燃え尽き症候群である。
「……はぁ」
人気のない公園で、ヒカリは一人ポツンとブランコに乗っていた。
ゲームに漫画、スポーツにアニメ、女の子らしくお菓子を作ってみたり。
色々と試しては見たが、ふとした瞬間に脳内で棋譜を並べてしまう、重度の囲碁脳。
禁断症状のように部屋の碁盤へと手が伸びるが、それではいけないとこうして外に出てみた。
「……暇ってどうやって潰すんだっけ」
口にしてみて、あまりにも間抜けな発言に苦笑してしまう。
進藤ヒカルの記憶を思い出し、佐為と対局するという目標をやっとの思いで達成して。
その結果得たものが、佐為が佐為じゃないという事実と身勝手な自分の矮小さ。
後藤ヒカリとして12年間生きてきたからか、ただの泣き虫な女の子が取ったのは現実逃避という、あまりにも情けないものだった。
碁を打てば嫌なことを思い出す、だから他のことをして紛らわせようと。
結論して、ヒカリという少女は碁なしでは生きていけない人種なのだと再認識しただけ。
「さすがにそれは色々とアウトだろ。あたしは今、小学生なんだぞ。もうすぐ中学生になるんだぞ。青春真っ盛りなんだぞ。それなのに趣味特技が碁で他にやることがないって、それは女として……あ、ヤバい、前科がいるわ」
男勝りで負けん気の強い、趣味特技が碁の女の子。
該当する人物が一人いることに乾いた笑みが零れてしまう。
「奈瀬……お前って実は結構残念な奴だったんだな」
もし会うことがあれば、普段は碁以外で何しているか聞いてみよう。
返答が帰ってこなければ、一緒に傷の舐め合いでもしてみようかな。
なんて下らないことを考えている時だった。
「――あの」
予想外の声に、弾かれたように顔を向ける。
「……良かった。人違いだったらどうしようかって思って……」
「……塔矢?」
「久しぶりだね、後藤さん」
安堵を顔に浮かべ、ホッと息を着いた塔矢は、そのまま隣のブランコへと腰掛けた。
横目で伺ってみれば、額には汗が浮かび、息も心なしか上がっている。
「もしかしなくても、あたしのこと探してたとか?」
「そのつもりだったんだけど、後藤さんが帽子を被ってることを思い出して」
「……別に好きで被ってる訳じゃないぞ。この髪だと色々と目立つだろ」
「……その、この前はゴメン。てっきり男の子だと思って……」
「別にいいよ。クラスじゃ男女って言われてるし、紛らわしい恰好してるあたしも悪いんだから」
「……本当にゴメン」
どうしよう、鳥肌が立ってきた。
記憶にある塔矢はガミガミと何かにつけてはこちらの言動に突っかかってくる口煩い奴だっただけに、オドオドしながら様子を伺って来る今の彼は正直言って気持ち悪い。
囲碁サロンで会った時もだが、塔矢と仲良く握手とか絶対に無理だ。
「後藤さん――君に会いたかった」
だから、真剣な眼差しでそう切り出された時。
ドキッと胸が鳴ったのは、自分が後藤ヒカリでもあるからなのだろう。
「いきなりで悪いけど、もう一度僕と打ってほしい。今度は前回のような変則的な対局じゃない。互先で。進藤君の言葉を借りるなら、指導碁も手抜きも禁止のガチンコバトルでだ」
同時に、塔矢は変わっていないと分かって安堵する。
ヒカルに佐為という偶像を重ね、愚直にそれを追い求めてきたその精神。
一歩間違えたらストーカーだなとか思ってしまうのは、自分が女だからか。
「……悪い、今はそういう気分じゃないんだ」
しかし、残念ながら塔矢の気持ちには答えられない。
「理由はっ……ゴメン、不躾だったね」
「ははっ、塔矢は何でも気にし過ぎなんだよ」
「……ゴメン」
「ごめん禁止。次言ったらもう打ってやらないからな」
「そ、それは困る!?」
「ぷっ……あはははははっ!」
冗談の通じない、そのクソ真面目な塔矢の対応に。
悲しみでも悔しさでもない、腹を抱え笑う自分の瞳から涙が零れる。
赤面する塔矢は力なくブランコに座り込み、恥かしそうに項垂れた。
「……そう言えば、あたしのせいであの時の碁、検討が出来ず仕舞いだったな」
本音を言えば、今は碁に触れたくはない。
弱い自分には、もう少しの間だけ、ただの女の子である後藤ヒカリの時間が必要だった。
だけど、こうして塔矢と話すことで、気持ちが少しだけ軽くなったことに気付いて。
ブランコから立ち上がり、塔矢の正面に躍り出る。
「この前の検討ならいいよ。その代わり、席料は塔矢持ちだからな」
塔矢の頑張りに、報いるために。
突然の提案に、興奮を隠すことなく塔矢は立ち上がった。
「あ、ありがとう後藤さん!」
「――ヒカリ」
そんな塔矢に背を向け、肩越しに振り返りながら。
「ヒカリって呼んで。あたしだけ呼び捨てじゃ不公平だしね」
これで貸し借りなし、自分達は対等な存在。
かつてのライバルとの懐かしい距離感に、ヒカリは心からの笑みを零すのだった。
◆ ◇ ◆ ◇
「何度同じことを言えば分かる!」
「お前だってなんべん同じこと言ったと思ってんだ!」
場所は移り、此処は囲碁サロン。
経営者の親類という特典なのか、今後からも塔矢がいる場合に限り席料なしで打ってもいいという、小学生故に懐事情の厳しい身としてはあまりに魅力的な提案に即了承。
自分のことを覚えてくれていたのか、入店してすぐに集まる人だかり。
そのまま和気藹々と進む筈だった検討は、欠いていたもう一人の存在の乱入によって殴り合い秒読み開始の殺伐としたものへと変貌を遂げてしまった。
「この一手は明らかな失着だ! 深追いして大損をしたことはもう忘れたのか!」
「結果的には大損だったけど分の悪い賭けじゃなかっただろうが!」
「君の実力ではまだ早いと言っているんだ! 普通の人よりも早熟というだけで天狗になったつもりか! そんなだから僕に大差を着けられるんだ!」
「この一手にはヒヤッとしたって言ったの忘れたとは言わせねぇぞ! 天狗になる? 碁を初めて半年の俺にヒヤッとするレベルで偉そうなことをいうな!」
「事実を言って何が悪い!」
「そんな風に熱くなるから何度も見落とすんだよ! 俺の指摘になるほどって感心したのはどこのどいつだ! 格下って見下してるからそんなことになるんだ!」
「僕が見落としたのはたったの一度だけだ! それに比べて君は何度目だ! 何度ああそうかと言った! 軽く十は超えているぞ! いい加減しろ!」
片方が塔矢、そしてもう片方はヒカル。
既に人だかりは退散し、ポツンと一人寂しく立つのが、後藤ヒカリこと自分だったり。
盤上を指差しヒートアップする論争は、鎮火するどころか連鎖爆発する勢いで燃え盛っていく。
「十回じゃない、九回だ! 勝手に増やしてんじゃねぇぞ、塔矢!」
「いいや十回だ! いい加減に自分の非を認めろ、進藤!」
子供か、と心の中でツッコム。
そう言えばこいつ等まだ小学生だったなと、遠い目をする。
「……どうしてこうなった」
始まりは、ヒカルが塔矢を探して囲碁サロンに入店して来たことから。
今まさに検討を始めようというタイミングで、当事者であるヒカルも当然のように参加。
同年代ということですぐに打ち解け合う両者だったが、段々と雲行きが怪しくなり。
結果はご覧の通り。
口論に夢中の塔矢は、進藤への君付けが取れていることには気付いていないだろう。
ヒカルも微妙にあった、強者である塔矢への憧憬など何処かへ行ってしまっている。
帰ってもいいだろうかと、周りの年寄り連中に習い逃走を図ろうとして、
「「――ヒカリ!!」」
しかし、ヒカルと塔矢に阻まれた。
「……なんでしょう」
「お前から塔矢に言ってやれよ! 俺がああそうか、って言ったのは九回だって!」
「勝手に記憶を捏造するな、進藤! ヒカリ! 君からもこの分からず屋に言ってくれ!」
「分からず屋はどっちだ! この頭でっかち!」
「君ほどの頑固者を見たのは僕は生まれて初めてだ!」
「なんだとぉ!」
「なんだ!」
そのまま胸倉を掴み合い、至近距離からの威嚇。
大きな溜息を吐き、どうこの場を切り抜けるかと考える。
その時、ヒカルの後ろにいる佐為がそわそわしている気配が伝わってきて。
盤面を見渡し、物言わぬ佐為の代わりにと指を指し示す。
「……あたしなら、此処に打つ」
口論はピタリと止み、瞬時に二人は席に着き、こちらの言葉に耳を傾け出す。
現金な奴等と冷めた目で一瞥し、続きを促す二人に空気に後押しされる。
「……でも、それだど他の守りが手薄に」
「多少取られるのは仕方がない。それに、結果から見れば損をするのは白の方」
「ほら見ろ、塔矢。俺の攻め方は間違ってなかったじゃないか」
「負けた奴が検討で偉そうにするのって相当情けないぞ。あたしには負け犬の遠吠えに聞こえる」
「うぐっ」
「……なるほど、こんな一手があったなんて」
これで喧嘩は一段落。
ホッと一息着き、自分の指摘を代弁されて喜ぶ空気を出す佐為に若干和んでしまう。
「塔矢」
「なんだ、進藤」
「なるほどって言ったの、これで二回目だな」
「十回も言った君ほどじゃないさ」
「勝負だこの野郎! 下剋上してやんぜ!」
「格の違いを見せてやろうじゃないか!」
そのまま検討は終了。
ニギリもせず、前回と同じように黒がヒカル、白が塔矢のまま第二ラウンドへ。
感情的になっているのか、盤上へ打つ石の音は激しく、その上結構な早打ちだ。
とてもではないが、良い碁になる筈もなく、経験の浅さからか早速ヒカルは失着。
すぐに気付き、悔しがるヒカルを塔矢は鼻で笑うが、直後の一手は最善の一手とは言い難い。
碁には誠実な塔矢が対局相手を嘲るなんて、完全に頭にきている証拠だ。
殴り合いの暴力ではないだけで、それは傍から見ればただの喧嘩でしかなかった。
「……あたしはまた、傍観者か」
以前の自分なら、下らないと一笑に付してしたのに。
気持ちをぶつけ合える彼等が羨ましいなんて、そんなことを思ってしまって。
対局に集中していて気付かないだろうと、そんな考えの元に踵を返す。
検討は終わったのだから帰って当然――そんな言い訳を誰ともなく口にして。
此処には自分の居場所なんてないと、暗雲とした気持ちで出入口へと向かい掛けて、
「――――」
誰かが目の前に立ち塞がる、そんな気配がした。
目の前には誰も居ないけれど、分かっているんだ。
ヒカルや塔矢は気付かなくても、佐為は自分を見ているということに。
佐為が、自分のことを心配して引き留めようとしているんだって、分かってしまったから。
「……っ!!」
そのことが、どうしようもなく胸をざわつかせる。
佐為は自分の知る佐為じゃない――でも、彼が佐為であることには変わりはない。
姿なんて見えなくても、そこに佐為がいることは分かる。
声が聞けなくったって、佐為が考え付きそうなことなんてすぐに分かる。
だからこそ、胸が痛むんだ。
俯き、熱くなった目頭を見られまいとして。
全てを打ち明け、目の前の佐為に縋りたいと、そんな自分の身勝手さを振り切るように。
佐為を迂回するように遠回りをし、今度こそ囲碁サロンを後にする。
「――――」
背中に何時までも残る、逢いたいと切望する佐為の視線に気付かない振りをしながら。
◆ ◇ ◆ ◇
去っていくヒカリの背中を、佐為は見ていることしか出来なかった。
再び碁を打つ機会と巡り合うことができ、不満など一つだって有りはしなかったが。
今この瞬間、何もできないこの身が歯痒くて仕方がない。
生涯の全てを囲碁に捧げたこの身、だから気の利いた慰めの言葉の一つも浮かばなくて。
例え浮かんでも、それを伝える方法も、ヒカリが悲しむ原因さえも分かりはしないのだから、自分がこうして悩んでいることさえも詮無きことに過ぎないのだから。
――幽霊とは、こうも歯痒いものなのですね。
嘆息を零し、ヒカリの出ていった扉をもう一度だけ見遣り、佐為はヒカル達の方に振り返る。
――あれ?
ふと、違和感が頭を過る。
それは、本当に些細なものだった。
普段なら見逃してもなんらおかしくはない、その程度のものでしかなかったけれど。
その時、佐為にはどうしようもなく気になって仕方がなかったから。
――先程、ヒカリは……私を、避けた……?
態々遠回りをしてまで、ヒカリは佐為を避けた。
あのまま進んでいたら佐為とぶつかっていたのだから、ヒカリの行動は当然のものだ。
もっとも、それは佐為が幽霊で、誰にも触れられず認識されない存在でなければの話だが。
他にも理由があっての遠回りではないかと周りを見渡すが、理由らしい理由も見当たらず。
先程まで些細な問題でしかなかった違和感が、どんどん膨らんでいく。
――まさか……まさか、ヒカリは……私のことが――
それ以上の思考は、突然のざわつきによって掻き消される。
――あの者は……!?
入口から入って来たのは、着流しを纏った初老の男だった。
だが、ヒカルと塔矢の口喧嘩に巻き込まれてはと静かだった碁会場が、その男の登場と同時に俄かに騒ぎ出す。
碁会場中の者達が、自分達の対局さえも放り出し、その男の元へと向かう。
途端に形成される人だかりに、しかし男はやんわりと断りを入れ、こちらへと向かって来る。
佐為と相対し、当然のようにこちらには気付くことなく、ヒカルと塔矢の対局を観戦。
男に習うように、二人の対局に目を落とし――ゲッとらしくもない声を上げた。
――ひ、酷いっ!?
惨状である、紛うことなき惨状だった。
碁は、打ち手の棋力もだが、その者の心の強さも直結する。
常に平静であることも強さの一つだが、感情的になることもまた心の強さの一つ。
要は自分の感情を力に変えられれば良いのだ。
だからこそ、ヒカルと塔矢の一局は、思わず目を背けたくなるほどに酷いものだった。
感情を制御するなど、幼い身である彼等に出来る筈もなく、冷静さを失っているせいか強引な打ち筋が目立ち、感情だけが空回りしている。
例えるなら、防御を捨て全力で斬り合っているようなものだ。
――あわわわ!? どうしてこのようなことに! ちょっと目を離しただけなのに!?
思わず顔を両手で覆った佐為は、チラリと横目で隣の男の様子を伺い、
――へ?
彼が静かに笑っていることに、不思議そうな声を上げる。
「……アキラもまだまだ子供だと言うことか」
それは、まるで我が子の成長を見守る親のように。
そして、塔矢の向かいに座るヒカルには、息子の友達を歓迎する父のように。
見るに堪えない盤上を、慈愛の籠った眼差しで、その男は見守り続けていた。
――なるほど、そう言うことだったのですね。
佐為は知っている。
目の前の男もまた、自分が対局を切望する者の一人。
日本囲碁界の重鎮にして、現代最強の打ち手と名高い。
塔矢の姓を持ち、アキラと似た顔立ちをした、その男の正体は。
――あなたが、塔矢行洋。
過去と現代、共に最強の碁打ちが相見えた、最初の瞬間だった。