佐為と進藤ともう一人のヒカル   作:もちもちもっちもち

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まる4

 気付けば、ヒカルは真っ暗な闇の中にいた。

 

 自分は図書館にいた筈では、そう思った時だ。

 ボウっと、目の前に碁盤が浮かび、次いで碁石と碁笥も。

 理解が追い付かないヒカルは、遅れて現れた存在に息を呑んだ。

 白い衣に黒の烏帽子、座した床に広がる黒髪は闇の中でなお輝いている。

 盤上を睨む眼差しが閉じられ、直後に踊る指先から黒の一手が放たれた。

 

 

「佐為……」

 

 

 碁を初めて半年のヒカルでも分かる、それはこれ以上にないほどの最善の一手。

 普段こそ指導碁ばかりだが、改めて佐為の強さを認識した、次の瞬間、

 

 

「…………え」

 

 

 佐為の対面、突如浮かんだ指先から放たれる白の一手。

 間違いなく致命的だった佐為の一手を躱し、そこから更なる可能性を伺わせる。

 熟考などない、ノータイムの反撃。

 心なしか表情を歪める佐為は、相手の可能性を潰そうと黒石を掴んだ。

 

 

「すげぇ……」

 

 

 盤上という小さな世界に形成される、黒と白のコントラスト。

 僅かな綻びさえない、少なくともヒカルにはそう見える完成された世界。

 だが、違うんだ、佐為にも、そして相手にとっても。

 広い、まるで天から地上を見下ろす神様のように、遥かなる高みからの応酬。

 矮小なヒカルには見えない、ずっと先を見通す様な、可能性の潰し合い。

 これが強者の戦い、これが本当の碁、自分が目指す頂の光景。

 気付けばぎゅっと握られた拳は畏怖か、それとも武者震いか。

 

 

「……あれ?」

 

 

 互角に見えた盤上の戦いが、一方に傾く。

 毎日のように佐為と打ち、他の碁会所で武者修行をするヒカルだからこそ気付いていた。

 佐為は強いが、打ち筋がどこか古臭いのだ。

 碁には定石と呼ばれる、研究の末に導き出された最善手が存在する。

 本来であるなら不要な一手を、現代の定石を知らないが故に、佐為は打たざるを得ないのだ。

 今まではその圧倒的棋力で誤魔化せていた佐為の弱点に、綻びが生じる。

 あるいはもっと前からか、ヒカルの目には黒が劣勢に陥っているように見えた。

 

 

「――あっ」

 

 

 だが、それも次の白の一手を見るまでだった。

 左方の鬩ぎ合いから一転、全く関係のない場所への一手。

 ヒカルでも分かる、明らかな悪手だ。

 佐為からもその戸惑いは伝わってきて、暫しの逡巡の後、左方の戦いへ一手を投じていく。

 そのまま戦いは終盤へ。

 一度は劣勢だった黒はその差を縮め、あと一歩というところまで追い詰めていた。

 この調子で行けば逆転も十分に視野に入る、そう思った時――

 

 

「――――」

 

 

 空気が、音を立てて凍り付いた。

 息を呑む佐為に戸惑うが、盤上には何ら変化はないように思える。

 しかしだ、心がざわつく。

 皮膚の下に虫でも這いずるみたいに、得体の知れぬ悪寒が全身を駆け巡るのだ。

 

 

「な、んで……」

 

 

 やがて、その違和感は決定的なものに。

 堅実な打ち筋から一転、佐為は標的に喰らい付く獣のように強引に敵陣へと攻め込んでいく。 

 何が佐為をそこまで焦らせるのか。

 集中し過ぎたからか、目を休ませようと瞳を閉じ、改めて盤上を見渡す。

 

 

「…………うそ、だろ」

 

 

 先程の白の悪手が、気付けば盤上を支配していた。

 有り得ない事態に、皮膚が泡立つ。

 こんな一手、絶対に有り得る訳がない。

 それこそ、佐為の思考や打ち筋を全て理解でもしない限りは絶対に不可能な、そんな最善にして最高の位置に、燦然と輝く白の碁石が鎮座していた。

 

 

「これが、あいつの全力」

 

 

 一体、彼女にはどんな光景が見えているのか。

 ヒカルは見誤っていた。

 前回の対局、塔矢との戦いで見せた怒涛の追い上げ。

 アレが彼女の持てる全ての力だと、そう思っていた。

 

 

「これが、本当のヒカリの碁だっていうのか」

 

 

 浮かんだ指が白を掴んだ直後、今まで見えなかった姿が露わになっていく。

 自らが発光しているみたいに輝く金髪に、佐為を真っすぐに見据える緑の瞳。

 だけど、これはどういうことなのだろう。

 必死に挽回の手を模索しているのだろう、盤面に視線を落とし続ける佐為は気付いていない。

 だから、ヒカリを見ているのはただ一人、傍観者であるヒカルだけだったから。

 

 

「……また、泣いてる」

 

 

 ヒカリは、泣いていた。

 盤面ではなく、佐為を見据えて、静かに涙を流していた。

 

 

「――――」

 

 

 その声は、今にも消えてしまいそうなほど、儚くて。

 たった一言、それ以降の言葉はなく。

 あまりにも小さなヒカリの言葉を、ヒカルは拾い取ることが出来なかった。 

 だけど、同時に想うのだ。

 部外者の自分に、ヒカリと佐為の語らいを聞く資格などないんだと。

 

 

「……ヒカリ」

 

 

 沸き起こる疎外感に、ヒカルが呟いた声は反響することなく消えていく。

 強くなりたい。

 ヒカリに振り向いて貰えるくらい、塔矢にも、佐為にだって負けないくらい、強く。

 そして、終わりは静かに訪れる。

 天を仰ぎ、瞳を閉じた佐為の口から、その言葉は零れていく。

 

 

「……負けました」

 

 

 黒、≪sai≫。

 白、≪ais≫。

 勝敗、黒の投了。

 

 仮想空間で実現した勝負は、後藤ヒカリへ軍配が上がったのだった。

 

 

 

 

 

 ◆  ◇  ◆  ◇

 

 

 

 

 

 シトシトと降り積もる雪が、ヒカルの頭上へ。

 あかりとの約束を果たすべく、約束の場所へと歩くヒカルに、佐為は追従してくる。

 

 

「……佐為」

 

 

 振り返ったヒカルの言葉には、力がなかった。

 短い付き合いだが、佐為が碁に並々ならぬ情熱を注いでいるのは分かる。

 敗者に掛ける言葉はないというが、今回の相手は強者とはいえ自分と同い年の少女。

 大人の佐為が、子供のヒカリに負ける。

 幾度も挑み、その度に連敗記録を増産するヒカルだが、未だに敗北に慣れることはなかった。

 だから、なおのこと、どんな言葉を掛ければいいのか。

 

 

「あの、さ……」

 

 

 立ち止まり、ずっと俯いていた佐為を見上げる。

 

 

「その、負けて悔しいのは分かるけど、でもさ――」

 

 ――ほんっとうに! ヒカリは凄い!

 

「…………へ?」

 

 

 顔を上げた佐為に、悲壮感は微塵だってありはしない。 

 キラッキラと輝く瞳に宿るのは、純粋無垢な喜色に染まっていた。

 

 

 ――火のような苛烈な攻め! 山のような堅牢な守り! こちらの隙間へと潜り込む風のような打ち筋! あの年であれだけ落ち着いて打てることでも驚きなのに! 凄い凄い! すごーい!

 

 

 諸手を挙げ、ヒカルの周りをクルクルピョンピョンと飛び跳ねる、そんな佐為の姿に。

 心配した自分が馬鹿みたいだと思ったけれど、同時に思い知らされた。

 佐為の碁を愛する姿勢。

 勝敗さえも超越した、そんな佐為が敗北程度でめげる訳がないのだと。

 

 

 ――ヒカリと打てて良かった! 先程の一局だけでも、現世に留まった甲斐があります!

 

 

 苦笑を浮かべ、ヒカルは改めて佐為へ問い掛ける。

 

 

「そっか。なら、満足したか?」

 

 ――いえ、全く!

 

 

 ピキリと、ヒカルの笑顔が凝結する。

 メラメラと、佐為の瞳が燃え上がる。

 

 

 ――黒を持って敗北したのはあれが初めて! 確かにヒカリとの対局は心躍りましたが、私にも意地があります! 次こそは絶対に勝つ! 待っていなさい、後藤ヒカリ!

 

「ちょ、ちょっと待て!? 話が違うだろ! 一局で満足するんじゃなかったのか!」

 

 ――寧ろ俄然やる気が出てきました! という訳でヒカル! 次もお願いします!

 

「ふざけんな! 大体、最初にヒカリに勝つのは俺なんだからな! 佐為はその後!」

 

 ――そ、そんな殺生な!? 一体何年待てばいいのですか!?

 

「こんにゃろう! ヒカリばっか追いかけて、いつか俺に足元掬われても知らないぞ!」

 

 ――ヒカルに? ……ふっ。

 

「鼻で笑いやがったな!」

 

 ――弟子が師匠に勝つなど千年早いのです!

 

「いつから犬コロの弟子になったんだよ!」

 

 ――誰が犬コロですって!

 

「教えてやるよ! 師匠ってのは必ず弟子に追い抜かれる運命なんだってことをな!」

 

 ――ヒカルのくせに生意気です!

 

「お前にだけは言われたくねぇ!」

 

 

 気付けば、罵り合いに。

 仲の良いのか、悪いのか。

 それでも、弟子(ヒカル)師匠(佐為)、共に目指す背中は同じだから。

 

 

「ヒカリに勝つのは俺だ!」

 

 ――いえ、私が勝ちます!

 

「俺が先だ!」

 

 ――私の方が先です!

 

「俺だ!」

 

 ――私です! 

 

「俺!」

 

 ――私!

 

 

 ヒカリを巡っての論争は、あかりとの待ち合わせ場所に着くまで続き。

 そのことであかりの機嫌がずっと低空飛行を続けることになるのは、また別の話。

 碁への理解は深くても、女心に関しては依然乏しいヒカルだった。

 

 

 

 

 

 ◆  ◇  ◆  ◇

 

 

 

 

 

 水気を帯びた髪を乾かすことなく、ヒカリはベッドに倒れ込んだ。

 風呂上がりの火照った頬に、外気に当たり冷たくなったタオルが心地よい。

 朱が差した瑞々しい肢体を惜し気もなく投げ出し、ボーっと天井を見上げる。

 

 

「…………」

 

 

 待ち望んだ一局が叶った。

 自分への対局に執着するヒカルがいる以上、今のままでは佐為と打つことは不可能。

 だから、攻め手を変えてみることにした。

 塔矢との一局でこちらへの興味を掻き立て、佐為に自分との対局をヒカルにせがませる。

 当然、ヒカルが面と向かって佐為を打たせることはない。

 そこで、あかりの登場だ。

 ヒカルが碁ばかりに構うからだろう、興味を持ったあかりにネット碁を勧めてみる。

 そこからヒカルへネット碁の話が伝われば、絶対に自分に挑戦してくるはず。

 そして今日、念願の佐為との一局が実現した。

 

 

「…………」

 

 

 だけど――。

 体を起こし、部屋の中央に鎮座している碁盤に、石を並べていく。

 心躍る、待ち望んだ佐為との一局。

 しかし、終わってから心へと降り積もるのは、どうしようもない違和感だった。

 

 

「…………」

 

 

 佐為は強かった。

 現代の定石を知らず、更には佐為の打ち筋はこちらには筒抜け。

 事実、序盤から最後まで、自分は主導権を握り続けていた。

 今回の一局、圧倒的にこちら側に有利な戦いだったのに。

 それでも、終盤の追い上げには危機感を持たざるを得なかった。

 結果だけ見れば中押し勝ちだったが、佐為のこれからの成長を知る身としては、この程度の差、うかうかしていればあっと言う間に縮まってしまうことだろう。

 

 

「……違う」

 

 

 だけど、同時に思ってしまうのだ。

 佐為は佐為だけど、佐為じゃない。

 自分の知る佐為と、ヒカルに憑りついた佐為は、同じ佐為でも違うんだって。

 ヒカルを通して現代の碁を学び、近いうちにかつての高みへと上り詰めるだろう。

 しかし、それは自分の知っている佐為と同じかと聞かれれば、違うと言わざるを得ない。

 既に歴史は、自分の時とは異なる道筋を辿っている。

 

 

「……やっぱり、違うよ」

 

 

 ヒカルはこの時点で、かなりの実力を有していた。

 自分が本格的に碁にのめり込んだのが中学生に入ってから。

 だが、打倒ヒカリに燃えるヒカルは、既に碁の世界にどっぷりと浸かり切っている。

 院生試験は難しいだろうが、三谷と互先でいい勝負が出来る程度の棋力は持ち合わせていた。

 この調子なら、中学に入学する頃には院生試験も突破できるだろう。

 そして、そんなヒカルに触発され、佐為もまた――。

 

 

「ここも、ここも……ここだって……全然、違う……」

 

 

 成長という未来は、可能性という幾筋もの道を形作っているものだ。

 心のどこかでは、こうなるんじゃないかって思ってた。

 

 

「こんなの、あたしの知っている佐為じゃない……」

 

 

 自分という異物の存在が原因で、佐為は正史とは違う道筋を辿っている。

 同じ佐為でも、同じ高みへと上り詰めたとしても、それは自分の知っている佐為じゃない。

 今日の一局で、今まで目を背けていた可能性が、確信へと変わってしまった。

 佐為は、自分の知っている佐為じゃない――そんな当たり前のことに。

 

 

「……ははっ」

 

 

 気付けば、視界が滲んでいた。

 手の甲で拭い、それでも流れる涙を何度も、何度も拭う。

 進藤ヒカルの記憶を持っていても、12年間後藤ヒカリとして歩んだ、二人の記憶を有する体。

 馬鹿みたいに泣き虫な自分が嫌になる。

 勝手な期待を佐為に押し付け、勝手に失望する自分が、心の底から卑しいと感じる。

 こんなの、佐為に失礼じゃないか。

 純粋に碁を楽しみ、自分との対局を切望してくれたのに、自分は醜い下心ばっかりで。

 

 

「あたし、最低だ……」

 

 

 涙で濡れた盤上を、衝動のままに荒らす。

 自分の心を現すかのように、黒と白が乱雑に散らばった盤上に伏せ、涙を必死に押し殺す。

 だけど、どれだけ我慢しても、涙は止まってはくれなくて。

 佐為との対局中みたいに、流れ落ちる悲しみの涙が、ポタリと、何時までも。

 

 

「最低の、大馬鹿野郎だよ……」

 

 

 きっとこれは、神様が自分に与えた罰なのだろう。

 本当のヒカリを知る者が誰もいない、過去の世界で、一人孤独に生きる。

 佐為と一緒に、遥かなる高みを目指すヒカルを、傍観することしか出来ず。

 筒井や三谷、和谷、伊角、他にもたくさん――。

 そして、塔矢だって、神の一手を目指すヒカルと佐為を追い掛けるんだ。

 誰にも理解されることなく、一人虚しく、碁を打つことしかできない、それが罰なんだと。

 

 

「佐為……っ」

 

 

 返事は、返ってはこない。

 かつていた、鬱陶しいくらいに心配性でお節介な、自分だけの幽霊は、もういない。

 自分の我儘で、神の一手を極めることなく、志半ばで現世を去っていったのだから。

 

 ヒカリは今、独りぼっちだった――。

 

 

 

 


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