし、わしは卑猥という物を見た事が無い」
「なら僕の父さんの絵を見たらどうでしょう。足りなければ他にも資料を用意しますよ」
「バカモン!人様の絵を見てわしに卑猥を創造しろというのか。不調とは言え、そんな絵師の風上にもおけん事が出来るか。それにさっきも言ったが絵の題材をより深く掘り下げるには、それこそ人ならば腹を裂く程に、花を描くなら花びらの一枚一枚を剥がす様に、風景ならばその場所をヘトヘトになるまで歩き続ける程に観察が必要なのじゃ」
「自分の目で見ないとダメって事ですね」
「そう言う事じゃ。何ならお主たちがわしの目の前で卑猥な事をしてくれるのでも良いぞ」
「そんな事出来る訳ないでしょ。この幼女が!」
「だ、誰が幼女じゃ。お主は先輩を敬うという事を知らんのか」
「誰があんたみたいな変態幼女を敬うもんですか。よりによって私と狸吉がくんずほぐれつのズッコンバッコンで濡れ濡れでヌルヌルで汗まみれの汁まみれで揉んだり舐めたり咥えたりしゃぶったり後ろから前からで立ったり座ったり居間や台所や廊下や玄関や、まして庭でなんて考えられないわ」
「なんじゃ、その呪文は?」
「華城さん、落ち着いて下さい。考えられないと言いながら考えが駄々漏れです」
「駄々漏れですって。狸吉、だったら早く便所に行って処理して来なさい。先走りだけで着物がぐちゃぐちゃになるわよ」
「俺じゃねえ、アンタだ、アンタ」
「ま、まさか狸吉、私を便所扱いするつもりなの」
「するか!」
「なんじゃ、その様子では二人はまだ実際に卑猥な事を経験した事がない様じゃの」
「当たり前でしょ!私はそんなはしたない女じゃないわ」
「え、そうなんですか?」
「狸吉・・・あなたねぇ~」
「いや、だって、あんな事する位ですから、その・・・色々と経験済みなのかと」
「狸吉は私をそういう目で見ていたの。全くこれだから妄想が過ぎる童貞は扱いに困るのよ」
「そう言うお主は妄想が過ぎる処女の様じゃな」
僕は思わず早乙女さんの意見に無言で頷くが、それを見た華城さんは顔を赤くして僕を殺気を込めた刺す様な視線で睨み付けて来た。
「困ったの~、いくらわしが天才絵師とは言え題材の観察なしには絵は描けんぞ」
「う~ん・・・早乙女さんは他に描いてみたいと考えた事のある人物はいないんですか」
「そ、それは・・・おらん事はないが、そやつに絵画の題材になってくれとはとても言えん」
「誰なんですか?」
「そ、それは・・・」
「アンナでしょ」
「え!」
「う!」
「私は学園議会の仕事なんかでいつもアンナと一緒にいて、彼女の取り巻きの女学生を沢山見て来たけど、あなたの視線は一段と熱心だったものね」
「そっか、アンナさんか。それなら無理ないですよ」
「そうじゃろ、そう思うじゃろ。あれほどの素材はそうそうお目に掛かれんぞ。白銀の髪に白すぎる肌、それにふくよかながら大きくくびれた肉体は直に見たらさぞ創作意欲を掻き立ててくれるじゃろうな」
「う~ん・・・アンナね~、どうしたものかしら」
「まさか華城さん、アンナさんに絵の題材になってくれと頼むつもりじゃないでしょうね」
「なに!それは本当か。なら是非とも頼む」
「・・・アンナだったら、学園の芸術の発展の為とか言えば恥ずかしがりながらでも話を受けてくれるかもしれないけど私達は卑猥な絵を描いて欲しいのであって綺麗な絵は望んでないわ」
「しかし、アンナの親友であるお主が頼めば題材になってくれる可能性は大じゃ。あれほどの素材が手に届く所にありながら指を咥えて見ているだけなどという事は絵師として有り得ん」
「絵師としては楽しみな素材なのね。しかし、やっぱりどう考えてもアンナと卑猥は相入れないと思うのよ」
「そうですよ、アンナさんにそんな事が似合う筈がありません」
「しかし、このままではわしが卑猥とやらを理解出来ないままで終わってしまうぞ。一縷の望みという言葉もある位じゃ、一度わしにアンナを描かせてくれぬか」
「そうねえ・・・一縷の望みか。分かったわ、一度アンナに頼んでみる」
「ちょ、ちょっと華城さん」
「落ち着きなさい狸吉、私も別にアンナを裸にひん剥くつもりはないわ。早乙女先輩、アンナに絵の題材になって貰う様に頼んでみますが基本的には服を着たままでお願いしますね」
「なんじゃ、それではわしの創作意欲が掻き立てられんではないか」
「だから、私からアンナに題材になって貰う事を頼んで了解を得たら、早乙女先輩と二人になれるように手配します。そこから先は早乙女先輩がアンナに頼んで下さい」
「わかった、それでいい。一刻も早く頼むぞ」
「華城さん、僕はアンナさんをこんな絵画馬鹿の生贄にするのには反対です」
「落ち着きなさいって言ってるでしょ。私も親友のアンナをそんな風にしたいとは思ってないわ。これはあくまで早乙女先輩の不調脱出のきっかけ作りなのよ。だから納得して頂戴」
「は、はぁ・・・」
「ふふふ、念願のアンナ・錦ノ宮の絵が描ける。これだけでも今日ここに来た甲斐があったという物じゃ」
そして翌日。いつも通りの月曜日が始まった訳であるが華城さんがアンナさんに早乙女さんの絵の題材になる様に頼むかと思うと気もそぞろで朝の正門の掃除をしてても上の空といった感じだった。
「おはようございます狸吉さん。今日も良いお天気ですね」
「あ!アンナさん。おはようございます」
「どうされたんですの?なにか心ここに在らずといった感じですが」
「いや、別に・・・あ、そうだ。昨日の日曜日に学園近くのカフェに行って華城さんに珈琲とドーナツを御馳走したんですよ」
「本当ですか。なら今日からの学園議会は滞りなく仕事が進みますわね」
「僕もアンナさんのお役に立てて嬉しいですよ」
「・・・私の為だったのですか?私はてっきり・・・」
「は?」
「いえ、何でもございません。では今日もお仕事頑張って下さいね」
「はい、アンナさんもお気をつけて」
「お気をつけて?何の事ですの」
「あ。いや、こっちの事です」
「ふふ、おかしな狸吉さん。では失礼します」
ヤベーヤベー思わず考えてた事が口から漏れ出しちゃったよ。僕個人としては何としてもアンナさんの絵の題材化を防ぎたいが《S○X》の人間としては早乙女さんに不調から脱出して貰わないとならないし難しい所なんだよな。そうしていつも通りに仕事をこなしていくのだが、こんな日に限って仕事が多い。一刻も早く仕事を終えて学園議会本部へ行って様子を確認したいのに、結局その日は夕方まで手が空く事はなく、アンナさんがどうなったかを確認するのはは明日以降となってしまった。
そして翌・火曜日の朝。
「え、今日ですか」
「ええ、アンナも案外気安く引き受けてくれたわ」
「そんな・・・早乙女さんに任せたりしたらアンナさんがどうされてしまうか・・・」
「狸吉、それは要らぬ心配というものよ」
「何ですか。あの可憐なアンナさんがあんな絵画馬鹿と二人きりでいて無事であろう筈がありませんよ」
「私に言わせれば無事じゃない筈が無いわ。アンナは外見だけの女性じゃないのよ」
「そりゃ優しいし、気配りも出来る内面も素晴らしい女性ですけど」
「そうじゃなくて。アンナは学力も体力も最高なのよ。勉強の成績は学園最高だし運動に関しては、それこそ轟力先生にだって負けない程の運動能力の持ち主よ」
「ホントですか」
「ええ、その上、合気道なんかの武道の経験もあるから例え早乙女先輩が銃や大砲を持っていても負ける事はないわ」
「そこまで凄い人なんですか」
「まあ、ちょっと世間知らずな所があって口車には乗せられちゃいそうだけどね」
「それ、一番マズイじゃないですか」
「とにかく、今日の放課後は学園議会の仕事が無いからアンナは早乙女先輩が住んでいる学園の寄宿舎に行って絵を描いて貰う予定よ。まあ結果は見てのお楽しみと言った所かしら」
「せめて華城さんが立ち会う事は出来ないんですか」
「早乙女先輩にはアンナと二人きりにするって約束しちゃったしね。まあアンナも馬鹿じゃないから裸になったりはしないでしょ」
「だと良いんですけど」
「狸吉、あなたまさか・・・早乙女先輩から捗るオカズが手に入ると思ってないでしょうね」
「考えてません。そんな事、微塵も考えてません」
「どうだか・・・まあ、とにかく今日は様子見よ。狸吉も余計な事をしないで頂戴ね」
「・・・わかりました」
正門前の掃除をしている時に珍しく華城さんに話し掛けられと思ったら、その内容は僕が危惧していたアンナさんを早乙女さんの絵の題材にする事が決定した知らせだった。早乙女さんは伊達に学園の特待生の地位を獲得出来る人ではなく、その画力は世間でも広く知られ数々の美術展で職業絵師に交じって入賞を繰り返している画壇の期待の星なのである。彼女の絵の何枚かは学園内にも展示されており、僕もその絵を早乙女さんが描いた事を知らない時から足を止めて見入っていた。美しさと清涼感が同居した様な絵は最先端の洋館である学舎に相応しい物で、その絵があるだけで学内が格調高く、足さえ踏み入れられない様な気高さを演出してくれていた。この絵とアンナさん、その組み合わせなら僕は諸手を上げてアンナさんが絵の題材になる事を賛成しただろう。
しかし絵の作者である早乙女乙女に直に会って知ってしまうと、あの絵画に狂ったかの様な言動を目の当たりにしてしまうとアンナさんに良からぬ事が起こるのではないかと心配でならなかった。出来る事なら今からでもアンナさんに警告に行きたい程だ。しかし、その事は我が組織の長にして僕の弱みを握る《雪原の青》こと華城綾女の命令により厳しく禁じられてしまったのだ。 そうして眠れぬ夜を越え、開けての水曜日の放課後。僕は昨日と違い早めに仕事を終える事が出来たのでそそくさと学園議会本部へと足を運んだ。
「失礼します」
ノックの後の返事を聞いた僕は焦る気持ちを押さえて学園議会本部の部屋のドアを開ける。
「あら、狸吉さん」
「どうも・・・」
早速昨夜はおかしな事をされなかったかどうかを確認したかったのだが、同じく部屋にいた華城さんの視線が痛すぎて、どうにもうまく話を切り出せなかった。しかし、そんな僕を見かねたのだろうか?彼女はアンナさんに
「アンナ、あなたが見本になった早乙女先輩の絵を見せて貰ってもいいかしら」
「あ、綾女さん。男性のいる場所でその話はお止め下さい」
「いいじゃない。学園の芸術水準を上げる為の行動ですもの。みんな驚きはするだろうけど非難したりしないわ」
「しかし・・・お母様や生徒たちはともかく、やはり男性に見られるのは恥ずかしいですわ」
男性に見られるのが恥ずかしい・・・アンナさんの口からこぼれ出した言葉に僕は華城さんに気付かれない様に生唾を飲み込んだ。やはりあの早乙女乙女、アンナさんにあんな事やこんな事、あまつさえグチャグチャのネチョネチョのエロエロでたゆたゆのプリプリで出る所が出ちゃって引っ込む所が引っ込んじゃってるのに男性の体の一部が必要以上の飛び出しちゃう様な大きな声では言えない心の奥底にある闇の中の慟哭とも言える行為をこれでもか、これでもかと繰り返したのではあるまいな。だとすれば僕は奴を・・・殺る!
「狸吉さん、恐い顔をされてどうされましたの?」
「い、いや、何でも無いです」
「どうだか・・・少々身なりが綺麗になったからと言って心まで綺麗になった訳じゃなし奥間君もアンナの絵が見たいんじゃない」
「そ、そんな。絶対ダメですわ。狸吉さん、もしそういう機会があっても絶対に見ないで下さいね。約束ですよ、破ったら・・・絶交です」
銀髪に白い肌のアンナさんが頬を染めて僕に可愛らしくお願いをしてきた。普段から笑顔を絶やさない、そして芯の強さを発揮しているアンナさんが頬を赤く染めるとその白い肌と銀髪のせい頬の赤みが一段と目立って一層恥ずかしそうにしている様に見える。
「も、もちろんです。アンナさんが見るなと言うなら絶対見たりしません。約束します」
「本当ですか。ああ、やはり狸吉さんはお優しい方ですのね」
「そう・・・奥間君は見なくていいのね」
アンナさんを目の前にしながら《S○X》の会合の時の様な嗜虐的な笑みを浮かべる華城さん。しまった!これは罠だ。僕が昨夜の事を気にして学園議会本部を訪ねてくる事を想定して今の会話を前もって準備しておいたに違いない。くそっ!これじゃあ《S○X》の活動の時すら早乙女さん謹製のアンナさんの絵を見る事が出来ないじゃないか。
「それなら一安心ですわ。なにしろ今夜も早乙女先輩に絵の見本をする様に頼まれてますの」
「え、今晩もですか」
「ええ、私としては頑張って早乙女先輩の言われる様な仕草をしてみたのですが先輩はご満足いただけなかった様で、もう一日頼むと懇願されてしまって、つい・・・」
「アンナさん、無理する事ないんじゃないんですか」
「いいえ、乗りかかった舟ですもの。最後までやり遂げてみせますわ」
「そうよ奥間君。アンナ自身がそう言っているのだから、アレコレ言うのは止めましょう」
「はぁ・・・けど、本当に無理だと思ったら早乙女さんに無理だってハッキリ言って下さいね」
「お気遣いいただいて、ありがとうございます。その言葉が何よりの励みになりますわ。あと一回だけ頑張ってみます」
ああ、これで今夜も眠れないな。そんな事を思いながら宿舎に戻り一人ムカムカと良くない気分のまま夕飯を食べて布団に寝っ転がりながら本居さんに譲って貰った絵を見る。もちろん何度となく見た事がある絵なのだが、どれを見てもその題材になっている女性の顔がアンナさんに見えて来て、やりきれない気持ちになって来る。古来から人に自分の裸を描かせた女性はどんな気持だったんだろう?そしてそれを知った周囲の男達はどう思ったのだろう?辛く悲しい気持ち?嬉し恥ずかしな気持ち?それとも別なモノが芽生えちゃった?ただ、いずれにしても今迄通りと言う訳にはいかなかったのだろうな。女性が人前で肌を晒す事は女性にとって大きな心の負担になると父さんが言っていた。だからこそ男はそれを見られるのが嬉しいのだとも。女の負担が男の喜びに繋がるなんて何とも惨い話の様に思える。しかし男は、オスはそれを求めずにいられない。そういう繰り返しが人の歴史の根幹なのだから。
そんな哲学にも似た独り言をぶつぶつと誰に聞いて貰うでも無しに一人部屋で囁いていた時、宿舎のドアをノックする音がした。外はもう暗く、少なくとも用務員の仕事がある時間ではない。大抵の教師や職員達は既に帰っている筈だ。残業でもしていたのだろうか?僕は浴衣姿のままドアに近づき
「どなたですか?」
「開けなさい」
「こんな夜更けに誰ですか」
「開けなさい、さもないと茶箱の中身をバラすわよ」
ガチャ!
僕はドアの鍵を開けて華城さんを宿舎の中に招き入れる。
「どうしたんですか。こんな夜更けに」
そんな質問をすると
「ちょっと部屋を出ててくれるかしら」
華城さんは浴衣姿の僕の背中を押して僕を宿舎から追い出してしまった。
「ちょっと、華城さん」
「少しの間待ってなさい。すぐ済むから」
「すぐ済むって?」
その言葉には返答が無く、僕は止むなく宿舎のドアにもたれながら華城さんの用事が済むのを静かに待った。すると五分のしない内にドアが開かれ、中には黒装束の、それこそくの一を思わせる格好をした華城さんがいた。
「ど、どうしたんですか。その格好?」
「さあ、時間が無いわ。狸吉もこれに着替えなさい。急いでね」
そう言って僕に風呂敷包みを押し付けると華城さんは宿舎の外へ出て行ってしまった。一体何事だ?そう思いつつも華城さんに言われたとおりに風呂敷包みの服を取り出すと、それは彼女が着ていた黒装束と同じ物だった。これから泥棒にでも行くのだろか?そんな疑問を抱きつつ黒装束に着替え終わると外に入る華城さんに声を掛けた。
「なら急いで宿舎に鍵を掛けて。出掛けるわよ」
「こんな恰好でどこへ行くんですか?」
「学園の寄宿舎よ」
「それってまさか・・・」
「ええ、早乙女先輩の部屋を覗きに行くの」
「何でそんな事をするんですか」
「時間が無いわ。移動しながら話すから付いて来て」
そう言っていそいそと歩き出した華城さんに僕は付いて行き、裏門経由で学園の敷地内にある寄宿舎へと辿り着いた。学舎と同じレンガ造りで二階建ての建物、しかしその部屋の一つ一つが小さいせいだろうか窓の数が学舎より多い様に思える。そうして華城さんは学舎の北側に回り込むと窓から見つからない様に身を低くしながら喋り始めた。
「実は昨日の早乙女先輩の仕事ぶりなんだけど少し変なのよ」
「変?何かアンナさんに良からぬ事でもしたんですか」
「そうじゃないの。せっかくアンナが絵の題材として見本になってくれると言ったのに肝心の早乙女先輩がおかしいのよ」
「どう、おかしいんですか?」
「昨夜描いた絵を見せて貰ったのよ。木炭画だったのだけれど凄く細やかな絵でアンナの魅力を十分に表現出来ていた様に思うモノだったわ」
「それって・・・」
「安心しなさい。ちゃんと着物は着たままの絵だったから。あ、それともガッカリしちゃった」
「そ、そんな事ありませんよ」
「アンナ自身も自分の事を綺麗に描いて貰えて大喜びだったのだけど早乙女先輩が落ち込んだ様子でね。それこそ泣きつく様に今晩、もう一度だけ絵を描かせて欲しいとお願いしていたのよ」
「早乙女さんは、その絵に満足してなかったんですかね?」
「どうも、そうみたいなの。それで今晩の仕事ぶりが気になってね、こうして覗きに来たワケ」
「なるほど」
そうして辿り着いた寄宿舎北側の一番端の部屋の窓の下。華城さんは僕に無言で頭の上の窓を指さしてから体を起こし窓の隅から明かりが煌々と灯る部屋の中を除き始めた。僕は反対側の窓の隅から部屋の中を除くと、そこには椅子に腰かけジッとしているアンナさんと、それに向き合う様に大きな帳面に絵を描き込んでいる早乙女さんがいた。部屋の中は絵筆や油絵を描く道具が所狭しと散らばっており、アンナさんの座る椅子はとりあえず、それらの散らばった物を脇にどけて置いた物の様に見えた。
「だ~~~~~~~~~っ。駄目じゃ、描けん、どうしても描けん!」
突然窓の外にも聞こえてくる様な大声で叫びながら早乙女さんが大きな帳面を放り出した。それを見かねたアンナさんは椅子から立ち上がり早乙女さんを宥めるが、その声は彼女には届いていない様だった。困り顔のアンナさん、すると鬼気迫る表情で顔を上げた早乙女さんがアンナさんに向かって土下座をして何かを言っている。それを聞いたであろうアンナさんは顔を赤くして顔を左右にブンブンと激しく振りながら早乙女さんとの間に壁を作る様に両手を差し出していた。一体何を話しているのだろう?そんな問答が数分続いた後の事だった。アンナさんは力無く項垂れながら立ち上がり、赤い顔をしながら袴を脱ぎ始め、その真っ白で艶のある脚線美が露わなった。え!なにが起こっているんだ?と思った矢先、僕の目はいきなり視界を奪われたかと思ったら何やら力任せに窓の脇に追いやられ頭と言うか両眼を手で押さえら後頭部には何やら柔らかい物が当たったまま動けなくされてしまった。
「こっから先は男子禁制よ」
華城さんの声が頭の上から聞こえてきた。僕の両眼を押さえる力は緩む事なく、後頭部に当たる柔らかい物との密着感も衰えず・・・これって華城さんのオッパイだよね・・・どれほどの時間が過ぎたのだろうか。華城さんが僕の両眼から手を離したので、ゆっくりと立ち上がり華城さんの後ろから窓の中を見てみると真っ赤な顔をしたアンナさんが袴姿で立っていたのだが・・・その表情は赤面した顔に相応しくない冴えない物であった。一方、早乙女さんに目をやればアンナさん以上に冴えないどころか苦虫をつぶした様な顔をして、その足元には力任せにグシャグシャにされた大きな帳面が転がっていた。時が止まった様にその状態が続いていたが、早乙女さんがアンナさんに向かって腰を曲げて深々と頭を下げた。それに応える様にアンナさんも丁寧なお辞儀を返すが二人とも表情は曇ったままで、その空気を何も変えられないままにアンナさんそそくさと部屋を出て行ってしまった。
「ふぅ・・・駄目だったのかもしれないわね」
「どういう事ですか?」
「多分、アンナが早乙女先輩の満足出来る題材に成り得なかったって事よ。アンナは早乙女先輩の為に裸にまでなったのに」
「やっぱり、そこまでしちゃったんですか・・・けど早乙女先輩はそれでも満足出来なかったんですね」
「アンナでも満足出来ないなんて・・・どうすればいいのかしら」
その言葉を最後に僕たちは窓から離れ、元来た道を引き返し僕の宿舎まで戻ってきた。
「困りましたね。早乙女さんの不調は思った以上に深刻みたいですよ」
「ええ、アンナ以上の題材なんて有り得ないと思うのだけど、とにかく次の日曜日にでも早乙女先輩から話を聞きましょう。話はそれからよ」
「そうですね。それしかなさそうですね」
「じゃあ私は着替えるから、またちょっと部屋から出ててくれるかしら」
「わかりました」
「あ、狸吉。さっきみたいに覗いたら駄目よ。そんな事をしたら社会的に死ぬと思いなさい」
「華城さんを覗いたりしませんよ。そんな事したら社会的にも肉体的にも殺されそうです」
「分かってるじゃない」
「それにカーテンを閉めてドアに鍵を掛ければ覗かれたりしないですから安心して下さい」
「あら、狸吉の股間のツルハシで壁に穴を空ける可能性があるじゃない。そんなモノの襲われたらいくら私でも一溜りもないわ」
「どんな股間ですか」
「ドン!な股間よ」
「そんな股はねえ!」
そうして着替え終えた華城さんは風呂敷に黒装束をしまい僕の宿舎から出て行こうとする際、僕の分の黒装束は置いておくからきちんと手入れして閉まって置く様にと言い付けて行った。《S○X》の活動が本格化したら黒装束が必要な場面も数多くあるのだろう、そんな覚悟を決めながら僕は自分の部屋を見回すと田舎から持ってきた着物、学園で仕立てて貰った背広、本居さんに譲って貰った茶箱、そして黒装束。僕は自分がどんどん故郷の村の人間でなくなっている事に気が付いた。いつまでも子供のままではいられないんだ、そんな当たり前の事を思いながら僕は眠りに着く事にした。