次の日。黄曜日。
時刻は、生徒が自室にいることが規則で定められている、月刻2時まであと少しにまで迫っている頃。
学院の5階廊下にて、1人の男性教師があちこちを睨みつけるように眺め回しながら廊下をゆっくりと歩いていた。
学院では夜に敷地内を巡回を行う当番が定められており、今日は彼がその役目を負っていた。学院長がいないということもあり、彼は普段以上に気合いの入った表情でその役目を果たしている。
「……今日は、上も見ておくか」
だからだろうか、彼は普段なら滅多に見回ることのない、教師寮の区域である6階、そしてその上の7階へと足を運んだ。隠れる場所など無い一本道の廊下だが、彼は見落としの無いように隈無く視線を配っている。
“白の塔”の7階。学院長室の位置する最上階よりも1つ下であるそこには、この学院でも1、2を争うほどに重要な部屋が存在する。
その部屋は、“宝物庫”と呼ばれていた。
学院は四方が平野に囲まれた、周りに何の建物も無い場所に存在している。学院自体も要塞のような堅牢な守りをしており、そこにいる教師も優秀な魔術師ばかりである。
つまり学院は、王立の研究施設に匹敵する頭脳と、王宮に匹敵するセキュリティを有していると言える。そんなこともあって学院では、王宮から名のある宝を預かることもしばしばだった。研究を依頼されることもあれば、ただ単に保管を命じられることもある。
そんな王宮からの品をしまっておくのが、宝物庫だった。それだけ重要な場所だけあって、かなり分厚い壁で囲まれていたり、絶対に壊れないように強化された鍵が何重にも掛けられるなど、他のどの場所よりも守りを厳重にしていた。
そんな宝物庫の前を通り掛かった彼は、何の気も無しにその扉へと手を掛けた。特に何か不審な点があったわけでもなく、本当にただの気紛れでしかなかった。
すると、ぎぃ、と小さな音をたてて、宝物庫の扉が開いた。
厳重に鍵を掛けられたはずの扉が、開いた。
「えっ――?」
* * *
そのときバニラは学院の廊下を、若干早足で歩いていた。表情には明らかな焦りの感情が浮かび上がっていたが、だからといって廊下を走るなんてはしたない真似はしない。たとえ周りに誰もいなかったとしても、彼女の体に染みついた習慣がそれを許さない。
「すっかり遅くなっちゃった……。早く戻らないと、門限に間に合わない……!」
バニラは数分前まで、学院内にある図書室で今日の授業での課題に取り組んでいた。これは彼女が学院に来てから続いている習慣であり、今日のように門限ギリギリになって慌てて図書室を飛び出すことも珍しくなかった。そのような日々の努力の積み重ねこそが、彼女が学科で優秀な成績を修めることができる理由である。
彼女がそれだけ頑張っているのは、周りよりも劣っている実技の成績を少しでも埋めようとしているというのもあるが、勉学に励んでいる間だけは自分の置かれた境遇を忘れることができる、という後ろ向きな理由もあった。
しかし今日に関しては、その習慣もどことなく集中できていなかった。普段ならば淀みなく動く手も休みがちになり、彼女の表情もボーッとして上の空となることもしばしばだった。それでもギリギリまで図書室に居続けて粘ってみたのだが、結局集中力が戻ることなく時間切れとなったのである。
「本当、私って駄目だなぁ……」
せかせかと動かしていた足をゆっくりにして、バニラは吐き捨てるように呟いた。その表情は、先程までの勉学でもちょくちょく浮かべていたものだった。
――私だったら、引っ掛かってたんだろうなぁ……。
バニラの頭に浮かんでいたのは、今日の授業での光景だった。
もっと詳細に語るなら、教科書の隅っこに答えが書かれているような意地悪な質問にもあっさりと答えてみせ、魔術も使っていないのに他の誰よりも高い頻度で的を壊してみせた彼女のことだった。
最初に彼女と教室で顔を合わせ、一緒に授業を受けることになったことを知ったとき、バニラの頭に最初に浮かんだ考えは『これでアルを助けることができる』というものだった。まともに学校にも行ったことのない彼女が授業についていけるようにサポートすることが自分の役目だ、とバニラは1人決意していた。
しかし蓋を開けてみれば、それはまったくの杞憂だった。シルバの質問に平然と答えてみせたときの自信満々な笑みが、バニラの頭の隅にちらついている。
――また、同じことを考えてる……。
演習のときに思わずアルに八つ当たりしてしまい、それから散々後悔したあの感情。それが再び現れ、彼女の胸に根深く侵食しようとしてくる。
実際には痛みの無いはずのそれに、彼女は妙な息苦しさを覚えた。
「……もっと、勉強しなきゃ」
実力で彼女を助けられない分、知識で彼女を助けなければ。
そんな想いを抱きながら、バニラが力強い足取りで1歩踏み出そうとした、
そのとき、
「――――何だ?」
廊下を曲がった先からにわかに聞こえだした雑音に、バニラは怪訝そうな表情を浮かべて首をかしげた。
その音はまるで、誰かが全力で走り回る足音のようだった。対面を重んじる貴族と、自分の存在を悟られないことを信条とする使用人がほとんどを占める魔術学院において、滅多に聞くことのない音である。
「……何かあったのかな?」
バニラは曲がり角で立ち止まると、壁に身を寄せてそっと顔を出して様子を窺った。
廊下の向こう、ちょうど階段の辺りに、何人もの教師が集まっていた。その表情は焦っているような、それでいて憤っているようなものだった。その中にはシルバや、普段滅多に取り乱すことのないセリーヌまでいる。
何か嫌な予感がしたバニラは、そっと彼らの会話に聞き耳を立ててみた。
「それは本当なのか!」
「はい! “トンビ”のあった棚の前に落ちてたようで!」
「……ということは、まさかあいつが犯人なのか?」
「他に誰がいるというんだ! あいつ以上に疑わしい奴などいないだろう! あいつめ、とうとう本性を表したな! だから私は反対だったのだ!」
「でもそうなら、もしかしたらもう逃げられた可能性も――」
「いいえ、先程衛兵に訊いてきたんですが、この学院を出入りした者はいないようです。なので、今ならばまだ間に合うはずです!」
「とにかく、クルスの部屋に向かうぞ! おそらくそこにいるはずだ!」
「でも、もし彼女も共犯者だったら――!」
「そのときは、我々で取り押さえれば良いことだ! これだけの数がいるんだ、後れを取ることもあるまい!」
明らかにただ事ではなかった。しかも会話の端々に、アルに関係しそうな単語が幾つも飛び出している。
バニラは思わず、顔を青ざめた。
「まさか、アルちゃんが――」
* * *
そのときクルスは自室にて、近い内に行う小テストの作成をしていた。机の燭台に蝋燭を立て、それが生み出す仄かな明かりを頼りに、幾つもの参考書を見比べ、問題にできそうな箇所をメモしていく。
普段ならば面倒で仕方のない作業なのだが、このときの彼女は無意識に鼻歌を口ずさむほどに上機嫌だった。
――今のところ、アルは順調に成果を挙げているわ……。
先程のダイアとの会話で、自分の想定していた効果が早速表れていることが分かった。こうやってアルを生徒として迎え入れる利点をどんどん示していけば、たとえ彼女に個人的な恨みを持っている者がいたとしても、理屈で黙らせることができる。
ただ気をつけなければいけないのは、アルが何か問題を起こすことだ。そしてそれを狙って、彼女に対して色々と吹っ掛ける輩が現れることだ。
しかしそれに関しても、クルスは特に心配していなかった。アルもここの生徒になることには乗り気だし、そんな馬鹿な挑発に乗る性格でもない。
そろそろ休憩して何かつまもうか、とクルスが大きく背中を伸ばした、
そのとき、
「――――何かしら?」
ドアの向こう側からにわかに聞こえだした雑音に、クルスは怪訝そうな表情を浮かべて首をかしげた。
その音はまるで、誰かが全力で走り回る足音のようだった。対面を重んじる貴族と、自分の存在を悟られないことを信条とする使用人がほとんどを占める魔術学院において、滅多に聞くことのない音である。
「……まったく、うるさいわね」
呆れたように呟いたその瞬間、
どんどんどん!
「クルス! そこにいるんだろう! 早くドアを開けるんだ!」
部屋のドアが激しく叩かれ、大声で呼び掛けられた。
それがシルバの声だと気づいた途端、クルスは僅かに顔をしかめた。しかし彼は普段から自分のことを嫌っていても、こうして粗野な行動に出ることはない人物だ。
何かあったのだろうと、彼女は渋々ながら未だに叩かれ続けているそのドアを開けた。
来客はシルバ1人ではなかった。彼以外にセリーヌもいたし、他にも教師が何人かいた。そして全員が何やら焦っているような、それでいて憤っているような表情をしていた。
「どうしたんですか、こんな時間に?」
「あいつはどこにいる! 今すぐ出せ!」
「……アルに何の用ですか?」
「良いからさっさと出すんだ! 早くしないと、貴様も共犯者として縛り上げるぞ!」
「……共犯者? 何のことです?」
クルスが首をかしげると、シルバ達はお互いの顔を見合わせて何やらこそこそと話し合い始めた。何が何やら分からずに置いてけぼりを食らっているクルスは、不機嫌そうに眉を寄せる。
やがて話し合いを終えたシルバが、クルスに顔を向けて口を開いた。
「実は先程、宝物庫に何者かが侵入した形跡があるのが見つかった」
「――宝物庫に?」
途端、クルスの表情が真剣なものとなった。
「何か盗られたものは?」
「“トンビ”だよ」
「……あれが? なんでまた……」
「そんなことはどうでも良い! とにかく、こうして話す時間すら惜しい! あいつに逃げられる前に、何としてでも捕まえなければいけないんだ!」
声高に叫ぶシルバに、クルスの目つきが鋭くなる。
「……シルバ先生は、なぜアルが盗んだと思っているんですか?」
彼女の表情は平然としたものだったが、その問い掛けには明らかに怒気が含まれていた。
しかしシルバはそんな彼女にも動じることなく、むしろそれに対抗するように大きく胸を反らして答えた。
「私だけではなく、他の先生方もあいつがやったと思っている。なんせ、これ以上無いほどにれっきとした“証拠”があるのだからな」
「……“証拠”、ですか?」
するとシルバは、自分が見つけたわけでもないのになぜか誇らしげな表情を浮かべながら、その“証拠”の内容を彼女に伝えた。
その瞬間、クルスの目が一瞬だけ見開かれた。そして彼女は顎に手を当てると、何やら考え込み始めた。
彼女が次にどんな行動に出るのか、教師達に張り詰めた空気が流れる。
その中の一人が痺れを切らして杖を取り出しかけたそのとき、ふいにクルスが顔を上げた。
その表情はまるで、胸の内から溢れ出そうな何かをむりやり抑えつけているような、ひどく強張ったものだった。
「良いですよ。一緒にアルの所へ行きましょう」
その言葉に、シルバのみならず他の教師も驚いた。普段からアルを全面的に信頼している彼女なら、もっと必死になってアルを弁護すると思っていたのである。
「良いのか? そんなにすぐに決めつけてしまって」
自分のことはすっかり棚に上げて問い掛けるシルバに、クルスは表情を変えることなく答えた。
「とりあえず本人に話を訊かないことには、確信を持てないですから」