「気品さを身につけなさい」
「…………」
「何度も言っているでしょう。崇高な理念と気品ある姿を常に心がけよと」
「…………はい」
私の泥で汚れた服を見つめて、母は言った。
隣にいる妹、るるなも下を向いて口を噤んでいる。るるなの服は汚れていない。たしかボール遊びをしていて、水たまりへ入り泥がこちらへ飛んできたのだ。
しかしおかしい。私は自室にいたはずだが。これはどういう状況だろうか。
実家の玄関で、母を前にして立ちすくんでいる。
「全く……」
「で、でもっ、お姉ちゃんは悪くなくて私がっ……!!」
「るるなは言葉遣いに気をつけなさい」
「うっ…………」
るるなはまた俯いてしまう。
母はため息を吐いた。
これはいつのことだっただろうか。
母は厳しかった。余り口数が多い方でもなく、表情や感情を外に出すことが少ない。いつだって怖い顔ばかりしている。
それでいて家の掟も厳格で、怒られることばかり。
だが私も妹も、母が好きだった。
鉄で覆われた心には、たしかに優しい一面があると私たちは知っていたから。すると母はもう一度、大きく肺の空気を吐き切るようにため息をした。
「はぁ…………二人とも早くお風呂に入って着替えてきなさい。ごはんにするから」
「えっ、で、でも……」
「そこでずっと立っていても仕方ないでしょう」
ふっと母は口元に小さく笑顔を浮かべた。
るるなは、ぱっと笑顔を浮かべ『お母さん大好き!!』と言って、母の元へ向かっていく。
だが私は玄関に立ったままでいた。あちらへ私も行くべきなのだろうか。
「お姉ちゃん? どうしたの? 早く来なよ?」
るるながこちらへ問いてくる。
すると母もこちらを見て言う。
「何しているの、りりな?」
「………………」
「早く来なさい。もう怒る気はないから……」
一
ハッと目を覚ます。
時刻を確認すると、ちょうど目覚ましのセットした五分前だった。
久しぶりに見た夢は、あまり気分の良くなるような内容では無かった。
あれは子供の頃の記憶だ。もう大人になった私とは関係がない。
魘されたわけでもないのに、むしろ心中のつっかえがひどく気にかかる、ただ不穏な夢であった。
どうして今更、私はあんな夢を見てしまったのか。
どうして来た道を振り返るような。
「………………」
妙なことを考えるのはやめよう。この問題に結論を出しても、私は得をしないだろう。
それにただ一つ。この道は友人が守ってくれた、大切な道であるのだ。
妙な感傷から逃げるように、ベッドから起き上がる。
カーテンを開けると、朝日が差し込んできた。
それからシャワーを浴びて、牛乳を飲む。
身支度を整えて、前日に準備をした荷物の確認をする。
今日からの日程を考えると憂鬱になる。嫌な夢を見たのはきっと、これからの事を意識してしまっていたからだろう。世間の私、山吹りりなとは一体どんな姿であるのか。少なくとも大抵の人が思い浮かべるような人間ではないのは、たしかだが。
一人だからと思って、ふとため息を吐いてしまう。
『オイ!! 電話だぞ!! 早く出ろよな!!』。
すると携帯の着信が鳴った。見れば井手上菊代さんと表示されていた。
「はい」
「おはようございます。朝早くから申し訳ありません。少しだけ時間を頂いても大丈夫ですか?」
「おはようございます。はい、大丈夫です」
電話の向こうから穏やかな声が聴こえる。
ちょうど家を出る前に時間を持て余していた時。まるでこちらを見ているかのようなタイミングだ。このような、昔から井手上さんのもはやエスパーに近い気配りの良さには、驚かされてばかりだ。
「まずは優勝おめでとうございます。私も中継で昨日の決勝試合を見ていました。最後の車両を倒した時は、思わず私もテレビの前で手を上げて喜んでしまいました。
それからお疲れ様です。そちらで慣れない環境ながら、シーズンを通して日々活躍を続けられたことは、とても素晴らしいことだと思います」
「ありがとうございます」
「しかし一言付け足すならば、もう少し頻繁に連絡をして頂けると、私も安心できるのですが……」
普段は家政婦としての仕事をしながら、こうして私の心配までしてくれる。
井手上さんには頭があがらない。時差の関係でむこうはもう夜中だろう。それでいて私の都合が良い時間帯を配慮してくれている。
「…………すみません」
「ダメです」
「…………え?」
「これは口頭で謝って済むような問題ではありません」
「……? どういうことですか?」
「一度面と向かって謝罪をして貰わなければ、私はあなたを許す気にはなれません」
「……そういうことですか」
むこうから静かに優しく笑うような声が聴こえる。
顔は見えないが、井手上さんがどのような表情をしているのか理解できる。その方法を教わったのも他の誰でもない井手上さんからなのだが。
「あなたの帰る場所はここにあります」
「……はい」
「それはどのような道を選ぼうとも、変わることはありません」
「…………」
考えていることを見透かされているような、そんな言葉だ。
思わず心労を掛けまいと明確な意志を持ったフリをする、いやしようとする。そう口を開くか開かないかくらいで。
「心――――――」
「―――あなたのことですから、これからの方針以外にも、優勝後ということもあり立ち振る舞いも含め様々なことで思いつめているかと思いましたが」
「流石です……」
見透かされていた上、先を越された。
きっと就業前のこの時間に電話を掛けてきたのも、私の心情を察していたからだろう。これから日程をおそらく予測して、私がどのような気分になるのか分かっている。
「当然です。いつからあなたを見てきたと思っているんですか?」
「返す言葉がありません……」
「この後のご予定は?」
「メディア向けの取材がいくつか……それに会食が……」
「昔からあなたはずっとそのような場が苦手ですね」
向うからくすくすと笑うような声が聴こえる。
ペースをずっと掴まれてばかりだ。
たしかに小学生の頃からずっと人が集まるような場所が苦手だった。あの日から状況に応じて、自分を騙し騙しチームの前に立ってきたが、今度ばかりはそううまくいくような場でもない。
すると井手上さんが穏やかな声が聴こえた。
「あなたは昔から物事を難しく考えすぎる癖があります」
「そうなんですか?」
「ふふ、そうなんです。もっと単純にただ思ったことを屈折せず外に出す方が、うまくいくということもあります」
「本当ですか?」
「はい、本当です」
昔からと言われると、そうなのだろうと受け入れる他にない。
きっと私よりもずっと、私の周りを含め多くの事を井手上さんは知っているから。
「ありがとうございます。とてもいいことを教わりました」
少し気が楽になった。
深く考えすぎていると気付き。それだけで大きく違う。
「それなら良かったです……ああ、そろそろ時間ですね」
時計を確認すると、ちょうどいつも出発している時刻の少し前だった。
どこまで把握しているのだろうか。
「それでは、次は日本で会える日を楽しみにしていますね」
「はい」
「それから、家元があなたと話したいことがあると言っていましたよ」
「えっ」
「それでは」
電話が無慈悲に切られた。