短いオリジナル小説です。死ネタなので苦手な方はご注意を。

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無題

 警報器が鳴った。耳を劈くほどの警報音は、瞬く間に大きく鳴り響いた。

 その音に体を震わせる人影が二つ。頬に一筋の汗が流れている。じわりじわりと汗が滲み出る中、尚二人は動き出すことができないでいた。

「……」

「……」

 生唾を呑み込む。二人は静かに息をするだけで目を合わせることもしない。ただ、鳴り響く警報に気を取られていた。

「……やった」

 ぽつりと片割れが呟く。

「あいつら、やったんだ……」

 呆気と驚愕、そして歓喜。気がつけば、未だに呆気にとられている相棒の手を取り走り出していた。

 迷うことなどなかった。ただ開いている戸を、道を突き進んだ。早く、早くしなければ。ただそれだけの思いが二人の足を動かしていた。

 無機質な部屋。どこまでも同じような光景が流れていく。

「本当にこっちで合ってるの?」

「分からない。でも、そんなこと気にしている場合じゃない」

 相方の手を引きながら素早く答える。自身のものより幾分も細く小さな手を今一度握り締め、走り続ける。

「あいつらがやってくれたんだ。俺たちも早くここから……!」

「む、無理だよっ」

「無理じゃない!」

 立ち止り、両肩を押さえ、しっかりと目を合わせる。

「今なら奴らも生き残るのに必死なはずだ。端のほううろちょろしてるのが見つかったところで揉めてる余裕もない。逃げるなら今なんだ」

「……」

 分かってるけど。そう言いたそうな表情を浮かべる相棒。困ったときはすぐに分かってしまう顔をするのは昔からだった。

「行こう」

 不安そうな目を向けられているのは分かったが、ここで引き返すわけにはいかなかった。彼は再び相棒の手を取ると、走り始めた。

 走ることによる体力の消耗は気にする必要はない。彼らは、それよりも過酷な労働を強いられてきたのだ。沈みゆく船の中を走り回ることくらい、どうということはなかった。

 上へ上へと目指していくうちに、予想以上の喧騒が広がっていることが分かった。彼らは走るのを止め、辺りを見回した。

「今上に行っても仕方がないよ」

「だな」

 救命ボートの奪い合いが行われていることは容易に想像がついた。薄汚い格好の自分たちが行ったところでボートに乗せてもらえるはずがなかった。

「え……?」

 不意に、バタバタと足音が聞こえた。同じ部屋からではないが、しかし近くから。

「……」

「……」

 見つめ合う。じり、と足が動く。次の瞬間、二人はまた走り出していた。

 あの足音の先には何かある。

「あっちだ」

 白い服がチラリと見え、二人はそれを追いかける。敏速に、しかし静かに。

 いつかどこかの何かで見たことのある白い服。白い軍服。セーラー服。海に関わる仕事をする、偉い人の服。

 追いかけてきた人影は、分厚い扉をくぐり消えていった。二人もゆっくりその扉に近寄り、中の様子を窺う。

「……」

 彼はクイ、と親指で扉を指す。中に入るという合図だった。相手が頷いたのを確認し、彼はそっと扉に手をかけた。

 扉を開けると眉を顰めるような臭いがした。中は用具庫のようだった。彼はそっと一つの木箱を手にし、白い人影に接近する。

 そして、振りかぶった。

 

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「救命カプセルか」

 木箱を捨てた彼が、倒れた船乗りの覗き込んでいた物を見て言う。それは、二、三人乗り用の救命カプセルだった。「一つか」と呟く。

「まあ、これで助かる」

 カプセルの表面を撫でる。少し埃を被っていたが、運用するのに問題はないように思われた。

「入りな」

 相棒に先に入るように促す。相棒は言われた通り先に中に入ると彼に手を差し伸べた。しかし彼はその手を取ることなく、カプセルの蓋を閉める。

「ごめん」

 中からガラスをたたいて抗議する相方にぼそりと謝る。そして無理矢理笑ってみせる。

「一人の方が、中の酸素多く使えるから。な?」

 不安と困惑の表情を浮かべた相棒に言い聞かせるように、自分に言い聞かせるように言う。もしかしたら警報音で声は届いていないかもしれない。でも、それでもよかった。

 彼は崩れかけた頬を引き締め、再び笑う。目に溜まる涙を零さないようにするのに必死だった。

「ずっとお前のことが好きだった」

 彼は言う。

「お前のことが大好きだから、助かるのはお前であって欲しい」

 次の瞬間、船の窓ガラスが割れた。水圧に負けたということは誰に言われなくとも分かった。彼はカプセルを力いっぱい押し出した。

 ――お願い、独りにしないで。

 そんな声が聞こえた気がした。

 

 救命カプセルといってもそこまで万能ではなかった。ただの箱という時点で特に期待はしていなかったが、それでも酸素ボンベの一つはあるかと思っていた。しかし蓋を開けてみれば、そこには何もなかった。

 彼女はその中で泣き続けていた。啜り泣き、啜り泣き、目を赤く腫らす。

 何よりも大切で誰よりも心の支えであり、心の拠り所であった相棒を自分のために犠牲にしてしまった。それに対する罪悪感と、自身の情けなさや自身への卑下が彼女を襲った。

 しかし、いくら彼女が悔やんだところで時が戻ることはなかった。状況が変わることも。沈んでいく船の中で彼が死んでしまったであろうことも、広い海の上を自身がたゆたっていることも。何も変わらない。

 いっそ、どこにも辿り着かず、誰にも見つからずこのまま酸欠で死んでしまってもいい。そんなことを思った矢先、どこかへ打ちつけられてしまった。

 これからどうすればいいのだろうかということが頭を過る。すると、カプセルの蓋が開けられた。

「大丈夫ですか?」

 女性に声をかけられる。彼女はどう答えたらいいか分からず、女性を見つめ返した。

「あー、イングリッシュ?」

 耳にするカタカナ英語。彼女は横に首を振った。

「日本人、です」

「そうですか! よかった。この近くで船が沈んだみたいで、もしかしたら誰か漂着するかもと思って。皆で見張ってたんです」

「はあ……」

 鉄砲のように喋り立てる女性に彼女は適当に相槌を打った。女性は話している途中に幾度かくすりと笑うと「あは、困った顔してるね」と言った。その言葉に余計彼女は困った顔をする。それを見て女性はまた「複雑な顔」と言って笑った。

 それから幾日彼女は女性の家で世話になった。彼女の出所について彼女は口を噤んでいたが、女性はそのことについて何も言うことはなく、毎日手厚く彼女をもてなした。

 女性の厚意に彼女は甘えたきりだった。日中女性が外に出ている間彼女は何もできなかったし、家にいる間に何か手伝おうとしても断られるばかりで何もできなかった。

 しかしある日、彼女は思い出したかのように外に出た。少し歩くと海が見え、ここが崖の上であることを認識した。じりじりとその先へと歩み寄っていく。

 ここから飛べば、死ぬだろうか。そんなことを思う。昔、まだ両親が健在だった頃に読んだ、戦時中女子どもが崖から飛び降りて自害をしていたという記事のある本のことを思い出した。

「お願い、行かないで」

 突然声をかけられ驚いた彼女は体を震わせた。声をかけてきたのは、あの女性だった。

「せっかく助かったんだもの。生きなきゃ。ね?」

 女性が近づく。彼女は後ずさり、一歩、また海に近づく。

「…………から」

「え?」

 彼女は尋ね返した女性に切ない頬笑みを向けた。

「必ず会いに行くから」

 彼女は、海へと墜ちた。

 

     ◇◆◇◆◇

 

 後に、かの沈没事故は別の意味で話題となかった。日本の闇社会が公に映し出されてしまったのである。

 あの船に乗っていたのは、いずれも孤児で行方不明になっていた(あるいは死亡とされていた)子どもたちだった。救命ボートに乗り助かった大人以外は。

 助かった大人から事情を聞くには、その子どもたちは新しい人に買い取られたため船により移送されている最中だったという。それまでに労働や諸々を彼らに強いていたことも白状した。

 そしてまた、あの船を沈めるよう仕向けたのは、収容されていた子どものうちの数人だったという。しかしいずれも助かることはなく、あの船から救出された子どもの数はゼロとされている。


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