乍枝「今日の授業はここまでです」
やー授業が終わった終わった、今日も一日ご苦労さんだぜ。さあて帰るかな!皆と同じように帰り支度をしているアタシの傍に、何気なく隣の席からシロが声をかけてきた。
シロ「帰りに本屋に行きたいんだけど、苺児も一緒に行く?」
イチコ『いいね~いくいく!アタシ今週号まだ読んでなかったんだあ』
シロ「今週号…少年漫画?」
イチコ『ご名答~、あの雑誌は小学生向けなんだけど、まだ気になる連載が色々と残っててさ。だから気付いた時立ち読みしてんだ。…解り易い?』
シロ「うん。でもらしいかな」
アタシより先に帰り支度を済ませたシロは、鞄を両手持ちしてブラブラ揺らしながら待ち侘びているようだった。そして準備完了!さあ帰るかというその時、手前の席の男子生徒が乍枝先生に呼び止められているのに気付いた。
乍枝「ちょっと待ちなさい森山君。キミは居残りです!前回のテストの結果を見れば理由は言わずとも解るでしょう」
森山「は、はい…」
イチコ『ははっ、森山も災難だったねえ。んじゃお先~っ!』
乍枝「何を他人事のように言っているのです。あなたもですよ、清唯さん!」
イチコ『…マジですか…』
ガクリと項垂れたアタシの肩をシロの手がぽん、と叩いた。少し呆れたような視線を向けられているように感じられる…トホホ、不甲斐無い。
シロ「頑張って。本屋はまた今度ね」
イチコ『ああ、…まあアタシの事は気にせず先に帰ってくれ。んじゃまた明日な!』
生暖かな反応のシロが教室を去るのを見届けると、さてどうしたものかと考え込む素振りだけして椅子に腰掛けた。すると、手前の席に座る森山が暗そうに俯いているので、アタシは後ろからニュッと身体を伸ばし顔を覗かせてみた。視線が合うと、森山は微笑む。
森山「キミは相変わらず元気ですね…」
イチコ『まあな、居残り位で落ち込む程ヤワじゃないっつーかな。いやあ、実は前の学校でもアタシは居残りの常連だったんだよ』
森山「それはタフ過ぎだよ。僕は居残りの回数が増える度に自分の未来について考えてしまう。そして、その度にもっと勉強しようと考えてはいるんだが…」
そう言い終えると森山は考えるように俯きがちに黙ってしまった。要するに奴の現在の生活環境には勉強が出来ないような理由があるんだろう。だがあまり深い身の上話を聞き込むのも何なのでアタシは話題を軽く逸らす。
イチコ『まっ。今は勉強が出来なくても、どーせ人生長いんだ。これから出来る時にやりゃいいんじゃないか?今はそういうターンじゃないって事で妥協するのも大事だろ』
森山「君には転校初日から驚かされてばかりだな。その性格、羨ましい位だ」
気付いたら教室はガランとしており、居残った生徒はアタシと森山の二人だけになる。この学校は意外と勉強の出来る生徒が多いんだろうなぁ、以前のクラスでは5人は居たんだが。シシオ先輩や鰯先輩がクラスメイトなら居残りももちっと賑やかになりそーなんだけどなぁ。そんな事を考えていたら、扉がガラッと開く。おお、プリント片手に乍枝先生が出動だ。
乍枝「今から45分以内にこのテキストを全て仕上げなさい。残りの15分は採点時間です。いいですね、時間厳守ですよ。白紙も許しません。そしてズルをしないよーに私がしっかり監視しますからネ!」
パンと片手でテキストを叩いてそう言い放てば、先生はそれをアタシ達の席にスパーンと叩くようにして乗せた。授業の時とは違って随分と威圧的だなぁ、おい。居残りの世話を見るのなんて、私のやっすーいお給料には含まれていません!とでも言いたがっているように見えてしまい、プッと笑ってしまう。
乍枝「清唯さん、何か…?」
イチコ『い、いやその、ただの思い出し笑いです』
乍枝「居残りだなんて笑い事じゃないというのに、…では開始なさい!」
まるで試験勉強だな。アタシは適当に目を通して解る箇所だけ書き殴り始めた。だけど直ぐに解らない箇所だらけになっちまって、ポカンと途方に暮れる。いやあ、もっと勉強すべきだっつーのは解っているんだがなぁ。手前に居る森山は真剣にテキストに向かって鉛筆を滑らせていた。奴は一生懸命やっている、それだけは背中越しにも伝わった。
乍枝「手を止めずに聞きなさい。アナタ達は赤点続きだけど、ちゃんと自宅で勉強をしているの?遊び歩いてばかりいるとろくな大人になりません。今は1年生だからいいと考えるのは間違いですからね、今後はちゃんと自宅で予習復習をするように!」
イチコ『はあい』
森山はただ黙った様子で用紙に向かって鉛筆を走らせている。その様子から先生のお説教を耳にするのはあまり慣れていないのが解った。アタシはあまり森山と仲が良い訳ではないが、見た感じから成績が悪い生徒という感じがしないので、なんか訳ありなんだろうなーとは薄々感付いていたんだ。
カリカリ、カリカリ…
カリカリという鉛筆を走らせる音だけが響く教室は…ね、眠い。開始から20分が過ぎようとした時だった。森山の鞄からメールの着信音が響き、アタシは眠りそうになるのをハッとし改めた。そのチロリーンという音に、慌ててスマホを手に取った森山に対し、乍枝先生が注意をする。
乍枝「こら!スマホの電源は授業中、勿論居残りの時も常にオフにしていなさいと言っている筈よ!…ああ、だから私は教育委員会でも常に持ち込み禁止にすべきだと言っているのに、何故適応されないのかしら!」
イチコ『へえ森山スマホ持ってるんだ、羨ましい限り』
乍枝「そこ、私語は慎むっ!」
やれやれと再び用紙を眺めて苦悩する時間を続けようとするアタシだが、それまで静かに続けていた筈の森山が突然椅子を引いて立ち上がるので驚いて顔を上げる。なんだなんだと様子を伺っていると、森山は乍枝先生の前に歩み寄り、言った。
森山「乍枝先生!今、弟からメールが届いて…どうやら母の身体の調子が悪いみたいなんです。あの、半分は書き終えましたから…どうか帰らせて頂けませんかっ」
真剣な顔付きで言い寄る森山に対して、乍枝先生の反応は薄かった。
乍枝「…本当に母親の調子が悪いのかしら。先生は一度もキミの保護者側からそんな事は耳にしていませんよ。…森山君、居残りが嫌だからって弟にメールを送らせてズルしようとしていませんか?」
森山「ほ、本当です!信じてください先生っ」
イチコ『いやいや先生…アタシなら兎も角、森山はそんなキャラじゃないでしょ』
乍枝「アナタは黙ってなさい、清唯さん。証拠がなければ帰す訳にはいきません。…これは意地悪でも何でもありませんよ、教師としての正しい意見ですからネ」
この先生は、本当にこういう箇所がおかしいよなぁ。何をそんなにお固く真剣になってやがるんだか…呆れた様子でアタシは先生から視線を逸らすと、森山の様子を伺う。森山はただ黙り込むと何事もなかった様子で席に戻った。アタシは先生の目を盗んで身を乗り出す。
イチコ『おい森山、本当に良いのか?もっと食い付かないとあの先生にゃ勝てないぜ…』
そんなアタシの発言に対しても森山は黙り込んだままだった。だからアタシは仕方なしと着席して用紙とにらめっこを始めた。内心、奴のメールの出来事が気になって仕方なかったが、アタシは奴の家族でも本人でもない。だからこれ以上の深入りは出来ないんだ。
森山「…っ」
不意に鉛筆の書き殴る音が静まり、アタシは視線を再度森山に向ける。すると奴の片手にスマホがある事に気付いた。奴はおよそ先程からそれを強く片手で握り締めながら、片手でプリントを書いていたんだろう。肩も震えている…泣いてんのか?そんな時、扉が開く。おや、体育の先生じゃんか。
「乍枝先生、教頭先生がお呼びです」
乍枝「ええ解りました、今向かいます。…キミ達、先生が監視していない間も逃げずに続けるのよ。嫌だからと言って逃げ出すような卑怯な真似だけは、例え子供だからといってしないようにネ!」
言いたい事をしっかり言い終えると、乍枝先生は教室から出た。アタシは握り締めた鉛筆をポイッと机に放り捨てると背凭れに深く寄りかかってひと息付く。が…リラックスする前に、森山だ。アタシは奴の傍に歩み寄ると、悔しそうに顔を歪めた奴が俯いているのに気付く。
森山「僕は信じられない。まさか乍枝先生がこんな事を言う人だったなんて…」
イチコ『まあ…居残りする生徒は先生にとっちゃ面倒な問題児扱いだからな、そら普段より風当たりも厳しくなるだろ。それより森山…母ちゃん大丈夫なのかよ?』
隣の机に座るアタシに視線を向けた森山だが…おい、目が赤いぞ。やっぱり泣いてやがったの、我慢してたのか。
森山「母は元々が身体が弱いんだけど、最近は特に具合が優れないんだ。うちは夫婦共働きだから、そんな母も仕事を休んだら家族全員が生きていけなくてね」
イチコ『やっぱそうか…』
森山「もし母が倒れたら弟にメールしろと言ってた。それなのに、兄の僕は勉強に手もつかず居残りされ、しかも先生には信用されないような駄目な生徒になってしまった。…でも、もう直ぐでそれも終わる…あと20分、我慢すれば…」
イチコ『お前、本当にそれでいいの?』
アタシは隣の席の机の上から飛び降りると、奴の前に立つ。
イチコ『母親の事が心配で、弟の事が心配で今すぐにでも二人の傍に駆け出したいってのに…そんなに学校の居残りが大事なのか?』
森山「ああ、ああ、僕だって今すぐにでも走りたいさ!だけど居残りから抜け出したら先生の言う卑怯者になっちまうじゃないか!学校でも何て言われるか解ったモンじゃないっ」
イチコ『まるで居残りから抜け出したら人生が終わるみたいな言い方だな。…アタシなら行くぜ。家族の命より大事な行事、…そんなもんあってたまるか』
こういう話を耳にする度に思い出すのは亡くなった母親の事ばかり。だけどアタシは母親を思い出すのが嫌な訳じゃないし、寧ろアタシ以外の奴には母親をちゃんと大事にして欲しい。だからアタシはお節介かも知れないが、奴を後押しをし続けた。他所の家庭に口出しするのは間違っているという矛盾を抱えながらも、…それでもそんな自分を貫く。
森山「そうだよな。…実はな清唯、電源を切ってても僕には解っちまうんだ。もう、ここには既に何通かメールが届いていて、弟が応答しない僕を不安がっているって。だから行くよ…僕も僕の家族を守る為に」
そう言い終えるや否や、森山は立ち上がった。アタシは頷くと鞄を肩に引っ掛け、開け放たれていた窓から先に飛び出す。因みに1年生の教室は1Fなので飛び降りても問題ないぞ。
イチコ『そうと決まればエスケープだな!よし、手伝うよ』
森山「え?窓から?君は上履きで学校から出るツモリなのかい?」
イチコ『違うよ。廊下を出て下駄箱まで歩いたら、傍に職員室があるから危険じゃないか。校庭から下駄箱まで走って、靴を頂いたら校門から出るんだよ』
森山「君は脱出に慣れてそうだね、頼もしい限りだ」
そう言う割には森山はアタシより身軽に窓から飛び出し、下駄箱への道も先を走り始める。何だかんだ言って男子生徒ってこうだよな、等と思いながら走り続けてればもう下駄箱だ。やれやれ、後で上履きも雑巾で拭いておいてやるとしようかね。だけど、靴箱から靴を取り出した時、廊下側から先生の声が聞こえた。なにやら騒がしいぞ。
イチコ『やべえ、先生が気付いたみたいだ。ほら早く行け、後はアタシに任せろ』
森山「ありがとう清唯!」
そう言って駆け出した森山の顔は、何だかまるで別人のように輝いていた。人間やっぱりやりたい事を我慢せずに素直に貫く事が一番だなぁと思っている矢先、アタシの背後に黒い影が落ちる。振り向くと、鬼のような形相の乍枝先生がアタシを問答無用に睨みつけていた。
乍枝「清唯さん、見付けたわよ。こんな所で何をしているの!」
イチコ『いやあそのう、教室の外の空気が吸いたくて気分転換にちょっとだけ…』
乍枝「まるでサラリーマンみたいな言い訳ね、早くお戻りなさいっ!!森山君はどうしたの、一緒じゃないの?隠したら貴方も同罪とみなしますよ」
イチコ『同罪?随分な物言いなんだね』
アタシはそう言い残すとプンプンし続けている乍枝先生を無視して教室に戻り、居残りを無事に終えた。結果はまあ、ぼちぼちって所か。居残りしてっと多少は点数が伸びて、難しい問題も静かに集中して考えれば答えが浮かび上がる時もあるんだ。だが、逆に騒々しかったり他所に気を取られていると集中出来なくなる。生活環境…それなんだな、と、アタシは思いながら下駄箱で靴を履き替えていた。やばいな、すっかり外は真っ暗だぞ。
イチコ『アタシが補習だって連絡したら、たまには俺が飯作ってやる!とか父さん張り切ってたけど、大丈夫かなぁ…逆に心配だぜ』
「おっ、清唯じゃねえか!」
何とも清々しいその声は、人気の少ない校舎内に大きく響いた。あの人だろうと振り向けば、そこには声の主である獅子男先輩と、シロの兄貴の刻先輩が居た。おいおい珍しいツーショットだなぁ、アタシは少し驚いた様子でジロジロと二人の事を交互に見遣る。
獅子男「こんな遅い時間まで、校内で何やってやがったんだ?不良娘~」
イチコ『い、いやその…止めてよ不良娘とか。…恒例行事のアレだよ、アレ…』
流石に成績優秀と謳われた刻先輩の前で、居残りとか言い辛い。さり気なく暈したツモリだが、獅子男先輩はハッハッハと大声で笑い、刻先輩の肩をバンバン叩き始めた。刻先輩は何度か受け入れはしたものの、途中で獅子男先輩から離れて回避していた。
獅子男「ハッハッハ、何を気取ってんだよ!らしくねえなあ~」
刻「…学校で問題を起こしては、喧嘩ばかりしているからそうなるんだ。自宅で一日の授業の予習復習位はしておけ、さもなくばこの男のようにテストの前日に一夜漬けするような人間になるぞ」
獅子男「へっ、随分な言いようだな。だが、侭田の言う事は間違っちゃいねえぞ!あんまり居残りばっかしてちゃあ駄目だぜ、清唯」
イチコ『は、はあい。…ったく、面倒な先輩方に捕まっちまったぜ。つーかおたくらこそ何でこんな時間まで残ってるのさ、…もしかしたらアタシと同じで居残りでもしてたんじゃないのお?』
茶化すような発言に対しても二人は全く揺るぐ事もなく、逆にさり気なくアタシの事を笑っているようにも見える。嫌な所でグルになってんなーこの二人。
獅子男「部活動の主将同士での集まりがあってだなあ、今丁度それが終った所だ。お前と一緒にして貰っちゃ困るぜ」
イチコ『ぐっ、これだから上級生は可愛げないんだよなー』
刻「家まで送ってやる。こんな時間に女子生徒を一人歩きさせる訳にはいかんからな」
反対側の下駄箱で靴を履き替え始めた刻先輩が、さり気なく話題をぶった切りながら優しい事を言ってきやがった!あまりの事に照れ臭くなって獅子男先輩を見ると、先輩もアタシを見ている。しかし、その視線は探るような感じで刻先輩の方へと向けられた。
獅子男「ほおお…そうきたか。流石は女子生徒人気ナンバーワンの侭田刻先輩ですなあ、女心をさり気なく掴んできよるわいっ」
刻「お前は反対方向だから送り届けられんだろう。俺は家が近いので仕方なくそう言ったまでだ。…それとも、俺はお前を送り届けた方がいいか?」
獅子男「がははっ!冗談言うない。幾ら方向音痴だからって自宅位は迷わず帰れらあ。つー訳だ清唯、こいつにちゃんと送り届けて貰えよ」
イチコ『あ、ああ…』
おいおい勝手に決められたぞ、アタシの発言権はなしかよ。まあ…確かにこうやって年上の先輩達に送り届けられるって話題が出るだけで、何となくだけど心が安心する。獅子男先輩も反対側の下駄箱から下駄を取り出し、腰を下ろしてのんびり足に嵌め始める。そして立ち上がるとアタシの傍に歩いて来た。
獅子男「一応先輩として警告しておくぜ。侭田には惚れんなよ!」
イチコ『はあ?』
刻「おい獅子男…」
獅子男「黙ってな。言っておく必要があると思ったから言ってんだ。お前には俺を止める権利はない筈だぜ」
刻「…、好きにしろ…」
溜め息を零した刻先輩は、聞き流すつもりなのか校庭に視線を向けた。
獅子男「こいつは今まで何人もの女子生徒を振っては泣かせている。俺の友達も何人か犠牲になっちまった。その度に、俺ぁ…なんてえか胸がギューッと締め付けられてな。お前が泣くのを俺は見たくねえんだよ。だから…解ったな清唯?」
突然何を言い出すんだこの獅子男先輩っつー男は。アタシは唖然とした様子で口を開いたまま、取り敢えず首を縦に振った。だが、流石に先輩のデリカシーのなさに少し苛立っちまったのか、次ぐ言葉の声のトーンが高くなっちまった。先輩の気持ちは解る、でも…。
イチコ『アタシ、色恋沙汰にはてんで興味がない。…獅子男先輩は心配性だな、アタシは喧嘩好きの暴れん坊、清唯苺児だぜ?普通の女の子みたく恋なんかするもんかよ…』
獅子男「ん……ああ。そう、だな。…ハッハッハ!悪い悪い、お前が侭田と一緒に帰るっつーから、ヤキモチ焼いちまってツイな。んじゃ、俺は先に行くぜ。またなっ」
カランコロンと軽快な音を響かせながら、獅子男先輩は夜の街へと駆けて行った。その場に残った刻先輩は一息ついて先を歩き始める。アタシは慌ててそれに続いた。全く…獅子男先輩の所為で気まずくなっちまったじゃねーか…ああ、照れ臭いなぁ。そう思いながら歩いていると、歩調を合わせてくれたのか刻先輩がアタシの隣に並ぶ。
イチコ『まったく。獅子男先輩、どーしちまったんだかなぁ』
刻「獅子男の親友が俺にラブレターを渡した時、俺はその女子生徒を完全に拒絶し後腐れも残さずに想いを断ち切った事がある。その時の事を未だに根に持っているんだ、奴は」
イチコ『獅子男先輩の気持ち…解るよ。だけどアタシは刻先輩が悪いとは思わない。何時までも振り向かない人を追いかける方が辛いよ。…そうだろ?』
ぴたりと刻先輩の足が止まり、アタシを見る。アタシは知っているんだ…幾ら大事なものでも、戻らないものは戻ってはこない。ならば潔く引いてみせる事もまた人生なんだって。痛い事だけどそういうの乗り越えるのも必要なんだと思っている。だからアタシは先輩の視線を真っ直ぐ受け止めた。すると先輩はフッと微笑し視線を逸らしてまた歩き始める。
刻「意外と不器用な奴だな、お前は」
イチコ『へ?アタシが…かよ。不器用なのは断ち切れない女々しさだろ、だから軟弱者がする恋なんかはしないっつってんのに、獅子男先輩ってば…』
面白くなさそうにぼやくアタシを他所に、刻先輩は何だか穏やかな笑みを浮かべている。アタシは当たり前すぎて気付かなかったけど、その時も青春という時計の針は動き続けていたんだ。何人もの人の想いによって、様々な方角へとそれはもう忙しなく…ね。そんな強い想いが光となり、人を突き動かす。
「おーい、清唯~っ!」
クラスメイトの声だと解ると、アタシは其方に視線を向けた。おっ、誰かと思えばさっきまで一緒に居残りしてた森山じゃねえか!森山はアタシを見つけると、嬉しそうな表情で手を振りながら駆け寄ってきた。
森山「君が居残り授業を抜け出させてくれたお陰で、母親を無事に病院まで送り届けられたよ。弟も不安で泣きそうだった…っていうか、僕の姿を見たらもう大泣きして大変だったけど。でも、最悪の涙を弟も僕も父も流さずに済んだのは本当に君のお陰だ。ありがとう!」
イチコ『そうかあ、母ちゃんも無事で何よりだなっ。これからも母ちゃんと弟を大事にしてやれよ?家族あってのお前なんだからさ』
全てが上手く運んで感無量だと胸を震わせているのも束の間。森山は幸福オーラいっぱいに上気した頬を晒していたが、突然驚いた様子になり表情が赤から白に変化した。おっ、刻先輩の存在に気付いたようだな。
森山「あ…もしかして侭田代のお兄さん?……こんばんは、先輩……」
刻「ああ、妹のクラスメイトか」
森山は複雑な表情で刻先輩を見ている。おいおい…先輩に対してちょっと高圧的過ぎやしないか?やっぱり刻先輩って女子生徒にはモテるが、反面男子生徒からは人気がないっつー事かね。その様子を見ていられなくなり、アタシは口を挟んだ。
イチコ『森山?どうしたんだよ』
森山「いや、別に。…それじゃあ僕はこれで」
やけにぴりぴりした感覚を残すと、森山は再び踵を返して走り出す。多分、時間帯的に自宅に戻るんだろうな。しかし流石だな刻先輩、あんな高圧的な後輩を見ても気分を害していない。こういう所だけは心が広いんだよ、この人。
刻「清唯、お前のお節介は相変わらずのようだな」
イチコ『放っておけないだろ。家族がピンチだったんだ…アタシは当然の事をしたまでさ』
刻「その熱意にどう相手が応えるかを想像した事はあるのか」
イチコ『…は?そりゃあ感謝とか…暖かな気持ちが世界に広がってだね…』
刻「奴が俺を敵視した理由を考えろ」
先輩が足を止めたと思えば、すぐ角を曲がればそこはもうアタシの家だった。刻先輩の発言の意味は解っていた。そんな時にも時折人が擦れ違い、アタシの心をぐちゃぐちゃと掻き乱す。夜の住宅街の電灯がチカチカと点滅して、芯のない心細さを加速させる。…アタシは、…アタシはそんな感情を芽生えさせる為に行動した訳じゃない。下心が含まれた善行だと言われたような気がして、急に気持ちが萎みだした。
刻「ただ、人を救う為だけの存在にでもなるつもりか?壊れるぞ、お前」
イチコ『アタシを壊そうとしているのは誰だと思ってる!刻先輩がそんな事を言わなけりゃ、アタシはアタシのままで居られる…それなのに痛みを与えているのは誰だよ!』
刻「痛みは人を正常に戻す為の拒否反応だ、だが壊れれば修復は難しい。俺はお前にそうはなって欲しくない。それもまた、お前の求める感謝や暖かな世界に通じるものだ」
そう言い残すと、刻先輩は去って行った。その後ろ姿を見て思う事がひとつある。アタシの周囲では確実に何かが変わろうとしているという事だ。只の喧嘩大好きな暴れん坊…それがアタシ、清唯苺児。だけど、沢山の人と触れ合う事は、アタシをただアタシとして存在させてはくれない。そう、…人は変わらなければならない。そういう事なんだ。