八
「では改めまして。私はこの家の家政婦をやらせて貰っています、井手口菊代です」
「は、初めまして!! 日比谷詩織です」
「はじめまして。天ヶ瀬紅葉です……」
お辞儀をされたので、慌てて私達も頭を下げる。
井手上菊代さんと名乗った着物姿の女性は、にっこりとした顔をこちらに向けてくる。い
いまだに何が起こっているのか分からない。隣に座っている詩織も、目は真っ直ぐ向いているが。表情がさっきから呆けたまま変わらない。変わったのは恰好だけで、濡れた洋服が和装になっている。
子犬は座布団の上で気持ちよさそうに寝ている。私達と違ってふてぶてしいやつだ。
まず落ち着くために、ここまでの状況を整理しよう。
あの子犬の居た場所へ歩いてきた着物の女性、井手口菊代さんは詩織の恰好に気づくなり心配そうに駆け寄って来た。そしてどこから取り出したのかタオルを持ち、濡れるのも気にせず自身のストールを詩織に掛ける。
その時、井手上さんの腕の中からもふっと顔だけ、子犬が出てきた。私達を他所に、あんなところへいたのか。
それから私達は言われるがまま、彼女の差す方へ連れていかれた。
その先にあったのは大きな屋敷。瓦屋根に木造の日本らしい家。十円玉に書いてある建物のような、とにかく家と呼ぶには大きすぎる建物だ。
勿論、その建物が何か知らない訳がない。近隣で有名なあの西住流の屋敷だ。
とんでもない所へ来てしまった。
中へ通されると、私は広々とした和室へ、詩織は浴場の方へと案内された。
井手上さんは『少々お待ちください』と言ってどこかへ行くが、取り残された私はどうにも落ち着かず周りをキョロキョロ見回してしまう。あるのは高そうなテーブルに壺に掛け軸。
それから座って待っていると。井手上さんがお茶と和菓子を持ってきてくれた。とにかく高そうということしか分からない。慣れた手つきでお茶を汲んでくれると、こちらへ差し出してくる。
ただ口にしても緊張で味が分からないので、お茶とお菓子に申し訳なくなった。
それに、というか井手上さんの気が利きすぎる。
『あっ』
『荷物を預かりますね』
『あ……』
『お茶が熱かったですか? すみません、すぐに取り替えますね』
『えっ』
『このお菓子はこの包装を回すようにはがして食べると良いですよ』
『…………』
『トイレですね。ご案内いたします』
こっちが気を遣う間もない。ノータイムで繰り出されるおもてなしに私は翻弄される。
そのうち、私は頭が真っ白になっていて、完全に思考が停止した。
『何か、気になることはありますか?』
『イエ。アリマセン』
こうして私は井手上さんの操り人形になった。これが格の違いというやつだろう。
それから少し待っていてくださいと言われる。言われた通り待っていると、詩織がこの和室に入って来た。『うわー』と普段通り無邪気に喜ぶ詩織だが、どこか違和感を覚える。
たしかに恰好がさっきとは変わり和服になっていて、髪も普段みないほど綺麗に整えられているが。
『ワー、すごぉーーい』
詩織も正気を失っていた。
隣で井手口さんがただニコニコと笑っていた。
九
「なるほど。犬の引き取り手が居ないと」
しばらくしてようやく目が覚めた私たちは、本題に戻ることにした。
あの子犬は。今まで何があったか。
自覚できるほどに私達の喋りはたどたどしくなっていたが、必死で今まであったことを説明した。それに井手上さんはゆっくりと頷き、私たちの言葉を最後まで聞いてくれた。
全て包み込んでくれるような優しい雰囲気の方だ。
しかし、どこかで同じような雰囲気の人を見たことがあるような。
「でもどうやって見つけたんですか?」
詩織が不思議そうにそう井手上さんに問う。
まるで隠していたかのような言い方だが、実際に隠されているような場所に子犬は居たのだ。
「最初に気付いたのは私ではなく別の子です。今朝、声を聞いたと。そして先ほど連絡があり、雨が降り出したので助けてあげて欲しいと頼まれたので私が来ました」
「そうなんですか……!!」
詩織が驚いたような顔をする。
別の子とは、西住流の関係者の方だろうか。
どれにせよその人と、井手上さんには感謝しなければならない。あのままあそこに誰も来なかったら、びしょぬれの子犬に詩織という最悪の状況になっていた。
それから今になるまで一度もお礼を言っていないことに気付き、慌てて頭を下げる。
「本当にすみません。ありがとうございます」
「あっ、ありがとうございます!!」
詩織も隣で頭を下げる。
「いえいえ。お礼を言うなら、見つけた子に言ってください」
「はい、その方にも、あ……えっと、どんな方なんですか?」
「会えば分かりますよ。雨もやんだことですし、もうすぐ帰って来るはずですが……」
井手上さんの言葉に首を傾げていると、ガラガラと玄関口の戸が開く音がした。
誰かが帰って来たのだろう。
それからトントンと静かな足音がこちらへ近づく。そして部屋の前で止まり、ふすまが少し開かれる。
「失礼します」
「あっ……!!」
聞き覚えのある声と共に、正座でそこに居たのは山吹さんだった。そしてこちらの目を真っ直ぐと見て、ゆっくりと頭を下げられる。私達もつい頭を下げてしまう。
どうしてここにいるのか。いや、彼女は戦車道をやっていてここに居るのもおかしいということはないが。
それから山吹さんは井手上さんの方を向く。
「……すみません。お手数をお掛けしました」
「いいえ。私こそ言葉だけを鵜呑みにして、あなたのことを信じてあげられませんでした。謝るべきは私の方です」
「私が、自分を信じられなかっただけです」
「……せめて私に出来るのは御二方を丁重にもてなすくらいですから」
「すみません。突然電話で呼び出して、雨の中演習場の端まで向かわせるなんて」
「正しい選択です。反省する必要はありません」
二人はお互いに申し訳なそうにしている。
ところどころで何を意味しているのか分からないところはあった。しかしおそらくだが、山吹さんは私に傘を渡してくれた後、井手上さんに連絡して助けてくれるように頼んでくれたのだろう。
どこからどこまでも申し訳ない。
それから井手上さんを初めに見た時に、どこかで同じような姿を見たことがあったと思っていた。だからこう二人が話していると分かるが、山吹さんと井手上さんはどこか雰囲気が似ている。
彼女たちは一体どのような縁なのだろうか。
それにしても子犬を見つけたのが山吹さんだとは思わなかった。
だとすればあの下駄箱で傘を貸してくれた時、子犬の存在に気付いていたのかもしれない。
あんな誰も居ない…………いや、大事な言葉を聞き逃している気がする。確認するため、井手上さんへ問う。
「あの、演習場って……もしかして、あそこは……」
「はい。あそこは西住家の所有の演習場であり、勿論私有地ですよ」
「…………すみません」
「いいえ。それにほとんど使っていませんでしたからね。それこそあそこを通る戦車はりりなの乗る戦車くらいですから」
道理で誰も通らなかった訳だ。
それに整備もされていないのはおそらく、戦車が通るという目的だけの道だからだ。そんな場所に今まで何度も入り込んでしまっていたとは。
反省していると、井手上さんが『では』と話を切り出した。
「本題に入りましょうか。この子犬の今後についてを」
「…………」
そうだそれが問題だ。この問題をどうにかしなければならない。
すると井手上さんは山吹さんの方を見た。
「とは言っても、あとはりりな次第ですね」
「? 私ですか?」
山吹さんは子犬を見て首を傾げる。
両方かわいい。
「あなたが良ければ、この子はこちらで引き取ろうと思うのですが」
「本当ですかっ!!」
井手上さんの言葉に、詩織は飛びつくように声を出す。
それから詩織は山吹さんの目をじっと見つめる。山吹さんには申し訳ないが今の詩織を止めるつもりはない。
「え? あ、あの。どういうこと、ですか?」
「御二人がこの子犬の引き取り手を探しているそうです。もしよろしければ門下生も含め皆で面倒を見ようと思っているのですが」
詩織はより強く山吹さんの方を見る。
「別に、私は構いませんが……」
「ホントにっ!?」
今度は山吹さんの言葉に詩織は飛びつく。
言葉だけでなく、じりじりと距離を詰め、より強く詩織は山吹さんを問い詰めていく。
「ホントにっ!! ホントだよね!!」
「う、うん」
「あの……!! 迷惑とかだったり、しないよね?」
「井手上さんが許可しているなら、大丈夫だと思うけど……」
「犬とか嫌いだったりしない!?」
「そ、そんなことは特にないけど……」
詩織の勢いに山吹さんは少し押されている。
そろそろ止めなければ。そう思ったところで、詩織が山吹さんに抱き着いた。
「ありがとう。本当に……」
「え? そんな、私は」
「りりなちゃんと井手上さんが居なきゃ……私、何も出来なかった。紅葉ちゃんにまた迷惑かけて……それで終わっちゃうところだった……」
「ひ、日比谷さん?」
山吹さんは困ったような顔をしている。
見れば詩織は肩を震わせている。見兼ねて山吹さんから引っぺがすと、詩織は目を真っ赤にして鼻を啜っていた。
井手上さんが手早く用意をしてくれ、渡されたティッシュで慌てて詩織の顔を拭く。『良かった』とか『もう駄目かと思った』とか鼻声ながらに詩織は喋る。
それから井手上さんは笑顔で、子犬にいつでも会いに来て欲しいと言ってくださった。それでまた詩織が一層泣き出した。
これだから。さっきまで頼りになったと思えば、情けなくもなる。
それが詩織のいいところでもあるのだが。
すると井手上さんが立ち上がった。
「それでは、私は少々用がありますのでお先に失礼させていただきます。あとはりりな、お願いします」
「はい」
すると井手上さんは山吹さんに鍵を渡す。
「倉庫にあるⅣ号が空いているので、使ってください」
「……雨あがりに戦車ですか」
「では御二人を徒歩で帰らせるつもりですか?」
「……分かりました」