佐為と進藤ともう一人のヒカル   作:もちもちもっちもち

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まる3

「――届かなかった、か……」

 

 

 終局。

 同時に込み上げてくる悔しさと疲労感に、天井を仰ぎ、背凭れに寄り掛かった。

 キィと鳴る椅子の悲鳴に取り合わず、深く深呼吸。

 吐き出した吐息からもなお漂う敗北感に、歯を力一杯に噛み締める。

 

 

「凄いじゃないか!」

 

「きゃっ」

 

 

 突然の声に動揺し、漏れたのはらしくない可愛らしい悲鳴。

 羞恥で顔に熱が集中するのを自覚し、声の主を探るために後ろを振り返り、

 

 

「あの塔矢アキラに半目差なんて! いやはや、大したものだ!」

 

「最後の追い上げなんて殆ど理解できなかったけど、本当に鬼気迫るものだったよ!」

 

「結局最後の方しか見れなかったけど、いい碁だったのは分かる! うん、良かった!」

 

 

 目の前に広がるのは年寄り、爺さん、おっさん連中。

 どれもこれもが懐かしい面子で、どうやら会話から察するに観戦は終盤からなのだろう。

 仮に最初から見ていれば、今の称賛が動揺と畏怖へと変わっていたことは容易に想像できる。

 とある意図があっての一局だったが、軽率な行動だったと反省した。

 

 

「わっ」

 

「若先生相手にここまでやるとはな! 自慢していいぞ、坊主!」

 

 

 乱暴に頭を撫でられ、ズレたキャスケット帽を抑えながら見上げれば、件の人物の姿が。

 

 

「げっ、北島!?」

 

「北島さんだ馬鹿者! 目上の相手を呼び捨てとは何事か!」

 

「だ、だって……」

 

「ふんっ、若先生を見習わんか。そんな礼儀知らずだから、それが勝敗に結びついたんだ」

 

 

 今いる碁会所――≪囲碁サロン≫は塔矢行洋が経営しており、北島はその常連客のオヤジ。

 塔矢を≪若先生≫と呼ぶ様子からも相当の入れ込みようだが、対照的に自分には何時まで経っても呼び捨て、本因坊のタイトルを取ってからもそのスタンスは変わらない。

 徹底抗戦の構えを取ろうとするが、グウの根も出ず、湧いた反骨心も萎えてしまう。

 

 

「……あたしの負け、か」

 

 

 差は半目、結果は白――塔矢の勝ちだ。

 ヒカルと塔矢の互先で始まり、投了した勝負を自分が引き継いだ形になる変則した対局。

 正直、並みの相手なら絶対に勝てるという確信があった。

 それでも、相手はアマチュアで、小学六年生の子供で――だけど、塔矢アキラなんだ。

 棋力が不明な自分相手に、しかし塔矢は始終手を緩めず、情け容赦など欠片もなかった。

 だが、それでいい。

 自分の憧れが佐為なら、塔矢はライバルだ。

 佐為に匹敵する囲碁馬鹿で、度を超えた負けず嫌いな、頭でっかちな生涯の好敵手。

 例え今はまだ未熟な子供だったとしても、手を抜くなんてできなかった。

 その上で思う、やっぱり塔矢は強い――だから、負けて本気で悔しいって。

 

 

「そっか……あたし、負けちゃったんだ……っ」

 

 

 悔しくて、悔しくて、別の狙いがあっての対局だったとしても。

 勝ちたかった、負けたくなかった――他の誰でもない、相手が塔矢だったから。

 ポタっと、膝の上で握り締めた拳に涙が零れ、慌てて拭おうとして。

 

 

「――ヒカリっ!」

 

「……進藤?」

 

「……お前、なんで……こんな……」

 

 

 咄嗟に手を掴まれ、そちらを向けばヒカルの姿が。

 切迫した様子だが、何かを言おうと開いた口は中途半端に閉じてしまう。

 突然の剣幕に押し黙っていると、ガタリと激しい音の後、もう片方の腕が掴まれる。

 

 

「ご、後藤君!」

 

 

 掴んだ腕の正体は、塔矢で。

 両手が塞がったせいか、北島のせいでズレていたキャスケット帽が完全に頭から脱げ落ちる。

 視界が金で溢れ、腰まで伸びた髪が背中をくすぐる。

 瞬間、水を打ったように碁会所が静まり返った。

 

 

「…………女、の子……?」

 

 

 その言葉にムッとする。

 

 

「なんだよ、女が碁を打っちゃいけないのかよ」

 

 

 返答の言葉はなく、なおも室内を支配するのは静寂。

 埒が明かないと、進藤と塔矢の腕を振り払い、碁会所を後にする。

 泣いている顔を見られたことが恥ずかしいという気持ちも多分にある。

 だから、ヒカルには悪いが、今回の席料は自分持ちなのだから、それで勘弁願いたい。

 

 

「ひ、ヒカリ! 待てって!」

 

「待たない。進藤は残ればいいだろ、武者修行中なんだし」

 

「いや、でも……だってヒカリ、泣いて――」

 

「後藤さん!」

 

 

 出口に掛けた手が止まり、肩越しに振り返る。

 先程のヒカル同様、必死に何かを口にしようとして、それが叶わないような。

 呆れ顔で嘆息を零し、扉を開けようとした時、塔矢はようやく口火を切った。

 

 

「君は碁を初めてどのくらいになるの?」

 

 

 懐かしいその問いに、振り返ったまま、表情を笑みに変える。

 零れる涙を拭い、しゃんと気持ちを持ち上げ、不敵な笑みで塔矢を見据えて。

 冗談事を、しかしあの時は紛れもない真実だった、その言葉を。

 

 

「千年」

 

 

 虚を突かれた塔矢の顔に、悪戯成功と相好を崩し、今度こそ碁会所を後にした。

 

 

 

 

 

 ◆  ◇  ◆  ◇

 

 

 

 

 

 ――ヒカリと打たせてください!

 

 

 また始まったと、ヒカルはゲンナリと息を吐いた。

 時は体育、場所は運動場、本日も晴天なり。

 開始早々にクラスの男子共の総攻撃に合い、呆気なくアウトになったヒカルのいるのは場外。

 だが、ムシムシと熱く降り注ぐ陽光よりもなお鬱陶しいのは、自分にしか見えない幽霊だ。

 

 

 ――お願いします! ヒカリと! 彼女と打たせて欲しいのです! ヒカル! ねぇってば!

 

「何度頼まれても、俺の答えは変わらないぜ」

 

 ――そこをなんとか!

 

 

 あくまでも視線は前を向いたまま、意識を横へと向ける。

 

 

「前から言ってるだろ。他の奴ならともかく、ヒカリとだけは駄目だって」

 

 ――何度もという訳ではありません! 一局だけ! たった一局でいいですから!

 

「……その一局が問題なんだよ」

 

 

 視線の先、コートの中を輝く金髪が踊るように舞う。

 男子の投げたボールを受け止め、そのまま全力投球。

 自分の知る女子に良くあるナヨナヨしたフォームではない、立ち塞がる障害全てを粉砕せんばかりの剛速球は当然のように相手は捕球できず、それどころか零れたボールが近くの味方に当たる。

 沸き起こる歓声、二人抜きという偉業を成し得たのは異国の容姿をした一人の少女だった。

 

 

「……さすが男女。生まれる性別間違ってるぜ」

 

 

 塔矢との一局の後、涙を流すヒカリには掛ける言葉が見つからなかった。

 別に女の涙を見るのが初めてという訳ではない。

 腐れ縁なあかりとはよく口論になるし、その結果泣かせてしまうなんてことは何度もある。 

 だけど、初めて見たんだ。

 真剣に、まるで身を削るような、そして負けて、瞳から流れる悔し涙。

 自分が知っている真剣が馬鹿みたいに思えてしまう、本当の意味での真剣勝負を見たのは。

 

 

「くそっ」

 

 

 凄いと思った、それ以上に悔しかった。

 ヒカリの碁への姿勢が、そんな彼女の全力を相手に出来たのが自分ではないことが。

 同い年なのに、ヒカリの全力を引き出した塔矢が羨ましくて仕方がなかった。

 だけど、同時に心がどうしようもなく震えもした。

 自分は間違っていなかった、囲碁を始めて良かったって。

 目標とするヒカリの途方もない強さに、ヒカルは歓喜したのに。

 

 

「……佐為がやるっていっても、実際に打つのは俺なんだ。佐為が打てば、それが俺の実力ってことになる。そうなったら、俺はもう進藤ヒカルとしてヒカリと打てなくなるってことなんだぞ」

 

 ――そ、それは……。

 

「仮に説明したとして、誰が信じるっていうんだよ。今打ってるのは俺じゃない、佐為っていう幽霊が打ってるんだって。そんな風に説明して、ヒカリが納得すると思ってんのかよ」

 

 ――……すみません。

 

「……いや、俺も言い過ぎた」

 

 

 別に意地悪している訳じゃない。

 未だに底知れない棋力を持つ佐為の方が、自分が打つよりもずっとヒカリのためになる。

 だけど、嫌なんだ。

 ヒカリが自分を見てくれなくなることが、佐為だけを見ることが。

 ヒカルにとって、ヒカリは碁を始める切欠であり、絶対に勝ちたい、そう思える相手だから。

 

 

「はぁ……俺だって分からずに碁を打つ方法でもあれば別なんだけどな」

 

 ――そんな都合のいい方法なんてある訳ありませんよ。

 

「だよなぁ……」

 

「――あるよ」

 

「わぁ!?」

 

 

 突然の声に、驚き飛び退いてしまう。

 

 

「き、急に声かけんよ、あかり!?」

 

「急じゃないよ、さっきからずっと声掛けてたもん。無視するヒカルが悪いんでしょ」

 

 

 そう言って、あかりはプクリと頬を膨らませる。

 佐為に続いて面倒な奴が現れたと、そんなことを思ってしまうヒカルだった。

 

 

「そ、そんなことよりさ」

 

「そんなこと?」

 

「いや、だから悪かったって。その、俺だって分からずに碁を打つ方法って……」

 

 

 暫く睨むあかりだったが、相変わらず頬を膨らませたまま明後日の方向を向く。

 

 

「……ネット碁」

 

 

 ぼそっと呟かれた聞き慣れない単語に、首を傾げる。

 

 

「だから、ネット碁だよ。インターネットを使って、世界中の人と打てるの。私も最近始めたんだけど、色んな強さの人がいて面白いから、その……ヒカルもどうかなぁって」

 

「……ネット碁かぁ。でも、ヒカリがやってないんじゃ意味ないだろ」

 

「ひーちゃんもやってるよ、ネット碁」

 

「……はい?」

 

「だって、私にネット碁のこと教えてくれたの、ひーちゃんだもん」

 

 

 絶句、ただただ絶句である。

 

 

「お、おまえなぁ!」

 

「きゃあ!?」

 

 

 堪らず詰め寄ると、あかりは悲鳴を出した。

 

 

「なんでそういう大事なこと黙ってんだよ! ズルいぞお前らだけ! 俺に内緒でそんなことやってたのかよ!」

 

「ひ、ヒカルだって私に内緒で囲碁教室通ってるでしょ! 人のこと言えないじゃない!」

 

「な、なんでお前も知ってんだよ!」

 

「そのことは別にいいでしょ!」

 

「よくねぇよ! 大体あかりは一々煩い――」

 

 ――ヒカル! ヒカル!

 

 

 佐為の制止の声に、しかし憤りが収まらない。

 

 

 ――彼女にネット碁なるものをご教授願いましょう! そうしましょう!

 

 

 その言葉にハッとし、ぐっと言葉を堪える。

 突然の沈黙に身構えるあかりの肩に、勢いよく両手を置き、ぐっと顔を近付けた。

 

 

「あかり!」

 

「ちょ、ヒカル!? だ、駄目だよ、その……今は、授業中だし……」 

 

 

 何故か真っ赤になるあかりに構わず、思いの丈を口にする。

 

 

「俺にネット碁を教えてくれ!」

 

 

 取り敢えず了承は貰えたのだが、何故か思い切りビンタされた。

 放課後まで口も聞いてくれなかったのが地味に堪えたヒカルだった。

 

 

 

 

 

 ◆  ◇  ◆  ◇

 

 

 

 

 

 そして、時は過ぎ、週末。

 待望の休みへ突入し、ヒカルも例に漏れず、外へと飛び出す。

 

 

 ――凄い凄い! こんなにたくさんの書物があるなんて!

 

「……頭痛が痛い」

 

 

 ハシャグ佐為とは対照的に、ヒカルはウンザリしたように呟く。

 目の前に広がるのは本、本、本――。

 これが全て漫画なら諸手を挙げて喜ぶところだが、生憎近所の図書館に漫画は置いていない。

 碁を始める前は専らアウトドア派、今でも難しい本など見るだけで駄目だ。 

 しかし、今回図書館を訪れたのは本を読むことが目的ではない。

 

 

 ――ほら、ヒカルあれ! パソコンがあんなにたくさん! 早く打ちましょう!

 

「そんな急かすなって」

 

 ――そうもいきません! 今この瞬間もヒカリがいるのかもしれないんですよ! ヒカルがのんびりしているうちにヒカリがどこかへ行ってしまったらどうするのですか!

 

「はいはい、分かりましたよっと……」

 

 

 受付で手続きを踏み、これでパソコンの借用は完了である。

 あの体育の授業の後、久方ぶりに訪れたあかりの家に、彼女の母が持っているパソコンを使ってネット碁のやり方を教えてもらったのだ。

 ヒカリには絶対に内緒だという口止めは勿論忘れてはいない。

 口止めと授業料ということで、この後買い物に付き合わされるのは完全な誤算だったが。

 

 

「s、a、i……よし、これで準備完了だ」

 

 ――よろしいのですか? 私の名前を明かしてしまっても。

 

「ハンドルネームだからな。そもそも、お前のことは俺以外には見えないし知らないんだ。別に問題ないだろ」

 

 

 ログイン画面でハンドルネーム、≪サイ≫――≪sai≫と打ち込み、しかし対局は始めない。

 待機画面に映るログインリストを食い入るように見つめ、目的の人物を探す。

 

 

「――見つけた」

 

 

 あかりからおおよその時間帯を聞いていたが、狙い通りだ。

 即座に対戦申し込み、程なくして了承が得られ、ヒカルは後ろにいる佐為に振り返り、

 

 

「――――」

 

 

 開いた口を、すぐに閉ざす。

 アレだけはしゃいでいた、子供のような佐為はそこにはいない。

 目を瞑り、微動だにせずに静かに佇むその立ち姿。

 塔矢との対局に乱入してきたヒカリの時も感じた、覚悟の決めた者の空気が満ちていた。

 

 

 ――神に、そしてヒカルに。私は心から感謝します。

 

 

 怖いくらいの真剣な眼差し。

 ゴクリと息を呑み、パソコンに向き直ったヒカルは、マウスを手に集中する。

 自宅の部屋で打つ代打ちと何ら変わりない、だけどミスは絶対に許されない。

 物音一つ立てることすら躊躇われる、そんな雰囲気の中、ヒカルは願った。

 画面の先にいる彼女に、切に願う。

 佐為の全力に応えてくれ、もう一度俺にお前の本気を見せてくれと。

 

 

「いくぞ、佐為」

 

 ――ええ、ヒカル。

 

 

 ハンドルネーム、≪アイズ≫――≪ais≫こと後藤ヒカリ。

 コミは五目半の互先、こちらが黒。

 その第一手、右上スミ小目へと、ヒカルはマウスを動かすのだった。

 

 

 

 

 


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