〈暴食〉のアル   作:ゆうと00

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第2章 『演習編』
第15話


『イグリシア魔術学院』の生徒・バニラ=ヴァルシローネの一日は、夜明けと共に始まる。

 穏やかで暖かい春の陽射しが窓から差し込み、ベッドに眠る彼女の顔を優しく撫でる。するとそれに刺激されたのか、彼女のまぶたが震え、ゆっくりとした動きで開かれた。

 暖かいベッドにいつまでも埋もれていたいとせがむ自分との戦いの末、彼女はもぞもぞと起き上がり、名残惜しそうにそこから抜け出した。それでも脳は未だに眠っているようで、あちこちが跳ねたクリーム色の頭がゆらゆらと振り子を描いている。

 それでも普段からの習慣の賜物か、彼女はどこか危なっかしい足取りながらも、ドアのすぐ脇に置かれた木製の桶へと歩いていく。

 その桶の中には、昨晩の内に敷地内の井戸から汲んできた水が張られていた。彼女はそれでタオルを濡らすと、ごしごしと顔を拭った。眠気は抜けきっていないが、先程よりはマシになったように見える。

 それが済むと、今度は勉強机の方へと歩いていった。勉強机の上は教科書やノート、筆記用具などが散乱しており、その脇に置かれた燭台には、元は蝋燭だったであろう蝋のくずがほんの僅かにこびり付いていた。

 そして彼女は、それらに紛れてぽんと置かれた赤縁の眼鏡を手に取り、掛けた。

 頭と視界がはっきりしたところで、彼女はおもむろに今着ている寝巻きを脱ぎ出した。誰も見ていないのを良いことに、脱いだそれをそこら辺に放り出して下着姿になる。そして洋服箪笥から制服一式を引っ張り出すと、いそいそとそれらを身につけていく。

 やがて上着である紫のローブに袖を通したところで、ふと彼女は左胸の辺りに手をやった。そこには杖を入れるためのポケットがあり、今日もバニラ専用の杖はちゃんとそこに入っていた。

 それを確認すると、箪笥の扉に取りつけられた鏡で髪を整え始めた。寝癖になっている部分を櫛のように指を立てて梳いていく。それでも直らなければ、桶の水で手を濡らしてから同じように梳いていく。

 

「――よし」

 

 どうやら、満足のいく出来に仕上がったらしい。バニラは満足そうな笑みを浮かべると、ドアへと向かっていった。

 朝食の時間はまだまだ先なので、今食堂に行っても食事は用意されていない。しかしバニラは、毎朝この時間に食堂へと向かっていた。誰もいない静かな食堂でゆっくりと紅茶を飲むのが、彼女の秘かな楽しみだからである。

 今日は何を飲もうかな、とバニラは笑みを携えながら、ドアの取っ手を手前に引いた。

 それとほぼ同時、向かいの部屋のドアも開いた。中からその部屋の主が顔を出す。

 

「あら、おはよう、バニラ」

「……おはよう」

 

 その人物からの挨拶に、バニラは先程まで笑顔だったその顔を曇らせた。性根の優しいバニラにしてはかなり珍しい行動だが、相手が相手だけに仕方のないことだった。

 なぜならその人物は、

 

「あらぁ、バニラ。駄目じゃないの、挨拶はきちんとしなきゃ。バニラが素っ気ないせいで、私、すっごい傷ついたわぁ」

「…………、おはよう、ダイアちゃん」

 

 バニラは込み上げてくる何かを表に出さないように抑えつけながら、ダイアに向かってにっこりと笑った。口の端がぴくぴくと引きつっているが、ダイアがそれを気にする様子はない。

 

「そうそう、ちゃんと笑顔で挨拶しなきゃ、今日一日楽しく過ごせないわよ。――まぁ、バニラからしたら、今日一日楽しく過ごすなんて無理なのかもしれないけど」

「……どういう意味?」

「あら、忘れたの? 今日が何の日か」

「今日?」

 

 ダイアの言葉に、バニラは頭をかしげる。

 バニラは自室のドアをもう一度開けて顔を突っ込むと、ベッドの方を見遣った。

 ベッドの脇の壁には、カレンダーが飾られている。一番左から赤曜日・青曜日・黄曜日・緑曜日・白曜日と来て、休日である黒曜日を通して1週間となっている。これを5回繰り返す、つまり30日間がこの世界における1ヶ月であり、それを12回繰り返すと1年となる。

 そしてそのカレンダーによると、今日は第1月第5週の白曜日。バニラは毎日カレンダーでその日にバツ印をつけているので、これは正確な情報である。

 それに気づいた途端、

 

「――あ」

 

 バニラは、思い出した。

 今日がいったい、何の日であるかを。

 

 

 

『イグリシア魔術学院』では、2年生の終わりまでの間は“学科”と“実技”という二種類の授業が行われる。

 “学科”とは、教科書や参考書を用いて魔術の理論を身につけることを目的とした授業である。一方“実技”とは、実際に魔術を発動させることでその技術を磨くことを目的とした授業である。

 そして3年生に上がったとき、新たにもう一種類の授業が追加される。

 それが、“演習”である。

 いくら実技で腕を磨いたからといって、それは“遠く離れた的を正確に撃ち抜く”などといった、所詮スポーツの域を出ないようなものでしかない。なので演習では、単なる技術的レベルでしかない魔術の腕を、それぞれの専攻に合わせた実戦的レベルにまで押し上げることを目的としている。

 バニラが属している“戦闘科”における“実戦的レベル”とはすなわち、相手を倒せるまでの戦闘力を身につけることを意味している。

 そしてそれを身につける方法は、いたって単純。

 実際に、戦うのである。

 

 

 

 なぜ急にこの話をしたのかというと、まさに今日が、3年になって初めての演習の日なのである。しかもこの演習は、今まで一度も一緒になることのなかった特進クラスとの合同で行われる。

 

「まぁ、私にとっては演習なんて別にたいしたことじゃないけどぉ、万年ビリのバニラさんにとっては違うんじゃないかしらぁ?」

「…………」

「実技の授業さえまともについていけなくて、何とかお情けで進級させてもらったんでしょぉ? そんなバニラが演習なんて受けたら、いったいどうなっちゃうのかしらねぇ?」

「…………」

「演習では、実際に相手に杖を向けるのが許されてるんでしょぉ? バニラ、あんた大怪我でもするんじゃないのぉ? 演習が終わったときに、五体満足だったら良いけどねぇ」

「…………」

 

 いくらダイアが話し掛けてきても、バニラからの反応は一切無かった。終始無言で顔を俯かせ、ぎゅっと拳を握りしめている。

 ダイアはつまらなそうに、ふん、と鼻で息を吐くと、

 

「まぁ、せいぜい死なない程度に頑張りなさぁい」

 

 ぞんざいに手を振りながらそう言い残して、その場を去っていった。おそらくバニラと同じく、食堂に向かうのだろう。普段の彼女ならば、時間ぎりぎりになって食堂にやって来るのだが。

 一方バニラは、ダイアが去った後も、その場から1歩も動かずにいた。静かに突っ立ったまま、一切の反応を見せない。

 しかし彼女の頭の中は、これ以上ない狂乱状態となっていた。

 

 ――どどどどどどどど、どうしよう!

 

 ダイアの言うことはかなり癪だったが、残念ながら的を射るものだった。いろいろとお膳立てのされた実技ですらまともに魔術を使えないバニラが、演習でいきなり才能を開花させるなど、本人ですら思っていなかった。

 いや、本人だからこそ、そうは思えなかった。

 

 ――うぅ、どうしよ……。いっそのこと、ズル休みしちゃおうかな……。

 

 バニラの脳裏に浮かんだ提案は、しかし即座に却下された。彼女が元々真面目な性格をしているからでもあるが、以前同じ学年の生徒が、ズル休みしていたことがばれて“補習”を受けていたことを思い出したからだ。ちなみにその生徒はそれ以来、ズル休みどころか遅刻すらしていない。

 

「……よし、何をやるのか分からないけど、とりあえず逃げ回ろう」

 

 生徒寮の廊下の真ん中でバニラは1人、凛々しい顔つきで後ろ向きな決意を固めた。

 

 

 *         *         *

 

 

 やがて時間が経過し、食堂で生徒や教師が揃って朝食を始めた頃。

 食堂のある本棟から離れた場所にある教師寮の一室、入口に“クルス=マンチェスタ”と書かれた札の貼られたその部屋では現在、にわかには信じられない光景が広がっていた。

 大きな鍋に並々と張られた、大量の肉や野菜から旨味を取ったスープ。巨大な皿に山のように盛られた、甘辛いタレに漬け込んだ鶏肉を焼き上げたグリル。そして籠に積み上げられているのは、ざっと見積もっても20斤はある、ほかほかと湯気をたてる食パン。

 床に広げたそれらを貪るように胃袋に詰め込んでいるのは、たった1人の少女だった。

 言うまでもなく、アルだった。

 左手に食パンを握りしめながら、右手で鶏肉を掴み上げ、骨まで食べる勢いでそれにかぶりつく。骨にこびり付いた肉まで丁寧にしゃぶり尽くすと、それを別の皿に放った。その皿には鶏肉の山と同じくらいの高さの、鶏の骨の山が築かれていた。

 タレのついた指を丁寧に舐めると、今度は左手の食パンにかじりついた。そのまま左手を引いて4分の1くらいの大きさに引き千切ると、右手を使ってそれをぐいぐいと口の中に押し込んだ。強靱な顎の力でそれを咀嚼し、一気に呑み込んだ。

 

「凄い……」

 

 そんな光景を部屋の隅から唖然とした表情で眺めている、1人の少女がいた。

 年齢は10代半ばから後半ほどで、紫色の長い髪をお下げにしていた。服装は学院指定の制服ではなく、白いフリルのついた紺色の給仕服を着用していた。部屋で佇むその様子は主人に仕える従者そのものであり、堂に入っている。

 彼女の名はオルファ。アルが学院にやって来た夜に、クルスの部屋に夕食を持ってきたのが彼女である。それ以来彼女が、生徒でないために食堂に入ることのできないアルに食事を持ってくる役目を担っている。

 つまり、オルファがアルの食事風景を見るのはこれが初めてではない。しかし彼女はそれを目の当たりにする度に、新鮮な驚きによってアルに目を奪われるのである。アルのすぐ傍に青魔術の参考書が広げられていることにすら気づかないほどに。

 

 それにしても、これだけ大量の食事を持って来なきゃいけないなんてさぞかし大変だろう、と思うかもしれないが、実際はそうでもない。

 なぜなら彼女は、給仕達の中でも数少ない風系統魔術の使い手であり、それを使って料理を宙に浮かせることができるからである。ちなみに彼女は赤魔術もほんの少しだが使えるため、熱風によって料理を冷ますことなく運べたりもする。

 

「そういえば、マンチェスタ様がいらっしゃいませんね。どこかお出掛けになっていらっしゃるのですか?」

 

 ふと、オルファがアルに話し掛けてきた。給仕が奉仕している相手に自分から話し掛けるなど普通ならありえないのだが、この2人にはそんな常識は通用しない。2人の仲がそれだけ良いことの表れだ。

 アルは口いっぱいに含んでいた食パンをごくりと呑み込むと、

 

「今日やる演習の準備があるんだって。わたしが起きたときにはもういなくて、書き置きだけ残ってたの」

「成程、そうでしたか」

「あ、そうだ。オルファに訊きたいことがあるんだけど」

「私に、ですか?」

 

 首をかしげるオルファに、アルはこくりと頷いた。

 

「シルバって先生、いるよね。どんな人?」

「シルバ様、ですか?」

「そう。クルスの話だと、風系統が得意らしいんだけど。オルファも風系統を使えるんだよね? オルファから見て、シルバってやっぱり強いの?」

「……強いなんてものではありません。シルバ様は、それはそれは素晴らしい魔術師でいらっしゃいます。私なんか、あの人の足元にも及びません」

「へぇ、そうなんだ……」

 

 実際に魔術を使うところを見ていないからか、それとも何か別の想いがあるのか、アルの返事は少しおざなりなものだった。

 アルは何かを考えるように天井を見上げながら、左手に残っていた食パンを口の中に放り込み、もぐもぐと噛んで呑み込んだ。

 

「じゃあ、先生としては?」

「へっ? ……す、素晴らしい方でいらっしゃいますよ?」

「うん、今ので何となく分かった。ありがと」

 

 アルはそう言ってオルファから視線を逸らすと、今度は鶏肉にかじりついた。それ以降、彼女が再び尋ねてくる気配は無かった。

 オルファはそれを見つめながら、1人心の中で自省する。給仕たる者、たとえ何があったとしても動揺を表に出してはいけないのである。

 彼女はアルに知られないように、1回大きく深呼吸をした。そうして心を落ち着かせると、ふと疑問が湧いた。

 

「あの、なぜそのようなことをお訊きになるのですか?」

 

 オルファの問いにアルは食事の手を止めることなく、さも何でもないかのように(実際にアルは何とも思っていないのだろうが)こう言った。

 

「ひょっとしたら今日、シルバと戦うことになるかもしれない」

「……はいっ?」

 

 先程の自省もすっかり忘れて、オルファの声は明らかに上ずっていた。


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