月が叢雲に隠れて暗くなったその瞬間、突然背後から響き渡ったその透き通る様な声に、俺たちは驚いて振り返った。
屋敷側の中の、さっきまでは誰もいなかった広い庭園のど真ん中に人影があった。
月が隠れたため、暗くてその相手はよく見えない。だが、声質的には女だと思う。最悪の場合、この家の家主かもしれない。
声の主はゆっくりと、俺たちの所へ近づいて来る。
ヤバッ……全く気付かなかった。
俺は急いで二人を抱えて逃げようとする。
だが、そんな様子を可笑しそうに笑う声が待ったをかける。
「待ちなさい。別にそこにいる事を咎めたりしないわ。ただ――私もそこに登りたいのだけど」
その意外な申し出に、俺は目を丸くして二人と顔を合わせた。
まさかこの状況で、自分も登りたいなんて言うとは普通は思わないだろう。
俺は警戒しつつ、その言葉に偽りがないか聞き返す。
「……本当に咎める事はないですか?」
「ええ。寧ろ、こういう事は私も大好きだもの。それと、別に敬語なんて堅っ苦しいの使わなくて良いわ」
その美しい声は、楽しそうに弾んでいる。
恐らく嘘ではないだろう。
「……分かった。二人とも、ちょっと待っててくれ」
「柊、大丈夫かな……」
「多分嘘は言ってない。それに、下手に拒んで騒がれる方が不味い」
一応警戒は解かず、俺は築地から庭に飛び降りてその人影へと近付く。
そしてお互いが立ち止まった所で月が再び顔を出し、相手の姿がようやく確認できた。
――絶世の美少女。
その言葉でしか言い表せない程完成された、その容姿。
長く真っ直ぐで、艶やかな黒い髪。
吸い込まれるように妖しく、爛々と輝く紅い瞳。
そしてこの時代の貴族女性を象徴する、色鮮やかな十二単。
これ程の絶世の美少女はそうはいない。
俺は目の前の人物を見て、この時代のあの人物が思い当たった。
「あんた……かぐや姫、か?」
「あら、私の事を知ってるの? 私に求婚に来た貴族連中の中に貴方もいたのかしら?」
「いや……俺は噂で聞いた名前だけしか知らないが」
そりゃあれだけ絶世の美少女として噂になってれば、いくら偶にしか都に来なくても小耳に挟むぐらいはする。
てか、口悪いな。
ーー昔話として親しまれ、また日本最古のファンタジー小説として有名な文学作品『竹取物語』。俺も高校生の時に古文の時間で習ったのを覚えている。
今俺の目の前にいるのが、その主人公のかぐや姫。
彼女の竹から生まれて来たなんて設定は信じてないが、それでも実在した人物を元に娯楽要素のフィクションを加えたのがあの『竹取物語』というのならそれも納得できる。
実際の所、それが真実なんじゃないかと思っていた。
だがまさか、本人と相見えるなんて微塵も思ってもいなかっただけに、冷静を装って見せている俺とて内心では結構驚いていた。
「私の事は知っている様だけど、一応自己紹介ぐらいはしておこうかしら。私は『なよ竹の輝夜姫』よ」
「柊だ。姓は無い」
「柊……ふーん、面白いわね、貴方。余り私に興味なさそう」
「そうでもない。本当に噂通りなのかくらいには興味は持ってたさ。……まあ会ってみたいかと言えば、会いたいとは余り思っていなかったな。というか会えるなんて思ってなかった。俺は氏がない農民だし」
「……農民? そんな上質そうで素敵な服を着て?」
「これは……贈り物だからな」
その言葉に輝夜は俺の背後へと視線を向けた。
そして俺に視線を戻すと、揶揄う様な笑みを浮かべて言った。
「見たところあっちの二人は貴族みたいだけど、どっちが貴方の女性? それとも両方?」
「……友人だよ。稗田の娘と藤原の娘だ」
「あら、藤原ってこの都の公卿じゃない? ……そう言えば求婚してきた中にいたわね。そうそう、藤原不比等と言ってたかしら」
……は?
藤原不比等がか……?
「それに稗田は、確か猿女君の末裔よね? 自称農民を語りながら、そんな名のある両家と友人になれるものかしら?」
「確かに、普通は有り得ないな。俺も数奇な機会を経験したものだと自分でも思うよ。……そして今も。求婚するどの男性貴族もその全貌を見た事がない輝夜姫を、俺は目の当たりにしている訳だしな」
俺はそう言って苦笑する。
改めて考えれば、輝夜姫の言う通り普通じゃない人脈関係ではある。
最近そんな自覚が薄れてきてやがるな。
「貴方は、貴族の女性と親しくなる変な運でも持ち合わせてるのかしらね」
遠回しに玉の輿を狙う女誑しみたいに言うな。
非難する眼を向けても、輝夜姫はどこ吹く風といった態度だ。
「それより、私も早く上に登りたいのだけど」
「それは良いが……俺が輝夜を抱き上げて登る事になるぞ?」
「……良いわ。貴方、ちょっと気に入ったもの。他の阿保貴族達みたいに、私に対して特にいやらしい色目を向ける様子もなかったし。私に触れる事を光栄に思いなさい」
俺の目の前まで歩いて来た輝夜はそう言って、俺の胸に手を当てて悪戯に笑った。
「……良い記念だ、ぐらいには思っとくよっ、と」
「きゃっ!」
俺はその笑みへの意趣返しにと、勢い良く抱き上げる。
驚いた声を上げた輝夜のその表情に俺は満足した。
そして悪戯に皮肉を口にしてみる。
「やっぱ十二単は重いな……それとも自重か?」
「失礼ね、そんな訳ないでしょ! ……私としては、十二単の重さに音を上げると思ってたのだけど。見た目は細身なのに結構……逞しいのね」
「村での肉体労働の賜物だな。まあ元より人並み以上に力は強い方なんだが……というか、何だ。急にしおらしくなったな」
緋芽と阿礼の時もそうだが、何故女性はこうも抱えると借りてきた猫の様に大人しくなるのだろう。
いやまあ、そういう経験がないからだろうが。
そのまま急に口数の減った輝夜を抱えて阿礼達の下に戻ってみると、阿礼はまあ、どことなくジトリと目が据わっているのを、俺は気付かない振りをしたが。
緋芽の築地に下ろした輝夜に向ける敵対心を帯びたその異常な瞳だけは、無視する事は出来なかった。
俺が緋芽に声を掛けるよりも早く、輝夜姫がその視線に挑発的な態度で応えた。
「何かしら、藤原のお姫様?」
「……貴方が、本当に輝夜姫なんだよね?」
「そうよ? それが何かしら?」
「よくも父様を……! 貴方が……あんたが居たから父様はっ!!!」
突如激昂して掴みかかろうとする緋芽に、俺は咄嗟に輝夜を庇い緋芽を抑える。
「どいて柊! 邪魔しないで!」
「馬鹿言え。何で突然輝夜を……いや、理由はさっき聞いたか。輝夜がお前の父親を誑かしたと憤っているんだろう?」
「そうだよ! 父様は輝夜姫の存在を知って以来、毎日の様に輝夜姫の下へと足を運ぶんだ! おかげで私は、全然父様に相手してもらえなくなったんだ……!」
抑えている俺の腕を掴む緋芽の手の力で、その怒りがどれ程の物かを実感する。
――ああ、思い出した。
高校生の時に習った『竹取物語』でかぐや姫に求婚し、かぐや姫から無理難題を突きつけられた五人の貴族。
その中の一人の、蓬莱の玉の枝の献上を突きつけられた車持皇子は藤原不比等がモデルとされていたという事を。
昨日や、今日の茶会で会った様子からして、まだあの無理難題を押し付けられていた訳ではないのだろう。
緋芽にとって今まで、不比等の存在が唯一の希望で支えだったのだから、それを奪われるのではという恐怖や危惧が彼女に大きな喪失感を与えていたのは想像に難くない。
――だが。
「緋芽、落ち着け」
「落ち着けるわけないでしょ!? 私は――」
「落ち着けと、言ってるんだ。緋芽」
「……っ!?」
少し圧を込めた俺の低い声に、緋芽はびくりと体を震わせてその口を噤んだ。
一つ溜息を吐いた俺は声を戻し、諭すように事実を告げた。
「緋芽、悪いが今回の場合で言えば輝夜は悪くない」
「え……? 何で……!? 何で柊は輝夜姫の肩を持つの!?」
俺が輝夜を悪くないと言うのが、自身の憎悪を全否定された様に感じたのだろう。
緋芽は再度怒りを露わにしてその意味を問い詰める。
「結論から言ってしまうと、誰も悪くない」
「え……?」
「お前の父親を含めて貴族の男が輝夜に求婚するのは、当然その美貌に惹かれているのと、そんな彼女を嫁にしたという箔の欲しさ故だ。
なあ……緋芽。俺はあの時、お前に何て教えた?」
「あの時……?」
怪訝な顔を浮かべる緋芽に、俺は自分が伝えたあの言葉をもう一度語った。
「『俺たち生まれてくる生き物というのは、時代も、親も、容姿も選ぶことは出来ないし、その権利もないんだ』」
「あ……」
「選べずに持って生まれた容姿、存在。それが美しかろうと醜かろうと、それが理由で他人に責められる謂れはない。ましてや、他人が勝手に抱いた感情を己のせいだと他人から非難されるなんて理不尽でしかないだろ。
――その意味を、一番理解できるのはお前じゃないのか? 緋芽」
「う、ぅぅ……」
緋芽は膝を突き、力無く座り込んでしまった。
目の前で俯き震える緋芽の気持ちが分からない訳じゃない。
俺は同情するように、また溜息が出た。
緋芽はどうしてこうも、複雑な状況の板挟みにされなくてはならないのだろう。
この時代の風潮、文化がそうさせているのもある。
一夫多妻が認められ、貴族ではそれが普通のこの時代。
医療が発展していないこの時代では、産まれた子どもの死亡率は高い。
一族の繁栄のためでもあるから、貴族は色んな女を娶り子を産ませるのが普通であるため、不比等の行為を責められる理由はこの時代では見当たらない。
その中でも妹紅の母親は、かなり下の貴族か、平民の立場に当たる人だったんだろうな……。
しかしそれを仕方ないと片付け、目の前で悲しむ少女にただ我慢しろと伝えることも、俺には出来ない。
俺はこの時代に生まれてもなお、どこかで前世の価値観に引き摺られている節がある。
過去の日本の時代に新しい肉体で生まれようと、俺の人格は未来の日本に生まれ、未来の社会や思想の中で育って死んだ『
そう簡単に価値観を塗り替える事が出来ず、この時代では当たり前で仕方のない事であっても、俺にも許せないと思う感情が沸く。
緋芽を助けたいと、思ってしまう。
前世の記憶なんて持たずに生まれていれば、俺はこの時代をもっと気楽に生きられたんだろうか……。
そんな想いが、俺の感情までも沈めようとするが、今は俺の事ではない。
負の意識に蓋をして、俺は緋芽に語りかける。
「緋芽、不比等様の行動や、輝夜の存在を責める事は誰にもできない。この事に関して、お前に味方してやれる人はいない」
「……」
「お前は、不比等様の関心を全て輝夜に取られているから、輝夜に怒っているのか」
「うん……」
「でも不比等様は、ちゃんとお前の事を気に掛けていたぞ」
「……え?」
俯いていた顔を、緋芽は上げて俺を見上げた。
「今日の茶会で、俺がお前と庭で話していた事を不比等様は知っていた。それに茶会での別れ際に、屋敷に演奏をしに来た時はお前の話相手になってくれとも頼まれた。不比等様はその時、確かに父親の顔をしていたよ」
「……本当?」
「本当ですよ、緋芽様。私と、私の両親も聞いていましたから」
「……そっか、そうだったんだ……」
再度俯きながら、そう呟く彼女の顔下の瓦が、ぽつりぽつりと雫で濡れ始める。
俺は膝を曲げてしゃがみ、緋芽の肩に手を置いた。
「後は、緋芽が。お前が、不比等様だけに抱き縋るのを止めて、外に踏み出せばいいんだ。今まではその機会すらなかったかもしれない。でも、今は違うだろ?」
「ひ、らぎ……」
「緋芽様、今度私の屋敷へ遊びにいらして下さい。沢山お話ししましょう?」
静聴していた阿礼も俺の横に並ぶと、膝を曲げて緋芽に手を差し伸べそう言った。
「阿礼、様……うん、ありがとう」
涙を拭い、俺と阿礼の手を取り立ち上がった緋芽は、ただじっと成り行きを眺めていた輝夜に向かい、少しの沈黙の後に軽く頭を下げた。
「……怒鳴って、理不尽な怒りをぶつけて悪かった。ごめん」
「別に気にしてないわ。どうでもいいことだもの」
嫌味の含んだ輝夜のその言い方に、緋芽は眉根を顰めた。
「……やっぱり、アンタ嫌いだ」
「私は貴女と仲良くしたいなんて思ってないの」
「……ふん。アンタのその捻くれた性格じゃ、柊にすぐ嫌われるよ」
「……っ。あら、貴族の女性とは思えないそのお転婆じゃ、柊の気を引くことなんてできないんじゃないかしら?」
「言ったなっ!?」
「何よっ!?」
仲直りしたかと思えば何故か俺を引き合いに出して口喧嘩を始めた緋芽と輝夜。
どうやら、元から馬が合わないようだ。
ああいうのを犬猿の仲と言うのだろう。
だが、先程の重い険悪な雰囲気が緋芽からは消えているので、俺は安心して二人の気が済むまで傍観しようと決めた。
「……柊? またなんですか?」
……俺の背中を冷たい空気が撫で震えたのは、この冬の寒さが原因だ。
決して、阿礼の冷たい声が背後から聞こえたからではない。
「ねぇ、柊」
「何だ?」
結局、いつまでも終わらない緋芽と輝夜の不毛な口喧嘩にいい加減にしろと仲裁に入り、輝夜を加えてまた夜の空を見上げた俺たち。
緋芽と輝夜は当然隣同士に座るわけがなく、現在俺と阿礼が間に入る形で横並びになっている。
そんな中で、緋芽が不意に俺に声をかけてきた。
「柊はいつまで都にいるの?」
「……明日の夜明け前には都を出るよ。明日の日暮れまでに、村に帰らなくちゃならないんだ」
「そっか……」
明らかに声のトーンが下がった緋芽に、俺は苦笑した。
「そんな落ち込むな。来月にはまた都に来るから、その時に会えるさ。……そうだな、置き土産に一曲、演奏をするか」
「本当!?」
懐に入れていた笛を取り出すと、緋芽の表情は一転して華やいだ。
阿礼も笑って手を叩き喜びを露わにする。輝夜は俺が取り出した笛をまじまじと見て、興味を示した。
「柊は笛が吹けるの?」
「まあな」
「柊はあの藤原不比等様が認めた素晴らしい奏者なんですよ、輝夜様」
「へぇ……なら、早速聴かせて頂戴」
「ホント、自分勝手だねアンタは」
「私は貴方達と違って、自由に外に行くことはできないもの。何も縛られない今ぐらいは、我が侭を言わせて欲しいわね」
輝夜が月を見上げながら、傍若無人さを持って緋芽に言い返した時、俺は輝夜の横顔を見た。
俺にはその紅い瞳が、悩ましさと物悲しさを帯びているように感じた。
輝夜の暮らしには、輝夜なりの苦労や不自由さもあるのだろう。
輝夜はあの月を見ながら、何を思うのか。
本当にあの物語のように、いつか月へと帰ってしまうのか。
もしそうだとしたら、月に帰りたいのか、それとも帰りたくないのか。
聞いてみたい気もするが、俺がそれを知っていたら絶対に怪しまれるだろうな。
さて、どんな曲にしようか。
それぞれに複雑な思いを抱える少女達の心を明るくする、楽しい曲にするべきか……いや。
敢えて、静かな曲にしよう。
無理して気分を上げさせるよりは、ただその感情に寄り添う曲を聴かせてやりたい。
唇にそっと、笛口を当てる。
だがそこで、一つ懸念が思い当たって吹くのを止めた。
「ここで笛を吹いたら流石にバレないか?」
「大丈夫よ。この時を誰にも邪魔させないから。吹いて頂戴」
そう自信ありげに言う輝夜の瞳が気のせいか、一瞬妖しく輝いた様に見えた。
……ここまで来て、演奏しないというのもあれだしな。
家主が言っているわけだし、なるようになるか。
再度、笛を構える。
――不思議だ。
今日は笛を吹こうとするたびに、あの感覚が蘇ってくる。
肺の中の空気が唇から笛へと繋がり、俺の中のイメージが脳から指先へと繋がる。
静謐な月夜の下にそよぐ風と共に、笛の音は夜の冷たい空気を震わせた。
「父様、母様。ただいま戻りました」
阿礼の屋敷に戻って戸を開けて入ると、奥から阿礼の両親が出迎えに来た。
「おお、二人とも戻ったか。随分と歩いていたようだね?」
「知り合いに会ったもので。少し世間話に花が咲いてしまって」
「寒かったでしょう? 奥の部屋に暖かい
聞き慣れない飲み物に、俺と阿礼は首を傾げた。
「醴酒?」
「母様、お酒ですか?」
「大丈夫よ阿礼。お米で作った甘くて飲みやすい飲み物だから。藤原様から手土産にと頂いたのよ」
もしかして、甘酒の事か?
確かに甘酒は現代でも幼児が飲むこともできるものだったし、阿礼でも平気だろう。
せっかく用意してくれたのだから、頂こう。
俺と阿礼は部屋へと向かった。
―――それが悲劇を生むとも知らずに。
「すぅ……すぅ……」
「……眠ったか。まさか甘酒で酔っ払うとは思わなかった」
俺の腹に縋り付くように寝落ちしてしまった阿礼を見て、俺は溜息を吐く。
相当アルコールに弱い体質なんだろう。
阿京殿には阿礼に甘酒さえも飲ませないよう伝えないと……。
「阿礼を寝床に運ばないとな……誰かまだ起きているだろうか」
部屋を出て人を探そうと立ち上がろうとする。
「ひぃ、らぎ………」
だが、うわ言のような阿礼の呼び声に俺は動きを止めた。
まだ起きていたのか?
「阿礼?」
「どうして……私は……」
「貴方を―――愛してます……」
「………っ、」
「だから……すぅ……」
それは、ただの寝言なのか。
それとも酔って零れてしまった本心なのか。
完全に寝ているだろう阿礼に、それを確認する勇気は今の俺にない。
だがーーー
「……俺も、阿礼を愛したいよ」
嗚呼……、本当に。
人生とは、苦しいものだ。