鈍い音がした。骨と骨とが外れた音らしい。あとは、一気に引っ張ってしまう。
すると筋が弾けて皮はちぎれて、血の泡が一度音を立てて吹き出した。痛い、と、思う。そのはずだから。
出血はまもなく穏やかなものとなり、やがて止まった。わたしから出ていったばかりだというのに、流れた血からはいささかの熱も感じられず、とても冷ややかにあるようで、なんとも物悲しい。ただ床を這い広がってゆくだけであった。
それからちょっと引っ張ると、わたしの肘から下は簡単に離れた。
外から微かに差す白光が、わたしのものだったそれを照らす。赤い血と対比して、白い私の腕はぼんやりと光っているようにも見えた。
「やるよ」
外れた腕の、その指先にいる何かしらの"妖怪"に差し出した。
すっと彼女が歩み寄る。白い肌と、金色の髪と、それを結う赤いリボンが月の光にさらされる。彼女の小さな手が、私の手だったものを包む。
わたしが、わたしの腕だったものを放す。彼女はそれをちょっと落としそうになった。が、一拍間を置いてから、一気に、指先からかぶりついた。
それからは一心不乱にわたしの腕を食べ続けた。そうしながら床にうずくまった彼女を、わたしは立ったまま、眺めていた。
意外と、何の感慨もわかなかった。さもなくば、何が思い浮かんでいるのか、わからないだけなのかもしれない。
ぼんやりと――どのくらいの時間が経ったか分からなくなるくらいぼんやりとしていた。半分は寝ているようでもあった。
わたしの左腕は骨だけになった。なんにせよ彼女は綺麗に食べてくれた。彼女の唾液かわたしの脂かわからないが、わたしの骨は月明りでてらてらと光っていた。
「うまかったか?」
彼女は己の手を舐めとっていたが、それをやめてこちらを見返してきた。ただ、それだけで何も応えなかった。
「うまく、なかったか」
わたしが言うと、ちょっと間があってからこくりと頷いた。
「そうか、まずかったか」
わたしの中に、愉快な気持ちが僅かに浮かんできた。わたしはわらった。
彼女もわらった。まったく、屈託というものがないようだった。
* * *
彼女の身体がやや大きく弛緩したのを見て、わたしの意識が一旦、かなたから帰ってきた。
僅かに開いた家の窓や戸の隙間、修繕の済んでいない壁の割れ目から細く、陽の光が差し込んでいる。それに、彼女の豊かな金の癖っ毛があたって、ぼんやりと輪郭をかたどっている。
うつ伏せに縮こまっている彼女の、腕と髪の間から、ちらと寝顔が覗いている。安心しきっているのか、深く寝入っている様子だ。当面は起きる様子もない。
これまでも、そしてこれからも全く変わることのない、日々の連続。そんな中、彼女が現れたのはちょっとした救いのようにも思われた。
大半が、こうやって眠っているのだとしても、そうに違いなかった。
永劫の流れの中に留まり続けるわたしの、細やかな、本当にささやかな慰めだった。
これまでながく生きてきても無かった、未知の感傷がまた心の中を奔りゆく。
不思議な感慨に支配されて、わたしは膝をぐいと強く抱いた。
そうして、どれくらい立った頃か、戸が叩かれた。わたしは目だけをそちらに向ける。まもなく、部屋の中へ陽の光が大量に押し寄せてきた。
逆光だが、なんとなくわかる。最近、よくこの家にやってきてちょっと何事かを話していく、兎の少女だった。
ここのそばの竹林の奥の、永遠亭なる診療所のような施設で働く、多くの兎達の内の一羽らしいが、こんなあばら屋で
どういう気のかけ様かは、知れたものではないが、とにかくそういうことになっている。
「また。そんな風に薄暗くして座り込んで。こんないい日和に、もったいないですよ」
彼女はいつもの調子で言う。いつもこのように節介を焼きに来るのだ。わたしとしては別に鬱陶しく思ったりはしてないが、彼女があまりに奇特に思えて、頭を抱えたくなる。
どうもわたしは、この娘に妙に懐かれているらしい。わたしに対して甲斐甲斐しいが、なんとなく、下からすり寄ってくるような、そういう接し方を彼女はしてくる。聞くと、兎連中の内では若手の方らしい。
それにしたって、なんでわたしなんかに。
「おい、閉めてよ。起きちゃうでしょう」
わたしはややぶっきらぼうに言いやって、未だ寝入っている存在へと目を向けた。
兎ははっとして、少しだけ戸を閉めた。幸い、起こすには至らなかった。
「ごめんなさい」
「いいさ、起きなかったんだから」
わたしは立ち上がって、戸口に向かった。兎は少し、また戸を引いてくれた。
彼女の言う通り、空は雲ひとつなく晴れ渡っている。見上げてみるが、眩しくて目を覆ってしまう。
「あの、ちょっと散歩に付き合って頂けませんか」
躊躇いがちに彼女は尋ねてくる。若干、わたしに気後れしているらしい。まったく、そんな必要はないのに。
それでも健気に誘いかけてくれる彼女のために、わたしは少し微笑みかけてやった。
「仕事は、いいのかしら」
「あなたにそう、言われるとは思いませんでした」
「言えてるね」
「今日は、お暇をいただいているんですよ」
「そんな、折角休みなのに、わたしと散歩とは寂しい休日じゃないかね」
彼女はちょっと俯いて、少し照れたように小さく「いいえ」と答えた。これなのだ。わたしはどうも、困ってしまう。
「どこへ行くね」
困ったままわたしは尋ねる。彼女は顔を上げた。頰を赤く染めたままで、笑っていた。
「どこへでも」
わたしは頷き、彼女がきた竹林とは反対へと歩き始めた。
兎はどことなく嬉しそうに、横についてきた。
外界の眩さに若干目がくらみながらも、わたしは歩いた。
しばらくは二人黙って歩いたのだが、幾らか来た頃、兎は不意に尋ねてきた。
「あの子、どうしてあなたのお家を寝床にするようになったのですか」
「言ったこと、無かったっけ」
話したものか、本当に憶えていなかった。彼女はやや大きく頷いた。
「ちゃんと伺ったことは、ありませんでした」
「そうか」
わたしはちょっと考えたが、問われてどうこう言える明確な理由は思い浮かばなかった。
「いつの間にか、
「追い出したりはしなかったんですか」
「追い出す理由もないからさ。別に甲斐甲斐しく面倒を見ているわけでもないし、困ることもないの」
「はあ」
兎は何を考えているものか、しばらく視線を上に泳がせて黙って歩いていたが、やがて口を開いた。
「変わっていますね」
「どうして」
「どうして、って」
兎は可笑しそうに、くすくす笑いだした。
「本当にそれだけなら、あなたは度を越して図太いですよ。娘っ子とはいえ、
「そうかなあ。猫や、虫には困ることもあるだろうけど」
「人や妖怪の方が、よっぽど厄介じゃないですか」
呆けたように彼女は言った。この兎は常に、変に真面目である。ただそれが堅苦しくならないところが彼女のいいところであり、愛おしくも思えるのだった。わたしは肩をすくめるだけだった。
「君はいちいち、もっともなんだなあ」
それを聞いて兎は、微笑ましそうにというか、今度は何か、柔和に笑ったのだった。
わたしもつられるように、彼女に笑いかけた。
それからまた、しばらく行くと、川のせせらぎが聞こえ、陽光が反射しているのが見えた。
その小さな川に架かる石橋にたどり着くとふたり、水面の煌めきに足を止めた。彼女は高欄に背を預けて、わたしは高欄に肘をついて下を覗き見る。
浅く澄んだ川で、はっきりと水底が見透せたが、少量の水草が懸命に留まっている他は、なんの影も見つからなかった。
「あの子の名前、なんて言うんですか」
兎が問うてきた。
「ルーミア、っていうのよ」
橋の下を見たまま、わたしは答えた。
「ルーミア、ちゃん」
「そうだよ」
「ふうん」
わたしは彼女を見やった。彼女はわたしを見てはいなかった。どこか、虚空を見上げているような、ぼんやりとした視線だった。
「可愛いですよね。あの子」
彼女は言う。それに言い返そうとしたわたしは言い澱んだ。彼女は相変わらずどこかを見つめたままで、わたしの言うことなんか、聞いてはいない気がしたのだ。
兎はこちらを見てきた。そして、はっとしたような表情をした。彼女はそれまでの自分が恥ずかしくなったかのように、はにかんだ。
「行きませんか。そろそろ」
「ああ」
わたし達は川縁を下っていった。相変わらず、目的は決まっていなかった。