わたしと兎は街を出て、元来た川の上流へと帰り行く途中、川縁にふたりで腰掛けていた。
どちらかが提案したわけでもなかった。暗黙のうち、自然な流れでここへとやってきていた。まだ酔いが残っているために、どこかへ落ち着きたかったのかもしれなかった。
彼女はわたしが街で買い与えた櫛を、陽光に透かすように眺めていた。その何でもない木櫛を、さも愛おしそうに彼女は眺めるもので、それを選びだしたわたしは不思議と気恥ずかしく感じていた。
「桃の木ですね」
「ふうん。よくわかるもんだ。君は何でも知っているんだな」
「いや、そんなこと」
兎は困ったように首を傾けた。まだ少しぼんやりしているように思える。
「あなたと比べたら、わたしなんて……」
「どうかな」
わたしはさっきから手で弄んでいた小石を、無造作に投げ捨てた。小石は一度も跳ねはせず、どぼんと音を立てて流れの中に消えてしまった。
「君もわたしも変わりはしない……いや、わたしこそ取り敢えずはこうして生きてはいるけれどね。何か身になること一つでも出来ているかといえば、全く、そんなことはないんだよ」
「でも、わたしだって……わたしでも、あなたでなくてもそんなひと、いくらでもいると思います。
わたしは彼女の横顔を振り見た。空を仰ぎ、どこか遠くを見据えるようにしていた。
妙に眩しく思い、わたしはまた、川の流れに目を移す。やや落ちかけている日に当てられ、水面は穏やかに煌めいていた。
「……まあね。尤も、何か躍起になられても困るような手合いもいっぱいいるからね」
「あなただってその一人じゃ、ないんですか」
「わたし?わたしが?」
何故か、口調が強くなってしまった。わたしが思い浮かべた連中の内に、わたし自身が混ざるのを考えて、突拍子もなく思ってしまったからだろうが、自分でも意外なほどに彼女を気圧してしまった。兎は首を引っ込めておどおどしている。
「ごめんなさい……気に障りましたか」
「いいや、そんなことはない。ごめんよ、脅すつもりはなかったんだ。ただ、ああいうのとわたしが、あまりに違うように思えてさ」
「そうですね。そうでなかったらわたしも、あなたとこうしてのんびり肩を並べて座ることなんて、無かったはずですもの」
「まったくさ……でも、君のところの主人やらは違うのかい」
わたしは彼女も仕えているであろう、月人ふたりのことを指して言った。ただ素朴に思ったまでだった。
しかし、兎はまたおどおどとして語った。
「……あの方たちも、やっぱり違います。やさしい、ですから」
「やさしいか」
「そうです。少なくとも、わたしたちには」
「でも、満足しちゃいないような口ぶりだね」
仰いでいた目線を兎は下げてしまった。しかし、どこか遠くを見透かそうとしているように、目は開かれているようだった。
「……どうしてわたし、ここにいるのかなって」
そう語り始めた声は小さかったが、口元には微笑を湛えていた。
「わたし、こうやって、その……物心と言っていいのか……こうして"意識"を持ってすぐに、あそこでああして働いていたように思えるんです」
「強制されて、でもなく?」
「ええ……でも、別にああしていなくたって、いいはずでしょう?誰か、咎められますか?……わたしがあそこからいなくなったって」
「そりゃ、君の勝手だよな」
「そう、思うんですけど」
兎はすっと立ち上がった。夕暮れに近づき風も強くなったようで、彼女の髪がふわりとおよいだ。
「ねえ、"あなたさま"――わたたしを何処かへ、連れ去ってくださいませんか」
彼女はふと、ほんとうに嬉しそうな表情になった。このときだけは、真にわたしを信じて、一瞬間、盲目になったようだった。
「どこか、か」
わたしは彼女と対象に、そこへ寝っ転がった。そうして、目に入った日の眩しさに目を閉じた。
「それもいいな。幻想郷じゅうを旅するか……」
さっ、と空気が動いたのを感じた。彼女が再び、座り込んだらしい。わたしは目を閉じたままだった。
「そしたら、すぐに戻って来てしまいそうですね」
「そうね」
わたしは目を開いて彼女を見た。彼女はさっきまでの微笑のまま、わたしのことを見ていた。
その視線に、不思議にやや熱っぽさを感じて少し臆したが、それで目をそらすのは何か彼女を裏切るように、急に思えてしまったので、わたしはせめて、上半身を起こし彼女と同じ目線に正した。
しかし、兎も、わたしも、しばらく黙っていた。ふたりでお互いの心を覗きあおうと、目線を交わし、黙っていた。
彼女が、わたしを頼りたいのはどこまでなのか、わたしにはわからなかった。本当に、聞いてやるだけしか、わたしにはないのだろうか。
その気になれば、とも思う。しかし、わたしは何も知らぬ。彼女の心を受け止める
わたしには「人生」と言うものが殆どないのだ。常人が知りうるいっさいを、わたしは千年もの間、いきて、会得し得なかったのだ。
彼女は
ああ、惨めな!
風が、いよいよ強く吹いた。それに押されるように、わたしは彼女を抱き寄せた。
「わたしに、ついてきて、くれるの?」
「――ええ、きっと」
もう一つ、風が強く吹き抜けた。わたしは、彼女の身体から退いた。
「わたしも、どこへゆくべきか、わからないわ」
「誰も、知りよう筈も、ありませんわ」
風は吹き続けている。そのせいで、彼女の髪は無秩序に流れて視線を邪魔した。
「……櫛を、貸してよ。髪を留めてやろう」
わたしは言った。
「すいません。お願いします」
兎ははにかみ、再び微笑をつくって、言った。
* * *
家に帰り着くと、慧音が待っていた。律儀に、戸口の前に立って待っている。
「なんだ、中で待っていればいいのに」
「どうも私、
「構いやせんだろうに」
「構いますよ」
慧音はわたしの後ろに目をやる。兎は所在のなさそうに黙っていた。
「お邪魔しましたね。これは」
慧音はあからさまに悪びれる様に言った。
「嫌味を言うなよ。わたしにはいいけど」
「そんなつもりはないんですよ。ごめんなさい」
結局、兎を送っていくつもりだったが、彼女は遠慮して一人で帰っていった。彼女が少し気がかりだったが、慧音を待たせていた手前、あまり強引についていってやるのも気後れした。
「別に、これ以上待つのもさして変わらないから、送っていっても構わなかったんですよ」
「なんだよ。やけに棘があるじゃないの」
「あれ……そうですか?」
彼女は自身の態度に関して、本気で意外に思っているようだった。彼女はかなり正直なのでわかりやすい。
「いけませんね。本当にあの子には嫌味になってしまったかも」
「怯えてるかもな」
「今度、謝っていたと伝えておいてください」
「いいよ。それはそれとして、何の用?」
わたしは彼女を家の内に招き入れようと促したが、慧音は首を横に振る。
それでわたしは、彼女の用件をおおむね察した。
「ルーミアか」
「ええ。折角帰って来て、何ですが」
わたしは、兎と行き来た道を再び歩き始めた。慧音も
「小言なら聞かないよ」
慧音は少し駆けてわたしの横に並んだ。彼女は少しばかり険しい表情だったので、つい目をそらした。
「小言を言う、つもりはありません」
「じゃあ」
「良くないです。あなたにも、ルーミアにとっても」
「そうかなあ」
「わたし」
わたしたちはいつの間にか早足になっていたようだったが、そのうちに慧音は急に立ち止まった。一瞬、言葉に詰まったようだった。
「――わたし、あなたに失礼なこと、言うかもしれません」
「いいよ。聞くよ」
彼女の表情の険しさが、悲しみによるものではないか、と何となしに思った。彼女ともながく付き合ってきた、その我が身がそれを直感的に思わせたようだった。
「聞かせて、おくれよ」
「……贖罪の、おつもりなら――お止めになって」
「妙なことを」
また、俄に押し黙る。その間に慧音の表情が失し、読めなくなった。
「昔です。むかし――あなたと出会ってそう経ってはいない頃」
慧音がこちらへ、静かに歩み寄ってきた。わたしは、動かない。
「妹紅、あなたは初めて……この幻想郷に迷い込んで、妖怪に襲われそうになったときのこと、話してくれましたよね」
「そう、だったか」
とぼけたわけではない。それが真実であったことかも、判別がつかない。
「確かに、伺いました。その時の妹紅、不思議に憑かれたようになって話してくれたもので、よく覚えています」
「……」
「何もわからないまま、あなたが灼きはらってしまった、その妖怪」
「……」
「その名前も、確かに教えてくれたはずです」
「……」
「その妖怪の名前を、です」
「……」
「お忘れですか」
「いや」
今、慧音が、ほんとうに悲しそうな顔をしているのに気がついた。
「でも、贖罪のつもりは、ない」
「ごめんなさい。でも」
「……無理もないよ」
「あなたが、ただの気まぐれであったのなら、わたし何も言うつもりはありませんでした。例え、あなたの相手する何者かが、不幸になろうとも」
「ああ」
「でも、私、名前を聞いて……怖ろしいんです。あなたが、いったいどうしたいのか、まったく理解らなくって」
「わたし自身、どうしたいのかもわからない。ただね、理由はある。とても単純な」
「あの子のに、その名を付けた、その理由?」
「……似ていたんだ。とても」
いつの間にかうつむいていた慧音が、こちらへ目を向けた。今度は何か困っている風だった。
「驚くほど、重なって見えた。容姿や、背丈もそうだが」
慧音と目があった。慧音は、探るようにこちらを見ている。
それに何故か、わたしは微笑みで返していた。
「――そうだ。眼なんだよ。あれがよく、似てたんじゃないかなあ」
* * *
目覚めると、わたしはその妖怪の肩を抱いたままだった。当然ながら、妖怪も背を向けたままであった。
窓を振り向くと、外界が薄っすらと白んでいるのが覗えた。日が昇ってからはまだ間もないらしい。
わたしは億劫ながら寝床から這い出し、水桶からひとつ、掬い出して喉に通した。
そうして一息つくと、ぼんやり寝床の方を振り返った。さてどうしたものか思案して
「おい」
そう感じられてすぐに、わたしは何も考えずに声をかけていた。
そいつは少し、布団をもぞもぞやると、思い出したように跳ね起きるようにしてそこから飛び出した。
「何を怯えてるんだ。今更」
「……おびえて、ない」
わたしは、さっき水を飲んだ手桶を、そいつに突き出していた。そいつは目線を、そのゆらゆらしている手桶に合わせて小刻みに動かしている。
猫のようだ。面白がって手桶を頭上に高々と掲げた。僅かに残っていた水も跳ぶが、別に構わない。妖怪もそれに合わせて首ごと上を仰ぐ。
「それ」
わたしは妖怪に向かって、手桶を
「あう」
などと妙な声を上げた。どうも度を過ぎて情けない様子なので、何か申し訳ない気持ちにさせられた。
「悪かった、悪かった。そんなに驚くと思わなかったものでね」
そう言ってわたしは手を差し出してやったが、妖怪は噛み付くような動作をしてきたので、それを引っ込めた。今度は躾のされていない、野犬が連想された。
「ただ、手を貸してやっただけだよ」
「たてる。ひとりで」
その言葉通り一人で立ち上がったが、やはり手足を使うに慣れないのか、随分ぎこちない動作だった。
「ごめんごめん」
「いいよ」
「優しいね」
「やさしく、ない」
何故か否定して、ぷいと外方を向いた。照れているのだろうか。
愉快だった。思いがけず、面白い同居人を得たものだ。わたしは声も立てずに笑いながら、戯れに投げた手桶を拾った。
「まあどうだっていいが……お前……」
何か、聞くべきであると思うし、聞くべき事も多くある筈 なのだが、彼女に関する情報の何もかもが漠然としていて、差し当たり聞くべきことに迷ってしまった。
妖怪は
「お前……これから、どうするんだよ」
彼女が待っていても、間の抜けた言葉しかわたしの口からは出てこなかった。
「どうする、って?」
妖怪は眉を吊り上げはっきりと疑問を表情に出した。この時わたしは、彼女が今までになく複雑な表情になったので、急に不思議な気持ちになった。
これまでは動物的な、単純な反応ばかりだったのに、どこか人間臭いところが出てきた風に感じられたのだ。
「まあ、いろいろ聞こうか」
そこでわたしはほんの少し改まって、腰を据える事にした。
それを受けてか尻もちをついたままの妖怪も、心なしか背を伸ばしたようだった。やはり、仕草が急激に洗練されてきている。
その様子を、それでも成長というのが一番合っているようにわたしには思えた。