「シルバ、先生……」
ルークの呟きに、シルバは彼へと視線を向けた。風系統の魔術師というものは、往々にして音に敏感である。おそらく常日頃から風を操っているために、空気を伝わって広がる音がより身近な存在だからだろう。
「これはこれは、特進クラス1位のルークくんじゃないか」
とっくに気づいていただろうに、シルバはそんなことを言って笑みを浮かべてみせた。彼がいつも生徒に対して向ける、相手を小馬鹿にした高圧的な笑みである。
他の生徒達の例に漏れず、ルークもシルバが苦手であった。とはいっても、他の生徒のように嫌みを言われるからではない。むしろ成績の良いルークは、よくシルバに褒められていたりする。
しかし、ルークはそれが嫌だった。
褒め方が露骨すぎるのである。あからさまに他の生徒と態度を変えたり、他の生徒を叱るときに引き合いに出したりする。生徒を貶めるダシに使われているようで、ルークは良い気がしないのである。
「君はこんなところで、乞食相手に何をやっていたんだね? まさかとは思うが、あの乞食と戦っていたとは言わないよな?」
「……先生のおっしゃる通り、僕はアルと戦っている最中だったんです。なので、できれば横から手を出さないでほしかったのですが」
本当は戦っていたのではなく一方的に追い掛けていただけなのだが、わざわざ事態をややこしくするようなことを言う必要は無い。
「なんと、本当に戦っていたのか。いやはや、真面目というか何というか……。そうか、それならば悪いことをしたな。そうとは知らずにうっかり倒してしまった。――しかしまぁ、それにしても何というか……」
シルバはそう言い淀むと、わざとらしく視線を外してみせた。それはアルが吹っ飛んでいった方向であり、彼の口元には相変わらずの笑みが浮かんでいる。
その行動1つ1つが、ルークの癪に障る。
「……何か仰りたいことがあるのなら、はっきりと仰ったらどうですか?」
「そうだな、回りくどいのは私の性に合わない、はっきり言うことにしよう。――きみは乞食相手に、随分と苦戦していたようではないか」
笑みを深くして告げたシルバの言葉に、ルークは舌打ちを隠そうともせずに彼を睨みつける。
いったいどこから、そしていつから自分達を見ていたというのだろうか。
「学年1位の成績だというからしばらく泳がせてみたのだが、結果はあまり芳しくないものだな。やはり座学だけでは真の実力は計れないというわけか。いやいや、なかなか勉強になった」
「……お言葉ですが、彼女は先生がお考えになっていらっしゃるよりも遙かに実力があります。自分の力に自惚れているわけではありませんが、僕とここまで張り合える者は同じ学年には1人もいませんでした」
「まぁまぁ、怒られ慣れていないからといって、そうカッカするものではない。確かに傍から少し見ていたが、他の生徒達より少しは動けるようだな。しかし、所詮はそれだけだ」
シルバはそう言うと、自らの杖を目の前に掲げた。ルークに見せつけるように。
「あいつと私の間にある決定的な違い、それは“魔術”だ。たとえどれだけあいつの身体能力が高かろうと、魔術の前では為す術など無い。現にあの乞食は、私の竜巻で無様に飛ばされていったではないか」
「…………」
「それに引き替え、君はいったい何だ? 倒せないならまだしも、あんな乞食相手にドラゴンまで持ち出すとは、恥ずかしいとは思わないのかね?」
「……彼女相手ならば本気を出しても良いと考え、そうしたまでです」
ルークの言葉に、シルバは目を見開いて胸を反らしてみせた。その仕草がまるで下手くそな舞台役者のようで、ルークの神経を更に逆撫でする。
「本気? 今、本気と言ったか? あの程度で本気だと? 成程、どうやら私は君を買い被っていたようだな。あんな“役立たず”をけしかけた程度で本気とは」
「……何ですって?」
ルークの声色が変わったことに、シルバは気づいた。気づいていながら、言葉を続ける。
「“役立たず”だと言ったんだよ。あのドラゴン、主人の指示をぼさっと突っ立って待ってるだけで、自分からはまったく動こうとしない。おまけに乞食如きに良いようにあしらわれてしまうとは。最初君がドラゴンを従えていると聞いたときは驚いたものだが、確かにアレならば君程度でも操れるだろう」
「…………」
「まったく、最近の生徒達のレベルの低さにはほとほと呆れ果てる。私が子供の頃は、君みたいな生徒などゴロゴロいたのだが。いやいや、実に嘆かわし――」
突然、氷の杭がシルバの顔面に襲い掛かってきた。
しかし彼は一切動揺することなく杖を振ると、局地的な突風を杭の側面にぶつけた。氷の杭は僅かに気道を逸らし、彼のすぐ脇を通り過ぎて森の奥へと消えていった。
「いくら教師とはいえ、言って良いことと悪いことがあるのでは? シルバ先生」
ルークはシルバに杖を向けて、鋭く睨みつけていた。その表情は怒りに満ちているが、けっして爆発するようなものではなく、むしろ冷えきったものだった。まるで魔術師としての彼の特徴を表しているかのように。
「……ほう、私と戦おうというのかね? 無理はしない方が良い。あの乞食との戦いで疲れているだろう?」
「いえいえ、先生が変な茶々を入れてくださったおかげで、こちらは消化不良なんです。しばらく付き合ってくださいませんか? 本当に最近の生徒のレベルが低いのかどうか、身をもって確かめる良い機会ですよ」
「……良いだろう」
2人は互いに体を向かい合わせ、杖を構える。互いが互いを睨みつけ、互いが互いを牽制する。
そして同時に、呪文の詠唱を開始した。
先に唱え終わったのは、シルバだった。彼の杖の先端に小さなつむじ風が現れる。シャカシャカと刃物を擦り合わせるような音から、鎌鼬を生み出す青魔術《ウィンディ・シザーズ》であることが分かる。
シルバが杖をルークへと向けた。それと共に、つむじ風がルークを切り刻まんと襲い掛かる。
そのとき、ルークの詠唱が終わった。彼が選んだのは、アルを追いかけるときに使用した《ジェット・ストリーム》である。
魔術が発動した瞬間、ルークの姿が掻き消えた。つむじ風は一瞬前に彼がいた空間を通り過ぎ、その奥にあった茂みを紙吹雪のように粉々に切り裂き、さらにその奥に生える幾本の樹木に深く鋭い切り込みを入れた。
風を身に纏ったルークは低く身を屈めながら、恐ろしい速さでシルバに向かっていった。
シルバは見たことのない魔術に驚く素振りを見せるものの、すぐさま気を取り直して呪文を唱え始めた。あっという間にそれを終えると、杖をまっすぐルークへと向けた。
圧縮した空気を相手にぶつけるだけの、単純だが強力な魔術である。相手から見るとまるで壁のように自分に迫ってくる様子から、《エア・ウォール》と呼ばれている。
しかしその直後、ルークがシルバの視界から消えた。魔術によって吹き飛ばされたからではない。攻撃を避ける動作があまりにも速すぎて、消えたように見えたのである。
ルークはシルバを中心とした円周上を飛び回り、半秒も掛からずに彼の後ろへと回り込んだ。すぐさま方向転換して彼に近づくと、そのままの勢いで飛び掛かっていった。
そしてルークはシルバの後頭部へ向けて、鋭い蹴りを繰り出した。
《ジェット・ストリーム》は移動のための魔術ではあるが、自身の体を纏う風は触れるものを弾き飛ばす盾となり、同時に触れるものを粉砕する矛となる。
凄まじい風で威力を底上げされたルークの蹴りは、しかしシルバにぶつかる直前で突如急ブレーキを掛けたように止められた。
けっしてルークが攻撃を躊躇したからではない。彼の脚に、何か固いものを蹴りつけたような感触が伝わった。その目に見えない固いものは、どうやらシルバの体を守るように取り囲んでいるらしい。
「成程、《エア・シールド》か……」
さすが風系統の魔術に精通しているだけあって、ルークはすぐにその正体を見抜いた。
それとほぼ同時、シルバが後ろを振り返った。そして今まさに地面に下り立とうとしているルークに向かって、《ウィンディ・シザーズ》を繰り出した。
しかしほんの一瞬だけ、ルークの着地する方が早かった。その一瞬を突いて、彼はシルバの正面から逸れて攻撃を躱す。そして次の瞬間には、彼は後ろに飛び退いてシルバと距離をとっていた。
流れるような美しい攻防だった。もしも傍で見ている者がいたら、何かの演舞を見ているのかのように惚れ惚れとしていただろう。
「なんだ、割とやるではないか。さっさとこうしていれば、私に邪魔されることなくあの乞食を倒せただろうに」
シルバはそう言うと、再び呪文を唱え始めた。杖の先端に魔力が集まっていく。
その瞬間、ルークがシルバに向かって飛び出していった。魔術師に最も大きな隙が生まれるのは、呪文を詠唱しているときである。なのでルークのこの反応も、或る意味当然のことだった。
しかしながら、さすが戦闘科の教師と言うべきか、シルバの詠唱は目を見張るほどに早い。常人ならば数秒は掛かる詠唱を、シルバは僅か1秒足らずで済ませてしまった。
それを察知したルークは、即座に右へと飛び退いた。案の定、彼のすぐ傍を風が鋭く通り過ぎていった。
ルークはそれを確認すると、すぐさま反撃へと移り――
こぉ――
「ん?」
かけたそのとき、消え入りそうに小さな風の音が彼の右耳を撫でた。
その瞬間ルークの体に、まるで馬車が衝突したかのような衝撃が走った。身に纏う風のおかげで威力は軽減されたが、それでも受けたダメージはけっして低くない。
「ぐっ――」
ルークは苦痛に顔をしかめながら、綺麗な放物線を描いて吹っ飛んでいった。しかし空中でなんとか体勢を整えると、地面へと下り立った。
するとルークは、今度は転がるように前へと飛び退いた。突然の行動だったために、けっして長くはない彼の髪が慣性の法則に従って一瞬その場に留まり、そして彼に追従しようとする。
まさにその一瞬の間だった。
彼の髪の先端が、僅か指先ほどの長さだが突然切れた。丁寧に研いだハサミを入れられたかのようにすっぱりと切り離された毛先が、はらはらと宙を舞って地面へと落ちる。
もし一瞬でも行動が遅れていたら、と想像して、ルークは思わず背筋を凍らせた。
「ふん、ほらな、私が少し本気を出しただけで、君はこうも苦戦する。所詮君は、狭い井戸の中で得意げに鳴いていただけの蛙に過ぎないのだよ」
相変わらずの、自分以外のすべての人間を下に見ているような視線をルークに向けて、シルバは得意げにそう言い放った。
「くそ……」
ルークは悪態をついて、忌々しげにシルバを睨みつけた。
* * *
シルバ達から遠く離れた森の一画。
そこに、ブラントが傷だらけになって横たわっていた。真っ赤な皮膚のあちこちから赤黒い血が流れ、背中にあるコウモリにも似た立派な翼は力無くへばっている。くりくりとした大きく愛らしい目も、今はどこか弱々しい。
「いやぁ、危なかったぁ」
そんなブラントの脇で、アルがほっとしたように溜息をついた。刃物のような切れ味を持つ竜巻に巻き込まれたにも拘わらず、その体には傷1つついていなかった。
「ありがとねブラント、わたしを守ってくれて」
「……ガウゥ」
ブラントは何か言いたげに小さく唸った。本当はブラントが自発的に守ったのではなく、アルが翼の裏に隠れたことで強制的に守らされたのだが、言葉の話せないブラントでは反論のしようがなかった。
「それにしても、やっぱり風系統の魔術ってのは厄介だな。さっきの攻撃も全然見えなかったし」
ルークのときには雪の結晶などの不純物が混ざっていたからまだ良かったものの、シルバの攻撃は完全に目では分からなかった。
目で直接確認することができない。これこそが風系統の一番の特徴であり、他の系統には無い大きな利点でもある。
「うーん……、やっぱりバニラを連れてくれば良かったかなぁ……」
バニラの魔術でタンポポを生やせば、その綿毛の動きによって風の動きを把握することができる。シルバと戦うとき、この効果はかなり大きいだろう。
しかしそれでもあえて、アルは1人で行動することを選んだ。シルバとの戦いに彼女を巻き込みたくなかったからだ。だからこそ、彼女が自分と一緒に行動したがっているのを知っていながら、わざわざ遠回しに断ったのである。
さてどうしたものか、とアルが腕を組んで考えていると、
「ガウ」
アルがその声を聞いて振り返ると、ブラントが真剣な眼差しでこちらを見つめていた。先程までの敵意はすでに無く、どこか決意に満ち溢れているようにも感じる。
「……ブラントも行く?」
「ガウ」
「その怪我だと辛いでしょ? しばらくここで待ってた方が安全だと思うよ?」
「ガウ!」
ブラントの返事に、アルはにっこりと微笑んだ。言葉は通じなくとも、ブラントが何を言いたいのか彼女には手に取るように分かった。
「よし。それじゃ、ルークを助けに行くとしますか」
「ガウゥ!」
ブラントは一際大きく鳴くと、ばさぁ、と翼を大きく広げた。