それから風呂に関しての文章も少し変更です(2016.6.5)
お風呂って中々難しい。
前世における、成人と見なされる20歳になる年の冬。
冬は作物を育てられないため、村で作った笠や草鞋、鹿や猪の皮を使った蓑や革袋。
それから庶民でも簡単に親しみを持てるようにと作った、竹の簡単な篠笛を都に売りに行き銭を得て、それで食糧や衣類などを買い、村に戻る。
丁度俺はその目的で、荷車を引いて都へと向かっていた。
「最近、やけに頭の左側に違和感があるんだよな……」
今にも雪の降りそうな暗い曇天の下。
村から都へと続く道を少し急ぎ足で歩を進めながら、俺は頭の違和感のする左耳の少し上の部分を触りつつそう呟いた。
一月ぐらい前から度々、ふとした瞬間にやたらむず痒さを覚える。しかも内側に。
こんな事は今世のこの体に生まれて、初めての事だった。
痛みがある訳じゃない。
だが脳に直接鳥の羽に撫でられたような感覚で、気持ち悪くて仕方がない。つい苦虫を噛み潰したような顔になる。
先日も、漸く上の姉に続いて下の姉が結婚を決めたと報告してきた時にその違和感が走り、顔を歪めてしまったもんだから危うく変な誤解をされかけた。全くもって迷惑だ。
ただ、この原因に特に思い当たる節がない。
最初は寝ている最中に寝返りを打ってどこかにぶつけたと考えはしたが、瘤もないし、姉たちに確認してもらったが痣もなかった。
今の所体調に変化はないが……何かの病気か?
しかしこの時代は病院がなければ医者もいない。都には陰陽師や呪術師がいるが、胡散臭いので訪ねに行く気も起きない。
「とりあえず、都に着いたら阿礼に相談してみるか……」
疑問の落とし所が一先ず着き、俺は腰に掛けてた竹筒を手に取って中の水を飲もうと顔を上げた。
「………ん?」
上を向いた瞬間に視界に映った、無数の白いそれ。
一つが鼻先に静かに落ち、仄かな冷たさを残し消える。
ついに降って来たか。
「雪が降る前に着ければ良かったんだがな……仕方ないか」
距離的には後数刻で着くだろうという所まで歩いて来たが、間に合わなかったようだ。
次第に本降りになるだろうと思い、俺は笠を被った……が、道端に生えていた枯れ木の根本にあった地蔵の存在に、俺は気付いてしまった。
「こんな所に地蔵があったか?」
最近作られたのか、それとも今まで気付いてなかっただけか。
これから雪は強くなるというのに、その地蔵は優しい笑顔を浮かべ、寂しくそこに鎮座していた。
笠と蓑をつけてやろうかと思った。
だが、運んでいる笠や蓑を、簡単に「はいどうぞ」とやる訳にはいかない。
冬は食糧が尽きれば終わりだ。飢えないように家族全員で作った物でこうして食糧を得ようと都に売りに向かっている。
俺の独断で、家族の食える飯が減るのはいただけない。冬はなるべく蓄えが欲しいのだ。
しかし、このまま何もしないのもアレだなと、俺の良心がそれを言っている。
……どうせ風邪なんて引いたことないしな。
地蔵の前に止まると、俺は自分の蓑と笠を外して、地蔵の身につけてやった。
これが昔話みたいに何個も並んでいるのであれば流石にスルーしたが。
あんな恩返しが本当にあるとは思っていない。あれはただの道徳を教えるため作り話だ。
これは、そう。
ただの気まぐれで、自己満足。
良いことをすれば晴れやかな気持ちにはなる。
人間は複雑なようで単純だ。
だから俺も、気分はいい。寒いが。
都の方で良いことがあるのを期待しよう。
早く阿礼の屋敷で暖かい飯が食いたいなぁ……。
寒さに震えつつ、雪がこれ以上強くなる前にと俺は、都へと急いだ。
都の方で良いことがあるのを期待しようとは言った。
だがそれは、小さなもので良かったんだ。
流石に限度というものがあると、俺は心の中で頬を引き攣らせざるを得なかった。
「貴殿の笛の音をとても気に入った。ぜひ、我が屋敷で演奏してもらいたい」
「えっと、私は小さな村のしがない農民で……その、貴方は」
「失敬。私は藤原不比等と言う。貴殿の名を聞いても良いか?」
「私は、柊と言います」
助けてくれ、阿礼。
何とか雪が本降りになる前に都に着いた俺は、早速品を売りに向かった。
持って来た品は全て売れ、米俵が2~3俵は買える程の金が手に入り俺は上機嫌に店を後にした。
その金で必要な諸々の物を買うと、一泊する予定の友人の阿礼の屋敷に一旦荷車を預けに行き、その後俺は大通りの店をぶらぶらし、一軒の茶屋へと入った。
甘味と熱いお茶を頼み、配膳されるまでの間に俺は笛の手入れをしていると、他の客が俺の笛を見て、俺に演奏出来るのかと尋ねてきた。
俺は頷くと、他の客達が期待の眼差しで、演奏をしてみてくれないかと俺に頼んだのだ。
娯楽の少ない時代。加えて楽器を嗜むのは貴族だけ。
今は俺が庶民向けに作った笛が都に流行しているため、庶民でも楽しむ事は出来るが、とても演奏とは言えない。
なので俺みたいに庶民でありながら、演奏出来ると自信満々に答える奴はそういない。
俺はそれを快く受け入れ、手入れを終えるとその辺にあった椀を前に置き、俺は目を閉じ、笛の音を震わせた。
最近作った、冬の静かな雪原の空虚な物悲しさをイメージした曲。
今回は甘味を頼んでいるので、少し短めにして演奏した。
演奏中に目を閉じるのは俺の癖だ。
笛を奏でる時に必要なのは聴覚と曲に対するイメージだけ。音に集中したいため、視覚を遮断した方がより演奏に没頭し、沈み込んでいく。
それに、演奏を終えた時に、目を開けた瞬間に飛び込んでくる観客の表情を見るのが俺の楽しみだった。
音が消え、笛から唇を離し会釈をした瞬間に沸き起こる拍手喝采。
目に涙を溜めて感動している者。
堪え切れず流して大きな拍手を送ってくれる者。
とても良かったと心のままに演奏を褒めてくれる者。
椀に、次々と入れられ溢れる程溜まっていた銭をしまい、代金は要らないと言って茶屋の娘さんが置いてくれた甘味に手をつけようとした所で、
「貴殿の笛の音をとても気に入った。ぜひ、我が屋敷で演奏してもらいたい」
と、耳触りのいい渋く低い声が俺へと掛かった。
「まあ、不比等殿に声を掛けられるとは。流石ですね、柊」
「一瞬俺の心臓が止まったがな」
俺の言葉に、阿礼はクスクスと口元を隠しながら上品に笑った。
茶屋での一件から、その日の夜。
俺は友人の阿礼の屋敷へと戻り、広過ぎる大広間で阿礼と二人夕食を取っていた。
稗田阿礼。
歴史上では『古事記』を編纂した人物。それ以外は特に知らない。
歴史で習った時はてっきり男だと思っていたが、本人を見て女だと知った時は酷く驚いた。
因みに俺の4つ年下で16歳だ。
阿礼が俺を呼び捨てなのは、阿礼の方が身分が上だから。
かと言って、俺が阿礼を呼び捨てなのは恩人だかららしい。
彼女と知り合ったのは5年前の冬。
今回と同じ様な目的で都に来ていた時に、通りの陰で体調を崩して動けなくなっていた所を偶々保護して屋敷に送り届けたのが切っ掛けだった。
阿礼は体が弱い。病弱だ。
だから余り外には出ないのだが、その時はふと散歩をしたくなったとかで外に出てそんな目に遭ったため、もし俺が見つけなかったら確実に死んでいたと、彼女と彼女の両親には恩人扱いされ、都に来た際はぜひ泊まっていってくれとこちらがドン引くぐらい感謝された。
だがその申し出は素直に嬉しかった。
都には大してツテもなかったため、基本的に都に行く間に野宿し、都に着いたら品を売って買い物をしてすぐに都を出てまた野宿し、村に戻るのが普通だった。
体力のある俺はその強行スケジュールがそれ程苦ではなかったが、野宿は余り好きではない。特に冬は辛い。
日が昇る頃に都を出られれば、夜には村に着ける。それだけで大分変わる。
以来、俺はそれに甘えて、都に来た際はこの屋敷で一泊してから村に帰るのが毎度の事となった。
しかし、毎度来る度に貴族しか食べられない茶碗一杯の混じりっ気ない米と豊富なお菜が食えるのは申し訳なかったので、俺はその度に笛を演奏した。
そして余計に気に入られ、来る度に屋敷に仕えないかと言われる。
良いのか悪いのか分からない循環が続くのだった。
「しかし、どうしよう。流石にこんな小汚い農民でしかない俺が、藤原家の屋敷に入るのはどうかと思うんだが」
「柊、自分で自分を小汚いなんて言わないで下さい。貴方は汚くありませんよ。寧ろ、他の農民たちより全然汗臭くないのが逆に気になります」
自虐的な言葉が癇に障ったのか、嗜めるような口調で阿礼は俺を睨む。
全然怖くないがな。そんな頬を膨らませてたら。
頼むからやめてくれ。潰して揶揄いたくなる衝動に駆られるだろ。
「村じゃ毎日ちゃんと垢や虱を落とす様にしているし、それに都に来る際は週に一度の村の風呂に入る日の翌日に合わせてるからな。本当は毎日入りたいんだが」
「……そんなに、その『風呂』というのは良いのですか? お湯に全身浸かるなんて贅沢、私たちだってできませんよ? 占いで入る日が決まりますし、せいぜい蒸し風呂で体を洗うぐらいです」
「俺は余り占いを気にしないからな。まあ蒸し風呂もあれはあれで良いものだけどな。それに俺の村は水源と燃料が豊富だから、準備さえ面倒臭がらなければ入るのは難しくない」
都では蒸し風呂、つまり前世でいうサウナで汗を流すのが一般的だ。
そもそも風呂文化が普及し出すのは確か江戸ぐらいからだったと思うから、あの村だけが異常なのだ。
というか俺がその根源である。
今では風呂専用の小屋が二つ、男女に別れて川の側に建ててある。
村民の間で風呂の人気に火がつき、余りにも取り合い状態で作った俺が入れなくなって俺がブチ切れて浴槽をぶっ壊すという事件が起きたので、村の皆で新しく作ったのだ。やっぱり独り占めは良くないな。
一度に10人が入れる程のでかい浴槽が出来たのを見た時はとても感動的だった。入る時は仕事を早めに切り上げて、ちゃんと皆で準備しているので一人ひとりの負担も少ない。
「私も、入ってみたいです」
「いや、都だと結構大変だと思うぞ。大量にお湯を用意しないといけないし。せめて、大きめの桶を用意してそこに湯を張って、体にお湯をかける程度にした方がいい」
「むぅ……そうですか。そうですね……」
「ああ。湯を体に掛けるだけでも、それだけで体に良い。体の弱い阿礼はその方が良いかもしれないな」
「そうなのですか……では、風呂に入る日が来たら、私の体を洗って貰えますか」
「ごふっ」
阿礼の突然の爆弾発言に驚き、飲み込もうとした水が鼻腔と気管に同時に入った。
最悪だ。
「げほっ、がほっ……ちょ、阿礼。げほっ、お前そんな事を冗談でも言うんじゃない」
「うふふ。すみません。お風呂に気軽に入れる柊に嫉妬したので、ちょっと揶揄ってみました」
「阿礼の冗談は質が悪い……はぁ」
貴族の前で溜息を吐くなど死刑ものだが、阿礼はそんな俺の様子を華やかに笑っていた。
そんな彼女の笑顔に、俺もつられて笑う。
いつの間にか随分話が逸れたな。
「で、話を戻すぞ」
「あ、はい。そうですね。ええと、柊が不比等殿の屋敷に向かう際の服装の事ですよね?」
「そうだよ。演奏するのは構わない。だがこんな格好は明らかに場違いだし、失礼だろ。それに藤原氏の屋敷なら文官とか士官の人間や囲っている女性たちが多い筈だ。そんな多くの人に白い眼で見られて笑い者になるのは御免だよ」
しかもあの人、去り際に「良い茶会の余興になりそうだ」と上機嫌に呟いていた。
下手をしたら、他の有力貴族が多く来るのかもしれない。
……考えただけで口から魂が抜けそうだ。
「柊の言い分はよく分かります。その気遣いができるのは素晴らしいですね。ですが、その件については既に解決策がありますよ?」
「えっ? 本当か?」
まさか、貴族の服を貸してくれるとか言わないよな?
けど、俺の背丈に合うものがあるのか?
「はい。今、それを用意しますね」
「……今?」
阿礼はそう言って微笑むと、パンパンッ、と手を2回叩いた。
音が広間に広がって響くと、少しの間の後に襖が開き、そこに使用人の女が3人、風呂敷の包みを持って現れた。
「例の物を、柊にお見せなさい」
「「「かしこまりました」」」
阿礼の命令に、使用人達は風呂敷の包みを開けて、それを俺の目の前に広げて見せた。
―――それは、この都における貴族の服装とは全く違う服装だった。
この時代には無い筈の、着物によく似た、一目で分かる程の上質な物だった。
「これは、唐の華服を元に私自らが、貴方を想像しながら意匠した衣服です。上は濡れ羽の羽織り、中は藍の直裾、帯は薄紅に金の文様。羽織りと直裾には柊の花の縫を施しました。全て絹です」
俺は阿礼がドヤ顔をしながら語る説明を、ポカンと口を開けた阿保面を浮かべて聞いていた。言葉が出ない。
それ程に、目の前の物が素晴らしく、美しかった。
「そしてこれを……柊へと贈ります」
「……は?」
思考が追い付かない。
頭の中で、阿礼の言葉が火花を散らして爆ぜていた。
これを、俺に?
「な、んで……」
「だって……明後日は柊の誕生日じゃないですか。これを用意するのに、半年近く掛かったんですからね? 私は、この衣服を纏う貴方の笛を演奏する姿が見たいのです」
それだけのために、これだけのものを用意したと言うのか?
「だ、だからってここまでの品は貰えぐっ!?」
そう叫ぼうとしたら、俺は阿礼の小さな掌に口を塞がれた。
目線を阿礼に合わせると、目の前の阿礼の表情は普段大人びて見せている淑やかな彼女ではなく、年相応な子どもっぽさを備えた少女のような不機嫌さを見せて、黙って受け取れと俺に訴えていた。
口を塞がれたまま俺は観念して、再度溜息を吐いた。阿礼は一転、嬉しそうに顔を綻ばせ、俺の口から手を離し両手を合わせると、可憐な笑みを浮かべて言った。
「では早速、柊にこの服を着せて差し上げなさい!」
「「「かしこまりました」」」
「……え?」
阿礼の言葉に使用人の一人は衣服を風呂敷に包み直し、もう二人はガシッと俺の両腕を取った。
そしてそのまま俺は引き摺られるように、使用人たちに大広間から連行されていった。
「あ、ちなみに明日の藤原氏の茶会には私と私の両親も呼ばれていますからね。最初は行きたくないと思ってましたけど……今ではとても、本当にとても楽しみにしています」
そんな彼女の嬉しそうな言葉を聞きながら。
数分程して、その衣服を着せられた俺は大広間に戻った。
俺を見て、阿礼は誰もが美惚れそうなほどうっとりとした表情を浮かべ瞳を潤ませながら、「完璧……完璧です、柊」と、うわ言の様に呟いていた。
そんな阿礼に、俺は苦笑いを浮かべざるを得なかった。
「阿礼」
「はい、なんでしょう?」
「……ありがとうな」
「ふふ、どういたしまして」
阿礼の心からの笑顔を見て、俺は明日の演奏を少し、楽しみに思えたのだった。
阿礼は友人だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
それ以上を、俺と阿礼は踏み込んではいけないし、望んではいけない。
俺は農民で、彼女は貴族。
お互いがどんな気持ちを抱いていようとも
二人の間には、身分という壁が存在する。
その壁は分厚く、強固で、高く。
だが俺たちに唯一許されていることは、
その壁にはほんの少しの亀裂が入ってできた小さな穴があり
その穴の両口から腕を入れて
届いた手と手を繋ぎ、絡ませ合う事だけ。
だから俺は、この家へ仕えることを拒む。
それを理解して、阿礼の両親も、俺に強くは勧めてこないのだろう。
俺にはそれが、とてもありがたかった。
こんなにも近くて遠い距離でも
俺はそれで良かった。
そう。
俺は、阿礼が好き。