「ぐあっ!」
鎌鼬を受けて、バニラは地面へと倒れ込んだ。地面に手をついて立ち上がろうとするが、傷が痛むせいで上手く力が入らず、なかなか立ち上がれない。
そんな彼女を見て、ダイアはつまらなそうに溜息をついた。
「ったくさぁ、散々探し回ってせっかく見つけたんだからさぁ、ちょっとは楽しませてくれないと割りに合わないじゃん」
ダイアは杖を指で弄びながら、1歩1歩踏みしめるようにバニラへと近づいていく。
一方バニラは地面に倒れたまま、ダイアに悟られないように呪文を唱えていた。
彼女の周りの地面に、突如タンポポが生えた。白い絨毯のように彼女の体を包み込んだ次の瞬間、その綿毛が一斉に宙を舞い、ダイアへと飛ばされていく。
「無駄だよ!」
ダイアが杖を綿毛へと向けると、杖の先端で風が巻き起こった。不可視の刃を纏ったそれが、綿毛を巻き込みながらバニラへと襲い掛かっていく。
「――ぐっ!」
バニラの体は呆気なく吹っ飛ばされ、地面を少し転がってようやく止まった。彼女の手から杖が離れ、彼女の体に刻まれる切り傷が更に増えた。
「あんたねぇ、私が風系統の魔術を得意にしていることくらい知ってるでしょ? あんたのタンポポなんか、たとえそよ風でも簡単に吹き飛ばせるっつーの」
もう反撃される心配は無いと踏んだのか、ダイアは杖を懐にしまうと、再び離れた2人の距離をゆっくりと詰めていく。
地面に蹲りながら、バニラが弱々しく口を開いた。
「……私を倒しても、メダルは手に入らないよ。……私、全然メダル集めてなかったから」
「知ってるわよ、そんなこと。どうせあんたのことだから、今までずっと隠れてたんでしょ?」
「……じゃあ、なんで……?」
「なんで? そんなの決まってるでしょ? あんたをボコボコにするためよ」
奥歯を噛みしめて、バニラは顔を上げた。
彼女の目に映ったのは、こちらへと歩みを進めながら、虫けらを見るような目つきで歪んだ笑みを浮かべるダイアの顔だった。
ぶるり、とバニラの背筋に寒気が走る。
「あんたさぁ、見ててムカつくのよねぇ。いっつもビクビクして目立たないようにしてるくせに、しょっちゅう魔術を失敗して授業の邪魔してさぁ」
「す、好きでやってるわけじゃ――」
「ああ、確かにあんた、超がつくほどの“落ちこぼれ”だものねぇ。――じゃあさ、なんでいつまでも未練がましく魔術にしがみついてるの?」
「……み、未練がましくなんて……」
「あんたの名字ってさ、確か“ヴァルシローネ”だったわよね? それってさ、シャンパニエに住む貴族の名字だった気がするんだけど」
「…………」
バニラは答えない。ダイアはそれを肯定と受け取った。
「確かシャンパニエにもちゃんと国立の魔術学院はあったはずだけど、なんであんたはわざわざ遠く離れたここにやって来たわけ?」
「……そ、それは、ここが一番歴史があって、実績があるからで……」
「あそこだって充分歴史も実績もあるじゃない。それだけの理由でここに来るなんて不自然よ。――まぁ、本当は大体の見当はつくんだけどね」
ダイアが言葉を区切ったところで、ちょうどバニラのすぐ傍まで辿り着いた。ダイアは膝を折ってしゃがみ込むと、鼻先が触れそうなくらいにバニラへと顔を近づけた。
そしてバニラの目をまっすぐ見つめながら、ダイアは言い放った。
「あんた、家族に見限られたんでしょ?」
「――――!」
バニラの息を呑む音が聞こえ、彼女の目に映るダイアの姿がゆらりと歪むのが分かる。
それが何よりも、彼女の答えを物語っていた。
「ははは、やっぱりそうなんだぁ。そりゃそうよねぇ。こんな落ちこぼれ、同じ家族ってだけでも耐えられないわよねぇ。どっか遠くに捨てたくなる気持ち、私にも痛いほどよく分かるわぁ」
「ダイアちゃん、やめてよ……」
「家族を見返したいのか、認めてもらいたいのか分かんないけど、だからあんたはそうやって無様に努力しちゃってるわけかぁ。だけどその甲斐も無く、魔術は一向にできるようにならない」
「ねぇ、ダイア、ちゃん、もう――」
「でも残念ねぇ、結局できるようになったのは、何の役にも立たない雑草を闇雲に生やすだけ。まぁ、落ちこぼれなあんたには、これ以上なくお似合いな結末じゃないの? 魔術も使えない奴なんて、存在する価値なんて無いんだから」
「や、めて――」
「そうだ! いっそのこと、魔術師なんてすっぱりと諦めたらどう? 大丈夫、心配しなくてもお金を稼ぐ手段なんていくらでもあるじゃない! 例えば、どっかのスラム街で娼婦とか――」
「やめて!」
突然、バニラが吼えた。がばりと起き上がると、ダイアの胸倉を掴んで引き寄せる。
「ダイアちゃんなんかに、私の気持ちなんて分からないよ! みんなから馬鹿にされて、私がどれだけ悔しい想いをしてきたか! 親に見捨てられて、私がどれだけ悲しかったか! ダイアちゃんなんかには、一生分かりっこないよ!」
涙混じりに叫ぶバニラの表情には、怒りや哀しみや憎しみといった負の感情が複雑に混ざり合っていた。今まで心の奥深くに閉じ込めていたものが、堰を切って噴出する。
さすがのダイアも、これには目の色を変えた。とはいっても、罪悪感などという高尚なものではなかったが。
「――ったく、苦しいじゃないの!」
ダイアはバニラの両腕を力任せに振り解くと、彼女の腹を思いっきり蹴りつけた。彼女の体は、風系統の魔術を受けたときよりもあっさりと吹っ飛んだ。
「……あんたの気持ちなんて、分かりたくもないわ。私は、あんたと違って落ちこぼれじゃないんだから」
ダイアは冷たくそう言い放つと、形が崩れて皺になったローブを正した。そしてゆっくりとした動きで、懐から杖を取り出す。
その間、バニラは地面に倒れたままぐすぐすと泣き続けていた。起き上がる気配は微塵も無い。
ダイアはそれを鼻で笑うと、杖をバニラへと向け――
「ん?」
ようとして、ふいに後ろを振り返った。ダイアの眉は忌々しそうに寄せられ、彼女の目は森の奥を睨みつけるように細められた。
「くそっ、誰か来たみたいね。仕方ない、一旦退くか。――それじゃね、バニラちゃん。次に会ったら、ちゃーんとトドメを刺してあげるわ。次があったら、だけど」
ダイアはけらけらと笑ってバニラに手を振ると、その場を去っていった。
後に残ったのは、土に塗れ、制服のあちこちが裂けてそこから血を流し、地面に倒れ伏しているバニラだけである。
ぴくり、と彼女の指が動いた。それは彼女の腕へと伝播し、ゆっくりとした動きで地面に突き立てられ、彼女の体を支えるようにして持ち上げる。
静かに、だがしっかりとした力強さで、バニラが上体を起こす。その顔は涙と鼻水と土埃でぐちゃぐちゃに汚れ、見る者が思わず同情してしまいそうなほどに痛々しい。
それでもバニラは二本の脚で懸命に立ち、ローブの袖で顔を拭った。悲しんでいる暇なんて無かった。もうすぐここに誰かが来るらしい。その前に隠れなければ、今度こそやられてしまう。
とはいえ、先程まで隠れていた樹はダイアのせいで丸裸になってしまっている。近くにある別の樹に隠れたとしても、またダイアのときのように見つかってしまうかもしれないし、何より登れるだけの体力が残っていない。
「とにかく、ここを離れないと……」
バニラはそう呟くと、一歩足を踏み出した。
そのときだった。
「何だ、おまえか。随分と無様な格好だな」
その声に、バニラの動きが止まった。体が硬直してしまい、全身から汗が噴き出す。自分の体なのに、自分の思うように動かせない。
なんとか首だけを動かして、バニラはそちらへと目をやった。
今日になって、突然演習に参加することが判明した人物、
クルスによって定められた“危険”、
そしてバニラが、それこそ入学した頃から苦手とする教師、
シルバが、そこに立っていた。
* * *
開始から1時間半が経過、残り時間が30分となり、そろそろ演習も佳境に入ってきた頃。
門から演習場の中心まで伸びる一本道を、アルは悠々と歩いていた。
森を切り開いて作られているために、道の周囲は他と比べて見晴らしが良い。こんなところを不用心に歩いていたら、格好の餌食となってしまうだろう。
しかしそれこそが、アルの狙いだった。
時間が経つにつれて、他の生徒と出会う回数が目に見えて減っていた。生き残っている生徒が少なくなってきたのと、その生徒達が安全策として身を隠し始めたのが原因だろう。
最初は隠れている生徒を虱潰しに探してみようかとも考えたアルだったが、この広い森の中でさすがにそれは骨が折れる。
なので彼女は、どうせなら向こうからこちらに来てもらおう、と考えたのである。
そしてそれは実際に功を奏した。元々彼らからは絶好のカモと見られていたために、アルの姿を見かけた考え無しの生徒が嬉々として襲い掛かってきたのである。その数は3人ほどであり、その全員がアルの毒牙に掛かっている。
――とはいえ、そいつらが持ってるメダルの数が少ないのには変わりないんだよね……。
3人も生徒を倒して、それで得たメダルの数は僅かに4枚。この1時間半何をやっていたんだろう、とアルは大きく溜息をついた。そしてつまらなそうに足元へと視線を遣ると、そこに転がっている幾つかの石の中から、掌くらいの大きさで角張っていないものを拾い上げた。
感触を確かめるように、何度もそれを握ったり持ち直したりする。
そして、
「――えい」
アルはいきなり振り返ると、その石を思いっきり投げつけた。石はまるで矢のような速さでまっすぐ飛んでいき、彼女から少し離れた茂みへと突っ込んでいく。
その石が茂みの中へと消えていく直前、
がささっ!
そこから、何かが飛び出した。
それは少年だった。身長は平均よりも少し高く、雪のように真っ白な髪が目に留まる。100人中100人が“美形”と称するほどに綺麗な顔をしたその少年は、冷や汗を垂らして緊迫した表情を浮かべている。
アルを睨みつけながら、少年が口を開く。
「……いつから、気づいてた?」
「3人目を倒してるとき。最初は目の前の敵を倒してわたしが油断したところを狙ってるのかと思ったけど、いつまで経っても襲ってこようとしないから、こっちから仕掛けてみた」
少年の問い掛けに、アルは何てことないかのように答えた。
「成程、さすがはアル、といったところかな?」
ルークは鋭かったその目つきをふっと緩めて、不敵な笑みを浮かべた。お返しとばかりに、アルも微笑んでルークを見遣る。
2人の視線が、交錯する。
その瞬間、アルは理解した。
目の前にいるこの少年が、今まで相対したどの生徒よりも強敵であることを。
「初めまして、僕の名前はルーク。二つ名は〈白麗〉。一応、特進クラスで一番ということになっている」
「へぇ……、その歳で“二つ名”がついてるんだ……」
にやり、とアルの口角が上がる。
“二つ名”というのはその魔術師の特徴を一言で言い表したものであり、ほぼ確実に他人によって名付けられる。二つ名がつく原因はいろいろあるが、その魔術師が挙げた功績を語る際につけられることもあれば、世間を震撼させる事件を起こした魔術師を指すときに便宜上つけられることもある。
共通しているのは、二つ名をつけられている魔術師は“他の魔術師から恐れられ、あるいは畏れられている”ということである。そしてルークがこの歳で二つ名がついているということは、つまりそういうことだ。
「それで、特進クラス1位のルークがわたしに何の用?」
「別に大した用事じゃないよ。ただ、今や学院で一番の有名人となったアルって子に、一目会いたくなっただけだよ。少し気になる噂もあるし」
「噂? ああ、どうせ“魔術が碌に使えない”とかそういうものでしょ? もう、駄目だよ? 特進クラス1位ともあろうルークが、そんな噂に踊らされちゃ」
「いやいや、別に僕はきみが魔術を使えるかどうかなんて、どうでもいいんだよ。僕が気になる噂ってのはね……」
ルークは一旦そこで言葉を区切ると、まっすぐアルの顔を見つめながら、尋ねた。
「アルがリーゼンド先生を倒したって噂が立ってるんだけど、本当かな?」
「……さぁね。なんでそんな噂が流れてるのか、わたしには全然意味が分からないよ」
「確かに、僕も最初は信じられなかったよ。いくら腕に自信があったところで、武器も無しに、魔術という絶対的と言っても良い差を埋められるとは思えなかったからね」
「でしょう? だったら、それだって単なる噂だよ。そのリーゼンドって人が怪我をしたのを、みんなが面白おかしく話しているだけで――」
「でもアルを見てて、ありえると思ったよ」
「…………」
妙にはっきりとそう言い切るルークに、アルの表情がほんの少し険しくなった。
「随分と身体能力が高いんだね。同じ人間とは思えないよ。まぁ、それ以上に気になるところもあるんだけど……。魔術も武器も使わずに、あれだけ他の生徒達を軽くあしらえるアルならば、確かにリーゼンド先生を倒したとしても不思議じゃ――」
「ちょっと待って」
饒舌に話すシンの言葉を、ふいにアルが遮った。ルークが不思議そうに首をかしげる。
「今のルークの言い方、何だか今までのわたしの戦いをずっと見てたみたいに聞こえるんだけど。わたしの考えすぎかな?」
「ん? ああ、みたいというか、実際に見ていたよ。直接じゃなくて、ブラントっていう僕の使い魔の視界を介してだけど」
「ブラントって、あそこにいる奴のこと?」
アルが空を指さして尋ねた。トカゲに翼が生えたような奇妙な形をした生物の影が、先程と変わらず空高くに浮かんでいる。
「そう、あそこにいるのが僕の使い魔だよ」
「へぇ、つまりルークは今の今まで、自分の使い魔をけしかけて、わたしのことを覗いてたってことか」
アルの言葉に、今まで余裕の笑みを浮かべていたルークが初めて表情を崩した。
「いや、確かにそういうことになるのかもしれないけど、別にそういうつもりで見ていたわけじゃなくて――」
「覗きの犯人はみんなそう言うんだよ。うわぁ、まさか特進クラス1位の優等生が、女の子を影から覗く変態さんだったなんてなぁ。平然とした顔をしていても、裏ではどんなやらしいこと考えてるか分からないなぁ」
「…………」
アルは自分を抱きしめて肩を震わせてみせるが、別に怖がっているわけではない。本当に怖がっているのなら、口元がにやけるはずがない。
変に反応して向こうに主導権を握らせてはいけない、とルークは自分に言い聞かせながら、気を取り直すように小さく咳き込んだ。
「……とにかく! 僕はアルと戦いたいんだ。応じてくれるよね?」
ルークは懐から杖を取り出し、それをアルへと向けた。口を僅かに開き、いつでも呪文を唱えられるようにする。
アルはそれを見てすっと笑みを消すと、右脚を引いてまっすぐルークを見据える。腰を据えて下半身に重心を移し、いつでも動けるようにする。
永遠にも思えるほどに長い時間が、しかし実際には10秒にも満たない時間が流れた頃、
事態が、動いた。
「じゃ、そういうことで」
「え、ちょ――」
アルは突然ルークに背中を向けると、一目散に駆けていった。
あろうことか、ルークを目の前にして逃げ出したのである。