東方今昔鬼物語   作:PureMellow

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震える心

 

 

 ―――広く美しく荘厳な、藤原氏の屋敷の大広間。

 

 その広間に設けられた舞台の上に、彼は上げられていた。

 

 その舞台の正面には私を含めた、彼よりも圧倒的な身分の貴族達が彼へと視線を向け、観察しながら、その演奏の時を待ち侘びている。

 

 彼は、この場の誰よりもその存在感を発していた。

 

 細身ながら高く、逞しい駆。

 鋭く、怖いようで優しさを宿した切れ長い眼。

 彼の着る羽織りの染め色の元にした、女性が嫉妬する程の美しい濡れ羽の、癖のある髪。

 

 そして、そもそもそれが彼のものであったかの様に、彼が着ている事こそ自然の摂理であるかの様に、私が贈った服を着こなし、彼が服の、服が彼の魅力を最大限に引き出していた。

 

 農民である事が、もはや嘘としか思えない、不思議な彼。

 貴族だったならば、不自由ない生活を送る事が出来ただろう。

 

 そんな彼は、普段の雰囲気からは想像できない程、その纏う空気を鋭く研ぎ澄ましている。

 背筋をピンと伸ばした凛とした佇まいで、舞台の上に腰を下ろしていた。

 

 さながら、完成された一つの芸術品。

 そんな彼に私は見惚れながら、同時に彼の異様さを再度肌に感じているのだ。

 

 確かに私の目の前にいるのは『柊』なのに。

 私の知っている『柊』じゃない。

 思わず不安になってしまう程、普段の『柊』の面影がない。

 

 はしたなくない様、目線だけで周りの様子を窺ってみる。

 

 ある者は、農民という身分で彼の全てを否定し、蔑んだ目で睨み。

 ある者は、あの不比等様に興味を持たれたという彼が、どんな演奏をするのかと興味の眼差しを向け。

 ある者は、彼のその潜在価値を見定めようと値踏みする様に、その一挙一動に注目する。

 女性達は、私と同じ様に『彼』の存在感に見惚れ、色のある目線を送っていた。

 

 彼は、気付いていないのだろうか。

 この沢山の視線に。興味に。色目に。

 ……いや、色目には気付いていて欲しくないのだけれど。

 

 兎も角そう思ってしまう程、彼は堂々としているのだ。

 その中心にいながら。

 農民である彼は一人、貴族だらけの空間にいながら。

 

 ……彼は本当に、何者なのだろう?

 

 一目で分かる。彼はこの空間の空気に飲まれていない。

 それどころか、逆だ。

 

 彼の持つ空気の方が、この空間を支配しようとしている。

 

 こんな傑物が、農民という地位に埋もれてしまっていいのだろうか。

 

 最後に、この茶会の主催者である不比等様の様子を見てみる。

 

 ――笑っていた。

 

 彼の余りの肝の据わりよう、圧倒的存在感に、面白い者を見つけたと口角を釣り上げて。

 無邪気に、けれど不敵に。

 

 そして、不比等様は口を開いた。

 

「では柊よ。お主の笛の音を聴かせてみよ」

 

 その言葉が広間に響いて少し間を置き、彼は目をゆっくりと開く。

 綺麗なお辞儀をしてから、またゆっくりと目を閉じ、笛を構えた。

 

 彼が目を閉じる前に、ふと、目が合った。

 

 そして、私は安心した。

 

 目の前にいるのは『柊』だと。

 

 彼がいつも笛を聴かせてくれる時に見せる、彼の優しい瞳が見えたから。

 

 つい安心してか、にやけてしまった。頬が緩んでしまった。

 周りに気付かれないよう平静を保ち、すぐ表情を引き締めたのだが、父様と母様には気付かれ、笑われてしまった。

 

 顔が火照るのが分かって、私は羞恥の余り俯く。

 ぅぅ……後で柊にはお説教です。

 

 心の中で彼を恨めしく思っていると、彼が息を吸う音が聞こえた。

 

 始まる、と思い顔を上げた刹那。

 

 

 

 呑まれ掛かってた会場の空気が、完全に彼に支配された。

 

 

 

 私の、いや、会場にいる者の全ての心が、

 

 彼の笛の音に震わされた。

 

 

 

 そして私の目に、それは映った。

 

 

 

 彼は静かな、どこまでも広がる夜の雪原の中で演奏していた

 

 

 冷たい風が、新雪の軽い雪を舞わせ

 

 

 幻想的で綺羅な世界を演出する

 

 

 そして彼を優しく照らすのは

 

 

 煌々と美しく、けれど寂しげに輝く

 

 

 黄金の月

 

 

 

 

『今日の演奏は、ちょっと一味違うかもしれない』

 

 演奏を始める前、別れ際に私に言った、彼の言葉。

 何が違うのかと、演奏が始まるまでは疑問に思っていた。

 

 けれど本当に、今日の演奏は違った。

 

 彼の笛が唄う曲の調、音の揺れ、音の長短、音の強弱。

 様々な感情がそれらの音に反応し渦を巻いて調和し、心を豊かにしていく。

 

 この最初の演奏曲が見せたあの光景。

 あんなにはっきり、曲に対する心象を思い描けたのも初めてだった。

 

 これが、彼の笛の音の力なのか。

 人の心を音で震わせ、彼の音の幻想世界の中へと引き込む。

 

 これは本当に人の力なのか。

 最早神の御技ではないかと疑いたくなる。

 

 そんな彼の音は、問答無用とばかりに私を誘う。

 

 抵抗する術も、意思もなく。

 

 私は、彼の音に身も心も委ねるのだった―――。

 

 

 

 

 

 私は幼い頃から体が弱かった。

 だが、そんな私にも一つの特技があった。

 

『一度見聞きしたものを忘れない』

 

 その特技を持って、私は家の中で只管、学を伸ばした。

 そして私は学とその才を買われ、帝の舎人として帝から、蘇我家の滅亡の際に失われた国史の書物に代わる歴史書の編纂の命を受けた。

 

 聞かされた天皇の系譜と、それまでに残されてきた古い記録、伝承を私は一字一句記憶し、それを漢字で只管書に記していく。

 その量は膨大で、終わりが見えない。

 

 勅命を受けたのは私が13歳の時。

 編纂を始めたのはその1年後で、2年が経った今になっても、まだ全体の2割程度しか記せていない。

 

 最初の頃の、1、2年目の時の私はそれは酷かった。

 その膨大な量を前に焦りと不安で押しつぶされそうになり、満足に眠れもせず、文机に噛り付くように一心不乱に書き続けていた。

 けれど字を間違えたり、失敗したりして全く仕事が進まない毎日。悔しさ、情けなさで書が涙に濡れて滲み、更に駄目にする。

 

 底無しの泥沼のような、悪循環の連鎖の中に私はいた。

 

 そんな私を父様と母様は心配し、ある日、少し息抜きをしなさいと言われ、私は久々に家の外に出て、冬の寒空の下を歩いた。

 

 だが、私は散歩の間もずっと歴史書の編纂の事しか考えられず、私の体質、睡眠不足、そして壊れかけの精神状態と冬の寒さが、私の体調を簡単に崩し、私は道端に倒れたのだった。

 

 運の悪いことに、人気のない小道に入った所で倒れた私。

 朦朧とする意識の中、死を覚悟した。

 

 帝の勅命を受けながら、その命を全うできずに死ぬなんて、何と不名誉で無礼な事か。

 家族に、一族に多大な迷惑が掛かるだろう。

 

 それを憂い悲しみ、私は涙を流した。

 こんな不孝者の私をお許し下さいと、心の中でずっと謝りながら、なす術もなく私は瞼を閉じて、死を待った。

 

『大丈夫ですか?』

 

 突然空から掛かってきた声に、私は意識を引き戻され、重い瞼を開いた。

 

 その瞳に映った相手こそが、柊で。

 

 それが私と柊の出逢いだった。

 

「私は柊と申します。しがない農民です。体調を崩されたのですか?」

「私は……稗田阿礼と、申します」

 

 彼は農民と言いながらも、言い慣れてないようなぎこちなさを感じない、農民らしからぬ丁寧な言葉を使った。

 

「稗田……? とにかく、屋敷までお送りいたします。貴方に触れることをお許しください」

「申し訳……ありません……」

 

 柊は一瞬、私の一族の事を知っているような素振りを見せたが、すぐに自分の着ていた蓑を私に羽織らせて、私を軽々と抱き上げた。

 その時感じた彼の温もり、匂い、心臓の鼓動はとても心地が良く、私の冷え切った体に熱が宿ったのを憶えている。

 この特技が無かったとしても、私は一生忘れないだろう。

 

 少し意識がはっきりしてきた私の案内で、彼は私を屋敷まで送り届けてくれた。

 母様は柊に抱えられた顔色の悪い私を見て血相を変え、降ろしてもらった私を抱いて泣き崩れ、父様は柊の手を取って、涙ながらに感謝した。

 

 柊は、父様に目を丸くしていた。その顔を思い出すだけで可笑しく思う。

 貴族が農民に手を取って感謝を述べるなど、ましてや簡単に頭を下げるなど、予想だにしなかったのだろう。

 

 実際、後で聞いてみると「あんなに農民の俺に対して感謝を表すとは思わなくてな。逆にそのあまりの剣幕に少し引いた」と言っていて、私は暫く笑いが止まらなかった。

 

 父様も母様も、優しい人。

 貴族だけど、それを偉ぶったりしない。

 私はそんな父様と母様を誇りに思い尊敬し、私もそんな2人のようになりたかった。

 屋敷の使用人たちも、父様と母様の人柄に惚れて、雇われに来た者達だから。

 

 私が倒れた時の事も、帝様からの信頼を失う事よりも、お前を失う方が私達には耐え難い事だったと真剣に言ってくれた。

 そう言われて、つい私は泣いてしまった。

 父様たちの愛情を嬉しく思うと同時に、簡単に死を覚悟してしまった事に罪悪感を覚えたから。

 

 話を戻す。

 

 それで、柊は私を屋敷に届けた後、父様たちの引き止めの言葉をやんわりと断り、立ち去ろうとした。

 身分の差を考慮し、屋敷に上がる事を遠慮したのだ。

 それを分かって、父様たちも強くは引き止めなかった。

 

 でも私は、ここで帰られてしまったら二度と会えないような気がして、それが途轍もなく嫌で。

 

 丁寧な礼をして踵を返そうとした柊に、母に抱きしめられていた私はか細く、振り絞る様な声で「待って。行かないで」と言った。

 

 柊にその声は届いた。動きを止め、私に向き直ってくれた。

 その表情は、とても複雑そうだった。迷っていたのだろう。

 

 そんな彼に、「娘の想いを、どうか汲み取ってくれないだろうか」と父様が助け舟を出してくれ、柊は漸く首を縦に振ってくれたのだ。

 

 父様は柊に、私を寝床まで運ぶよう頼んだ。きっと、私の為に。

 柊は少し悩んだ表情を見せて了承し、父様と母様に案内されて私の寝床まで運んでくれた。

 

 寝床に運んでもらい私は柊に礼を言うと、母様が私を寝着に着替えさせるからと、父様に目配せしていた。

 父様は頷いて、柊を連れて一度退出していき、母様と私の着替えが完了した所で、再度柊と戻って来た。

 

 そして私は、母様と父様、柊に、ここ暫く抱えていた自身の焦りや不安、苦しみ、不甲斐なさを弱音として、涙の雫と共に吐き出した。

 

 3人は真剣に聞いてくれた。

 父様と母様は、気付いてあげられなくて済まなかったと謝った。

 

 謝るのは私の方なのに。

 親を頼らなかった、私がいけないのに。

 

 柊は言った。

 

「全てを吐き出せたのなら、貴方の心が軽くなられたのなら、それを喜ばしく思います。私に少し、貴方の心を癒す手助けをさせて貰えませんか」

 

 彼は懐から笛を取り出すと、優しく穏やかな音色を奏で始めた。

 

 父様と母様、そして私は、柊が笛を吹ける事に最初は驚いた。

 けれど、その音色の心地良さにすぐに私は心を預けた。

 

 彼の音色に包まれた時、私は揺籠の中にいた頃のような安心感と温かさを思い出した。

 

 私はいつの間にか眠っていた。

 

 次に目が覚めた時は朝になっていて、起きてみると不思議と晴れやかな気分だった。

 いつも眠れなくて、眠っても朝が来るのが怖かったのに。

 その日の朝は、本当に心が羽の様に軽やかだった。

 

 私はすぐにそれが、彼の笛の音のお陰だと分かった。

 彼は『柊』だから、私の中から邪気を追い払ってしまったのかもしれない。

 

 彼はもう、帰られたのだろうか。

 そう思うと、胸が締め付けられるような思いだった。

 

 使用人を呼び、父様と母様を呼んでもらった。

 私が眠った後、柊はどうしたのかと聞きたかったから。

 

 数分程して、父様と母様が来た。

 けれど、何故か父様だけ顔色が悪かった。

 まさか私の風邪が移ったのかと心配していると、母様の後に柊も部屋に入って来た。

 

 つい、「柊様!」とはしたなく叫んでしまった。

 

 もう逢えないと思っていたから。

 柊がいる。

 それだけで、その時の私は涙が出そうな程嬉しかったのだ。

 

 私の眠った後の事を聞くと、父様と母様は私の命の恩人である柊のために、帰ろうとする彼を説得して屋敷の者たち全員で彼をもてなしたらしい。

 

 父様の顔色が悪いのは、ただの二日酔いだった。私の心配を返して欲しい。

 だが、主賓の筈の柊は特に酔いが後に引きずっているようには見えなかった。

 

 私はお酒に強くない方だ。

 以前水と間違えて飲んでしまったらしく、気が付けば朝だった。頭痛に苛まられて。

 父様と母様には「お前は酒を飲まない方がいい」と窘められてしまったから、きっとそうなのだろう。

 

 記憶を忘れない筈の私にその晩の記憶がないのだから、きっと飲んだ瞬間に眠ってしまったのだろうと思い、食事の際は飲まないよう気を付ける様になった。

 

 沢山の者に酌をされた筈の柊も、父様みたいになっていてもおかしくない。彼はお酒に強いようだった。

 その時の事を柊に聞くと、苦笑いをしながら「お腹が飯とお酒で破裂しそうでした」と言っていた。

 

 そんな彼が堪らなく可笑しく、私は口元を押さえて笑った。

 そんな私を見て柊も笑うと、何故だか体が熱くなった。

 

 その時は気付かなかったけれど、私は随分久々に笑ったらしい。父様と母様はあの時、泣くのを我慢してたそうだ。

 

 私は柊と沢山お話しがしたくて、父様と母様も交えて彼に色んな事を尋ねた。

 

 どこで生まれ、暮らしているのか。

 歳は幾つなのか。

 家族はどんな人達なのか。

 普段村ではどんな事をしているのか。

 趣味は何か。

 笛をどこで練習したのか。

 想い人はいるのか。

 都へはどれくらいの頻度で来るのか。

 好きな食べ物は何か。

 嫌いな食べ物は何か。

 女性の好みはどんなのか。

 好きな色は何か。

 どうしてそんなに背が高いのか。

 どうしてそんなずるいくらい綺麗な濡れ羽の髪をしているのか。

 

 彼は私たちの質問に、ちゃんと全て答えてくれた。全部暗唱できる。

 この時初めて、自分の特技の事を有難く思った気がする。

 どさくさに紛れて聞いた想い人がいるかや女性の好みといった色恋の事を、彼は嫌な顔をせず答えてくれた。

 最後の方の私の僻みにしか聞こえない質問については、苦笑を浮かべるだけだったが。

 

 想い人は特にいなく、女性は髪が長い人達が好みらしい。

 それを聞いて、私は仕事の時に邪魔だからと切っていた髪を伸ばす決意をし、手入れには凄い気を配るようになった。

 

 ……最近都で話題の『かぐや姫』の事を柊は今も知らないようなので、このまま彼に知られずに『かぐや姫』にはさっさと結婚して貰いたい。ええ、是非とも。

 

 柊と出逢い、接し、話し、触れ。

 彼の事を、人柄を知る度に、どうしようもなく私は惹かれていく。

 父様と母様も、彼をとても気に入っていた。

 

 体が弱かったから、殆ど外に出た事はない。

 気心を許せる友人も、そんな友人を作る余裕もなかった。

 

 彼と過ごしたこの時間は、本当に楽しかったのだ。

 

 だから、彼が村に帰ると言った時は、酷く悲しみに暮れた。

 

 けれど、彼にも家族がいる。

 都に来ているのは、少しでも冬の蓄えの足しになるようにと品を売り、食料や生活品を買いに来ているためだと彼は言っていた。

 流石に、帰らないでなんて我が儘を口にするのは憚られた。

 

 だからせめて……。

 

 私は、柊に手を差し出した。

 私と目が合い、私はこの手を握ってと訴える。

 

 柊は私の手に触れようとし、だがその手を止めた。

 私を見つけた時や寝床に運んでくれる時は緊急で、父様たちの頼みでもあったから触れたものの、父様と母様の目の前で私に触れようとする事に躊躇いがあったのだろう。

 

 彼はとても、真面目で誠実な人だった。

 

 だから私から柊の腕を取って、その掌の上に私の手を乗せた。

 父様と母様は、何も言わず、私と柊を静観している。

 

 彼は目を見開くも、私の気持ちを優先してくれた。

 まるで調度品を扱うように私の手を、その大きな手で包み込んでくれた。

 壊れないように、優しく丁寧に握ってくれるその手は、とても暖かった。

 

「また都に来た時は、ここにいらしてください。また、その笛を聞かせてください。私の、お話の相手をしてください。

 

 私の、友人になってください」

 

 私の、せめてもの願い。

 彼との出逢いを、一度きりにはしたくなかった。

 

「私たちからも、頼んでもよろしいか?」

「私たちも、貴方の笛の音を聞きたいですわ。それに、都に着いてすぐに村に帰るのは中々大変でしょう。ぜひ、都に来た際はこの屋敷に一晩泊っていって下さい」

「……はい。必ず、来ます」

 

 父様と母様にそう告げて頭を下げると、柊は私に向き直り言った。

 

「阿礼様。友人として、私は貴方に会いに来ます」

 

 ――友人として。

 その言葉がどんなに嬉しかったか。

 だからつい、私に少し欲が出てしまった。

 

「……阿礼。阿礼と、呼び捨てで呼んでください」

「……え? いや……でもそれは流石に……」

 

 確かに、農民が貴族に名前で、しかも呼び捨てで呼ぶなど普通は許されはしない。

 困ったように、柊は父様と母様に視線を向けた。

 でも、2人は微笑ましそうに笑って頷いた。

 

「構わない。柊殿なら私たちは許そう」

「ええ、阿礼の恩人ですものね」

「そうですか……分かりました。では、私のことも柊とお呼びください」

「ありがとうございます……柊」

「それは私の台詞です」

 

 何故か柊は、その場で私の名を呼ばなかった。

 それを不満に思いつつも、私は父様と母様に支えられながら、屋敷の門戸まで柊を見送っに行った。

 

「絶対に、来てくださいね」

 

 私の言葉に、彼は微笑み、そして応えた。

 

「はい。では、また。

 

 ―――阿礼」

 

 不意打ちだった。

 余りの驚きにドクン、と心臓が跳ねた。

 全く心の準備なんかしていない状態で、この瞬間に呼ぶなんて。

 

 柊は案外、ずるい性格だと思った。

 

 彼は私の心情なんかいざ知らず、父様が用意したお礼の米や布などを乗せた荷車を引いて、屋敷を後にした。

 

 心は宙ぶらりんになって、顔は熱で火照っていて。

 私はそのままぼーっと、彼の後姿が見えなくなるまで、見つめ続けていた。

 

 その後、私は父様と母様にお願いし、私の部屋から見える小庭に柊を植えて貰った。

 植えられた柊を見る度に心に余裕ができ、以来歴史書の編纂も落ち着いて取り組めるようになり、以前のような不安や焦りを抱くこともなくなった。

 けれど偶に、彼の事を考え過ぎて字を間違えたりしてしまうが、それでも仕事の進みは格段に速くなった。

 

 柊は春夏秋冬、季節が変わる毎に私を訪ねて来てくれ、その度に色んな話を、そして笛の音を聞かせてくれた。

 

 そして今に至るまで、私と柊の関係は続いているのだった。

 

 

 

 

 

 柊の演奏が終わった。

 計5曲。時間にして、大体半刻程の演奏。

 

 彼が笛から唇を離し、私たちに向かって礼をした刹那の無音の直後。

 

「見事だ! 誠に見事であった柊殿よ!」

 

 不比等様が勢いよく立ち上がって、心からの賛辞と共に大きな拍手を贈った。

 それを皮切りに、私を含め会場にいた観客は全員立ち上がって口々に称賛の言葉を叫びながら拍手を贈った。

 

 彼の演奏は本当に素晴らしかった。

 今までで一番、最高の演奏だった。

 

 ―――なのに、どうして、

 

 どうして私は今、泣いているのだろう。

 

 心の奥底で、私は誰かに何かを叫んでいる。

 

 彼の笛の音を求める様に、応える様に、私がその手を必死に伸ばしている。

 

 でも、その『誰か』とは、『何か』とは何なのだろう。

 

 

 

 分からない? ―――違う。

 

 私は、分かりたくないんだ。

 

 

 

 

 

『私の命を救い、心に巣食っていた邪を払い、私の生活の支えとなった『柊』は、私にとって特別な存在。

 

 命の恩人で、私の初めての友人。

 

 でも私は『その先』に踏み込みたいと望んでいます。

 

 けれどもし私がこの想いを言葉にすれば、きっと彼は私を想うが故に、私の前にはもう現れなくなると分かっていました。

 

 彼は、稗田家に仕えることを拒んでいる。

 

 加えて、彼は最初の出逢い以降では、自分から私に触れることをしなかった。

 

 それが、私への想いやりだということも分かっています。

 

 でもそれが悲しくて哀しくて、それを思う度に胸が苦しくなるのです。

 

 その分だけ柊への想いが積もり、(かな)しくなるのです。

 

 稗田一族に生まれたことを後悔しているわけでありません。

 

 私はこの家が好きだから。

 

 けれど、だからこそ。『身分』という見えない壁が存在するこの時代を呪いたい。

 

 この近くて遠い距離が嫌なのです。

 

 このたゆたう心が辛いのです。

 

 それでもお願い。

 

 お願い、気付いて。

 

 私は………。

 

 

 

 

 

 ―――柊。

 

 貴方が好き。

 

 貴方が愛おしい。

 

 心の底から

 

 全身全霊で

 

 貴方が好きと伝えたい』

 

 

 




まだ3話しか投稿してないのにお気に入り件数が200近くに……嬉し過ぎて泣きそうです。

『問題児たちが異世界からやって来るそうですよ?』にハマりました。
めっちゃ面白いです。
正直一番かっこいいと思ったのはアジ・ダカーハだったり(笑)

感想、評価、誤字脱字等あれば、ぜひよろしくお願いします。

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