春、桜芽吹く頃――
「……似合わない」
自室の鏡の前で、ヒカリはそうぼやいた。
目の前に映るのは、今日から通うことになる葉瀬中学校の制服を纏う異国の容姿をした女の子。
暗色のセーラー服が、自分の金髪と緑目の存在をより引き立たせる。
ガックリと肩を落とし、直後、インターホンの鳴る音にスカートを翻し、自室を飛び出す。
リビングで寛ぐ両親に手を振りながらの行ってきますを言い放ち、玄関の扉を開けた。
「遅いぞ、ヒカリ」
「おはよう、ひーちゃん」
最初にぶっきら棒な、次いで明るい口調で。
それぞれが真新しい、サイズの大きな制服を纏ったヒカルとあかりの登場である。
「……進藤も似合わないね、制服」
「ほっとけ!」
「だよねー。なんていうか、物凄く着られている感が……ヒカル、小っちゃいもんね」
「お前らが女のくせにデカ過ぎるのが悪いんだろうが!」
「天誅」
「ぎゃあああああああっ!?」
ヘッドロックでヒカルを落とし、毎度な光景にあかりはクスクスと笑みを零す。
ちなみに、ヒカリもあかりも女子の中では背は高いが、バカ高い訳でもない。
女子の方が男子よりも早熟、かつ単純にヒカルの背が平均以下なのもその印象を助長させる。
ヘッドロックが実に決めやすい身長差だから、ヒカリ的には丁度いいのだが。
「まっ、安心しろ進藤。お前はそのうちあたし等を超すから」
「げほ、ごはっ……あ、当たり前だろうが! 絶対に追い抜いてやるから覚悟しやがれ!」
「はいはい、中学卒業するくらいまでは期待せずに待っててあげるよ」
「わ、私は別に、今のままのヒカルでも……」
チョンチョンと指先を突き合わせるあかりはスルー。
先を行くヒカリに追い縋り、身長差ゆえに見上げながら遅めの身長高度成長期を誓うヒカルがそれに気付くことはなく、慌てて後ろからあかりが追いかけて来る。
「あ、ひーちゃん。制服、似合ってるね」
「……あかりには敵わないって。別に親に不満はないけど、黒髪に生まれてたらなってこういう時はつくづく思っちゃうよ。誤魔化せる私服と違って、制服って似合わない奴はとことんだから」
「うーん、私はそんなことないと思うけどなぁ……」
「ヒカリのその髪じゃ、どうやっても目立つのは仕方ないだろうが。いい加減諦めろよ」
「前髪金髪に染めてる進藤に言われても」
「俺のこれは生まれつきだ!」
知ってます。
「でも、私達も今日から中学生かぁ……」
感慨深げに、頭上の桜を見上げながらあかりはそう零した。
艶やかな髪が花弁と一緒に風に揺らぐ様は、まるで一枚の絵のようだ。
住宅街から離れて暫く、他の学生達と合流しつつあるが、誰もがこちらを一瞥。
時折赤くなって立ち止まる男子生徒は、そんなあかりに青春を感じ取っているのだろうか。
「なに当たり前のこと言ってんだよ。あかりって、もしかして馬鹿なのか?」
だが、その想いが実ることはないだろう。
美少女中学生なあかりが一途に想いを寄せているのは、隣を歩く雰囲気台無し男なのだから。
「不憫すぎるっ」
「もう、ヒカルってばなんにも分かってないんだから!」
「はあ!? 意味不明なこと言ってるあかりの方が分かってないだろうが!」
天下の往来で口論を始める二人の幼馴染を、可哀想なものを見る目を向ける金髪少女。
その様がより一層の注目を浴び、しかし罵り合いに夢中な二人は気付かない。
指摘をするのも面倒だと嘆息し、桜並木を潜った先には、区立葉瀬中学校の校舎が。
「ほら、二人とも。夫婦喧嘩はそろそろ終わりにしたまえ」
「誰が夫婦だ!」
「そそ、そうだよひーちゃん!? 何言ってるの!?」
「はいはい、ご馳走様でした」
「ひーちゃんのバカぁ!?」
真っ赤な顔でポカポカと背中を叩いてくるあかりに取り合わず、目指すは本校舎。
目に映る景色は初めての筈が、進藤ヒカルとしての記憶を持つせいか、懐かしさも同時に込み上げてくる。
眦が緩み、片割れの記憶の感慨に耽るヒカリの大人びた表情。
ヒカルやあかりへ向けられていた視線が自身に集中することに自覚することなく。
下駄箱前に掲示されたクラス表に到着し、自分の名前を探そうと視線を動かす。
「やったぁ、ヒカル達と一緒だ!」
「げっ、あかりと同じクラスかよ!?」
「お前等……」
色々と物申したい衝動を堪え、しかしと再びクラス表の方へ向く。
ヒカルやあかりの他に、同中出身の名前がチラホラと――
「はあ!?」
「え、ウソ!?」
瞬間、忙しなく動いていた視線が、一点へと固定。
それはヒカルとあかりも同じなようで。
固まる自分達を、他の新入生達が訝し気に眺める。
だが、そんなことにも気付かないほど、目にした光景が信じられなくて。
「…………マジで?」
ヒカリ達が所属する、1年のクラス。
そこに記されているのは、本来ならばそこにはある筈のない名前だったのだから――。
◆ ◇ ◆ ◇
「新入生代表――塔矢アキラ君」
厳かな雰囲気に包まれる中、凛とした声が響く。
葉瀬中男子の学生服である詰襟、おかっぱ頭という古風な出で立ちの少年が壇上へと昇り、所作からも伺える凛々しい声で新入生代表の挨拶を始めた。
「あいつ、頭良かったんだ……」
前の席に座るヒカルが、呆けたように呟く。
「……ねぇ、ひーちゃん」
「……何かね、藤崎君」
次いで、隣に座るあかりもそれに続く。
「……塔矢君って、海王中に行くって言ってなかったっけ?」
「……あたしもそう聞いてたんだけどね」
「……だよねぇ」
何度見ても、何度も頭を振っても、壇上にいるのは塔矢その人。
見慣れた白の制服ではない、黒の詰襟を纏う姿は余りにも新鮮で、だからこそ違和感だらけだ。
記憶が確かなら、塔矢行洋の元担任が海王中学の校長という繋がりでの入学だった筈。
それが何故、近隣中学の中でも頭一つ抜け出ている有名私立な海王中ではなく、学力も進学率も平均な特段特徴のない葉瀬中なんぞに入学することになるのか。
「……ははっ」
挨拶を終え、振り返った塔矢は一度立ち止まり。
百人を超える新入生の中から自分を見つけ出し、ニコリと微笑んできたではないか。
同時に思い出したことがある。
塔矢の母親の母校が葉瀬中だったという話を、進藤ヒカルだった頃に聞いたということを。
「……ストーカーかよ」
「ねぇ、ひーちゃん。塔矢君が葉瀬中に来たのって――」
「あー、あー。聞こえない、あたしには何も聞こえないー」
耳に手を当て頭を振れば、塔矢の紳士スマイルに中てられたのか、何人もの女子が赤面に。
だが、中身を知っている者としては、彼女達への同情は隠せなかった。
多くのプロ棋士が出入りする、そんな特殊な家庭で育った塔矢は、周りが大人ばかりだったために、同年代の馬鹿で喧しい男子とは違い、丁寧な対応はまるで王子様のようで。
その実、人生全てを囲碁に捧げるあの男が、色事などに現を抜かすか――いや、ない。
残念王子――そんな渾名を、ヒカリは心の中でそっと呟く。
◆ ◇ ◆ ◇
「最悪だぜ、これから一年もこいつと毎朝顔を見合わせなくちゃならないなんて」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
片や机に肘付きぶっきら棒に、片は姿勢よく椅子に座ってすまし顔に。
入学式から一週間、学校生活にも慣れ出した頃。
ヒカルと塔矢から不穏な空気を感じ取ったからか、一部の例外を除き、周りに座っていた連中は席を立ち、巻き込まれては堪らないと離れていく。
そんな様を、窓際最後尾という選ばれし者だけが座ることを許された席で見守る。
「二人も懲りないねぇ」
「誰だよ、早々に席替えしたいとか言い出した奴。あの二人が隣同士とかシャレにならないぞ」
「あんたもノリノリだったと思うんだけど」
「……教卓前とか晒し者みたいな席だったんだ。仕方ないだろ、金子」
「その晒し者みたいな席が、今の私の席なんだけどね……」
「津田よ、誰かが犠牲になるのは仕方のないことだ」
「うう……なんで私がぁ……」
「ど、ドンマイだよ久美子!」
幸薄そうな少女こと津田久美子をあかりが励まし、恰幅の良い金子正子はこちらに責めるような眼差しを寄越してくる。
その視線から逃げるようにクラス中を見渡せば、見覚えのある顔がチラホラと。
「ちっ……うるせぇな」
「塔矢君に進藤君も! け、喧嘩は良くないよ!」
罵り合う二人の間に割って入る、ヒョロリと背の高い男子生徒の夏目。
そんな彼等を鬱陶し気に一瞥し、机に突っ伏すのは三谷。
なんの偶然か、進藤ヒカルだった頃の囲碁部メンバーが、こうしてクラスメイトとなっていた。
「……記憶なんて、ほんと当てにならないね」
彼等彼女等を見ていると、つくづくそう思う。
自分の記憶の中に、こんな光景は在りはしなかった。
塔矢は海王中で、三谷達は別のクラスで、金子達とこうして普通に話すこともない。
自分という存在が、進藤ヒカルだった頃に歩んだ歴史の中での唯一の違い。
にも拘らず、こんなちっぽけな小娘一人だけで、現実はこんなにも変わってしまう。
それがなんだか面白くて、可笑しくて、悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてしまって。
鞄を掴み、談笑を続ける女性陣を残し、騒ぎの渦中へと進んでいく。
「おーい、教室では静かにだぞ」
手でも上げながら気軽に声を掛ければ、親の仇を見るような眼で睨まれ。
相手が自分だと気付けば、途端に瞳を輝かせる。
「お、ヒカリじゃん。今から俺と打とうぜ! 今日こそ置き石一個減らしてやるよ!」
「悪いが進藤、ヒカリと打つのは僕が先だ。第一、昨日最後に打ったのは君だろう」
「勝ち逃げなんかされて大人しく引き下がれっかよ!」
「そういうセリフは互先で勝てるようになってから言うものだ! 第一、その理屈で言うなら僕にだって打つ権利はある!」
「塔矢のくせに生意気なんだよ!」
「事実を言ったまでだろう!」
そのまま何時もの対局の流れへ。
相も変わらず碁を喧嘩の道具か何かと勘違いしつつある二人に嘆息し、仕方がないと何時もなら彼等に付き合う形となるのだが。
「悪いけど、もう二人とは打たないよ」
ピキっと彫像と化すヒカルと塔矢。
まるで合わせ鏡のようなリアクション、実はこの二人って仲良しなんじゃないだろうか。
この世の終わりでも見るかのような顔の二人に、鞄から取り出した一枚の紙を突き出す。
「あたし、囲碁部に入るから」
ニヤリと、意地悪顔のままに。
「これから部活動で忙しくなるの。だから、二人の相手をしている暇はないのです」
そういう訳だからと、そんなセリフを残し。
ヒラヒラと手を振り、教室を出たヒカリが目指すのは、上階にある三年の教室。
新入生、それも異国の容姿をした自分が物珍しいのだろう。
不躾な眼差しには取り合わず、目的の教室へと到着。
後ろ側の教室出入り口から覗いた先には、見知った顔が二つ。
「筒井よ、なんなら俺の部員の何人かを貸してやってもいいんだぜ?」
「だから加賀! 何度も言ってるだろう! 僕の囲碁部に幽霊部員なんて必要ないって!」
優等生に問題児。
対照的な雰囲気の二人を見遣り、知らず知らずのうちに口角が上がり。
より一層増す周囲の視線を無視したまま、先輩生徒――筒井と加賀へと近付く。
「なら、ちゃんとした部員なら歓迎してくれるってことですよね?」
突如割って入った自分に、二人は奇異の目を向けてきた。
「あ……?」
「……君は?」
「新入生の後藤ヒカリ。筒井先輩が囲碁部を作ろうとしてるって話を聞きましたので」
対し、入部届を二人に見えるように翳す。
「囲碁部への入部届です。という訳で、よろしくお願いしますね。――筒井部長?」
ポカンと、現実に理解が追い付かないのだろう。
やがて、眼鏡の奥の瞳に涙が堪り、感極まったように入部届ごと両手で掴まれ。
我が人生に春が来た――そんな空気に、筒井は包まれていた。
「う、うう……ううう~っ!!」
「……言っとくがな、新入生。お前一人入ったところで、団体戦出場の規定人数の3人を満たさない限り、囲碁部は部活として認められねぇんだぞ?」
≪泣く子も黙る加賀≫などと呼ばれ恐れられているが、その実面倒見の良い。
言葉にならない喜びに震える筒井に聞こえぬよう、耳元に口を寄せ囁いてくる、そんな妙なところで優しさを垣間見させる加賀に苦笑一つ。
「ああ、それなら問題ありませんよ」
言葉の後に、教室のドアが乱暴に開かれる。
「いたー! 探したぞ、ヒカリ!」
「声が大きいぞ、進藤! 此処は上級生の教室だ! あと廊下は走るな! 入る際には一礼だ!」
「だー! お前はいつもいつも小言ばっかり! 塔矢は俺の母親か!」
前髪金髪におかっぱ頭な二人組の登場に、教室は更に沸き立つ。
ヒカルと塔矢が握り締めている見覚えのある紙に、ヒカリはしたり顔だ。
「囲碁部で忙しいと言うのなら、僕も入部して手伝う。だから、打たないなんて言わないでくれ」
「つーか、葉瀬中に囲碁部なんてあったんだな。知ってたら普通に入部してたのに」
その表情を維持したまま、珍しく絶句している加賀を一瞥。
「塔矢……だと……!?」
次いで、機能停止に陥っている筒井に、会心の笑みを浮かべる。
「入部希望の男子、二人追加です。これで囲碁部は部としての条件を満たせましたよね?」
掴んだ両手を離し、眼鏡を外し、涙で溢れた両目を何度も、何度も袖で拭い。
「……うんっ、うん……!! ありがとう……後藤、さん……っ!!」
遅れるようにして、泣き笑いで筒井は応えた。
「よしっ! 囲碁部が出来たのなら、次は部員集めだ! 男子だけ団体戦に出れて、女子は出られないなんてわけにはいかないからね!」
もう、迷っている時間は終わった。
どうして進藤ヒカルとしての記憶が自分に宿っているのか。
その答えは、塔矢行洋との一局で見つけることが出来たのだから。
「あっ、ヒカリ! 部員集めは手伝うから、これから俺と打とうぜ!」
師匠が為し得なかった未練、塔矢行洋への完全勝利は果たした。
だから、これからは自分のために打とう。
進藤ヒカルとしてではなく、後藤ヒカリとして。
この世界にいる、数え切れないほどの碁打ちと打つんだ。
筒井や三谷、和谷、伊角、他にもたくさん――。
塔矢だって、塔矢行洋だって、神の一手を目指すヒカルと佐為とだって。
何度も、何度だって、打ってやるんだ。
「ヒカリ、進藤との対局は後回しだ。まずは僕と一局打ってほしい」
でも、加減なんてしてやらない。
これから先、誰にも負けるつもりはない。
「あー……もう面倒だからさ、二人まとめてかかってきなさい」
ヒカルにも。
塔矢にも。
塔矢行洋にも。
そして、もちろん、姿を見ることの叶わない彼にだって。
「あたし、誰にも負けるつもりはないから」
挑発するように、嘲笑うかのように。
カチンときたのだろう、闘志を燃やすヒカルと塔矢の背後に、彼はいた。
嫋やかで、でも子供みたいに喜怒哀楽の激しい、ガマガエルが苦手な、最強の囲碁馬鹿。
二人に負けない、並々ならぬ対抗心を燃やし、こちらを真っすぐ見据えているのが分かる。
――負けないよ、佐為。
前世の師匠が、今世のライバルに。
なんの因果だろうと笑みが零れ、負けるもんかと心の活を入れ。
今日もヒカリは出会いに行く。
「さぁて、楽しい碁の時間の始まりだ!」
碁を打つことで会うことの出来る、自分だけの神様に。
自分の碁の中に息衝く佐為と一緒に、神の一手を目指すために――。
副題――俺達の戦いはこれからだ!
最終話ということで、作者が本作を書こうと思ったきっかけを。
数々のヒカルの碁の二次小説を目にし、その度に感動に打ち震えてきた作者。
ですが、人気ジャンルである逆行物を目にするたびに、作者の中にとある疑問が湧くのです。
――ヒカルの碁の中に佐為がいるのなら、逆行先で出会った佐為は別人なんじゃないか。
――逆行先の佐為への執着は、碁の中にいる佐為を蔑ろにするということなんじゃないか。
本作は、そんな作者の中にあった疑問に対しての、自分なりの答えです。
もちろん、これが万人に通じる回答などとほざく気は毛頭ありません。
あくまでも、こんな考えもあるんだなと心の片隅にでも留めてもらえれば幸い。
それでは、最後になりますが、此処まで本作に目を通してくれた読者の皆さん、感謝感激。
ご愛読ありがとうございました。
では、また何時か何処かで。