この学院の教室は後ろに出入口が2つあり、入口から教壇へ向けて階段状に低くなる造りとなっている。どの席からでも前の黒板がちゃんと見えるための配慮であり、天井付近に大きな窓があるために明るさも充分だ。
あと5分ほどで授業が始まるということもあって、生徒のほとんどが教室内にて賑やかに談笑していた。決まった席順は無いので、仲の良い友人同士が自然に集まる形となる。
そんな中、最後列の端っこに座るその少女だけは、誰とも連むことなく黙々と授業の予習をしていた。その少女はクリーム色をした少々癖のある柔らかい髪をもち、赤い縁の眼鏡を掛けている。
バニラだった。
周りで他の生徒が騒ぐのも気にせずに、彼女はかりかりと真面目にノートを取っていた。しかしふとその手を止めて鉛筆を置くと、大きな溜息をついた。
そして、ぽつりと呟く。
「アルちゃん……」
思い出されるのは、今朝の食堂での出来事だった。
あの一連の騒動は、かなり離れた所にいたバニラの耳にも当然届いていた。はらはらとその様子を見守っていた彼女は、無事に騒ぎが終息してほっと胸を撫で下ろした。
しかしその一方で、自分の情けなさに思わず涙が出そうになった。
アルが生徒達に囲まれているのに気づいたとき、バニラは真っ先に彼女の所へ駆け寄ろうとした。しかし実際は席から1歩も動かずに、事の成り行きをただ見守るだけに留まっていた。
だがバニラはけっしてアルを見捨てたわけでも、生徒達の反撃が怖かったわけでもない。
――今更どの面を下げて、アルちゃんと顔を合わせれば良いんだろ……。
バニラが彼女のもとへ駆け寄れなかった理由。それはこの前の演習で、バニラがアルに怒鳴り散らしてしまったことにあった。
あのとき以来、バニラはアルと疎遠になってしまっていた。
もちろん、非が自分にあることはバニラも重々承知している。しかし、もし嫌われてしまったら、と考えると恐怖で足がすくんでしまい、どうしても彼女の所に行けなくなってしまうのである。
それに正直なところ、演習によって顕わになったアルに対する劣等感は、未だに消えていないのだ。もしこのまま彼女に謝って仮に許されたとしても、またいつ同じような想いに駆られるか分からない。
結局は自分の方が大切なんだな、とバニラは自分の醜い考えを嫌悪した。
「アルちゃん、制服着てたな……。ひょっとして、ここの生徒になったのかな……?」
だとしたら、どこのクラスに入るのだろう。このときバニラは初めて、彼女の年齢をまだ聞いたことがなかったことに気がついた。
もしこのクラスになったら少し嫌だな、とバニラはふと考えてしまい、それに気づいた彼女はますます自己嫌悪に陥っていった。
だから、彼女は気づかなかった。
いつの間にか自分の隣に、1人の少女が座っていることを。
「やっほー、バニラ」
「――――へ?」
聞き慣れた声にバニラは体を強張らせ、恐る恐るそちらへと顔を向けた。
そこにいたのは、宝石のような鮮やかな緑色が眩しい少女・アルだった。彼女はにこにこと満面の笑みを浮かべ、バニラに寄り添って座っている。
「…………」
がたっ! がしっ!
バニラは思わずアルから逃げようと腰を上げ、その瞬間に彼女にローブの袖を掴まれてしまった。
「やっと話し掛けられたよ。バニラったら、ずっとわたしから逃げてるんだもん。この1週間、ずっと退屈だったんだからね」
「え、えっと……。ア、アルちゃん……、なんで……?」
ここ1週間ずっと謝罪の言葉を考え続けていたバニラが最初に発した一言は、そんなつまらない問い掛けだった。本人を目の前にして、頭が真っ白になってしまったのである。
しかしアルはそんなことを気にする様子も無く、いかにも不満ですといった感じに口を尖らせると、
「だって、この教室にいる知り合いってバニラだけでしょ? 他の人達は何だかわたしに敵意剥き出しだし、バニラしか話し掛ける相手がいないんだからね?」
「で、でも私は、アルちゃんにひどいことを言っちゃったんだよ? 自分が全部悪いのに、あんな八つ当たりみたいなこと……。アルちゃんだって、ずっと気にしてたでしょ……?」
「うん、気にしてた」
当たり前のように言い切ったアルに、バニラは覚悟していたこととはいえ、ふっと気が遠くなる思いがした。
「だってバニラ、気にしてほしかったんでしょ?」
「えっ?」
しかしアルのその言葉に、バニラの胸がドキリと鳴った。
「わたしの言ったことが、バニラを傷つけちゃったんだよね? わたし、正直何が原因なのか完全には分かってないんだけど、わたしのせいでバニラが傷ついたことは分かってるんだ。だからちゃんと謝るから、何がいけなかったのか教えてくれるかな?」
そう言って笑い掛けるアルに、バニラは再び涙が出そうになった。悪いのは全部自分なのに、それでも自分のことを気に掛けてくれる彼女が、バニラにはとても眩しかった。
だからこそ、自分の醜さをまざまざと見せつけられるような心地がして、バニラの胸がちくりと痛んだ。ひょっとしたら、あのときアルに八つ当たりしてしまったのは、そんな事実を認めたくなかったからかもしれない。
しかし、今回は逃げなかった。彼女に自分の正直な気持ちを話そうと思った。たとえそれで嫌われてしまっても、自分の醜い気持ちを押し隠して彼女と接するよりはましだ、とさえ思えるようになっていた。
意を決して、バニラは口を開く。
「あの、アルちゃん――」
「授業を始める。さっさと席に着きたまえ」
まるで狙い澄ましたかのように、後ろから部屋全体に呼び掛けられた声によって、バニラの言葉は打ち消されてしまった。
せっかく決心したのに、とバニラはそちらに恨みの視線を向けずにはいられなかった。
すると、そこにいたのは、
「ん? 何だ、バニラ? 文句でもあるのなら、とっととここから出ていきたまえ」
「……いえ、何でもありません」
バニラは視線を向けてから、今日の1時限目が、自分の最も苦手とする教師・シルバの授業であることを思い出した。人を見下すあの視線をもろに受けて、バニラはつい縮こまってしまう。
ふん、とシルバは鼻で笑うと、彼女の隣に座るもう1人の少女に目を遣った。
その瞬間、彼の口元が歪んだ。
「……貴様か」
「おお、シルバじゃん。久し振り」
「そうか。早速、授業を受けにやって来たというわけか」
「うん。よろしくね、シルバ」
「貴様、私を呼び捨てにするな。貴様は仮とはいえここの生徒なんだ。教師には常に敬意を払わなければならない」
「分かりました、シルバ先生」
「……ふん」
シルバは忌々しそうに視線を逸らすと、つかつかと階段を下りて教壇に躍り出た。
そして教卓に両手を叩きつけるように置くと、口を開いた。
「さて、諸君はとっくに気がついているだろうが、今日から2週間、我々と混じって授業を受ける者がいる。たとえ異物が混じっていようが、けっして惑わされることのないようにしてもらいたい」
その言葉に、教室中の生徒が一斉にアルへと視線を向けた。恨みがましく睨みつける者、にやにやと下品な笑みを浮かべる者、ただ単に興味を示す者、とその反応は様々だった。
しかし肝心のアル本人は、そんな視線などまったく気にする様子もなく、すぐ隣にいるバニラに「よろしくね!」と満面の笑みを向けていた。
「よ、よろしくね……」
むしろ、とばっちりを食らったバニラの方が挙動不審だった。
「では授業を始める。教科書の38ページを開きたまえ」
シルバの言葉を合図に、生徒達は一斉に教科書を開けて視線を前に向けた。アルもクルスから貰った教科書を開いて、これまたクルスから貰ったノートや鉛筆などを用意する。
それを隣で見ていたバニラは、そういえばアルは字が書けるのだろうか、と疑問に思った。もし書けないのなら自分が助けてあげた方が良いだろう、とも考える。
しかし、それは杞憂のようだった。アルはシルバの話を聞きながら、黒板に書かれていることを見て、それをつらつらとノートに書き写していった。苦戦している様子もない。
良かったと思う反面、アルを手伝えないことを残念に思った。
* * *
授業が始まってから、30分ほどが経った。
「――こうして、ミューリー=ブリストルが《ウィンディ・シザーズ》にアレンジを加えて開発したのが《シャープ・トルネイド》である。似たような特徴を持った魔術でも名前が全然違うのは、このように開発者が違うからというのはよくあることだ」
シルバが板書混じりに説明する事柄を、生徒達がノートに書き連ねていく。当然ながら私語は無く、かりかりとノートを書く音と、かんかんと黒板に書く音がやけに教室内に響き渡る。
「逆に言えば、似た名前を持つ魔術は開発者が同じこともよくあることだ。しかし中には、自分の尊敬する魔術師にあやかって名前をつける者もいるから、それには注意しなければならないがな」
それは教室の最後列の端にいるバニラも同じであり、むしろ彼女は他の誰よりも真剣にシルバの話を聞いていた。実技の成績が最悪な分、せめて学科で挽回したいという想いが強いのだろう。
「先程の説明の中にもあったミューリーは、魔術の開発者としても名高い魔術師だった。〈旋風〉という二つ名が示す通り、とにかく竜巻を基本とする魔術を幾つも開発した。もちろんその中には、今でも充分実戦で通用するものも数多くある」
そういえば、とバニラはふとその手を止めた。
彼女は今まで友人と呼べる者はいなかったので、基本的に勉強も1人でやってきた。夜遅くに蝋燭の明かりを頼りに勉強するのは、集中できるにはできるのだが、いつも心のどこかで寂しい想いをしてきた。
「彼の場合は特に、名前のつけ方に大きな特徴があった。“トルネイド”や“ストーム”など、彼の二つ名を連想させる単語を多用していた」
しかしこれからは、アルが一緒にいてくれる。彼女が学院の生徒になってくれれば、テストが近づく度に一緒の部屋で勉強する、なんてことも普通に起こりえるだろう。
「それではここで、ミューリーが開発した魔術を挙げてもらうとしよう。さてと……、誰にするかな?」
2人でテーブルに向かい合って、分からない問題を教え合う。そんな光景を頭の中で思い描いて、バニラの口元がつい緩んでしまった。
と、そのとき、
「おい、貴様! 授業を受ける気があるのか!」
突然シルバが血相を変えてこちらを指差してきたものだから、バニラは思わず跳び上がってしまった。テーブルの角に彼女の膝が直撃し、がたんっ! と思いっきり大きな音をたててしまった。
思わず蹲りたくなるほどの激痛を堪え、バニラはとにかく謝ろうと顔を上げた。
しかしそのとき、ちょっとした違和感に気がついた。シルバは確かにこちらを向いているのだが、僅かながら自分と目が合っていないのである。
まるで、ちょうど自分の隣を見ているような
そこまで思い至って、バニラははっとなって隣に顔を向けた。
自分の隣にいるアルが、両腕を枕に居眠りをしていた。寝顔を隠さずにぐーすかと眠るその表情はとても幸せそうで、バニラは一瞬だけこのままでも良いかなと思ってしまう。
しかし今は授業中であり、何よりシルバがこちらを睨みつけている。バニラはすぐに、彼女の体を大きく揺らしてあげた。
「ん? んん……、あれ? 授業はもう終わり?」
アルの寝ぼけた一言に、シルバはますます顔を真っ赤に染め上げる。
「終わりではない! 貴様、初日から授業中に居眠りするとは、随分ふざけた真似をしてくれるな! やはりまともな育ち方をしていない奴は、最低限の礼儀も弁えていないようだな!」
シルバのあまりの剣幕に、教室中の生徒が思わず体を震わせた。特にアルの隣にいるバニラなど、自分が怒られているかのように目に涙を浮かべている。
しかしアルは、そんなシルバにもまったく動じる様子はなく、
「ごめん、なさい……。シルバ、先生の授業を聞いてたら眠くなってきて……」
「……何だと?」
「だってさっきからシルバ先生の説明ばかりだし、やってることは教科書の中身を黒板に書いて、それをノートに書き写させるだけだし……。何だか良い感じに暖かくなって眠くなってきたから、後で教科書見れば良いやって思って……」
アルが発言していくごとに、シルバのこめかみに青筋が増えていった。
「……ほぅ、つまり貴様は、私の授業など受けるに値しないと言いたいのだな?」
「えっ? 別にそんなことは――」
「そうかそうか、さすがだな。そんな君ならば、私ごときが出した質問にも余裕で答えられるだろう? ほら、さっさと答えたまえ」
真っ赤に染まった顔から一転、今度はにやにやと不気味な笑みを浮かべながら、シルバはそんなことを言ってきた。
しかしアルはつい先程まで眠っていたので、肝心の質問が分からない。
「バニラ、どんな質問だったの?」
「えっと……、『ミューリーが開発した魔術を答えよ』って質問だけど……」
バニラがそう言うと、アルは「ええと……」と頭の中にある引き出しを漁るようにこめかみに手を当てて考え込み、
「赤魔術は《ファイア・ストーム》だけ。青魔術は《トルネイド》と《リトル・トルネイド》、後は《シャープ・トルネイド》と《ストーム》に《アイス・ストーム》。黄魔術は無くて、緑魔術では《サンド・ストーム》に《ウェポン・トルネイド》だね」
一切の淀みも見せることなく次々と答えてみせるアルに、隣で見ていたバニラは驚きに目を丸くした。これらの魔術は教わる時期も科目もばらばらであり、すぐさま“ミューリーが開発した魔術”として1つに纏めるのは、学科の成績が優秀なバニラでさえかなり難しい。
それを示すかのように、教室中の生徒はつらつらと答えるアルの姿に、ぽかんと口を開けて間抜け面を晒していた。
しかし唯1人シルバだけは、彼女の答えににやりと口角を引き上げて笑みを深くした。
そして胸を反らして口を開き――
「後は、青魔術の《エア・アロー》だね」
かけたそのとき、つけ足すように答えられたアルの言葉に、シルバの笑みが消えた。
「えっ?」
最後の答えを聞いて、バニラは大慌てで教科書を手に取った。巻末の索引から《エア・アロー》の書かれたページを探り当てると、そこを開いてじっくりと目を凝らす。
教科書の隅っこ、かなり注意深く見ないと分からない場所に、その魔術についての説明がなされていた。その中にはちゃんと、ミューリーが開発したことも言及している。
「本当だ! アルちゃんの言う通り!」
《エア・アロー》は〈旋風〉の二つ名で知られたミューリーが開発した、唯一旋風に関係しない魔術である。その威力と耐久力の低さから“唯一の失敗作”と呼ばれ、今では使う者はおらず、よって知名度もかなり低い。
「凄いね、アルちゃん! なんで知ってたの?」
「クルスがね、教えてくれたんだよ。『ミューリーが開発した魔術を“トルネイド”や“ストーム”で憶えようとすると、《エア・アロー》を忘れがちになる』って。それと、『そういういかにも嫌らしい問題を、シルバ先生はよく生徒に答えさせていた』って」
アルの言葉に、教室のあちこちで「おお」と感嘆の声があがった。悔しそうに彼女を睨む生徒も何人かいるが、大半は素直に感心したように彼女を見上げ、「やっぱりマンチェスタ先生は凄いな」などと話していた。
そんな生徒達と同じように、アルのすぐ隣にいるバニラも、眩しそうに目を細めて彼女を見つめていた。その目は彼女に対する尊敬がありありと見て取れる。
しかし彼女の胸の奥がほんの少しだけちくりと痛みが走ったことに、本人すら気づいていなかった。
* * *
――まったく、あの女! 余計な真似をしてくれる!
得意気に笑っている(と彼は感じた)アルを睨みつけ、シルバは内心でここにいないクルスを罵った。アルを陥れようとして返り討ちにあったことが、悔しくて仕方なかった。
ふと、彼は前を見渡した。
何人かの生徒は周りの友人と話したりしているが、ほとんどの生徒はこちらを盗み見るようにちらちらと視線を向けていた。
そして彼らの口元は、よく見なければ分からないほどに微かな笑みを浮かべていた。
――また、これか……!
それはシルバが1週間ほど前から、正確にはアルとルークに演習で敗れてから、頻繁に向けられるようになったものだった。
同僚と話しているときも、生徒を前に授業をしているときも、果てはただ廊下を歩いているときでさえも、生徒から、同僚から、この笑みを向けられていた。一度使用人からそれを向けられたときなど、思わず杖を向けてしまいそうになった。
シルバは今まで生徒に対して、そして同僚に対しても高圧的な態度で接してきた。それは自分が戦闘科の教師であり、生徒や同僚相手にもそうそう後れは取らないという、自らの実力に裏打ちされたものだった。
しかしアルに倒されたことをきっかけに、シルバが築き上げてきたものが一瞬で崩れ去った。“あの敗北”以来二度と同じ過ちは犯さないと誓ったその想いが、あっさりと打ち砕かれた。
そのときから、学院内におけるシルバの立場は急激に悪くなった。さすがに面と向かって何か言ってくる者はいなかったが、言葉や態度の端々から自分を馬鹿にする様が滲み出ていた。
しかし皆がそういった態度を取る中、今までと変わらない対応をする者も何人かいた。
1人は、彼と同じくアルに敗れた経験のあるリーゼンド。もう1人は、あまり他人のことに頓着しないシン。
そして、彼を倒した張本人のアルと、彼女の保護者代理であり彼が目の敵にしているクルスだった。
その事実が、彼の神経をますます逆撫でさせた。仕返しとばかりに自分を馬鹿にしたならまだ良かったのに、まるで自分のことなど最初から気にしていないと言われているようで、彼にはそれが我慢ならなかった。
――良い気になるのも今の内だ、乞食! 必ず吠え面掻かせてやる……!
握り拳を震わせながらアルを睨みつけるシルバの胸の中は、激情が暴れ狂っていた。