「そもそもお前、いつからここにいたんだ」
「いつ」
「そうだよ。前に、余所を知らぬと言っていたが……ここより前にはどこかにいたのかを聞いてるのよ」
妖怪は俯き、黙り込んだ。悩んでいるのか、言いたくないものか。おそらく前者の理由であろうが。
「ここより前に、お前はいたのか?」
「ああ」
妖怪は、はっとして顔を上げた。本当に、表情がよく出るようになったと、その時思った。不思議と、こいつも生きているのだ、と直感させられるほど、人間味のようなものが出来てきているようだった。
わたしと接したがゆえに、わたしに影響されてきているのではないかと思う。良いか悪いかは理解らぬが、わたしから
「いない。ここがはじめて」
「じゃあ、お前の出生……生まれたのはこの下ってことになるのか」
「そう、そう」
「となるとだな、お前がどうしてこの家の下で生まれてしまったのか、またわからないことが増えるのだよ」
「どうしてか?……わからない」
赤ん坊にそれを聞くのは無茶である。重大な問題ではあるが、こいつ自身に聞いてもわかるまい。
「わたしの家の下で一体何をして過ごしてたんだ?」
妖怪は答えようと悩んで困っているらしかった。こいつがものを考えている様子が何か新鮮で、いよいよ成長を感じざるを得なかった。
「ねてる」
「ほう。ずっとか?」
「でも……」
「まあ」
そういうものなのだろうとは思える。鑑みるに、こいつも妖怪としては生まれたばかりと言ってよいらしい。どうこう出来る知識も持ち合わせてはいないだろう。
知らないものをやろうとは、無論だが出来もしないし想像もできないので、故にただいるだけという状態になってしまうのは道理というものだった。
こいつが床下から上がってきた事はかなり大きな転機であったろう。床下の暗がりという母胎からようやく生まれ出たに等しい。
わたしが知覚しなければ、何時の間にやら消え去っていたかもしれない。いや、そもそもこいつを産んだのも、わたしかもしれない。
――思い当たる、節はない。もっと理由がわからない。
「――お前は誰だ」
「だれ」
「暗闇にあって、何を為すのか」
「しらない」
「名は」
「な、?なまえか?」
「そう」
「ない……ない」
「ではお前は、お前について何を知っている?」
「おまえ……わたし」
「お前、自分の顔すら、知らんのじゃないか」
「かお……わたしの」
「わ……わたし、わたしは……だれ?」
妖怪は、両手で顔を押さえ、くしゃりと潰すように、握った。わたしはそんな彼女の肩に手を置き、軽く揺すった。
「……見てみるか。お前の顔」
妖怪は顔を上げた。悲しみも、嘆きの表情もなく、何かを見出そうと眼を大きく開け、呆然とした困惑だけがあった。
「ちょっと、待ってろよ」
わたしは部屋の隅の、いつからあるかもうわからない、古ぼけた小棚から、やはり古くなり端が曇っている手鏡を探し出した。
「鏡だ。ほら」
妖怪はさっきの表情のまま鏡を覗き見た。しかし、その映るものの意味を理解してはいないようで、すぐにわたしの顔を伺い始めた。
「そこに写っているのがお前の顔だ。つまりな」
わたしも鏡面側に回り込んで、自分の顔を映し込んだ。妖怪はそれを見て、考えている。
「わたしのとなり、にいる」
「そうだな」
「つまり」
そう言って、鏡面を指差した。鏡の中の彼女も、同じ動作をした。すると、差した指先を引っ込め、まじまじと凝視し始めた。
「わたしか」
「そうそう」
「これが、わたし」
「なかなかどうして、可愛い顔をしているだろう」
「……へんだ」
「変ときたか」
何となくその気持ちもわからなくもないが、やはり意外な感想だったので可笑しかった。
「なまえ」
「ん?」
「なまえが、ほしい」
「へえ」
鏡を覗きながら、彼女はつぶやくように言った。おのれの姿を知り、自我に目覚めたのだろうか。
「なまえ……ええと」
彼女は鏡を見たまま、今度はわたしを指差し、もう片方の手で己の髪をくしゃりと掴み、困っている。
「わたしの名前か?」
「そう」
「わたしはな、妹紅。もこうだよ」
「もこう……もこう。なまえ、ちょうだい」
そう言って、わたしに振り向いた。瞳が、その紅い瞳が透明に、煌めいたように見えた。
喜びの色がある。笑っているわけではないが、そう見える。
対象的にふと、あの晩、わたしを襲うのに失敗し、恐怖した彼女のあの顔が浮かんだ。暗く淀んだ、瞳。
さらにそれより、遥か昔、同じように怯える顔を――瞳をわたしは見た。
――そうだ。あの少女……
あのこが、わらっているようで――
* * *
「ただいま、ルーミア」
慧音と別れ、家の戸を開けた。慧音はまだ何か言いたげだったが、結局、少し釘を差しただけですぐに帰ってしまった。
ルーミアは起きていた。かように普段も夕方になると起き出す。これは一般の妖怪の習性故とも言えるかもしれない。
「おかえり、もこう。……
「ああ。気がついてたか」
「寝てたから、なんとなくだけど」
「うんうん。
「ずっと、外だったとおもう。ちゃんとはわからない」
「ふうん」
わたしはちょっと悩んで、頭を掻いた。慧音とルーミア、互いに妙な確執が、ほんとうにあるのならば少し考えものだった。わたしが思っている以上に、大きな隔たりがあるのじゃないかと、先程の慧音の様子を見て何となく思ったのだった。
「なあルーミア、お前慧音のこと、どう思う」
「……わたしは、きらいじゃないけど。せんせいはわたしのこと、きらいだと思う」
「どうしてかな?」
「ようかい、だから?」
ルーミアは拗ねたように両足をばたつかせた。ただ、面白くなさそうにしているが、深刻な様子ではなかった。ルーミアにとって慧音は何故か嫌厭される面白くない相手、くらいなのかもしれない。
「お前が妖怪かどうかは関係ないよ。嫌っても、いないさ」
大体、本当は深刻な問題でもないはずなのだ。慧音の心配もわかるし、それはそれでありがたくも思うが、彼女が考えるほどわたしたちの間に深いところはないはずだ。
「お前を知らないだけだ」
ただ――似ていた。それだけ。
そして、今の、
「仲良く出来る?……ルーミア」
「……たぶん」
ルーミアは、特に考え込むでもなく仰向けに寝っ転がると、身体を伸ばしてごろつき始めた。
* * *
ルーミアは何とか頑張って箸を使おうとしているが、まだ上手く使うにはほど遠く、米をぼろぼろこぼしている。
口にも粒を幾つか付けてそのままだ。尤も、椀をひっくり返さないようになったのは確かな成長といえる。
「
そうして夕餉をとっていると、彼女が不意に尋ねてきた。米粒を左の親指でようやくはじき始めながら事も無げにしている。
「なあに散歩だよ。ああそうだ、お前にもお土産あるよ」
わたしは懐から、それを取り出そうとした。ルーミアが、興味深そうに卓の上へ身を乗り出した。
「おう」
「おいおい、そそっかしいな」
ルーミアが箸をひっくり返して床に転がした。慌てた彼女は更に茶碗をひっくり返しそうになった。わたしも慌てて手を出し、それを防いだ。
「ごめん」
「済ませてからにしような」
「うん……」
その後も土産が気になるらしく、食を進めつつもその様が一層不器用なものになっていた。
単純なもので、ルーミアは本気で落ち込んでいる様子だった。こう見ると、ただの子供そのままであった。
ますます、慧音の心配は杞憂に思えてならなかった。うまく飼いならしている、といった態にいまは落ち着いている。
「よそ見をしない」
「うん」
飼う――?いや、もはや畜生扱いは出来まい。そんな淡白な気持ちでは、もうない。
こいつは、わたしにとっての何なのだろう。友か。姉妹か。娘か――?
奇異な関係なのは確かだ。端から見れば勿論、わたし自身不思議に思う。
この先、ずっと共に住まうとしてどうなる。……途方も無い。死人と妖怪とが共生し合うのだ。
わたしは何も変わるまい。しかしこいつは子供だ。見た目だけでもない、成長をしている。
――単純な話、こいつが人間を襲うようになるならば、どうか。慧音の心配は当然か。
「もこう、食べないの?」
ルーミアが声をかけてきた。そのあどけない瞳。わたしは少し、怖ろしくなった。
どうなるであれ、わたしは
「よそみしちゃ、だめ」
「そうだな。そうだったな。ごめん」
愛おしいのだ。理由など、きっとないのだろう。
* * *
「ほら、後ろを向けよ」
「おみやげ、くれるんじゃ、ないの?」
「今からやろうってんだよ。ほらじっとしてな」
「うーん、
「そう、髪に……ほら」
「なあに、これ」
「ほら、鏡。ちょっと短かったから、ほんとうに端を結うくらいしかできなかったな」
「赤い、ね?」
「そう。赤いリボンだよ。……似合うな。こう、締まって見えるよ」
「ええと……」
「気に入らないか?」
「ちがうちがう……その、もこう……」
「うん?」
「かわいい?わたし」
「……可愛いよ、とても」
ルーミアは、はにかんだ。とん、と軽く跳ねると身体を宙に浮かせて丸まった。
わたしも照れくさくなりながら、丸まった彼女を引き寄せた。
今、この時には、一縷の不安も憂いも、ないのだった。