久しぶりに手に取ってみたけど、やっぱりヒカルの碁は名作だって再認識した作者です。
後藤ヒカリには、自分とは別のもう一人の記憶が存在している。
切欠は今でも鮮明に覚えていた。
転勤族だった父の都合で長いこと特定の地に根付くことのなかった自分は、当然のように特定の誰かと長いこと交流を深めることなど出来る筈もなく、友達と呼べる存在もいなかった。
とはいえ、そのことを嘆いているのかと聞かれれば、そうでもない。
初めての集団生活の場だった幼稚園で、自分は園児達との違いを感じていた。
テンションというか、場違い感といえばいいのか、こうだという明確な理由はない。
それでも、何か特別な理由がない限りは一人で過ごすことが多かった。
といっても、別にコミュ障という訳でもなく、誰かと遊ぶことは出来るのだ。
だけど、園児達の考えなしで危なっかしい行動にハラハラし、心から楽しめなかっただけで。
まるで先生や保護者視点で物事を見てしまうと言えばいいのか、とにかく疲れるのだ。
そんな感じに、特定の集団には属さず、かといって誰からも誘われないという訳でもない、単独行動を好み、周囲とは程よく上手くやれる、次世代型ハイブリッドぼっち。
同年代からは一目置かれる存在だが、実に可愛げのない子供だなと思ったりもした。
「今日から皆のクラスメイトになる、後藤ヒカリさんです。皆、仲良くしてあげてね」
そんなこんなで数年後。
転校を繰り返し、友達も作れずにいる自分を哀れに思ったのか。
父は所属していた会社を退職し、転勤のない職へと再就職。
貸家ではなく、マイホームを購入したことからも、この地に永住する気満々なのが伺えて。
いつでも友達を連れてきていいぞと、そう言って送り出してくれた両親のためにも。
そんな気持ちに背中を押され、自己紹介を促す先生の指示に従い、言葉を紡ぐ。
「後藤ヒカリです。南は鹿児島から、北は北海道まで、たくさんの場所に住んできました。でも、此処にはずっと住むつもりなので、引っ越しはもうしないつもりです。皆、よろしく」
そう言って頭を下げ、顔を上げた瞬間に待っていたのは質問の嵐。
転勤族、そして自分の容姿故の好奇心というヤツなのだろう。
適当に質問を捌き、先生から言われた自分の席へと足を進んでいく。
その間にも好奇の視線がなくなることはなく、そのことに苦笑していた時だった。
「お前、後藤ヒカリだっけ? 俺の名前とそっくりだな」
この時のことを、自分は一生忘れないだろう。
窓際最後列、空白の席の隣に腰掛ける男子は、親しみやすい口調で話し掛けてきた。
「俺、進藤ヒカルって言うんだ。今日から隣同士、よろしくな」
金と黒のツートンカラーの髪。
活発な恰好に好奇心で輝く瞳は、一目で彼が年頃らしくやんちゃなのが察することが出来る。
いや、察するなんて次元ではない。
彼の性格や趣味、好き嫌いや家族構成、年の割に小柄な体を気にしていることまで。
初対面にも拘らず、相当に親密な仲でなければ知り得ないことまで、全てが分かってしまう。
手足が震え、呼吸が早まり、ジワリと嫌な汗が浮かんでくる。
思考が混濁し、吐き気すら湧いてきて、立っていられず、その場に崩れ落ちかけて、
「お、おいっ!?」
咄嗟に伸ばしたヒカルの手が、自分の手を握り締めた瞬間。
まるで走馬灯のように、膨大な光景が頭の中に直接叩き込まれるように流れてきて。
それが、意識を失う前の最後の記憶だった。
◆ ◇ ◆ ◇
目が覚めて、最初に見たのは知らない天井だった。
鼻を刺す消毒臭に顔を歪め、声を出そうとするが、掠れたような音しか出てこない。
「あっ、目が覚めたんだ!」
明るい気勢が近くから響き、咄嗟にそちらに向く。
最初に目に飛び込んだのは、綺麗な長い髪。
「先生!」と声を張り上げ出ていく様に、此処が保健室なのだと理解する。
だが、そんなことよりも、先程出ていった彼女の後姿が鮮明に焼き付いて離れない。
「……あかり」
「お前、あかりと知り合いなのか?」
彼女とは反対側から聞こえる声に、ビクッと体が跳ねる。
「……進藤」
「おっ、さっそく名前覚えてくれたんだな。お前が倒れた後、色々と大変だったんだぜ? 先生はパニくるし、女子共は騒ぐし、他の奴等は俺が何かしたんじゃないかって疑ってくるし」
「……その、悪い」
「いいよ。こうして目が覚めてくれたんだからな」
椅子の上で行儀悪く胡坐を搔き、それでもその顔に浮かぶ表情に後腐れはなかった。
ほっと息を突き、迷惑を掛けてしまった罪悪感に顔を俯けてしまう。
「ところで、さっきの話だけど、あかりとは知り合いなのか? 名前呼んでたからさ」
「……普通に初対面だよ。さっき名札がチラッと見えたから、名前を呼んだのはそれでだ」
「ふーん、そっか」
納得顔のヒカルに、咄嗟に付いた嘘が成功したのだと安堵する。
「後藤さん、大丈夫? 気分とか悪くない?」
「……問題ないよ。心配してくれてありがと、藤崎」
保険医を伴い、やって来た少女――藤崎あかりに礼を言うと、良かったと胸を撫で下ろす。
その様をマジマジと見ていると、保険医の先生がヒカルの背中を押した。
「さっ、進藤君は席を外してちょうだい。今から後藤さんの診察をするんだから」
「な、なんだよ! 俺だけ仲間外れとかズルいぞ! 先生のケチ!」
「もうっ! 先生の言うことは聞かなきゃダメなんだからね、ヒカル!」
「うるせーな! いつも何かある度に説教しやがって! あかりは俺の母さんか!」
「何ですってぇ!?」
いがみ合う二人を微笑ましく想い、同時に湧いた悪戯心に口角を上げる。
「進藤」
「なんだよ、後藤! お前まで俺を仲間外れにするのか!」
「お前、もしかして見たいの?」
「見たいって、何がだよ!」
服の裾を持ち、臍が見えるまで捲し上げる。
「進藤のエッチ」
「~~~~~~っ!?」
顔を赤くさせ、脱兎の勢いでヒカルは保健室から出ていった。
クスクスと笑みを零し、ヒカルが開け放った仕切りから見える、鏡に映る姿は三つ。
一人は保健室の先生、もう一人は唖然としているあかり。そして、もう一人。
外人な母親の遺伝子を色濃く引き継いだ金髪は背中まで伸び、悪戯成功に輝く瞳は緑。
容姿に頓着しないが、せめて髪だけは女らしくと思い伸ばした、密かな自慢だったり。
かつての師匠も長髪だったからか、自画自賛にはなるが結構気に入っていたり。
捲し上げた裾を下ろし、簡単に身嗜みを整え、呆れ顔の先生と向かい合う。
「さて、邪魔者は居なくなりました。それじゃあ、ちゃっちゃと始めちゃってください」
「……あなた、若いのに良い性格してるわね」
「それほどでも」
「褒めてはないわ」
「……優しく、してね?」
「……ほんと、ある意味子供らしくないわ」
保健医は呆れ顔になるも、嘆息した後に診察を始める。
「……後藤さんって、大人なんだね」
あかりの言った言葉が、嫌に印象に残るのだった。
◆ ◇ ◆ ◇
ヒカルとあかりと仲良くなるのに、それほど時間は掛からなかった。
両親も、初めてできた仲の良い友達に諸手を上げて喜んでくれたのは苦い思い出だ。
家に呼んだ時など頻繁に部屋にやって来ては構ってくるので、鬱陶しいことこの上ない。
二度と家には呼ばないと宣言した時、両親の顔があまりにも悲愴だったので、以降も二人を呼んだりはしているが、出来れば勘弁してほしいというのが正直な話である。
「だぁー! また俺の負けかよ!」
教室に響くのは、ヒカルの声。
「へへっ。それじゃあ今日も荷物持ちよろしく、進藤?」
「くそっ、もう一回だヒカリ! 次こそは俺が勝つ!」
「ヒカルも懲りないんだから。ひーちゃんに敵うわけないのに」
「女のあかりは黙ってろ! これは俺とヒカリ、男同士の戦いなんだ!」
「女女って! なんでヒカルは私ばっかり仲間外れにするのよ!」
「……あの、一応あたしも女なんだけど」
「女はすっこんでろ! あかりのくせに生意気なんだよ!」
「男ってなんでこんなに馬鹿なの! ヒカルなんか特によ!」
「なんだと!」
「なによ!」
「……いいもん、別に構ってくれなくたって。別にいじけてなんかないもん」
肩甲骨程度だった髪は腰まで伸び、近所では美少女だと評判になっているのだが。
枝毛一つない髪を指先でクルクルと弄り、口論する二人には目を向けず、机の上に目を向ける。
そこにあるのは、小さな木製の板。
四方に幾つもの線が伸び、その上に白黒の石が一見無造作に並んでいる。
「まーた囲碁かよ。囲碁なんて年寄りの遊びだっつーの」
「ヒカルの奴、最近付き合い悪いよな。女とばっか遊んでるし」
「三角関係だぜ、三角関係。藤崎とは夫婦だから、後藤は愛人なんだよ」
後ろから聞こえる声に、振り返ればクラスの男子共が。
険を込めて振り返れば、罰が悪そうに顔を赤くしそそくさと散っていく。
普通ならば喧嘩を売ってきそうだが、生憎と女子の自分は男子よりも成長が早い。
過去に喧嘩を仲裁して以来、敵わないと判断されたようだ。
同時に男女の愛称が裏では定着することになるのだが、別段気にはしていなかった。
「で、放課後はどうする? またあたしん家に集合すんの?」
出来れば勘弁願いたいのだが、これにはキチンとした訳がある。
理由は一つ、囲碁に必要な碁盤が自分の家にしかないのだ。
囲碁をするならそれこそマグネットタイプの簡素なものでも可能なのだが、脚付きの本格的なものがあるのは我が家にしかない。
強請った覚えはないのだが、昔から我儘など口にしなかった自分が碁盤を熱心に見ていたのを両親に発見され、誕生日にプレゼントしてくれたのだ。
値段については怖くて聞けなかったが、絶対に子供への贈り物としては高価過ぎだと思う。
ちなみに、ヒカルが囲碁に興味を持った切欠も、自宅に招待した際に見た碁盤だったりする。
最初は先程の男子同様、囲碁は年寄りの遊びだと馬鹿にしていたのだが、なら試しにと置き石を馬鹿みたいに置き、大差で勝利、悔しがるヒカルを鼻で笑ったらムキになり。
以後、暇さえあればこうして再戦を挑んでくるくらいには、囲碁にのめり込んでいた。
自分達には内緒で、裏でコソコソと近所の囲碁教室に通っているのは公然の秘密だったり。
「へっへーん! お前等、聞いて驚けよ!」
踏ん反り返るヒカルを、あかりが冷めた目で見る。
「今日は俺のじいちゃん家に集合だ!」
「えっ、なんでヒカルのおじいちゃんの家なの?」
「ふふん。それはだね、あかり君」
「何言ってるのよ、ヒカル……」
一方、自分はといえば、動悸が高鳴っているのが分かる。
自分の知る未来が変わるからと、そんな荒唐無稽な理由でこれまでアクションを取らずにいた。
既に、自分というイレギュラーがいる時点で、己の懸念に意味などない。
それでも、万が一があってはと、急く気持ちに蓋をして、今日という日を待っていた。
「ヒカリのみたいな本格的な碁盤! じいちゃんが俺にくれるって約束してくれたんだ!」
時は満ちた。
汗の滲む掌をギュッと握りしめ、早鐘を打つ心臓が心地よい。
やっとだ、待ちに待った時がようやく訪れたのだ。
姿は見えないかもしれない、声も聞こえないかもしれない。
それでも、かつて消えてしまった存在に、逢えるかもしれないのだから。
◆ ◇ ◆ ◇
「だ、誰だよお前!?」
誰もいない虚空を見詰めたまま、ヒカルは叫んだ。
「ど、どうしたのヒカル?」
「何を騒いどるんじゃ。碁盤を貰ったのが嬉しいのは分かるが、限度というものが――」
「あかり、爺ちゃんも! ほら、オバケだよ! 髪の長い、白い服着たオバケ!」
「オバケってお前、冗談を言うなら時間が違うじゃろう。こんな真っ昼間からオバケなんて……」
「嘘ならもっとマシな嘘をつこうよ。ね、ひーちゃん」
「…………」
「ひーちゃん?」
あかりの声は聞こえるが、それに構うだけの余裕がない。
放課後になり、ヒカルの公言通り、彼の祖父の家に訪れ、そこで目にした古い碁盤。
それを見た時、ヒカルは目に見えて落ち込んでいた。
そして、口にした――血みたいな汚れがついてるなんておっかないぜ、と。
直後だった、今のように訳の分からぬことを口にし出したのは。
「……ははっ」
姿は見えない、声も聞こえない、ヒカルが言う血の跡など碁盤のどこにも見当たらない。
だけど、分かる。
ヒカルが指差す先、何もある筈のない虚空に、確かに感じることが出来る。
たった数年の間だけど、ずっと傍にいてくれた、自分にとっての碁の師匠。
嫋やかで、でも子供みたいに喜怒哀楽の激しい、ガマガエルが苦手な、最強の囲碁馬鹿。
いつの間にか消えてしまった、懐かしい空気に、気付けば目頭が熱くなる。
「……ひーちゃん、泣いてるの?」
瞳から溢れ出る涙を拭いもせず、喜びを噛み締めるように。
懐かしい響きを、万感の想いを込め、吐き出す。
「何年待たせてんだよ、馬鹿野郎」
本名、後藤ヒカリ、性別は女。
家族構成、両親とあたし。
葉瀬小学校、六年女子。
渾名は男女、密かな自慢は長く伸ばした金髪。
――でも、後藤ヒカリには、自分とは別のもう一人の記憶が存在している。
本名、進藤ヒカル、性別は男。
家族構成、両親と俺。
職業、プロの囲碁棋士。
史上最年少の本因坊のタイトルホルダー。
「久しぶりだな――佐為」
これは、二つの記憶を持つ少女の物語。
神様の悪戯か、内に進藤ヒカルを宿した少女が紡ぐ、再開の序章。
その最初の物語は、こうして始まったのだった。