わたしが、彼女を知ったのは、ちょうど昨年のこの時期、やはり晩秋の夜だったように思う。
その時わたしはまんじりともせず、さして熱中するでもなく、気まぐれに
そんな中、彼女は戸を遠慮がちに叩いた。わたしはすぐに顔を上げ、
「どうぞ」
と、遠慮がちにする彼女に合わせるように、やや声を落として言い掛けた。
「すみません」
彼女は慎重そうに戸を開け、やはり静々と中へと入ってきた。
「どうしたんだい、こんな夜更けに」
「あの……お休みでしたか」
おずおずと入ってきた彼女は、心なしか怯えているように見えた。かつて、ここに居座るようになって間もない頃は確かにこういう者もいくらかいたと思うが、最近ではわたしもここいらに馴染んできたと見え、こうした彼女のようにおどおどした態度の客人はめっきり珍しくなっていた。
「このとおり、まだ
彼女の気を
「そうですか」
一応、彼女は微笑み返してくれたが、やはり緊張の面持ちでいた。こうなると、わたしにはどうすればよいかわからないのだった。我が事ながら己の人付き合いの下手さ具合には、事あるごとにうんざりしてしまう。
「そうやって、固くならないでおくれよ。取って食いや、しないんだから」
どうにも困る。わたしもつい居住まいを整えていた。
「ごめんなさい」
震える声で彼女は言う。もう、打ち解けられないのは仕方がないのかもしれない。
「まあ、そこから上がって、座ってよ。……どんな用なのかな」
ぎこちなく、彼女は三和土から上がってくる。ここでわたしは、彼女の髪がしっとりと濡れていることと、彼女の右足首に包帯が巻いてあることに気がつく。
「足を、くじいてしまいまして」
「そうらしいね。そうか、いま雨降っているのか」
「ええ。少し、ですけれど」
わたしは急いで彼女を助けるべく、立ち上がったが、彼女は拒んで手を掲げた。
それでもわたしは、彼女が座るのを手伝った。彼女は沈鬱そうな表情でうつむいている。
「ごめんなさい。ほんとうに」
「何を謝る。……帰るのに、手を貸そうか……それとも」
やはり、彼女の――怯懦か、恥じらいによるのかわからぬが――沈鬱な顔が気になって仕方がない。
かと言って、気の効いたことのひとつもかけてやれないのだった。本当に、取るに足らない人間なのだ、わたしは。
「いや……こんな奴のいるところで夜を明かしたくはないだろう。ちょっと辛いだろうが、肩を貸そう。あいにくと、傘が一つしかないが」
「いえ、あの」
彼女が顔を上げた。何故か、悲しげな表情をしていた。
「……ご迷惑をかけたくありません。部屋の隅にでも、なんならそこへでも」
彼女は戸口に指をさす。必死に言葉を絞り出しているようだった。
「……日が昇るまでどこかに置いて頂けませんか。そうだ、軒下にでも」
「馬鹿なことを言うもんじゃないよ」
畏怖が度を越して、卑屈になりつつある彼女に、我慢ができなくなってきた。どうにもわたしに、そこまで怯えさせる何かがあることが、何より嫌になった。
「……わたしなんて、ほんとうに、なんでもない奴なんだ。ね、どうか、気を使わないでおくれ」
「……はい」
ようやくと、彼女もある程度、気を許してくれたようで、発する雰囲気が柔らかくなった感じがする。わたしもそうだが、彼女も大概人見知りするらしい。
「
「ありがとうございます」
「上着は……そこにでも掛けな。火はもうちょっとつけていても、構わないから」
「はい」
わたしは彼女に背を向け、座布団を枕代わりにして寝ようと努めた。
気を使うのも使われるのも億劫だったし、用心すべき事柄はこの家においてはありはしなかった。
背中越しに察するに、彼女はうずくまってしばらく起きていて火にあたっていたようだった。しかし、どうにも落ち着かないのか、気を抜いている様子はなかった。
それでもわたしは放っておくつもりだったが、それがあまりにも長く、どうしても気になって仕方がなくなってきた。
声をかけようか、かけまいかぼんやり思い始めた頃、矢張りか細い声で彼女は声をかけてきた。
「あの……寝て、いらっしゃいますか」
かなり気を使っている様で、その声をかなり抑えていた。その上若干その声は震えている。
「寝てるよ」
「あっ、あの」
「冗談、冗談。気、遣わないでいいったら」
「はい……」
「それで、どうしたの」
「いえ、あの……お布団で就寝なされたらと、思いまして」
「……ああ」
彼女が使うだろうと、わたしは何の気なしに
彼女はわざわざ進言してくれたものの、所在なさげに落ち着きがなかった。目もわたしを見るでもなく泳いでいる。
「うちには寝具、それしかないんだよ……一応日中は干していたし、その」
言っているうち、わたしの方も気を使い始めているのを自覚し、言い淀んでしまった。
そういうわたしの様子が見えたものか、彼女はぎこちないながらも、少し笑みを漏らした。
「わかりました。お互い変な気遣いはやめましょう」
「そうだ。それがいい」
彼女もようやく抱いていた鬼胎を払拭してくれた様で、安心感が表情に出てきたようだった。
「大体だよ。どうして、そんなに怖ろしがってたんだい」
「怖ろしがっていたわけじゃ、ないんですけど」
彼女は笑っている。さっきまでの煩悶が嘘のようにあっけらかんとしている。わたしは少し驚いた。分かりやすい
「わたし、そこから……ひとりで出ることなんか、殆どなかった」
「そういうもんかい」
「ええ。でも、たまに出てみると、こう……しくじっちゃった」
そう言って彼女は自分の右足首を撫でた。しかしその自らの患部を彼女はさも愛おしそうに撫でているので、わたしの眼には不思議な光景に映った。
「でもさ、それならそれで
「心配、してくれてますかね?」
「さあね。一晩くらい心配させとけばいいと思うが……君の立場が悪くなるのはまずいんじゃないのかな」
「わたしが叱られる分にはいいんですけど……」
心配されている自負があるのか、また不安になってきたらしい。また落ち着きを失っている様子だった。
「おぶって行こう。気になるんだったら帰るべきだよ」
「……変な気は、遣わない、ですか」
「まあ、そうだ。わたしもたまに、病人やら怪我人をそうやって手助けもするし」
「ああ、わたしもそういう時のあなたを、ちらと覗いたことがあります」
そう独りごちるように言ってから、彼女は何か納得したように頷いた。
「あの時の
「何を言っているんだい、君は」
わたしは彼女の、間の抜けた言葉に笑ってしまった。当の彼女も自分で笑っている。
* * *
「あの晩だって、あなたはわたしにはよくしてくださいました」
「いつもやってることさ。君に限ってじゃない。誰に頼まれるでもなく、物好きもいいところだね」
「あなたは、やさしかった。わたし、あの時何か、初めて他人の優しさに触れたようで――そう、嬉しかったんです」
「初めて?そんな」
「そんなことはない、そんなことなんか、ないとはわたしも思うんです。でも、たしかにそういう心持ちだったんです」
「何故かな?」
「どうしてでしょう。ただ――」
「ただ?」
「暗闇を、あの暗い竹林を、わたしをかばって歩いてくださった時、火に照らされたあなただけが、そこにはっきりとして――そこにたしかに存在が感じられるようで」
「……」
「自分と、他人とを、初めて意識したんです」
「……」
「とても美しかった。驚いたんです。ぼんやりしていたわたしの……そう、自我が、あなたによって目覚めたように」
「……」
「わたし、あなたをお慕いしております」
夕暮れ時。かの竹林の、茂みの影。そこに住まうはずの妖精や妖怪たちから隠れるようにわたしたちはいた。
そしてかの兎は言う。わたしは俄に思考が凍りつき、ただ彼女の次の言葉を待つだけであった。
「わたしにとってあなたは――大仰かもしれませんが、絶対の他者となったのです」
兎は言う。何故だ。こうなるまで――いや。もっと出会ってすぐの頃、どうして突き放しておかなかったのだ。
「わたしはいつか、死ぬ、でしょう」
暗がりの中で、彼女が密やかに笑ったのがわかる。彼女はきっと、不幸だ。少なくとも、いまこの時より、しばらくはそうであろう。
「だから、私の最期の時まで――赦されるのならば、どこまでも」
わたしは、彼女の心情を知らなかった。
わたしは、彼女の心を支配していたことを知らなかった。
――なぜ知ろうとしなかったのか。そんなわたしを、この娘はどうして――
このときに至るまで、わたしは如何に彼女を拒むかを、知らなかった。
彼女が、わたしに歩み寄る。その指が、何かを掴もうとするように、宙をなぞる。
* * *
「よう、ルーミアよう」
わたしは仰向けになり、ぼんやり天井を眺めつつ
「なんだ、もこう」
ルーミアは家の周りか、床の下かで捕まえたらしい黒猫を腕に抱えて火に当たっている。
気候ももうすっかり寒くなりつつある時分の中で、腕の内に眠る猫は少し弱々しく震えている。
結構歳はとっているようだったが、毛並みは整っており綺麗だった。痩せてはいるものの不健康には見えなかった。
「……どうして急に連れてきたんだよ」
「だめ?」
「
ルーミアはちょうど、母親が乳呑子をあやすように両手を揺すった。猫の体格に対し、彼女の腕は小さいので危なっかしかった。
「こいつ、ともだち、だったんだ」
「友達、ね」
「ここの下にいたとき、はじめに気がついた、いきもの。下はさむいから連れてきたんだけど」
少女が眠る猫をあやす様は見ていて微笑ましい光景だったが、当のルーミアは何か神妙な顔つきをしている。
「こいつはわたしを、ともだちと思ってないからなあ」
いきなり妙に達観したことを言うので、わたしは驚いてしまった。
「お前、自分でまた……冷めたことを言うね」
「たぶん……でも、こいつもいやがらないから、これでいいんだ」
ルーミアには見た目相応に子供らしい反面、こういう虚を突くような言動をする達観した一面がある。
「じゃあ、ルーミア。わたしはお前にとって何なんだ?友達か」
「もこうはね。おねえさん」
ルーミアはきっぱりと即答した。わたしはまた驚く。
「はっきりとしてるんだなあ。お前んなかのわたしは」
「こんなもんじゃないかとおもう。ええと……か、
何の衒いもなくルーミアは言う。素直にわたしは嬉しく思えた。
「まあ何事もはっきり決めておいたほうがいいわな。そいつとの関係を見失わなくて済む」
「どういうこと?」
「そいつに何かあった時、自分はどうしたら良いかわからなくなって血迷うこともなくなる……迷いに迷うと、ほら。この侘家の女主人であるところのわたしみたいなのが出来上がる」
「まよったのかぁ」
「そういうことになる」
「――よし。もこうはおねえさん。
ルーミアは気の抜けた顔でこちらを見る。こういう凡百の人にとっては細かな疑問で、ルーミアはいちいち、思考の袋小路に入ってしまう。
「わたしは、なに……」
「そうだな。とりあえずわたしにとってルーミア、お前はな」
ルーミアは興味津々の風で凝視してきている。おそらく彼女は自分が何者たるか、わたしの言質で決めようとしている。少なくとも今このときだけは、ルーミアは本気であろう。
とは言えまさか、これで臆することもないが、わたしはなんだか本当に決め兼ねて、茶化してしまう。
「まだ、わからん。ゆくゆく決めるよ。お前はまだ、なんでもない奴だ」
「……もこう、ずるい」
ルーミアはまた拗ねるように
ルーミアはそれに俄に焦ったようだったが、また再び、あやすように猫を揺する。その様子はさながら母の真似をして赤子をあやす子供のようで、わたしと彼女のそれよりも、寧ろ姉妹らしく見えるのだった。