最初は、ただの冗談だと思った。
親のひいき目などなしに、息子のアキラの棋力は既にプロの領域に達している。
多くの碁打ちが我が家には引っ切り無しに訪れ、物心つく頃から毎日のように打ってきた。
碁打ちを志す環境として、これ以上のものは存在しないだろう。
だが、それ以上に、アキラの碁を愛する気持ちが、彼を今の高みへと押し上げてきたのだ。
同年代では敵なし、なるほどその通りだろう。
アキラが大会に出れば若い芽を摘むことになる、それだけの差が他の子供達とはあったから。
だからこそ、アキラが並べてくれた一局を見るまで、信じることなど出来はしなかった。
――これが、アキラと同い年の子供が発する空気か。
そして、実際に相対してみて、信じざるを得なくなった。
重圧、気迫、そして今この瞬間も増す威圧感。
それらを発しているのが、見下ろすほどの身長差のある華奢な女の子だという現実。
直接この目で見て、感じているというのに、白昼夢でも見ているようだ。
――たった十二歳の子供が、私達と同じ領域にいるというのか。
鬼才、非凡、奇才、天才――知りうる限りの言葉でも、目の前の少女を評すには足りない。
一体、誰が信じるのだろう。
座間王座や一柳棋聖、桑原本因坊達と遜色ない、棋士の中でも数えるほどの強者の空気を、中学生に上がっていない少女が纏っているなど。
思い出すだけでも、身震いがする。
投了したヒカルの碁を引き継ぐ形で始めた、アキラとの一局。
果たして、自分が同じ立場なら、半目差まで縮めることが出来ただろうか。
あれだけの差があってもなお、勝利を諦めなかっただろうか。
それを成したのが、アキラと同い年の女の子だったなど、一体誰が信じるというのか。
――これだから、碁とは面白い。
あまりにも謎多き、後藤ヒカリという少女との出会い。
彼女が歩んできた道筋、どうやってあれほどの棋力をその幼い身でものにしたのか。
気にならないと言えば、それは嘘になる。
しかし、そんなことは後回しにすればいい。
ヒカリが詮索するなというのなら、それでも構わない。
生まれも、肩書も、思想や価値観さえ、自分にとっては重要ではない。
碁さえ打てれば、神の一手へと少しでも近付けるのならば、それだけで。
「お願いします」
「……お願いします」
黒は塔矢行洋。
白は後藤ヒカリ。
既に塔矢行洋の中で、ヒカリをただの少女と思う気持ちは消えていた。
想定するのは、自分の中に今もなお息衝く、歴戦の覇者たち。
それでもまだ、まだ足りない。
気付けば浮かんでいた笑みは、背筋を伝う汗は、武者震いさえも。
碁の神様がいるというのなら、抱く思いは感謝のみ。
盤上に点在する、九つの星。
その一点へと、最初の一手となる黒の碁石を打ち付けるのだった。
◆ ◇ ◆ ◇
結論から言えば、ヒカリは塔矢行洋からの申し出を受けることにした。
碁盤を挟み、こうして相対している今も、心の中では迷いがある。
今すぐにでも此処から逃げ出し、碁からも遠ざかりたいという気持ちは続いていた。
最強の棋士、塔矢行洋との対局なんて、この先あるか分からない。
でも、今の迷いを抱えている状態で打つのは、塔矢行洋に失礼なのではないか。
それでも、打ちたい――いや、打たなければいけない。
この一局を逃せば、大切な何かさえも失ってしまうような、そんな気がしてしまったから。
「――――っ!?」
空気が、重圧を増す。
まるで重力が増しているかのように、重く圧し掛かってくる。
こちらの想いを見透かすように、力強い一手が放たれた。
同時に、酷く懐かしく感じてしまう。
かつて、自分が進藤ヒカルだった頃、幾度も体感した記憶。
高段者特有の重圧、タイトル戦特有の雰囲気、命さえも燃やし己が全てを賭ける。
そんな、頂点にいる者達だけが見ることが許された、頂の光景。
――本気だ、塔矢先生は。
冗談などではなかった。
小学生の小娘相手に、日本最強の棋士が全力になってくれた。
年の割に分不相応な、絶対に有り得ないと断じられて当然の棋力を持つ、自分などのために。
そうだ、塔矢行洋とはこういう人なのだ。
生まれも、肩書も、全てが関係ない。
碁さえ打てれば、強い者と打てさえすれば、この人は満足なのだ。
そして、そんな塔矢行洋に、自分は認めてもらえた。
応えないと、応えなければ――否、応えたい、全力で、己が全てを持って。
――この人に、塔矢行洋に勝ちたい。
佐為を除けば、最も尊敬する碁の打ち手。
正直に言えば、今まで勝とうなどと思ったことなどなかった。
憧れが強過ぎて、そういう気持ちが湧かないくらい、佐為と同じ遠い存在だったから。
――でも、だからこそ……あたしは勝ちたい。負けたくない。
脳裏を過る、佐為と塔矢行洋との最初で最後の対局。
結果は白――佐為の中押し勝ち。
だが、直前の手順を間違えなければ、結果は変わっていた。
全ては終わった後のこと。
あの時こうしていればなんて仮定、数えればキリなどありはしない。
それでも、佐為は心残りだった筈だ。
長年対局を切望し、漸く叶った大切な一局なのだから。
だから、これは自分だけの戦いではない。
自分の師でもあり、為すことの出来なかった、塔矢行洋への完全なる勝利。
――勝ちたい、負けたくない、塔矢行洋にも、佐為にだって、あたしは強くなったんだから。
もう、昔のように見ているだけの自分ではない。
ヒカリは強くなった。
そして、その棋力は、日本囲碁界の一角、本因坊のタイトルを奪取するほどまでに。
だから、証明するんだ。
何もできない、見ているだけだった無力な自分という、そんな過去から抜け出す。
立ち止まっていたって、事態が良い方向に進む保障なんてどこにもないんだ。
そう、あの時と同じ――。
佐為が居なくなり、彼を探し、もういないと理解して、失意の底に沈み、碁から離れた。
あの時と今の自分は、全くの同じではないか。
そして、あの頃の自分が立ち直れたのは、碁を打ったからだ。
――見てて、佐為。あたし、勝つよ。最強の棋士、塔矢行洋に。絶対に、勝つよ。
自分にあるのは、碁だけ。
だから、進むために必要なのは、碁を打つこと。
そのためにもこの一局、全力を尽くす以外にある訳がないのだから。
◆ ◇ ◆ ◇
「だーかーらー! 何回同じこと言わせんだ! このなるほど君め!」
「君こそ! ああそうかが口癖か! これほど納得しておいてどうして喧嘩腰になる!」
「ひ、ヒカル!? 塔矢君も! おお、落ち着こうよ!」
生涯の好敵手というものがあるのなら、それは目の前の二人だろう。
白熱した検討を交わすヒカルと塔矢を見る佐為の眼差しは、最初とは変わっていた。
羨ましいと、そう思えてしまうのは、そう言った存在が自分にはいなかったからか。
つくづく、この時代に、ヒカルと巡り合えて良かったと思う。
前の宿り主である虎次郎――本因坊秀策といた頃は、ただ毎日碁が打てることが幸せだった。
対して、自分ばかりで打たせてくれないヒカルには不満はある。
それ以上に、たくさんの碁打ちと巡り合えたのは、宿ったのがヒカルだったからで。
――ヒカルが、私をヒカリへ巡り合わせてくれたのですよね。
粛々と、噛み締めるように。
そう、ヒカルには感謝している。
しかし、しかしである。
――打ちたい打ちたい打ちたい! 私も打ちたい! ヒカルだけズルいです!
遂に我慢の限界だった。
ヒカリに塔矢、更には現代囲碁界最強との呼び声高い塔矢行洋まで居るのだ。
そんな中に、ただ見ているだけなど、生殺し状態に等しい。
駄々を捏ねるように畳の上を転がり回り、バタバタと手足を出鱈目に振り回す。
「だー!? お前等うるさいぞ!」
「進藤のどの口が言う!」
「ヒカルが一番うるさいよ!」
――打-ちーたーいーでーすー!
「うるっせぇええええええええ!!」
高級住宅街の一角で、ヒカルの叫びが迸る。
ゼェゼェと息を荒くするヒカルだったが、ふと周囲を見渡す。
「……そう言えば、ヒカリ達遅いな」
「あっ、もうこんな時間なんだ。結局ヒカルと塔矢君、一局打ち終えちゃったもんね」
「それだって、幾らなんでも遅過ぎるよ。お父さん、どうしたんだろう?」
誰もが答えを見出せない中、ハッとヒカルは顔色を変えた。
「まさか、ヒカリの奴!?」
「ど、どうしたのヒカル!」
尋常ではないヒカルの様子に誰もが息を呑む。
そして、次の瞬間、勿体ぶる様にヒカルが口にした、彼が導き出した答えに、
「ヒカリと塔矢先生、あかりのクッキーを独り占めする気なんだ!」
「馬鹿か、君は」
「馬鹿じゃない、ヒカル」
――薄々感じてはいましたが、ヒカルって馬鹿なのですね。
全員が揃って同じ答えを導き出す。
しかし、聞こえていないのか、それとも無視しているのか。
飛び出す様に座敷を後にすると、ヒカルは廊下へと駆け出して行った。
「もうっ、ヒカルったら!」
「追い掛けよう。進藤の奴が何を仕出かすか分かったものじゃない」
――ヒカルに代わって謝ります。申し訳ありません。
既にヒカルの姿は見えないが、それほど距離は離れてはいない筈。
正確に測った訳ではないが、自分はヒカルと一定距離は離れられないのだ。
そして、塔矢が向かう先は、ちょうどヒカルの気配がする方向にも合致している。
でも、この感じは一体何なのだろう。
一歩踏み出すごとに、ヒカルのいる方へ近づく度に。
胸がざわつき。
体が、早く動けと、自分自身を急かす。
「ヒカル! 余所の人の家を勝手に捜索するなんて非常識――」
そして、襖の開け放たれた、とある一室に飛び込んだ時。
先頭のヒカルが立ち尽くし、塔矢は息を呑み、あかりは言葉を言い切ることなく。
先程の胸騒ぎの正体を、佐為はその双眸でしかと目にする。
――これは……!?
ヒカリ、そして塔矢行洋。
二人は碁盤を挟み、互いが鎬を削り合っていた。
あれほどの騒ぎにも気付かないほどの集中力。
声を掛けることさえ戸惑う、凄まじいまでの重圧。
何よりも、呼吸さえも忘れてしまうほど、盤上の対局は見事という他なかった。
――なんと……なんという……。
今この瞬間、この場に立ち会えたことを神に感謝する。
それほどまでに、二人の生み出す盤上の景色は美しかった。
その一つ一つが最善の一手であり、最強の一手でもある。
黒と白が盤上を縦横無尽に駆け巡り、それらは緻密な計算と読み合いによって成り立つ。
佐為の眼には、まるで宝石のように盤上の石一つとっても輝いて見えた。
――これほどの碁が、この世に存在するなんて。
塔矢行洋の黒石が盤上へと投下される。
右辺の攻防を無視するような、一見悪手に見える左方への一手。
しかし、先へ先へ、可能な限りの読みを行えば、それは盤上を支配している。
まるで未来が見えているかのような、そんな可能性の黒石。
だが、佐為が対抗するための一手を模索している間に、ヒカリは白石を掴んだ。
そして、ヒカリの放った白石は塔矢行洋の可能性を切り捨ててしまう。
自分では考え付きもしなかった、それは新手返しと呼ぶべき一手。
言葉を失う佐為を置いていくように、塔矢行洋は返しの一手を放ってく。
――私の知らない世界が、二人には見えているというのですか。
突き付けられた現実、それさえも打ち消してしまう感情。
己の未熟さを嘆くよりも、更に上が存在することに歓喜する。
ヒカリと塔矢行洋は、間違いなく自分よりも優れた碁打ちであると確信できた。
過去に最強の碁打ちとして名を馳せた本因坊秀策よりも、強い存在。
それは、今よりも更に神の一手へと近付くことの出来る、確かな道標となる。
そのことが嬉しくて、堪らなく喜ばしくて。
――しかし、これは……ややヒカリが有利。
半目が勝負を分ける、それほどまでの接戦。
そして、現時点で言えば、ヒカリはコミの分だけ差を着けていた。
このまま逃げ切れば、ヒカリの勝ち。
しかし、この時、佐為は忘れていた。
ヒカリと相対している相手が、誰なのかを。
長きに渡る碁の歴史、その中でも類を見ない最強が、ヒカリの相手だということを。
「……っ!!」
老いてもなお、研ぎ澄まされた刃が牙を剥く。
中央に打ち込まれた、渾身の黒の一手。
白の連絡を断ち、自らの陣が敵陣へと侵食していく。
黒と白の形勢が逆転した瞬間だった。
――ヒカリ!?
顔を歪めるヒカリに、佐為の声は届かないだろう。
それでも、彼女の負ける姿など見たくなかった
身を乗り出し、扇子をギュッと握りしめる。
何か、何か手はないか。
逆転は出来ずとも、振り出しに戻す、そんな一手が。
だけど、どれだけ盤上を見渡しても、そんなものはどこにも存在しない。
もはや確定した未来なのか。
ヒカリが塔矢行洋に敗北するのは、避けられない運命なのか。
――負けないで……負けないで、ヒカリ!
それは、あまりにもちっぽけな願い。
現世で味わった、黒石を持っての初めての敗北を喫した相手がヒカリというだけの理由。
だけど、湧き上がる衝動を、佐為は抑える術を知らなかったから。
――なりません! 負けないで! 私が勝つまで、あなたは負けてはいけないのです!
ヒカリは、佐為にとって超えるべき最初の目標。
例え今この瞬間、成仏するようなことがあった場合の、一番の心残り。
ヒカリに勝ちたい。
勝つまで絶対に、しがみ付いてでも現世から離れるものか。
ヒカリの勝利するその時まで、何があろうとも、必ず。
――勝ってください! ヒカリ!
万感の想いと共に、伝わる筈のない想いを、佐為は口に出さずにはいられなかった。
◆ ◇ ◆ ◇
投了。
ヒカリに突き付けられた、たった二文字の現実。
どれだけ考えても、どれだけ盤上を見渡しても、活路を見出すことが出来ない。
それでも、負けたくなくて。
だけど、どれだけ逆転の一手を模索しても、見付けることが出来なくて。
――佐為。
自然と頭を垂れ、ギュッと握った拳が無念で震える。
それは、まるで懺悔のようだった。
今はいない、志半ばで消えてしまった師匠への、晴らすことの出来なかった無念。
塔矢行洋への完全勝利。
あと少し、あと一歩というところまで追い詰めたのに。
その一歩が、果てしなく遠い。
あの時こうしていれば、そんな後悔ばかりが浮かんでしまう。
そんな想像に、もしもなんてものに意味などないのに。
――佐為っ。
ごめん、ごめんなさい、弱くて、情けなくて、あなたの無念を晴らせなくて、ごめんなさい。
佐為ならきっと、こうはならなかった。
あのまま消えることなく、現世に留まり続けていたのなら。
塔矢行洋にだって負けない、最強の碁打ちになることが出来たのに。
自分のせいだ、自分が碁を打つことに固執したから、佐為に全部打たせていれば。
佐為は凄かった。
今の自分と同じ状況でも、佐為なら堂々としている。
真っすぐに前を向いて、笑って相手を見据えて、そして扇子を盤上に指し示すんだ。
――佐為っ!
そして、その一手は。
ヒカリにとって、碁の神様が指し示した先には。
ずっと追い求めてきた、神の一手が、起死回生の活路が。
「…………ぁ」
刹那、ヒカリは見た。
盤上の一点を指し示す、純白の扇子を。
「――――!!」
考えるよりも先に、体が動く。
碁笥から飛び出す白石が宙を舞い、盤上へと舞い降りる。
確かに見えた、扇子が指示した場所へと、神の一手が放たれた。
「…………」
長い、長い時間が流れる。
秒針が拍を刻むことを忘れてしまったかのように。
物音一つ、息遣いさえも聞こえない、静寂が世界を包み込む。
「…………ふっ」
呼気。
長い時間、張り詰めていたものを解き放ったのは、ヒカリではない。
「……これだから、碁は止められない」
座したまま、盤上を見詰める塔矢行洋の顔に、厳しさは影すら見せない。
満足げに吐かれた息も、緩んだ眦も、全てが満足感に満ち溢れていた。
「…………っ……っ、ぁ……」
尽くした死力を弛緩させ、座した両足を広げ、ペタンと臀部が座敷へと沈む。
俯き、肩を震わせ、声を詰まらせ、ギュッと握った拳は震え続ける。
ポタポタと、幾度となく流れ落ちる涙は、枯れることなく。
――どうして、忘れていたんだろう。
忘れる筈なんてなかったのに。
強さを求めて、求め続けて、日本囲碁界の最強の一角にまで上り詰めて。
強くなることに固執するあまりに、いつの間にか見失っていた。
己の半身、進藤ヒカルとして記憶が、鮮明に蘇ってくる。
佐為が居なくなり、彼を探し、もういないと理解して、失意の底に沈み、碁から離れた。
自分の我儘で、神の一手を極めることなく、志半ばで現世を去っていったことを、悔いた。
そんな自分が立ち直れたのは、前を向いて進み続けると決意したのは――。
あの時と同じ。
溢れ出る涙を止めることが、ヒカリには出来なかった。
「ありがとう、ヒカリ君。――君と打てて良かった」
そう言って、塔矢行洋は頭を下げた。
「負けました」
遅れて、ヒカリも頭を下げた。
「……ありがとう……ござい、ました……っ!!」
佐為はいた。
消えていなかった。
今この瞬間も、確かに存在していた。
佐為に会うただ一つの方法は、碁を打つこと。
ヒカリの碁には碁の神様――藤原佐為が息衝いているのだから。
次回、エピローグ。