朝食を終えた生徒達は、普段ならば学科の授業が行われる教室だったり、実技の授業が行われる学院内の広場へと向かったりする。
しかし本日、戦闘科の3年生達が向かったのは、学院からほど近い場所に存在する、とある森の前だった。
『イグリシア魔術学院』は広大な平野のど真ん中に建てられており、さらにその平野には大小様々な森林が数多く点在している。
そんな中、ちょっとした村がすっぽり入るほどに大きなその森だけは、他のそれとは様子が違っていた。
その森には、野生の動物がほとんど生息していないのである。他の森には小動物や肉食獣はもちろん、魔術にも似た攻撃手段を持つ“魔獣”なる動物もいたりするのだが、この森にはアリのような小さな虫以外、ほとんど動物の姿が無いのである。
しかしその森には、それ以上に目に着きやすい、決定的な違いがあった。
その森は、鉄製の網によって周囲をぐるりと取り囲まれていた。その柵には東西南北それぞれに1ヶ所、計4ヶ所に人が入れるような門が設置されており、そこには『演習時を除き立入を禁ず』と書かれた札が貼り付けられている。
要するにこの森は、学院が昔から愛用している“演習場”なのである。
生徒達は話でしか聞いたことのない演習場を目の前にして、少々興奮気味だった。退屈な学院生活で自分の力を持て余している血気盛んな生徒達にとって、今回の演習は、教師に咎められることなくそれを発散する絶好の機会と考えているのだろう。
なので先程から生徒達の間では、「おまえだけは絶対やっつけてやる」とか「おまえにだけは負けないからな」とか「普段の恨みを晴らしてやる」などといった物騒な会話が、冗談だというのがすぐに分かる気軽さで遣り取りされていた。
しかし、どこか浮き足立っている生徒達の中で、周りの喧騒などお構いなしに暗く沈んでいる生徒が1人いた。
「うぅ……、どうしよ……」
バニラだった。彼女は他の生徒達から少し離れたところで1人ぽつんと佇み、顔を俯かせていた。その表情はひどく淀んでいる。
例の後ろ向きな決意を引っ提げてここへとやって来た彼女だったが、実際に演習場を前にして、必死にごまかしていた恐怖心がぶり返してきたのである。
そんな彼女に、たまたま近くにいた女子生徒達の会話が聞こえてくる。
「ねぇ、ひょっとして、あの人がルークくん?」
「きゃあ! すっごい格好良い! お人形さんみたい!」
「はぁ、ルークくん、いつ見ても寡黙で凛々しくて格好良いなぁ」
「本当、他の男共と違って、何だか大人って感じだよね!」
潤んだ瞳でそう話す彼女達に、バニラはその視線の先を追った。
そこにいたのは、平均より少し高い身長の、雪のように真っ白な髪がよく映える、100人中100人が“美形”と称する顔つきの少年だった。その少年は瞑想するかのように軽く目を閉じ、腕を組んで佇んでいた。
彼こそが、同年代だけに留まらず学院中にその名を知られた超優等生、〈
入学試験で他を圧倒する成績を残した彼は、当然のように特進クラスに編入となった。そしてその後一度も1位の座から転落したことのない、誰もが認める“天才”である。学科の試験は常に満点、実技では担当する教師ですら舌を巻くほどの結果を残す。
しかし何より彼の“才能”を如実に物語っているのが、彼の魔力値だろう。
学院では入学試験と同時に魔力値の検査を行う。それだけでクラスの振り分けを決定するわけではないが、ある程度の指標にはなる。
そして彼はそこで、一般クラスの平均が250前後、特進クラスの生徒でも350前後と言われている中、475という脅威の数値を叩き出したのである。これは教師陣の中でもなかなかお目に掛かれない数字だ。ちなみに、バニラの魔力値は103である。
それほどの才能に加え、前述した通り見た目もかなり良い。そんなこともあって、学院中に(それこそ学年の垣根も無く)彼のファンが存在し、彼に気に入られようと日夜水面下で激しい戦いが繰り広げている。どれくらい凄いかというと、バニラの落とし物をルークが拾って届けただけで、彼女の女子生徒への風当たりがますます強くなるほどである。
もっとも彼自身は、そんな彼女達のことなどどうでもいいと切り捨てているらしい。その冷たい態度が、さらに彼の人気を高める結果となっているが。
「それにしてもルークくん、随分落ち着いてるね」
「そりゃそうよ。何てったって、あの特進クラスの中で一番なのよ?」
「成程。周りの奴らなんか敵じゃありません、てことか」
「良いなぁ、ルークくんは。――そうだ! いっそのこと、ルークくんに守ってもらうってのはどうかしら?」
「私達をってこと? それ良いかも! そしてそれがきっかけで、ルークくんと良い感じになっちゃったりして!」
キャッキャッとはしゃぐ女子生徒達、そしてそれが聞こえているだろうに一切反応することのないルークを見て、バニラの気分は下降の一途を辿っていく。
――良いなぁ、魔術が使える人は余裕で……。
それに引き替え自分は、まともに使えるのはタンポポを生やす魔術のみ。確かにこの魔術のおかげでリーゼンドに勝てたことは事実だが、それは奇跡的に相性が良かっただけのことだし、何よりアルの助力があったからだ。
――もう、タンポポなんかでどうやって戦えばいいの……?
胸に湧き上がる不安や恐怖を吐き出すように、バニラは大きく溜息をついた。吐き出したところで、不安や恐怖が消えるはずもなかった。
そのとき、
「あらあら、みんなやる気満々ようね。感心感心」
その声は、今回の演習を担当するクルスのものだった。
生徒全員が一斉にそちらへと顔を向け、そして2名を除いて全員が苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめた。しかも面白いことに、クラスによってその原因が見事に分かれている。
一般クラスの生徒達が顔をしかめた原因は、クルスに寄り添うようにして一緒に歩いてきた、なぜか学院指定の制服に身を包む、宝石のように鮮やかな緑色の髪と瞳をもつ少女・アルだった。突然自分達の授業に乱入してなぜかその後学院に住み着いている乞食、というのが彼らにとってのアルの印象なので、その反応も致し方ないのかもしれない。
特進クラスの生徒達が顔をしかめた原因は、クルス達から5歩くらい離れて後ろを歩いてきた、白髪混じりの金髪に痩せて骨張った顔をもつ男・シルバだった。バニラが最も苦手とする教師であるこの男は、どうやら他の生徒達に対してもあまり人気が無いらしい。
ちなみに、シルバと同じようにクルスの後ろを歩いてきたシンに関しては、可もなく不可もなくといった反応だった。
「さてと、みんな何か思うところがあるようだけど、説明を始めるわよ。1回しか言わないから、よく聞くように」
クルスのその声に、顔をしかめていた生徒達が一斉に口を閉じ、真剣な顔つきになった。
クルスは満足そうな笑みを浮かべると、口を開いた。
「さて、今日はみんなが3年生になって初めての演習ね。演習は2つのクラスとの合同でやるから、みんな仲良くするように。――でも、その前に」
クルスはそう言って、傍らに目をやる。
今までクルスの隣で黙ってじっと立っていたアルが、1歩前へと歩み出た。
生徒全員の奇異の目に晒されながら、それでも一切動揺を見せることなく、彼女は口を開いた。
「今日の演習に特別に参加させてもらうことになりました、アルといいます。皆さん、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた瞬間、生徒達がにわかに騒がしくなった。箒にすらまともに乗れない乞食が学院の授業に参加するなど、前代未聞のことである。
そんな彼らの反応は、大多数が嫌悪感を表すものだった。そして小数の生徒が、彼女に対して獰猛な笑みを浮かべている。
「それじゃアルも、みんなに混じって説明を聞いてちょうだい」
クルスの言葉にアルは頷くと、とてとてと彼らの輪の中に入っていった。まるで海が割れたかのように他の生徒達が彼女を避けていたが、彼女自身は一切気にしていなかった。
なぜならそのとき、彼女の目には1人の少女しか映っていなかったからである。
「やっほー、バニラ」
「アルちゃん! どうして授業に?」
彼女を出迎えるように、バニラが彼女に駆け寄った。その顔は驚きに満ちているが、口元にはほんの微かに笑みが浮かんでいる。
「いやぁ、なんかクルスが『興味があるなら今度の演習に参加してみない?』って言うからさ、参加することにした」
「マンチェスタ先生が? そ、その、大丈夫なの? アルちゃん、ここの生徒じゃないし……」
「うん? まぁ、大丈夫じゃない? クルスだって、さすがに許可も取らずに勝手なことはしないでしょ」
「そう……。なら、良いんだけど……」
「とにかく、やるからには1位を狙うよ! クルスにもそう言われてるしね!」
アルは力強くそう宣言すると、拳を空高く突き上げた。
「そ、そうだね! 頑張ってね、アルちゃん! ――ところでアルちゃん……」
「ん? どうしたの、バニラ?」
「い、一応、私も、これに参加するんだよ……。そ、それでさ――」
「おお、そっか! ということは、バニラとは敵同士になるってことだね!」
「へ?」
「楽しみだなぁ、バニラと戦えるかもしれないなんて! よーし、もし演習場で会ったら覚悟してね、バニラ!」
「……うん、そうだね」
今更「一緒に行動して、できれば私を守ってください」とは言えなくなってしまったバニラは、先程よりも絶望的な表情で項垂れていた。
* * *
「…………」
そんな二人を静かに見つめる、1人の少年がいた。
ルークだった。
他の生徒達が友達とひそひそ話していたり、明らかな嫌悪の表情でアルをちらちらと盗み見ているのに対し、ルークだけはその顔に一切の感情を表すことなく、ただただじっと彼女のことを見つめていた。
「成程、彼女が――」
ぽつりと呟いたその言葉には、どこか期待の色が含まれていた。
* * *
「それじゃ早速、今回の演習の内容を説明するわね」
クルスはそう言うと、懐から何かを取り出した。彼女の指に摘まれたそれが、太陽の光を反射してきらりと輝いた。
それは赤銅で作られたメダルのようなもので、表面に星をかたどった模様が刻まれている。そのメダルには小さな穴が空いていて、紐を通してぶら下げることができるようになっている。
「今回の演習では、このメダルをみんなに集めてもらうわ」
その言葉に、生徒達は揃って不思議そうな表情を浮かべる。
クルスは内心くすりと笑いながら、説明を続ける。
「内容は次の通りよ。まずみんなにはクジ引きをしてもらって、東西南北どこの門から開始するかを決める。その後、合図と共に中に突入、中に散らばっているメダルをできるだけ多く集めてもらうわ」
クルスはそこで一旦言葉を区切ると、空を見上げた。手をかざして目の辺りに影を作り、太陽の位置を確認する。
「制限時間は、太陽がてっぺんを昇るまで。つまり陽刻6時ね。まぁ予定としては、大体2時間くらいかしら」
そこまで言うと、今度は生徒達へと視線を向けた。皆が皆、真剣な面持ちで彼女の持つメダルを見つめている。
「特進クラスが10人で、普通クラスが30人、それとアルで合わせて41人。メダルの数は全部で100枚だから、平均すると1人当たり2枚から3枚ってところかしら? もっとも、それ以上多く集める子も当然いるでしょうけどね」
「あの、マンチェスタ先生。演習場に散らばってるっていうのは、地面にそれが落ちてるってことですか?」
生徒の一人が手を挙げて質問した。クルスがそれに対して首を横に振る。
「正確には落ちてるんじゃなくて、紐をくくって枝にぶら下げているわ。紐の部分が目立つように光っているから、見つけること自体は簡単よ。集めたメダルは、後で配る袋に入れて自分で持っててね。いくら袋に入れても、自分で持っていなきゃ駄目だからね」
「あ、あの! その、メダルを集めるためなら、何をしても良いんですか!」
別の生徒が手を挙げて質問した。その生徒は見るからにやんちゃそうであり、早く演習を始めたくてうずうずしているようだった。
それを見たクルスの、笑顔の質が変わった。先程までは朗らかだったそれが、目をぎらつかせた妖しいそれへと変わる。
「ええ、何をしても良いわよ。枝にぶら下がってるメダルをひたすら探すのも有りだし、ある程度集めたら身を隠すのも有り。――もちろん、他の子が集めたメダルを奪い取るのもね」
クルスの答えが自分の望むものだったらしく、その生徒はにやりと笑った。他の生徒達もクルスの答えに興奮したのか、にわかにざわつく。若干1名が更なる絶望に叩き込まれている気もするが、生憎クルスにはそれに構っている暇は無かった。
「というより、今回は“実戦を経験すること”が目的の1つだしね、みんな遠慮せずにばんばん戦って良いわよ。演習場の中はくまなく監視しているから、何かあったら即座にシン先生が駆けつけてくれるわ。だから怪我の心配もしなくて良いわ」
クルスの後ろで黙って立っていたシンが、軽く右手を挙げた。『任せとけ』と言っているように見えた。
そのとき、1人の少年がスッと手を挙げた。周りの生徒達がそれに気づいて目を向け、軽く驚いていた。
手を挙げたのは、ルークだった。
「えっと……、確かルークくんだったかしら? 何か質問?」
「さっきマンチェスタ先生は、実戦の経験が目的の1つとおっしゃいましたが、つまりそれは他にも何か目的があるということですか?」
ルークの問いに、クルスはにやりと口角を上げた。その魅惑的な笑みに頬を紅く染める生徒が何人かいたが、アルだけは、何か企んでるな、と苦笑いを浮かべていた。
「そうね。さっきから気になっている子も何人かいるみたいだし、ここで紹介しちゃおうか。――それじゃシルバ先生、どうぞ」
クルスに促されるのが不服なのか、シルバが一瞬顔をしかめた。しかしすぐに取り直すと、すっと前に出て生徒達を見渡した。というより、睨みつけた。
そして、口を開いた。
「今回の演習に、きみ達と共に参加させてもらうことになったシルバだ。大怪我をしないよう、せいぜい頑張ることだな」
「えぇっ!」
その瞬間、生徒達の間でどよめきが起こった。
ざわつきがどんどん大きくなっていく生徒達を、クルスは、ぱんぱん! と大きく手を叩くことで黙らせる。
「とはいっても、みんなと同じ条件ってわけじゃないわ。中に入るのは始まってから30分後だし、枝にぶら下がってるメダルには手を出さない。隠れて待ち伏せるなんてこともしないし、みんなが逃げるのを深追いすることもない。――ただし、目の前にいる子には容赦なく攻撃してもらうわよ」
「…………」
クルスの言葉を、生徒達は口を開くことすらできずに黙って聞いていた。
「今回の演習の目的は大きく分けて2つ。1つはさっきも言った“実戦の経験”。そしてもう1つの目的が、“危機回避”よ」
「危機回避?」
オウム返しに尋ねてくる生徒に、クルスは頷く。
「危機回避の能力は、戦うことを仕事にしようとしているあなた達には特に必要なものよ。危険を察知して、それを避けるために迅速な行動をとるのは、無事に生き残るために必要不可欠なことだからね」
それを聞いて、生徒達はおぼろげながら納得した。つまりシルバという“危険”を上手く回避しながら他生徒のメダルを奪い取れ、ということなのだと。
「さて、他に質問はあるかしら?」
クルスの声に、手を挙げる者はいなかった。
「分かった。それじゃ5分後くらいにクジ引きを始めるから、それまでみんな休憩していてね」
その言葉を皮切りに、生徒達を取り巻く空気が引き締まった、気がした。