下ネタという概念が存在しない退屈な文明開化 作:Z-Laugh
翌・火曜日、いつも通りの朝が来た。別に朝日が西から昇るでなし、地震や嵐が来た訳でもない。至って普通の朝が来たのだが朝の正門前の掃除をするのが物凄く気が重かった。アンナさんが何かおかしな事をして来ないだろうか?そう思い始めると布団から出るのさえ億劫になるが、そうも言っていられないと気を持ち直して起き上がりズボンとチョッキ、ワイシャツに蝶ネクタイを身に付け更に新しく買った黒の皮の鳥打帽子を被って正門掃除に出た。一人、また一人と女学生が登校してくる。朝の挨拶を何度となく、何十回として、ドンドンその数が増えていき最も多くの女学生が登校してくる時間になると、その中にアンナさんが現われた。僕はゴクリと喉を鳴らし手に持っていた竹ぼうきを握る手にも力が入り警戒をするがアンナさんは少し落ちんだ様な表情で拍子抜けするほど簡単な会釈をしただけで学内へと入って行った。ホッとした気持ち半分、拍子抜けした気持ちが半分で、とにかく無事にアンナさんとの今日の初対面を無事に済ませられた事を喜んだ。しかし、そんな安堵は昼前に呆気なくぶっ壊される。学舎内で小間使いをしている時に職員の人から理事長が呼んでいると声を掛けられ、すぐさま仕事を切り上げ理事長室に向かった。
コンコン!
「奥間です」
「どうぞ」
理事長室のドアをノックしてから理事長の返事を待って部屋に入ると、そこには大きな執務机に両肘をついて、その両手でまるで首だけでは支えきれない程に重たい悩みが入っている頭を支えている様なソフィア・錦ノ宮理事長がいた。
「あの、お呼び出そうで」
「ええ。狸吉君、そこに座ってくれる」
ソフィア理事長が目配せで僕を豪華な革張りの応接用の椅子に座る様に促して来た。こんな椅子初めて座るな、と少々おっかなびっくりで腰を下ろすと想像以上に柔らかい座面が、これまた想像以上に沈み込んで後ろにひっくり返る様に背もたれにもたれてしまった。そんな僕の正面にソフィア理事長が座ると僕に向かって
「狸吉君。昨日と一昨日、アンナが随分迷惑を掛けた様ね」
単刀直入に言ってきた。まさかこの場で理事長に向かって、お宅ではお嬢さんにどういう躾けをしているのですか!とか、教えるべき事を教えておかないとお嬢さんが道を踏み外してしまいますよ!とか文句を言う訳にもいかず、かと言って喜ぶ訳にもいかず曖昧な返事を返す。
「は、はい」
「学園内の卑猥な創作物の取り締まりをしている時から、ちょっと心配だったんだけどまさか、ここまで酷い状態だったとは思いもしなかったわ」
「僕も華城さんからアンナさんは学業成績が学園最高水準でとても聡明な方だと思っていましたので、卑猥と言うより性に関する知識の欠落ぶりには少し驚きました」
「昨夜、深刻そうな顔をして私に相談があるというから何事かと思えば、狸吉君との子供が出来てしまいそうだって聞かされて心臓が止まりそうになったわ」
「アンナさんからそんな事を聞かされたら驚かない人はいませんよ」
「まさか転んだ拍子に唇がぶつかっただけで子供が出来ると思うなんて・・・本当に親として申し開きも出来ないわ。ごめんなさいね」
「理事長が謝る事じゃありませんよ。頭を上げて下さい」
「ありがとう、そう言って貰えると助かるわ。しかし・・・どうしたものかしら」
「あの・・・それでアンナさんは理事長に僕と唇がぶつかって子供が出来そうだっていう以外に何か言っていたんですか?」
「子供が出来るのだから狸吉君と結婚しないといけないだとか、ボヤボヤしていると華城さんにあなたを取られてしまいそうだとか・・・その挙句に・・・」
「挙句に・・・」
「ごめんなさい。これはアンナの名誉の為に言えないわ。とにかくとても困った状態なのよ。主人にも相談したのだけれど、一人娘の事だからどうも考えが甘いみたいで、放っておいても大丈夫だって調子なのよ」
「それじゃあ困りますよ。アンナさんの今の状態を彼女自身にちゃんと理解させないと僕の身が危ないですし、何よりアンナさんの為になりません」
「それは分かっているのよ。このままでいいとは思ってないわ。だから口づけで子供が出来たりしない事はちゃんと昨夜理解させておいたのだけど・・・何と言うか、アンナの暴走ぶりを完全に止めるには至らなかったのよ」
「じゃあ注意してないと、なんかの形で爆発しちゃうかもしれませんね」
「私も出来るだけ注意はするけど、仕事の合間でどれだけ気を配れるか、正直かなり難しいのよ」
「となると、華城さんが頼りだな」
「そうね、彼女はアンナといつも一緒だから止め役になれる可能性が高いわ。しかし、あの子が本気で暴走してしまったら、ちょっとやそっとじゃ止められないから狸吉君も十分に注意してね」
「華城さんにはアンナさんを止める役、僕はアンナさんから出来るだけ逃げ回って、問題が起こらない様、最大限努力します」
「そうして頂戴。学園議会・議長で理事長の娘が問題を起こしたりしたら、この学園の評判は地に落ちるし、大事な息子さんを預からせていただいている爛子さんに何と言えばいいか」
いつも自信に満ちた態度のソフィア・錦ノ宮がガックリと項垂れている。こんなソフィア理事長見た事がない。こりゃ僕の身の安全もだけど学園の名誉も一緒に守らないとマズイな。問題が起こった時にソフィア理事長はともかく他の理事達が被害者の僕をトカゲのしっぽ切りみたいに斬り捨てかねないからな。何としてもアンナさんの暴走を未然に防がないと僕は童貞と仕事の両方を失ってしまう。
「あの~、とりあえずアンナさんに僕の宿舎への出入りをするのを禁止して貰えませんか」
「・・・そうね。当面、すぐ出来る対策はそれ位でしょうしね。分かったわ、放課後アンナにそう言っておくから」
「ありがとうございます。そうして貰えば僕の部屋が学園内での安全地帯になります」
そう言って僕は理事長室を出た。こりゃ本当に困った事になったぞ。用務員として学園内で仕事をしつつ、学園議会の卑猥取り締まりに協力して、《S○X》の活動をして、その上さらにアンナさんから逃げ回り、学園とアンナさんの名誉を守らなければならないなんて。よくまあこれだけチグハグな仕事が集まったもんだな。とてもじゃないが僕一人では完遂できないぞ。華城さんと一応、早乙女さんにも助けを求めておこう。本当なら轟力先生辺りにも助けを求めたい所だがアンナさんの暴走について、あちこちで喋る訳にはいかないしな。
そうして放課後、僕は自分から学園議会本部を訪ねる事が出来ずに既に済ませてしまった学内の掃き掃除をしながら学舎の二階の隅の窓を気にしていた。本当ならソフィア理事長からアンナさんの話があった事を華城さんに話しておきたいのだが万が一、華城さんと僕が二人きりでいる所をアンナさんに見られようものなら昼前の理事長の話の感じからして何が起こるか分かったものではない。実のところ、その話をする為に早乙女さんに立ち合って貰う事も考えたのだが彼女は現在、《S○X》の活動用の絵を制作中・・・というか卑猥と言う新しい絵の題材が見つかった喜びでアトリエである自分の部屋を出ようとしない。それに絵の制作は本居さんとその知人である職人達の都合を考えれば最優先にやらなければならない事であるのはハッキリしている。そうなると僕が学園内で華城さんに会うのは極めて難しい状態。それこそ例のカフェで会う位しか出来なさそうだ。
「狸吉さん」
「はい、あ!アンナさん」
学舎の二階の窓に気を取られ過ぎたのか、いつの間にか僕の後ろにアンナさんが立っていた。少し悲しそうな表情でうつむきながら上目遣いで僕を見ている。
「昨夜、お母様に私達の事を話したのですが・・・」
「ああ、そうらしいですね。昼前に理事長に呼ばれてお話を伺いました」
「そうでしたか。ならもうご存じなんですね・・・口づけで子供は出来ない事は」
「ええ」
「それについては私もホッとしてるんです。まだまだ学ぶ事が多い若輩な私達に子供を育てる事なんてどう考えても無理ですもの」
私達?今、私達って言った?なるほど理事長の言う通りだ。まだ勘違いと言うか暴走は完全に止まってないな。
「けど、それならこの気持ちは何なのでしょうか?狸吉さんの事を思うと体が熱くなって、こうして向かい合っていても狸吉さんの体の匂いと感触が恋しくて堪らないのです」
それは発情です!そうきっぱり言えたらどれだけ楽だろう。恋愛に関しては僕も初心者である事はアンナさんと一緒だが、今の彼女の気持ちは恋愛ではない。明らかに肉欲、性欲が暴走してしまっている状態だ。これは何とかしないと本当にマズイ事になるぞ。そう思った僕は敢えて危険地帯に足を踏み入れる様な事を言ってみた。
「アンナさんは僕の事が好きなんですか?」
「え!そ、それは・・・体がこうなるのは狸吉さんが恋しいからですから・・・好きですわ」
「いえ、体がどうこうじゃなくて心の問題としての話です」
「心の問題?」
「ええ、僕の事を夢に見るとか、僕の事を考えると何も手に付かないとか」
「それなら体が熱くて今日も授業中、気もそぞろでしたし、朝起きた時も《愛の滴》が溢れていましたわ」
ダメだこりゃ!僕への好意はあるのだろうがあくまでその前提が性欲ありきで、恋愛には程遠い。まるで雛鳥が生まれた直後に見たモノを親と思うのと同じで、たまたま最初に肉体的な接触をしたのが僕だったから僕と接触したいと思っているだけだ。そんな刷り込みと恋愛を一緒にしてしまうなんて一体どうすれば解かって貰えるんだ?
「アンナさんは僕が幸せになる事を何よりも優先する様な気持ちになった事がありますか?」
「・・・それは・・・申し訳ないのですが、ありませんわ」
「僕は勿論アンナさんが幸せになってくれればいいなとは思ってますが、その考えが何よりも優先する様な気持ではありません。それこそ、理事長やこの学園の職員・教員の方々、それに生徒達の幸せを願う気持ちとそれほど差はありません」
「そ、それは私も同じですわ」
「人に恋する気持ちって、そういうもんじゃないですかね。僕も恋愛経験が豊富な訳じゃありませんけど、ただただ好きだって言うのが恋愛じゃないと思うんです。自分の幸せもですが相手の幸せも同じ位に願える事が大事だと思うんですよ」
「なら・・・私の今の気持ちは何なのでしょうか?」
「そ、それは・・・僕には解かりませんよ。もっと自分で考えてみる必要があるんじゃないでしょうか」
「そうですわね・・・先程、お母様からも狸吉さんの宿舎への出入りをしてはいけないと言われたばかりですし、少し自分で考えてみます」
や、やった!完全に止められた訳じゃないが、すこし快方に向かうかもしれない。そんな予感がする会話だった。そうしてアンナさんは学舎の方へ、多分学園議会本部へ向かったのだろう。ホッと胸をなでおろし僕もその場を去ろうとすると何やら強い視線を感じた。視線のする方を見てみると、そこはさっきまで僕が気にしていた二階の隅の窓だった。華城さんが窓枠に両手を付いて身を乗り出しながらこちらを見ていたが、僕が視線に気が付くとすぐに部屋の中に入って窓を閉めてしまった。この様子じゃ華城さんも僕と学園内で会う事に慎重な様子だ。無理は出来ないなと思いつつ僕はその日の学園の仕事を終えた。
しかし僕の仕事の全てが終わった訳ではない。決して義務ではないんだけど僕は早乙女さんの絵の制作状況を知る為に彼女に会いに寄宿舎へ行った。もちろん女学校の寄宿舎は男子禁制で中になどは入れない。寄宿舎の入口で出入りを厳しく見張られている。だが逆に余人を寄せ付けない訳ではないので正面から面会を求めに行けば会う事は出来る。しかし女学校である時岡学園内にいる数少ない十代の男子が寄宿舎まで押し掛けたとあっては早乙女さんにとって迷惑な噂が立つとも限らない。そう考えると僕が単独で《S○X》の活動の一部である早乙女さんの絵の制作状況を知る方法は例のカフェに呼び出すか、華城さんとした様に夜の闇に紛れて寄宿舎の窓から話しかけるか、という二通りの方法しかない。常識として夜の闇に紛れるなんて方法は使いたくないのだが多分今頃、早乙女さんはノリノリで絵を描いていて部屋を出るのを凄く嫌がる、というか断ると思う。そうなると残る方法は夜の闇に紛れる方法だけである。僕は華城さんから貰った黒装束に身を包み寄宿舎の北側の一番端の部屋を誰にも見つからない様に尋ねた。
コツコツ!窓を指の関節で小さく叩き、中からの反応を窓下でしゃがんで待っていると窓に人影が現われ、窓からこぼれる明かりが少し弱くなった。僕は窓を見上げると窓が開いて中から・・・華城さんが現われた。あれ?と思って固まっていると華城さんは大きく溜息をついて僕を見下ろしながら
「なに?夜這い?」
「違いますよ」
「ならレイプ?ああ、レイプっていうのはイングリッシュで強姦の事よ」
「そんなイングリッシュは知りたくないです」
「レイプ魔・奥間狸吉。中々、斬新な響きね」
「嬉しくねえ!」
「ふふ、なら覗きかしら」
「まあ、そんなトコです」
「・・・絵の方は順調よ。ちょっと見てみる?」
「いいんですか」
「完成している物が三枚あるから見せてあげるわ。前屈みになること請け合いの傑作よ」
そう言って華城さんは一度窓際から離れると僕に絵を持ってきて見せてくれた・・・こりゃ凄い!僕も父さんからに色々な春画を見せて貰ったが、これ程の物はちょっと見た事が無い。油絵なのだが版画でする事を前提に描いてくれているのだろう。微妙な色合いを重ねた様な油絵独特モノではなく比較的、色の区別が付き易い浮世絵に近い感じの色付けで、そこに描かれている女性と男性の体はは洋画の様に緻密で正確に描かれていた。だが女性の乳房やお尻、男性のちん●等は誇張して描かれており浮世絵の様な遊び心がある絵だった。洋画と浮世絵の融合、そんな感じの絵で少し父さんの絵を彷彿とさせるがその技法は全然違う。父さんは浮世絵出身で、早乙女さんは洋画出身、その絵の技術の基礎をどこに持っているかの違いが明らかになった様な絵だった。
「凄いですね。さすが早乙女さんです」
「ええ、これなら私も納得の品質だわ。これが玄人の職人の手で大量に生産されるのかと思うと柄にもなくワクワクするわね」
「じゃあ、あと二枚はどれくらいで完成しそうなんですか?」
「明後日には完成するのではないかしら、それまでは出来るだけ絵の制作に集中させてあげたいから今日は夜食を差し入れに来たのよ」
「それで華城さんがここにいたんですね」
「そういう事。狸吉も大変ね、学内の用務員の仕事をしなければならないし、女学校の寄宿舎の覗きはしなくてはいけないし、アンナからも逃げ回らないといけないし」
「ホントですよ。今日の昼のソフィア理事長に呼ばれて話をしましたけど、まさかこんな事になるなんて思いもしませんでした」
「理事長は何て仰ってたの?」
「アンナさんの暴走を止めきれないから気を付けろって。それと僕からアンナさんの僕の部屋への出入りを禁止して欲しいとお願いして了解をいただきました」
「それはアンナから聞いているわ。凄く残念がってたわよ」
「アンナさんの暴走が明るみになったらあちこちに影響が出過ぎます。理事長もそれを凄く心配してましたし、それに友達である僕の母さんに言い訳できないって凄く辛そうでした」
「そうね。アンナは凄く目立つ立場の人間で、本人が凄く目立つ外見だから何かあれば、それこそアッという間に噂が広がってしまうのでしょうね」
「それだけは防がないと、下手すりゃ犠牲者の僕までトカゲのしっぽ切りで切り捨てられかねませんよ」
「臭いモノには蓋をしたがるのが大人ですものね。狸吉も大人になったら、その臭い液体をむやみにバラ撒かない様になるのかしら」
「過去も未来も現在もバラ撒いてなんていません」
「種なし?」
「違う!」
華城さんの下品な言葉につい声を荒げてしまい僕は自分で自分の口を塞ぎ、彼女は周囲に気付かれはしなかったかと辺りをキョロキョロと見回した。どうやら他の窓が開く様子も無くホッとしていたら早乙女さんが窓際までやって来た。
「綾女から聞いたが、アンナのお主の部屋への出入りを禁止させたそうじゃな」
「ええ、そうしないとマズイですからね」
「なんと言う馬鹿な事をしたのじゃ」
「何が馬鹿なんですか?」
「そんな事をしてしまってはワシがお主とアンナの合体を見る機会が無くなってしまうだろう。それでは更なる卑猥の表現が出来ないではないか」
「なに当然の様にガッカリして僕を批判してるんですか」
「当然に決まっておるだろう。新しい題材に新しい画法を掴み取ろうとしている今、少しでも多くの卑猥を見てみたいと思うのは当たり前じゃ」
「以前のアンナさんならともかく今の暴走状態じゃただの暴力で卑猥にはなりませんよ」
「いや、お主が部屋でアンナの襲われていた時なのじゃが、あの時のアンナはお主の言う通り常軌を逸しておったが、それ故に体中から卑猥が漏れ出しておったぞ。あれほどの素材、多分そうそうお目に掛かれんだろう」
確かにあの時にアンナさんは浮世絵などでは表現しきれない、それこそ草子の中だけの妄想を具現化した様な状態だった。あんなモノが最初に見た卑猥なら早乙女さんはこれから並大抵の卑猥では満足してくれない筈だ。早乙女さんは卑猥な絵、華城さんは下ネタ、アンナさんは性欲、不破さんは子作り、全くどいつもこいつも、おかしな方向に吹っ切れ過ぎだろ。その上、質が悪いのはこの四人の執着するモノが少しずつ重なっている事だ。全く方向性が違えば敵味方がハッキリするのに、こんな人間に囲まれては僕の《S○X》での活動は極めて難しい物になってしまう。しかし辞めようにも華城さんがそれこそ脅してでも辞めさせてくれないだろうし何より僕自身が活動を面白く思い始めてしまっている。
「早乙女先輩、先輩のご要望に応える見本は出来るだけ用意はさせて貰いますけど《S○X》の貴重な戦力である狸吉に余り無茶な事をさせないで下さいね」
「か、華城さん・・・」
華城さんが僕の事をここまで評価してくれていたなんて、
「今のアンナにかかったら狸吉なんて瞬殺です。それこそ好き放題に絞り取られてカラカラに干からびちゃいますよ」
「華城さん・・・」
華城さんが僕の事をこんな程度にしか評価してくれてなかったなんて、
「そうは言ってもの~、あれほどの素材はそうそうお目に掛かれんし、ワシらの年齢では遊郭などに見学に行く訳にもいくまい」
「そうですね。しかし後援者や本居さんの伝手で、そういう見本をやってくれる女性が見つかるかもしれませんし、あまりアンナを炊き付ける様な事はしないで下さいね」
「頼むぞ、ワシは絵画特待生という立場上、お主たち以上に《S○X》の活動がしにくいのじゃからな」
「わかりました。じゃあ早乙女先輩は当面、あと二枚絵を完成させてから彫り師刷り師の人達と打ち合わせに入って貰って、それが済んだらとりあえず狸吉が持っている資料で卑猥の知識を広げてて下さい」
「まあ、当分はそうするしか、ない様じゃな」
「じゃあ、話が決まったところで僕はそろそろ失礼しますね。」
「ええ、気を付けて。せっかくここまでお膳立てが出来たのだから、覗き程度で捕まったらダメよ」
華城さんの言葉に無言で頷いてから僕は自分の部屋へと戻って行った。
二日後。早乙女さんが五枚の絵を完成させて華城さんと連れ立って本居さんの所に行って、そのまま彫り師と刷り師の人達に会いに行き版画作成の打ち合わせが始まった。僕はその場に立ち会えなかったのだが華城さん曰く、華城さんと本居さんの仲裁が無ければ掴み合いの喧嘩になるのではないかという程に話に熱が帯び、まずは試作品を作ってみる事で一旦話がまとまった。しかし、驚くべき事に早乙女さんの絵を見た彫り師の人が僅か一週間で一枚目の絵の版木十一枚を彫り終え、その試し刷りを始めたそうだ。それを聞いた僕は二人をカフェに呼んで詳しくはな無しを聞かせて貰った。
「それで華城さん、どんな出来だったんですか?」
「凄いわよ。あれが試作品だって言うんだから、さすがは玄人と言った感じね」
「全くじゃ。ワシは洋画ばかりを描いておったせいで日本の版画については通り一遍の事しか知らんかったのじゃが、あれ程のまでに多彩な表現が出来るとは思いもしなかったぞ。あれならば十三色と言わず、色の選び方次第では二十色くらいまで行けるかも知れん」
「二十色!そんな事が出来るんですか?十三色が人の手の限界と言われているのに」
「狸吉、早乙女先輩が言っているのは版画の技法の一つである『ぼかし』の事なの。純粋の二十色を使う訳ではないわ」
ぼかし。版画のいい所は同じ絵を沢山制作できる事であるが反面、色合いに限界があり、また微妙な色の変化を表現する事が出来ず、色と色の境目の所がそれこそ線引きした様にくっきり別れ平べったい印象の絵になってしまうのが欠点だ。それに対して油絵は微妙な色合いを出せるので極めて立体的な印象を与える事が出来るのだが反面、大量生産には向かないのである。日本の版画と西洋の油絵は真逆の性質を持っていると言える。しかし、日本の版画職人は版画でより立体的かつ色が少しずつ変化していく微妙な色合いを用いた絵を制作する事を諦めなかった。そこで考案された技法が『ぼかし』なのである。本来、版画では薄い桃色が徐々に濃くなって赤色になると言った微妙な色の変化を出すには数枚の版木を作って、それぞれに変化していく色の染料を置いて絵を刷るのだが、『ぼかし』は絵が刷り上がった直後、染料が乾かない内に色と色の境目に水を垂らしたり、染料のついていない水だけをつけた筆などで境目をなぞって染料を敢えてにじませる。その事で微妙な色の変化を付けるのである。むろん素人がこんな事をすると染料がにじみ過ぎたり均等ににじまずに、絵が台無しになってしまうのだが、腕利きの職人がそれをすると色の微妙な変化が絵の出来を一層素晴らしい物にしてくれる高等技術なのだ。
「うむ。ぼかしの事を知らんかったせいで彫り師と刷り師の連中には悪い事を言ってしまった。今度ばかりはワシの失敗じゃな」
「早乙女先輩、それについては本居さんも職人さん達も納得して下さってましたから、もう、いいじゃありませんか」
「華城さん、早乙女さん。その試作品は持って帰って来なかったんですか?僕も見てみたいですよ」
「試作品など大勢の人間に見せるモノではないわ。もう少し待っておれ、あと二・三回試し刷りをしたら本番じゃから明後日には完成の予定じゃ」
「そうよ狸吉。それまでは今まで通り本番を想像しながら自分で試しズリしてなさい」
「ナニ話をすり替えてんですか」
「あながち間違いじゃないでしょ。ハッキリ言って私が今までバラ撒いて来たものとは一線を画するズリネタよ」
「だから、ソレ前提で話をするな」
「狸吉こそ何を言っているの。私達の目的は卑猥な知識の流布、その為には何も知らない人達が自分の中にムラムラした気持ちを感じて貰わないと駄目なの。すなわちズリネタにして貰う事が前提なのよ」
「・・・そりゃ、そうかもしれませんが」
「老若男女問わず股間を熱くして貰うわよ。早乙女先輩が描いた五枚の絵、全てが版画になって、それぞれ三百枚ずつ刷り終わったら、うち百枚ずつは後援者・本居さん・職人さんの手に渡って残りの合計千枚を活動に使う予定よ。あの絵なら絶対、後援者を増やす事も卑猥に興味を持ってくれる人を増やす事が出来るわ」
「ワシも版画の完成が待ち遠しいのじゃ。それを見て今後の制作をより充実したモノにしたいからのう」
「じゃあ一枚目の絵の版画が完成するのは週末ってところですかね」
「そうなるわね。あと四枚の絵については一枚目の版画が完成したら一斉に他の職人さん達が執りかかってくれるから、それほど時間は掛からない筈よ」
「本当に工房化しちゃましたね」
「ええ、このまま順調に卑猥な絵を作る工房が出来上がるとなると次の心配もしなくちゃいけないわね」
「次の心配?」
「ええ、大量の版画を刷るには大量の版木を始めとする多くの画材が必要になってくるわ。それをどうやって保管していくか。それと大量に紙を仕入れる伝手も考えないと官憲に気付かれてしまう」
「かなり大掛かりになって来ましたもんね。官憲も馬鹿じゃないでしょうから大量の紙をどこで入手したかを調べ始めるのは目に見えてますし、版画の職人さんを訪ねて歩く事くらいするでしょうしね」
「この調子じゃ、いずれは工房用に一軒家を数軒借りないと駄目かもしれないわね」
「そこまでやるんですか」
「規模が大きくなれば当然よ。後援者が増加すれば、それに比例して活動資金もたくさん集まる様になるから、それも可能になる筈よ」
「そうなると直接、世間に活動を仕掛ける人間とは別に制作環境を管理する人間も必要になって来ますね」
「そうね。今はその役割を本居さんに頼んでいるけど、いつまで続けて貰えるかは本居さん次第だし、出来る事なら《S○X》の正式な構成員を増やす形で管理業務担当者を作りたい所ね」
「本当に。活動が大きくなれば、やる事が増えるもんなんですね」
「卑猥な文芸復興運動と言えど社会活動に変わりはないわ。それこそ商売を立ち上げるのとそう変わらないのでしょうね」
「制作、広報、予算管理、設備投資、人事運営、外部交渉、確かにそれほど差はないですね」
「これからは私達のやる気だけじゃなくて経営能力も問われるから、狸吉にはしっかり働いて貰うわよ」
「僕は何をすればいいんですか?」
「・・・決まってるでしょ。全部よ全部、私と一緒に全部の仕事に関わって貰うから、そのつもりでいなさい」
華城さんは呆れながら僕から顔を逸らし腕組みをすると、何故かそれを見ていた早乙女さんがニヤニヤと笑っていた。